2006.5.20小倉集会

神がヨブに話し掛けている箇所です。

ヨブの話は、クリスチャンの間では有名です。
ヨブは試練に遭う前には、非常に忠実なゆえにすばらしく祝福されていて、財産も多くありました。
そして、悪魔が神に向かって「あのヨブは、あなたが祝福しているから、あなたを信じている。ヨブを試してみましょう」と言いました。
神は、ヨブの信仰はちゃんとしていると言っていましたが、悪魔の訴えに、「そこまで言うならやってみなさい」となりました。

神とクリスチャンの間には信頼関係がありますが、試練にあったときには恨みも出てきてしまいます。人間としては仕方がないことです。困ったことが起きた時には文句も出てきます。

ヨブは試練に遭って、文句が出てきました。「私に何の落ち度もないけれども、こんな目に遭っている」と。
それに対してヨブの友人たちは、「これは、あなたが何か罪を犯したからに違いない」と責め立てます。
ヨブには、試練が起きてから神の語りかけがなかったので、すっと「私は正しいはずだ。そして神も正しいはずだ」と言い、なぜこうなるのかと問答をしつづけます。
この38章では、はじめて神がヨブに語りかけます。
「知識もなく、言い分をのべて、摂理を暗くするこの者はだれか」
と、少し厳しいことを言います。

私たち人間は、神に比べれば、知識もなく摂理も分からない者です。
事が起きても全容はわからず、自分はどういう人生を送るのか、自分がなぜ存在するのか、今の自分の姿はどのようなものか、全てわかりません。

 摂理は、「その全てのことの中に神がいて、決して神は遠くない、神は働いている。あなたにとってそれは素晴らしい状況ではないかもしれないが、そこには意味がある。得られる教訓や良い結果が必ずある」と言う。しかし、その時には、とてもそうは思えません。「きっと良いはずだ」と期待するのが信仰ですが、無理な場合があります。
人間には、とても神の視線で上から物事の道筋を見ることはできません。問題の結果など決して見えません。

3節「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」

神があなたの知識に挑戦するから、身構えなさい、ということです。
なぜなら、ヨブは、ここに至るまでに友人と散々問答して、自分は正しいはずだと、主張しつづけてきたからです。
私たちからすれば、神は厳しすぎる、神はヨブがこうなることは分かっていたはずだ、と思います。しかし、これは神と人の人格の関係であり、ヨブが揺れ動いたように、神の思いもそれに呼応します。今の時代はイエス・キリストのとりなしがあって事情は違いますが、この旧約時代にはそれがありません。神の思いの動きがそのまま表されています。神に人の感情のようなものは無いと思われがちですが、私たちの神は愛の神で、人が神を捨てるならそれをねたむと言われています。信頼がある場面では良くても、相手が離れていってしまうなら、思いは痛んだり、ねじれたりします。人格対人格の関係では、互いに思いをぶつけ合うことは当然あります。
人は神の形に造られた、とありますが、人間から見ると、私たちの神は人格神です。交わりがあり対話があるなら、人格として対等な関係と言えます。神の存在は決して私たちと対等ではありませんが、神の側は私たちにそのような関係を求め、交わりを欲しています。神は、人間と付き合いたいと願っています。私たちは、人生で神を意識する時に、神が交わりを欲していることを思い出すべきです。

今は、キリストの犠牲によって私たちを赦し、聖霊が内に居て事情を理解してとりなしてくださいます。旧約時代には、人の弱さによる思いや行動で、行き違いと思えることでも、神が怒ることがありました。それは、神が私たちを愛し、期待しているからです。
私たちは、私たちの能力以上に、律法的な定めの中で頑張る必要はありません。神は私たちが弱いことを知っていますから、私たちの中身の範囲で事を行うことを期待しているのです。弱いけれども、やさしさはあるだろう、とか、人への配慮はいくらかできるだろう、などという程度の期待をされています。
旧約時代でも、神の期待はその程度の期待だったはずです。しかし、「神は人を、みじめさの煮え湯を飲ませるために救ったのか」と言う人が出たり、逆にイエスが生まれた時代には律法完遂主義といった勘違いが横行していました。人が信仰の形として、愛や信頼や赦しの関係ではなく、過大なプレッシャーを背負い込んでいました。そして、神は律法の完成者としてキリストを送りました。

私たちの間では、いろいろな感情の中で「神はいらない」と思う人たちも出て来ます。面倒くさい、自分勝手なほうが楽だ、と。
神が私たちに期待しているのは、まず普通で常識程度の、配慮や愛、正しさ、真っ当さ、やさしい心であり、人間的なことです。「律法の規定があるからしなければならない」と行うものではありません。イエス・キリストが来たことで、神が私たちに何を期待しているかが分かりました。イエス・キリストが何をやったかということでそれが分かります。律法主義を攻撃し、キリストを待つ普通の人たち、また、痛んでいる人や世に見捨てられた人たちに手をさしのべました。弟子たちと共に旅をして、そのような人たちの所へ行きました。宿の当てもなく一緒に野宿し、人から恵まれたもので一緒に飲み食べました。弟子たちには、その時間がこの上もなく幸せでした。これが神の側から提示されたものでした。
神は、私たちに何を期待しているのか。マルタとマリヤの家での出来事も象徴的です。あれこれ気を回してきっちり接待することより、自然な付き合いやコミュニケーションを人とも神ともすることが、人にとって何より大事だということです。私たちの神像が、堅苦しい拘束感のあるキツいものであるなら、それは誤解だと。

このヨブ記38章で、神は長いことばを連ねますが、言いたい事はこれです。
「あなたには、わたしが知っていることで、知らないことがたくさんある。
わたしはあなたを愛し祝福していたが、わたし自身が試練に投げ入れた。
わたしはそのことを分かっている。
あなたには、まだ知らないことがある。
わたしが何をするか、どのようなものか、それを知って欲しい。」

神が私たちに期待するのは、マリヤの例にもある通り、「知って欲しい」ということです。人格とは、互いにそれを望みます。神は、私たちの奥の奥まで知っていてくださいます。神も、知って欲しいのです。

人づきあいでストレスを感じるのは、「私を分かってくれていない」と思う時ではないでしょうか。相手のことを分かるためには、勘違いして行き違っていた部分を互いに改めなければいけません。
ことばを違う意味に取って、誤解がよく生じますが、自分の環境でのことばの感じによって、他人のことばを誤解して勝手に変な印象を感じたり、逆の立場ではそれを与えたりします。私たちは、社会人としてそれを変えていかねばなりません。

神に対しても、私たちは思いや期待を様々抱きます。そのうちある部分は、変わっていかなければならないのでしょう。それは、誰にでもあることでしょう。
神が恐いとかキツいという思いは、当然捨てていかなければなりません。
そして、神と今よりもっと親密になるように、神が深く私たち一人ひとりの人格をすばらしいと思い、期待し、愛してます。キリストを十字架につけ、犠牲にしてもいいと思うほど、愛しています。「人の命は地球より重い」と言った首相がいましたが、決して政治的な言い回しではなく、神は真実に人に対してそう思っています。しかし、「どうにかして、この愛を分かってほしい」と神は思っていますが、私たちはそのような愛に出会ったことがないために、それがなかなかわかりません。
人はだれでも、その人の愛の限界の中で暮らしています。しかし、キリストは信仰の創始者であり完成者と言われています。その本質は愛で、愛し合う交わりのために人を造りました。その愛に気付くように、今の地球があり、神に保たれている。これが聖書の世界観です。私たちは、その愛をすべて理解しきれないのですが、それを知るように成長していきます。そして、天に行った時には、何の分け隔てもない愛の姿を完全な形で知るのです。それが天国の姿なので、すばらしいのです。コンプレックスも、愛されないとの恐れの思いも全く存在しません。愛の価値観だけがすべてを支配しています。私たちのことばも、天に行くときにはすべて変えられています。

今の私たちには、それが信じられない感覚なのですが、段々と縛りを取っていく過程に居ます。なぜ、それがこれほど苦しいのか分かりませんが、たぶん私たちの愛に期待できない心の根底が、変わらなければならないのでしょう。
映画「三丁目の夕日」では、まだ物が無かった時代に人の交流があり、共に希望や喜びを抱いたことを描いていました。
互いの人格が見える瞬間はすばらしく、私たちは感動します。神は、そのようなことを創造したのではないでしょうか。

キリスト教が形式的なことに重きを置いた場合、そのことが見えなくなり、多くの時代で誤解が教会を支配しました。
キリストが示したように、人を見、癒し、交わり、語った、そのメッセージにこそ心を留めたいものです。聖書についても、キリストのメッセージの文脈で読みたいものです。
私たちの神観、神像が正しく変えられていきますように。

ヨブは、このあと「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(42:5)と言っています。
ヨブは、神に詰め寄られ、非常にへりくだるわけですが、それは自分を恥じるだけのものではなく、神についての新たな発見があり、新たな関係が始まったことを示しています。