いつでもキリストに会えるというイメージは、どの人が持ってもいいもの。
一緒にいる愛する相手として
大好きなパートナーのように
触れあうと癒される存在として
そんなふうにイメージできる身近な存在を考えてみて、キリストを同じように感じていい。
でもキリストのイメージを『それは聖書的?ヒューマニズムにキリストを引き下げていいの?』などと言って『聖書信仰による新生(ボーンアゲイン)したクリスチャン』という身分を大事にする教会なら脱出した方が良いです。
また、その教会や牧師や過去の証しの言葉をなぞるように言って勧めて、『祈ってます』と言うクリスチャンからも離れましょう。
上から目線の神か、
私たちよりも低い目線で語り、人にとって理解と発見のある交わりをするキリストか。
上から目線で来ない神キリストこそ、知恵であり知識です。
上から来ない神を理解できない人がクリスチャン、宗教者なら、他人に上から教える悪い形の教会をつくり伝道します。
福音とは上下も格差も隔てもないもので、
永遠の昔から神であるのに地に下り人から生まれ、人に殺されて黄泉に下り神の力で復活したキリストそのもので普遍的救いです。これを霊魂心で理解できない牧師やクリスチャン、宗教者が多く存在します。
自分の心に素直であり
良いものも悪いものも正直にありのままに心の声を祈れば
いつでもキリストに会えるということを実現した十字架と復活
キリストは壁を打ち壊し、人の日常に人として降りてこられました
天に昇られてから、いつもすべての人のそばを離れず日常のすべてを人の目線で理解しています。
『新生(ボーンアゲイン)』とは
キリスト教福音派聖霊派の教会で言う
『真に罪から神へ回心し聖霊によって信仰によって生まれたクリスチャンの救い』のことで、
初めは
解放された感激
罪や世に決して囚われない自由
羽が生えたかのように軽くなる
真っ白に清く傷の無い者とされたすがすがしさ
人生の道が広く真っすぐ天にまで伸びているように見えました。
でも『私は特別に選ばれ救われているが、世の人は滅びに向かっている』という思考への支配はどこから?
『救いの喜び』が熱心に変わり、熱心が「必死さ」に取って代わられる時に『神の選び』のイメージの中に実際は恐怖が入り込みます。
例えば
感動した教会研修会から現実に戻る時の違和感ガッカリ感
教会と牧師による人間的な伝道戦略・義務的奉仕の迫り方への違和感
教会の奉仕を一所懸命にやることで救われるわけではないのに牧師やリーダーの言葉に脅迫され恐怖に襲われて必死になること
神の選びが不安で教会に属する意識と活動参加に取って代わる
『神様によろこばれる』『神様は悲しんでいる』『あなたは神に覚えられて祝福されている』牧師や上の大人の言葉に一喜一憂する
不安を訴えると『不信仰』『感情ではなく聖書を学び信じなさい』と言われる
『ハレルヤ』『すべてを感謝します』『実を実らせるのは聖霊の働き』と言って自分を鼓舞して痛みと心をしまい込んで向き合わない年月を過ごす
そんな教会では実は救われないと冷静に判断して
キリストを個人で求めることは必要です。
福音派・聖霊派・聖書信仰の決まり文句の告白に縛られて
素直な自分を出せない人は教会脱出を考えましょう。
キリストは
私たちの意識していない日常の思いと視線に共にいて
私たち自身よりも本音を知る方で
すべての人のどんな現実にも誰よりも早くそこにいる方。
キリストを愛するとは
現実にそこに居るキリストを友人が居るように自然に思える
力を抜いて気軽に一緒に居られて
ちょっとしたこと感じたことを四六時中会話にできて
共感できる。
私たちは一人ではありません。
お互い高い目線、他人を見下ろす所に居ないで
キリストは隠されていることも明らかなこともすべてを、
私と同じ体験の視線ですべて知っていて、
私たちは本当の本音の思いをゆだねて明け渡すことができて安息します。
キリストは宗教者と扇動された人たちに虐殺された神です。
クリスチャンたちも毎週牧師に扇動されていて、
誰かを上から目線で扱って否定していないか、
牧師と説教と証しを疑いましょう。
キリストがどんな方か伝わらないのは聞く側の問題よりも牧師と教会の問題の方が大きいのです。
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福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。
一緒にいる愛する相手として
大好きなパートナーのように
触れあうと癒される存在として
そんなふうにイメージできる身近な存在を考えてみて、キリストを同じように感じていい。
でもキリストのイメージを『それは聖書的?ヒューマニズムにキリストを引き下げていいの?』などと言って『聖書信仰による新生(ボーンアゲイン)したクリスチャン』という身分を大事にする教会なら脱出した方が良いです。
また、その教会や牧師や過去の証しの言葉をなぞるように言って勧めて、『祈ってます』と言うクリスチャンからも離れましょう。
上から目線の神か、
私たちよりも低い目線で語り、人にとって理解と発見のある交わりをするキリストか。
上から目線で来ない神キリストこそ、知恵であり知識です。
上から来ない神を理解できない人がクリスチャン、宗教者なら、他人に上から教える悪い形の教会をつくり伝道します。
福音とは上下も格差も隔てもないもので、
永遠の昔から神であるのに地に下り人から生まれ、人に殺されて黄泉に下り神の力で復活したキリストそのもので普遍的救いです。これを霊魂心で理解できない牧師やクリスチャン、宗教者が多く存在します。
自分の心に素直であり
良いものも悪いものも正直にありのままに心の声を祈れば
いつでもキリストに会えるということを実現した十字架と復活
キリストは壁を打ち壊し、人の日常に人として降りてこられました
天に昇られてから、いつもすべての人のそばを離れず日常のすべてを人の目線で理解しています。
『新生(ボーンアゲイン)』とは
キリスト教福音派聖霊派の教会で言う
『真に罪から神へ回心し聖霊によって信仰によって生まれたクリスチャンの救い』のことで、
初めは
解放された感激
罪や世に決して囚われない自由
羽が生えたかのように軽くなる
真っ白に清く傷の無い者とされたすがすがしさ
人生の道が広く真っすぐ天にまで伸びているように見えました。
でも『私は特別に選ばれ救われているが、世の人は滅びに向かっている』という思考への支配はどこから?
『救いの喜び』が熱心に変わり、熱心が「必死さ」に取って代わられる時に『神の選び』のイメージの中に実際は恐怖が入り込みます。
例えば
感動した教会研修会から現実に戻る時の違和感ガッカリ感
教会と牧師による人間的な伝道戦略・義務的奉仕の迫り方への違和感
教会の奉仕を一所懸命にやることで救われるわけではないのに牧師やリーダーの言葉に脅迫され恐怖に襲われて必死になること
神の選びが不安で教会に属する意識と活動参加に取って代わる
『神様によろこばれる』『神様は悲しんでいる』『あなたは神に覚えられて祝福されている』牧師や上の大人の言葉に一喜一憂する
不安を訴えると『不信仰』『感情ではなく聖書を学び信じなさい』と言われる
『ハレルヤ』『すべてを感謝します』『実を実らせるのは聖霊の働き』と言って自分を鼓舞して痛みと心をしまい込んで向き合わない年月を過ごす
そんな教会では実は救われないと冷静に判断して
キリストを個人で求めることは必要です。
福音派・聖霊派・聖書信仰の決まり文句の告白に縛られて
素直な自分を出せない人は教会脱出を考えましょう。
キリストは
私たちの意識していない日常の思いと視線に共にいて
私たち自身よりも本音を知る方で
すべての人のどんな現実にも誰よりも早くそこにいる方。
キリストを愛するとは
現実にそこに居るキリストを友人が居るように自然に思える
力を抜いて気軽に一緒に居られて
ちょっとしたこと感じたことを四六時中会話にできて
共感できる。
私たちは一人ではありません。
お互い高い目線、他人を見下ろす所に居ないで
キリストは隠されていることも明らかなこともすべてを、
私と同じ体験の視線ですべて知っていて、
私たちは本当の本音の思いをゆだねて明け渡すことができて安息します。
キリストは宗教者と扇動された人たちに虐殺された神です。
クリスチャンたちも毎週牧師に扇動されていて、
誰かを上から目線で扱って否定していないか、
牧師と説教と証しを疑いましょう。
キリストがどんな方か伝わらないのは聞く側の問題よりも牧師と教会の問題の方が大きいのです。
この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。
ローマ人への手紙 1:2-4 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/rom.1.2-4.JA1955
キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
ピリピ人への手紙 2:5 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/php.2.5.JA1955
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
ピリピ人への手紙 2:6-8 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/php.2.6-8.JA1955
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新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
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他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。