ルカの福音書1:1~33          2006.04.29


 バプテスマのヨハネとイエスを、母親たちが身ごもった時の状況が書いてあります。
 この書は、パウロと共に行動したルカの前書きがあるので、ルカが書いたと言われています。福音書のあとの出来事が書いてある使徒の働きも、ルカが書いたと言われています。
 彼は、当時のマリアとザカリアの家のことを、伝聞で書いています。
 医者であるルカは、イエスが生まれた当時のことを正確に書こうと努力していて、ザカリヤの状況として、組や当番のことを記しています。
 バプテスマのヨハネは最後はヘロデ王に首を斬られてしまいますが、人々にとっては神の預言者として注目を集める存在でした。ですから、両親の話も美化された伝説にされていたこともあり得える話ですが、ザカリヤが口がきけなくなったと書くことで、祭司でありながら信じられなかった本音を描いていて、人物像にリアリティがあります。
 この夫婦の子供は、イエス・キリストの前ぶれとして、人の心を立ち帰らせると予言がありました。そして、このあとに多くの人に説教し、洗礼をさずけていたと書いてあります。
 このバプテスマのヨハネは、ヘロデ王が兄嫁を奪う結婚をしたことで王を非難し、首を斬られました。ヨハネは迫害を恐れずにまっすぐに物言う人でした。
 それに対して、イエス・キリストはことばの置き方が結果的に巧みでした。説教やいやし奇跡で民衆が支持しており、また地方に旅をしていたので、反対者も手が出せない状況がありました。そのようにして3年間イエスは活動を続けました。そして、最後には裏で取引され売られて捕らえられました。

 
 この点で二人は対照的でした。ヨハネは荒野に住んで社会に適応することはなく、イエスは言う事は言ったが3年間社会の中に居て生活をしました。
 私たちは、当然イエスのスタイルで行くべきでしょう。旧約聖書時代のようにただことばを言えばいいのではないわけです。神からことばが来たからと事情を無視してなんでも言うのは旧約時代のことです。
 イエスは、人の必要を細かく見て、適切なことばを語りました。人に触れて、その人に合うことばを言いました。キリストは、そのような信仰者の愛のあり方を新しく開きました。
 旧約時代は、神のことばは絶対で、そのために、語る預言者に不幸があったり、戦争があったりでした。今のアメリカもそんなイメージを大統領自ら語ります。兵士たちを前に「神の戦争で、神が正義を行う」「困難があってもやり通す」「神の守りと祝福がある」などと聖書を引用しながら言います。
 それに対して、イエスのスタイルは対話中心であり、さまざまな困窮者は元より、イエスが攻撃していたユダヤ教職者であっても相手によっては語り合うことがありました。
 神・キリストは、まず私たちを赦そうと思い、そのためにキリストが地上に来ました。人の間に住み、人の間にある矛盾、罪などを背負いました。痛み悲しみをわきまえ、人がどんな事情を持って生きているのか知っています。その上でメッセージをし、そのような理解ある神像を人々に教えました。それまでの旧約聖書の神像と、キリストの語る神像は人々にとって違ったはずです。旧約聖書から新約聖書まで神の約束は変わらないといいますが、人の置かれた状況は変わりました。イエス・キリストが来るという約束が旧約聖書であり、新約以降では神であるイエス・キリストが人の間に住むということに注目しなければなりません。キリスト教は、人に向かって宣言する宗教ではなく、人を理解する宗教でなければなりません。
 必ずしも人は理想的な生き物ではありません。私たち一人ひとりは、間違いをし、いろいろなものを破壊してしまう存在です。その自分にも他人にも赦しがたい現実を、神は見捨てず、人が抜けきれない罪を許容して共に歩まれるところに大きな愛があります。
 そんな裁かない神って一体何だ、そんな神は要らないという人たちもいます。もっといい社会を作ろうと言い、改革や宗教的コミュニティで世界を変えていこうする人たちがいます。しかし、そのような理想を語る清い人たちだけを救うのが神ではありません。ドロドロな部分を持ち、もがいても懸命に生きている人をも見て、関心を持って手を差し伸べようとしています。
 イエス・キリストは、宗教者が決して近寄らない人に自分で近づいていきます。イエスは、一般人までもが宗教的に敬遠していた人や、皆に「神が罪と定めた」と言われている人のところに行きました。それが革新的なことでした。
 キリストのメッセージとは、「正しい信仰とは、身も心も清い人が行うものではなく、苦しみ罪にまみれている人こそが求める時与えられる」というものです。
 私たちは決して清い人間ではありません。ありのままの自分にはいろんな面があると認めていいのです。それを認めてくれる神・キリスト観を持っていきたいものです。
 ヨハネの父ザカリヤは、宮に仕えるために清い宗教的な生活をする人だったでしょう。そして息子ヨハネは頑固な旧約時代の預言者でした。そのような旧約の宗教者たちではすべての人、最も困った人、罪の只中で救いを求める人を救うことはできず、ただ人の間に住む理解者であるキリストが救うと新約聖書は示しています。それが、キリスト教です。
 多くの人は、そのキリスト教の本質や背景まで思い及ばないものです。私たちは旧約聖書の律法ではなく、イエス・キリスト自身を伝えたいのです。私たちは、決して清い人間ではなくいろんな問題を抱えているけれども、日々イエスに慰められています、と証ししていきたいです。
 理想像を描いて頑張ろうとしている人には見えにくいが、ありのままの自分を知っている人には、イエスは見えやすいものです。イエスは、人の間に住み、野宿の旅をし、食事を恵んでもらい、最後は最重罪刑で死にました。イエスは、人として最低の生と死を体験し、復活して、今人と共にあります。そのイエスの姿が、私たちの心にある時、平安と慰めが来ます。
 イエスを遠く感じるときには、是非、栄光と同時に人としての惨めさを知るイエスの姿を思い起こしてください。