出エジプト記1:1~13 2006年5月13日小倉集会
聖書が2000年近く現在の形で存在し、その内容が良いものであるとの証明は、私たちに生きた信仰が受け継がれることによって明らかにされます。
聖書が正しく引き継がれるには、正しい信仰が引き継がれていなければなりません。
この箇所でモーセは、自分がイスラエルの群集に立ち向かうことを心配して、神にさまざまなことを投げかけています。
「私のことばを彼らは信じない。」「奇跡が起きても私には無理だ。」
私たちは、話術に自信があると公言する人を少し胡散臭く思うものです。 会話とは、相手の意見を聞きながら話を進めるもので、普通は一方の思うとおりに相手を説得できることは少ないものです。
私たちは、父なる神とキリストを信じ、心に聖霊が住まわれていますが、私たちが神のことばを語る時、相手の人にも聖霊が働くと信じ考えながら語ります。もちろん、はっきりした伝道でなくても、信仰的に伝えたたいことがある時にはそれを期待します。
ところが、私たちの中には「こうあるべきだ」との願望や思い込みが混ざっています。だから、確信していても話を引かなければならない時があります。それが人として普通で、適切なことです。そのように、クリスチャンは自分の内面を省みながら、信仰と同時に人間性も成長していくものです。
人の人生や信仰について、誰もはっきりした100%の答えは把握できません。私たちの信仰で、その時その時すばらしいと感動しても、成長して振り返るとあの頃自分は幼なかったと思うものです。霊的な成長も決して一足飛びとはいかず、実は人間性と同じようなものなのです。
モーセの頃は、神のことばがはっきり預言者に伝わり、それをそのまま言わなければなりませんでした。今のクリスチャンのあり方とは全く違います。
今は、私たちの日常や物事への感想など自然な思いの中に聖霊が働くことがあります。また、祈る時や信仰の事を書き留めたり聖書を読んだりするときにも、当然聖霊が働くことがあります。自覚は無いけれども心の閉塞感が開けたりなどで、神様から語りかけられていることがあります。神は、人の内面のことについて親しく語ってくださいます。ことばとしてではなく、私たちの理解や感覚として聖霊が教えていることもあります。
これは、一人ひとり個人に向けられたものとして、その人と神との間だけのことなので、他の人には細かいところまでは理解できない部分が当然たくさんあります。牧師にも分かりません。
私たちは、一人ひとりこんな日常を持っているべきで、神の側でも人と親しく対話することを求めています。
内面をありのままの姿にして神に向かうことを、神は喜びます。これは社会的には、良い人間という証拠にはなりません。人間は誰もが皆不十分だからです。ただ人のありのままを神は喜ぶということです。私たちはなぜ喜びを感じるかと言えば、私たちが自分に自信が無かったり、良い人間だと思わなかったり、誰にも愛されていない、認められないと思ったり、そのような時に神は私たちを強く励ますからです。
もう一つの側面では、私たちが現実の出来事で困惑や困難を覚えて、それを理解できない時に、神は私たちを励ましてくださいます。
神は、私たちの内面が弱い時と、現実の出来事による困難の時、そのふたつの場面で私たちを助けます。困難な出来事は、すぐには理解できないことが多いですが、「わたしはあなたと共にいる」と語りかけてくださいます。
困難の期間は大変な苦痛がありますが、自分では解決できずどうにも仕方がありません。その間に私たちの内面で良い変化が起きてきます。精神的にも社会的にも、人は同じ環境に長い間居ることはなく、必ず移り変わりがあります。人ともいろいろな付き合いを体験すべきで、自分にも他人にも社会にも様々な面を発見して、成長するものです。聖書や信仰は救いの初めに私たちに最上の喜びを与えますが、聖書や神だけでなく人間のことを深く知ることはとても大切でしょう。
信仰は、初期には完全な慰めがある避け所でしたが、成長するに従ってより現実的対応をするように導かれます。人の道でも、子供の時には守られ、大人になるにつれ現実に向かいます。人はいろいろな体験を積むことで学ぶ、と神も私たちに勧めているのではないでしょうか。
モーセは、後代には旧約聖書の律法の象徴的存在です。そして、新約聖書では、旧約聖書の律法は幼い時代の養育係で、キリストにある信仰に対しては古い教えとされます。(ガラテヤ3:21~4:10)
今私たちは、聖霊によって毎日教えられて歩んでおり、神と共にあります。また、私たちは、聖霊によって教えられ、人としても互いに教えあい、学びあっています。(コロサイ3:16) 一人ひとりが成長し、キリストの身の丈に達するといわれます。
キリストの身の丈とは… キリストは、神としてのあり方を捨て、人間を救おうとしました。キリストの地上の生活は、正に人間としての生活で、神としての特権をすべて捨てて、人間が受ける最も重い刑にまで従いました。そのようにして人を救う存在、メシヤになりました。私たちも、そのような身の丈に成長するのではないでしょうか。
私たちが受ける経験によって、さまざまな問題への理解が深まり、自分自身で感じて分かったことを、背伸びすることなく、自然な自分の身の丈のこととして人に伝えることができると思います。
さて、モーセの時代は神のことばが頭にそのまま浮かび、それを伝えていました。かつて、私たちも信仰の最初に神から来る霊的な感動を直接的に感じ、それを証ししました。今は、いろいろな体験を踏まえて、ことばを選んでいます。これは、十字架を負ったキリストの歩みに、正にかなったことではないでしょうか。
成長の中で人は、苦しみ悩み考えることで答えを得ます。その答えを試すうちにさらに葛藤し、成長します。私たちは困難から這い上がり、生きねばならない状況に居ました。できれば苦しみは避けたいのですが、これが人の道、キリストの道として導かれているようです。いろいろな困難があっても進んで行きましょう。この道を悟りつつ歩むことを、キリストにある大人というのではないでしょうか。
神は、最後には完全なものとして私たちを天に引き上げてくださいます。共にこの道を歩みましょう。キリストはそのために、十字架についてくださいました。決して私たちを捨てず、導いてくださいます。
以下追記は、ガラテヤ 3:21~4:10、コロサイ3:16
ガラテヤ 3:21~4:10
とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、
父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。
私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。
しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
コロサイ3:16
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。