ヨハネ4:23,24 2006.6.10小倉集会
キリスト教では、像を拝むことを禁止しています。モーセの十戒で戒められています。
真の礼拝者による霊とまこととは何か。それは、本音や真心の部分からの礼拝ということです。
私たちの本音には、ふつふつとした怒りなど悪い部分もあります。
私たちは、そのありのままの姿で神の前に出て礼拝するのです。
決して清い人間だけが神を礼拝できるのではありません。また、もちろん清い人間など本当は居ないのですが、神は人のありのままの姿を受け入れます。そのような神だから、私たちは神を信頼しあがめます。
それが誰にでもよく分かる象徴として、イエス・キリストの十字架刑があります。神とはどんな神なのかが、十字架に表されています。
キリストの十字架刑の意味は、罪を贖う犠牲のいけにえです。
人は、罪の支配下に居て、罪の性質から逃れることができず、もがいていたのに、イエス・キリストの十字架刑で代価が支払われ、人は罪の支配から買い取られ、自由になりました。その自由は、神を礼拝し、神と人を愛し交流することを与える自由でした。
以前の私たちは、罪があるゆえに自分は神に見捨てられていたと思っていました。罪が人と神を隔てていました。神が自分などに注目することはなく、まして救うことなどないと思っていました。また、同じようなことで人にも見放されたと感じることもありました。しかし、贖われたことによって、人は、神との関係、人との関係で愛し愛されることを回復してもらいました。
救いは、人格の回復です。本人の人格の回復、同時に他人との人格的関係の回復です。人格が愛し愛されることで、人は回復し、成長します。自分を見つけ、自分の存在を確認できます。
人は、常に友情や人情を育むものですが、時として大切な人間関係が壊れ、自信を失い見放されたような感覚に襲われますが、そこに神を求め、回復を求める道があります。
自分の人格が自分でも認められず、誰にも何によっても認められないと思うときに、それを回復しようとするのが神、イエス・キリストです。
神による人の創造の意図は、人格が交流する時に味わう喜びに見ることができます。
神の栄光の中身は、神と私たち人類が心から喜べる人格関係を持ち、それを愛が支配することに他なりません。
イザヤ書53章に予告されたように、キリストが、痛めつけられ十字架に付いたのは、私たちの間にそのような愛が回復されるためでした。
私たちが神のところに呼ばれ行く目的、救われた目的は、私たちの人格が神と共にある愛の関係、また私たち人間の愛の回復、つまり愛し合う関係の回復によって喜びに満たされることです。
人生は、確かに山あり谷ありです。
人によっては自ら道を開いて回復を果たします。他方、挫折を運命付けられたかのように打ちひしがれる人がいます。その人のところにイエス・キリストが来たことが、聖書に書かれています。
健康な人、正しい人にではなく、病人や罪ある人のところに行く。そこに救いの特徴があります。
用の無い人も居ますが、痛みを持つ人には救いで、それを求める人には福音です。
聖書は、このようなストーリーで埋められています。神を信じている人物でも、挫折や間違いや理解できない矛盾をかかえて神を求めます。また、新約聖書では、神を求めているけれども自分はだめだと諦めているような人物が中心的に書かれています。
あまりに傷ついていてどうして良いか分からない、そのような人のところにキリストは行きました。
21,22節には、ユダヤの宗教で言われていた礼拝や救世主の正統性について触れていますが、
23,24節は明らかにその対比として書かれています。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
宗教的な正しさに関係なく、真実をもって神を礼拝する人たちを神は求め集めることが書かれています。
イエスがこの言葉を言った相手は、イスラエルが他民族と混血したサマリア地方の人でした。宗教的ユダヤ人は純血主義ですから、サマリア人を蔑視していました。
しかし、イエスは、どのような境遇であれ、恐れずに神を求めるように勧めています。
イエス・キリストは、旧約聖書を完結する救世主としてユダヤ人に生まれましたが、その救いとメッセージは特定の宗教・民族に限定されず、すべての人に向けられていると語っています。
ユダヤ人は、他民族との間に壁をつくっていましたが、イエスはそれを打ち砕きました。
私たちは宗教的である必要はなく、またそれを人に求めるべきでもありません。
私たちは、どのような形が真の礼拝か考えねばならないでしょう。
教会の荘厳な礼拝だけが正しいのではなく、一人ひとりが日常生活の中で神を想うことがすでに礼拝です。
年長のクリスチャンは、礼拝の形を心で決めてしまいがちです。
しかし、どんな形の礼拝でも自由だと認めねばならない時があります。
教会の形式や文言以外には救いを認めない人たちは、すべての人が神に祈って良いことを認めるべきです。そこに聖霊の導きがあってその人なりの礼拝が始まることを期待すべきで、それこそを祈るべきでしょう。
同時に、自分についても他人についても、まことの礼拝者となるために、型に填めないように気をつけなければなりません。もっと自由になるように、私たち自身のために祈らねばなりません。
「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する」この意味を、私たちは、ほとんど理解できていないのかも知れません。
宗教的イメージの先入観によって、救いや信仰のことばを誤解している部分があることを否定せず、毎日神を求めたいものです。
また、自分に不十分な神や聖書の理解を、自分の祈りだけではなく、他の人の形にとらわれない祈りや礼拝で得る可能性は大いにあります。私たちは、どの人とでも互いに心を開いて真実な神観を求めていきましょう。