ヘブル書4章    2006.6.3小倉集会


この手紙は、ギリシャ語を話すユダヤ人にあてて書かれました。

他の手紙では、1世紀のユダヤ人クリスチャンたちが、ユダヤ教の教えを守るか、守らないか、について葛藤を持っていたことが書かれています。
今も、エホバの証人は、旧約聖書の「血を食べてはならない」との記述から、輸血拒否をしています。
新約聖書でも、ユダヤ教の決まりとして、「異教の祭壇に捧げられた肉を食べてはならない」とか、「安息日には働いてはならない」と麦を摘んで食べたことを非難されたことが書かれています。安息日には、歩く歩数まで決められていたようです。
「クリスチャンになったけれども、これまでの同じ神の教えをどうすれば良いのか、守らなければ罪悪感を感じる」という問題があったわけです。

この手紙を受取ったユダヤ人たちについては、具体的にそのような問題は指摘されていませんが、迫害に遭い、棄教したりユダヤ教に戻ったりした人たちがいたため、キリストの救いについて、旧約聖書の教えに対比して、いかに優れており、完成されたものであるかを語っています。
この箇所から、私たちにもある律法主義的な問題を考えながら、キリストの救いの本質を見たいと思います。
福音とは、信仰によって救われている、とのメッセージです。

イエス・キリストは、完全ないけにえとしてすべての罪を負ったので、もう罪のための捧げものは要りません。

もともと律法とは、罪をあがなういけにえを捧げることで、神と人の間の隔てを取り除くためでした。神の本質は善であり、罪をゆるすことはできないので、人の側で「悪かった、申し訳ありません」と心からのものをささげることで、神と人がコミュニケーションを図るために、そのきまりとして神が与えたものだったのです。
イスラエルの民の心が離れたために、信仰やいけにえがおろそかになった時には、神の手による教えのための罰がありましたが、もとは神とのコミュニケーションのためでした。どうすれば神と親しい良い交わりでいられるか、とのことが書かれた規定だったわけです。

ところが、あれをしないといけない、これをしてはいけない、と減点法でチェックされるような恐れを持った人たちがいました。
新約聖書では、そのような律法のとらえ方は間違いで、もし神への愛とか誠実さがあるなら、それが律法を満たしており、律法は良いものであって、本来愛と誠実さがあらわされるものだ、と言っています。
律法の文言に細かくこだわる事で、人の正しさを追求することは、本末転倒だというのです。

イエス・キリストは、律法のそのような弊害を打ち壊しに来たわけです。
神との間の壁を、イエス・キリストのいけにえで完全に取り去ってしまい、大胆に神の前に誰でも来て良いことにしました。神を求めれば誰でも救われると、誰でも来てください、と神が人を近しく招くメッセージが込められています。

イエス・キリストがしたことは、十字架についていけにえになったことと、愛とは何かを教え、愛はすでに律法を守っていることになると語ったことでした。
「もし、律法を守るなら、罪を犯す手や足を切り離さなければならない。
 しかし、わたしが命じる事は、古い律法ではなく、あなたがたは互いに愛し合い、互いの不十分さを赦し合うことです。
 神があなたがたを愛し赦したように、お互いに赦し合いなさい、それが新しい律法です。」
と言いました。

しかし、そう言われても、以前の宗教的習慣から抜け出せず、できなかったこと、してしまったことで、神への罪悪感や裁きの恐怖感に襲われてしまいます。また、自分で責めなくても、教会の人に責められたりします。それは、悪い律法的な習慣です。

神は、すでに私たちを愛し、受け入れています。100%赦して、受け入れてくださっています。不十分さも、できること、できないこと、してしまいそうなこと、全部を最初からわかっていてくれています。

1節では、
「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」
と厳しいことを言っています。
これは、もともとの律法的な習慣にもどってしまうことがダメなのだと私たちにも語っているのではないでしょうか。私たちは、純粋に信仰だけで救われている状態にいなければいけないのです。「はいれない」とは、棄教することの他にも、信仰とは違う方法で、人が何か努力をしたり、律法を守ることで救われようとすることも含まれます。
私たちは、どんな人の言葉でも、律法的な要求には従うべきではありません。それは、ただ恐れを引き起こし、救いにも何もならないことを、強くメッセージしてくるからです。

2節に、福音が信仰によって心に結ばれなかったことで、益にならなかった、とあります。

福音であるイエス・キリストの愛とメッセージ、父なる神の愛が人の心に結ばれないことは、とても悲劇的なことです。
神の愛は、私たちの限界を含めたすべてを赦して、受け入れてくださるのです。私たちも、愛する人との間で互いにそれを分かち合います。それが、神の国の実現です。キリスト教とは、教会に行って洗礼を受けることではなく、神の愛を知ることであり、それが心に結び付けられることです。

今、私たちは、愛の価値を知っています。私たちは、すでに当然のように、心やさしく互いに親切にし仕えようとすることを、改めてだれにも教えられなくても、願って実践しようとしています。これが、正にキリストのメッセージ通りのことです。神は愛であり、愛がわかる人に神がわかるとあります。(Ⅰヨハネ4:7,8) ですから、「救われるには教会に集い、洗礼を受けなさい」とだけ言う伝道は、非常に不十分で、キリストのメッセージはそれだけとするのは間違っています。伝えなければならないのは、「神は愛である。神は私たちを赦している。キリストが十字架で死んだからです。」とのことで、これが最も大事です。もし私たちが愛し合うなら、そこに神があらわれ、みこころ、十字架の目的が実現されていて、それがメッセージになります。
3節「信じた私たちは安息にはいるのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』と神が言われたとおりです。」
信仰よりも律法にこだわる人には必然的に安息がありませんし、そのような人の集いは互いにがんじがらめにしあって、傷つけあってしまいます。神は最終的にそのようなことを決して許さず認めません。

3節「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
神は、6日で創造のわざを終え、7日目に休まれたと創世記にあります。神が、キリストによって人類に意図したことは、安息です。

5,6節「そして、ここでは、『決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、」
信仰による救いがない場合に、安息には入れない、と言っています。これは、キリストの十字架の意味である、愛や赦しを無にすることを意味します。キリストの激しい痛みや愛を無にして、まだ他のことに望みをかけようとするのか、と問います。古い律法的な歩みにこだわることは、まったく十字架を否定することになります。

7節 「神は再びある日を『きょう。』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。」
私たちの心には、いろいろな心の葛藤があります。「あの人を赦さなければならない」と葛藤している時に、人に赦されない体験をすると、かなり痛みを感じます。その時に「もう、私は赦せない」と素直に神様に言い、神もそのことを理解し受け入れてくださると思えると、心に平安が来ます。「このような私を赦してくださっています」と思えると、心のかたくなさが解けていきます。私たちは、無理をして頑張ってはいけないのです。

8、9節 「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」
イスラエルは、この後、イエスの時代に至るまで、神との間に信仰と愛の関係がつづくことはありませんでした。律法は人を救うことはできず、ただイエス・キリストへの信仰によって安息がもたらされました。人は、自分を正しいとする基準に固執することでは安息は得られず、かえって争いが起こります。相手の声が聞こえなくなり、行き違いになります。現代でもそれで戦争が行われています。キリストのメッセージは「愛し合い、赦し合い、相手の声を聞いて受け入れ合いなさい」です。クリスチャンを名乗っていても、安息にいない人たちはいます。心をやわらかくして、人を愛し、神を愛しているかどうかが大事です。
神は今も、私たちが安息に入るように一所懸命にわざをなしておられます。

12,13節 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」
信仰の中に、さまざまな混ぜ物が入ることがこの当時の一番の問題でした。何かをしなければ救われないと条件づける律法主義も、その一つです。逆に外れた神秘主義や霊的陶酔に走る者もいました。私たちも、心にそのようなものが湧いてくるなら、切り分けないといけません。キリストのメッセージは、私たちだれでもある問題について、愛や赦しやキリストが共にいることを語られました。及びもつかないような遠い話でも、理解できないような不思議な話でもありませんでした。私たちは、キリストが語った言葉を心に置いて、見分けなければなりません。自分ばかりでなく、相手がクリスチャンでも牧師でも、キリストに照らして見分けるべきです。そこに、赦しや安息や平安があるのか、です。

13~16節「私たちはこの神に対して弁明をするのです。さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
このヘブル書4章の主張は、救いに関して一貫しています。
私たちは、何かした、しないを弁明するのではなく、「私はあなたに依り頼み、愛され、赦され、生かされてきました。ただ赦され、あわれまれている存在です。」とだけ言いたいのです。大祭司は、捧げられたいけにえに手を置き、人の罪や弱さのために仲介者としてとりなしをする職です。キリストは、自分自身を捧げて「この人の罪をどうか赦してください」と父なる神にとりなしてくださいます。もはや私たちは、完全に赦された存在なのです。これが福音であり、神のメッセージです。これ以上、これ以下となってはいけないものです。この福音による赦しのゆえに、私たちは弱く決して立派な存在ではないのに、大胆に神の所に近づくことができるのです。これが、キリスト教の本質的メッセージです。

これまでの教会の現実では、福音に絶えず混ぜ物がされてきました。信仰の内外で、私たちはさまざまな人の身勝手さに触れますし、私たちもそのようなことをしてしまいます。互いに傷つき合っています。しかし、それさえも人の弱さの仕方の無い現実として、神に助けを求めたいのです。そのまま、祈りの中で大胆に神の前に持って行くのです。
私たちは必死で日常を生き、祈りの中にだけ安息と平安を見つけるような生活をしているのが現実です。私たちは、神の前に出る時には、決して頑張らず、必死にならずに、ありのままを明渡していきたいものです。私たちは人生で葛藤を繰り返すうちに、他の人を思いやれるようになり、求める人を助けられれば良いなと思います。
教会で教えられた義務や務めを伝えるのではなく、自分が感じる心の安息や癒しを伝えていきたいのです。