優れること、優位に立つことが自我ではなく
いつも自分のために選択することが健全な自我であり、自分らしい自分をつくることになります

どんな自分でも、それがその時の無理のないありのままの自分なら受け容れる選択をする
そこへとキリストはどの人の内にも住んで導きますし、そこから始まるキリストとの出会いと伴いの人生があります

教会の人間的な教えでは、
『救いにふさわしく』と言って
無理な矯正や奉仕や学びや清さを強調します

自分らしさを選ばせないのは虐待です

日常の困難について『成長のための試練』と言ったり
『神にふさわしく』『清く罪から離れ』とか言うのはすべて的外れでミスリードであり、キリストから人を遠ざけます
きびしい言葉の蓄積はその教会サークルのローカルな連帯感だけを生むだけで世界を狭くして実際不寛容で多様さや変化や発見を認めないものです

「愛され心が無理なく平穏に安らかになる」

”他人に『これが愛だ』と言われて自分の納得を待たずに恐ろしくて言いなりになること”
無意識にどちらかを選んでいる人生を積み重ねることで結果は大きく変わります

いつも自分のために選ぶことをキリストと共に考えましょう
キリストが与えるものは必ず無理なく安心・平安があります
清さや愛のやる気を他人に見せる必要は全くありません
キリストが内に居て無理なく湧くものがあって自然な証しになっていきます

そのために
自分と他人の間に境界があることは大切です
境界が無い時に、甘えが互いに許されてしまい我慢を重ねて軋轢とストレスを生じます
教会で罪があるからお互い様だから『赦し合いましょう』などと言うのは共依存させるローカルルールの罠です
実際は上からコントロールしやすくする抑圧、支配、虐待です

見分けて取捨選択しましょう
境界をつくり
社会でも教会でも同じように
取り込もうとする悪い影響のあるものを捨て

必要なものを大切にして
心軽くシンプルに行動できて結果を出す自由
その積み重ね
それが愛せる安心できる自分をつくります

脅され抑圧され支配されると動けなくなります
言いなりにやっても結果は出ません
口だけ格好だけ合わせて狭い社会や教会にいても
経験にも蓄積にもなりません

物事の要所を押さえるコツもなく
ただ自分と他人を責めて『でも赦された』と感謝する繰り返しだけで
要らぬ愛の使命感をあおられて、徒労と疲労だけになります

父・キリスト・聖霊は、ほんとうに人を生かす方のはずです
心が責められ恐れや焦りがあるなら、その教会を出て行ってその偽りの信仰から脱出しましょう

もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
ヨハネの第一の手紙 4:15‭-‬19 JA1955
https://bible.com/bible/81/1jn.4.15-19.JA1955


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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。