CFF小倉福音センター

CFF:Church for free prayer from one of sheep in Christ キリストの1匹の羊からの自由な祈りのための教会

集会での説教集

真の祈り、礼拝


ヨハネ4:23,24    2006.6.10小倉集会

キリスト教では、像を拝むことを禁止しています。モーセの十戒で戒められています。
真の礼拝者による霊とまこととは何か。それは、本音や真心の部分からの礼拝ということです。
私たちの本音には、ふつふつとした怒りなど悪い部分もあります。
私たちは、そのありのままの姿で神の前に出て礼拝するのです。
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古い律法からの解放を願って

ヘブル書4章    2006.6.3小倉集会


この手紙は、ギリシャ語を話すユダヤ人にあてて書かれました。

他の手紙では、1世紀のユダヤ人クリスチャンたちが、ユダヤ教の教えを守るか、守らないか、について葛藤を持っていたことが書かれています。
今も、エホバの証人は、旧約聖書の「血を食べてはならない」との記述から、輸血拒否をしています。
新約聖書でも、ユダヤ教の決まりとして、「異教の祭壇に捧げられた肉を食べてはならない」とか、「安息日には働いてはならない」と麦を摘んで食べたことを非難されたことが書かれています。安息日には、歩く歩数まで決められていたようです。
「クリスチャンになったけれども、これまでの同じ神の教えをどうすれば良いのか、守らなければ罪悪感を感じる」という問題があったわけです。

この手紙を受取ったユダヤ人たちについては、具体的にそのような問題は指摘されていませんが、迫害に遭い、棄教したりユダヤ教に戻ったりした人たちがいたため、キリストの救いについて、旧約聖書の教えに対比して、いかに優れており、完成されたものであるかを語っています。
この箇所から、私たちにもある律法主義的な問題を考えながら、キリストの救いの本質を見たいと思います。
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ヨブ記38章

2006.5.20小倉集会

神がヨブに話し掛けている箇所です。

ヨブの話は、クリスチャンの間では有名です。
ヨブは試練に遭う前には、非常に忠実なゆえにすばらしく祝福されていて、財産も多くありました。
そして、悪魔が神に向かって「あのヨブは、あなたが祝福しているから、あなたを信じている。ヨブを試してみましょう」と言いました。
神は、ヨブの信仰はちゃんとしていると言っていましたが、悪魔の訴えに、「そこまで言うならやってみなさい」となりました。

神とクリスチャンの間には信頼関係がありますが、試練にあったときには恨みも出てきてしまいます。人間としては仕方がないことです。困ったことが起きた時には文句も出てきます。

ヨブは試練に遭って、文句が出てきました。「私に何の落ち度もないけれども、こんな目に遭っている」と。
それに対してヨブの友人たちは、「これは、あなたが何か罪を犯したからに違いない」と責め立てます。
ヨブには、試練が起きてから神の語りかけがなかったので、すっと「私は正しいはずだ。そして神も正しいはずだ」と言い、なぜこうなるのかと問答をしつづけます。
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伝えるとは‥聖霊の働き‥経験の重要性



出エジプト記1:1~13      2006年5月13日小倉集会

 聖書が2000年近く現在の形で存在し、その内容が良いものであるとの証明は、私たちに生きた信仰が受け継がれることによって明らかにされます。
 聖書が正しく引き継がれるには、正しい信仰が引き継がれていなければなりません。

 この箇所でモーセは、自分がイスラエルの群集に立ち向かうことを心配して、神にさまざまなことを投げかけています。
「私のことばを彼らは信じない。」「奇跡が起きても私には無理だ。」

 私たちは、話術に自信があると公言する人を少し胡散臭く思うものです。 会話とは、相手の意見を聞きながら話を進めるもので、普通は一方の思うとおりに相手を説得できることは少ないものです。

 私たちは、父なる神とキリストを信じ、心に聖霊が住まわれていますが、私たちが神のことばを語る時、相手の人にも聖霊が働くと信じ考えながら語ります。もちろん、はっきりした伝道でなくても、信仰的に伝えたたいことがある時にはそれを期待します。
 ところが、私たちの中には「こうあるべきだ」との願望や思い込みが混ざっています。だから、確信していても話を引かなければならない時があります。それが人として普通で、適切なことです。そのように、クリスチャンは自分の内面を省みながら、信仰と同時に人間性も成長していくものです。

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本当のイエスの姿を知ること


ルカの福音書1:1~33          2006.04.29


 バプテスマのヨハネとイエスを、母親たちが身ごもった時の状況が書いてあります。
 この書は、パウロと共に行動したルカの前書きがあるので、ルカが書いたと言われています。福音書のあとの出来事が書いてある使徒の働きも、ルカが書いたと言われています。
 彼は、当時のマリアとザカリアの家のことを、伝聞で書いています。
 医者であるルカは、イエスが生まれた当時のことを正確に書こうと努力していて、ザカリヤの状況として、組や当番のことを記しています。
 バプテスマのヨハネは最後はヘロデ王に首を斬られてしまいますが、人々にとっては神の預言者として注目を集める存在でした。ですから、両親の話も美化された伝説にされていたこともあり得える話ですが、ザカリヤが口がきけなくなったと書くことで、祭司でありながら信じられなかった本音を描いていて、人物像にリアリティがあります。
 この夫婦の子供は、イエス・キリストの前ぶれとして、人の心を立ち帰らせると予言がありました。そして、このあとに多くの人に説教し、洗礼をさずけていたと書いてあります。
 このバプテスマのヨハネは、ヘロデ王が兄嫁を奪う結婚をしたことで王を非難し、首を斬られました。ヨハネは迫害を恐れずにまっすぐに物言う人でした。
 それに対して、イエス・キリストはことばの置き方が結果的に巧みでした。説教やいやし奇跡で民衆が支持しており、また地方に旅をしていたので、反対者も手が出せない状況がありました。そのようにして3年間イエスは活動を続けました。そして、最後には裏で取引され売られて捕らえられました。

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