2013年02月23日

平成25年2月度拝読御書「三三蔵祈雨事」

三三蔵祈雨事

 

○背景と大意

本抄は、日蓮が駿河の国(静岡県中央部)の有力門下である西山殿に宛てられたお手紙とされております。ご執筆の時期については、建治元年(1275年)とされてきましたが、建治2年(1276年) という説もあります。ご執筆当時、大聖人のご予言通り、蒙古襲来が起こり、戦乱の危機感と恐怖が募っていました。幕府は再度の蒙古襲来を恐れ、宗教界に蒙 古調伏の祈祷を行わせます。大聖人は善智識か悪知識かを判別するには現証が決めてとなる事を示され、中国の三三蔵の事例を通し、このまま真言の教えを用い れば日本の亡国は間違いないと厳しく断言されております。

 

○本抄及び通解(大百蓮華)

夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば・たうれず、本より生いて候木なれども根の弱きは・たうれぬ、甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ

 

○通解

そもそも、木を植える場合、大風が吹いたとしても、強い支えがあれば倒れない。もともと生えていた木であっても、根の弱いものは倒れてしまう。弱く不甲斐ない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。少し頑健な者でも、独りであれば悪い道では倒れてしまう。

 

○解説

本抄の後段「仏になる道は善知識にはすぎず」と仰せになり、一生成仏の為には「善知識」の存在が必要不可欠である事を示されています。この善知識とは良き友人という事であり、人々を仏道へと導き前進させてくれる存在です。

まず初めに「夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば・たうれず」とあります。仏道修行を妨げる障魔の働きを「大風」や「悪しき道」に例えられ、一方の「つよきすけ」として「善智識」を例えられています。

続いて「本より生いて候木なれども根の弱きは・たうれぬ」とあります。元々生えていた木であっても悪い環境により弱い根であれば大風に倒れてしまう事を例えられています。「甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ」と続き、どんな頑健な人であっても孤立してしまえば、いつかは倒れてしまうと仰せです。しかし、私たちを励まして下さる師匠や同志、広宣流布の組織といった「善知識」を追い求めて離れず、また自らも善知識となっていく事が一生成仏の軌道との事です。

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2013年01月19日

平成25年1月度拝読御書「種種御振舞御書」

種種御振舞御書

 

○背景と大意

本抄は、建治2年(1276年)、身延の地で著され、光日房に与えられたとされていましたが、詳細は不明です。蒙古から日本を攻めるとの国書が届いた文永5年(1268年)から身延入山に至る大聖人ご自身の振る舞いについて綴られています。

 本抄の冒頭では大聖人が立正安国論で予言した「他国侵逼難」が現実のものとなった事を述べられています。末法に折伏を行じれば必ず大難が起こる事を示され、不惜身命で戦い、大聖人の後に続く様、弟子たちに教えられています。

本抄を通し、大聖人の大難に次ぐ大難の足跡を振り返られながら法華経の行者としての不惜身命の闘争を弟子たちに教えられているのです。

 

○本抄及び通解(大百蓮華)

わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ

 

○通解

いままで弘めることがなかった法華経の肝心であり諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の初めに全世界に弘まっていく瑞相として、日蓮が先駆けしたのである)

 わが一門のものたちは、二陣、三陣と続いて、迦葉や阿難にも勝れ、天台や伝教をも超えなさい。わずかばかりの小島である日本の国主らが脅すのを恐れては、閻魔王の責めをどうするというのか。

 仏のお使いであると名乗りをあげておきながら臆するのは、話にもならない人々である。こう、弟子たちに申し含めたのである

 

○解説

この御文の前段において釈尊滅後、誰も弘める事がなかった万人救済の妙法を全世界に弘通する瑞相に大聖人が先駆けされたと示されています。これを踏まえ「わたうども二陣三陣つづきて」と述べられております。先駆の師匠と同じ不惜身命の決意で戦う大聖人に続く様、弟子たちに厳命されています。続いて「迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし」と仰せになり、正法時代の釈尊、十代弟子や像法時代の正師をも超える様、弟子たちに呼びかけられました。そして「わづかの小島のぬしらがをどさんをぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」と権力者を喝破され、全世界の民衆を永遠に救済する仏の大境涯から見れば、迫害を加える権力者などは小島の主にしか過ぎない事を言われております。迫害を恐れて退転してしまったならば、死後に閻魔王の攻めにあった時にどうするのか、と叱咤されています。最後に「仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ」とある様、一たび大聖人の弟子となり妙法流布に立ち上がった人は誉の「仏の御使」です。臆病者であってはあらない。それは「無下の人々」であると重ねて厳しく戒められております。

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2012年12月22日

平成24年12月度拝読御書「檀越某御返事」

檀越某御返事


 

○背景と大意

本抄は、弘安元年(1278年)4月、日蓮大聖人が身延の地で著されました。与えられた先としては「檀越」弟子の誰かないし在家の有力門下とされておりますが、詳細は不明です。

当時、大聖人は「立正安国論」を著し、国主諌暁をされて依頼、伊豆流罪、佐渡流罪など相次ぐ迫害を受け幕府と大聖人一門の緊張関係が高まっていました。そうした中、3度目の流罪が企てられているとの知らせ大聖人が受け、御返事として本抄を認められました。

 

○本抄及び通解(大百蓮華)

御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり

 

 

○通解

主君に仕える事が法華経の修行であると思いなさい。 

あらゆる一般世間の生活を支える営み生業は全て実相(妙法)とあい反することはないと経文に説かれているのはこの事である。 

 

 ○解説

まず初めに「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と ありますが、大聖人は「自分の仕事を法華経の修行であると思っていきなさい」と仰せです。当時、本抄を頂いた弟子が、どのような苦境に置かれていたのか定 かではありませんが、法華経の信仰故に苦難に直面していたと考えられます。そうした中での三度目の流罪の知らせに大聖人みずから悠然たる御境涯を示され御 指導されています。


 続いて「「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり」とあります。現実社会のあらゆる営みは全て妙法と合致する事を教えられています。自らの使命の舞台での苦闘こそ、自身の境涯を向上させる仏道修行となるのです。社会で実証を示す最大の原動力は信心であり、学会活動であるといえます。


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2012年11月10日

平成24年11月度拝読御書「高橋殿御返事」

高橋殿御返事

 

○背景と大意

本抄は日蓮大聖人が駿河の国(静岡県中央部)の富士方面で活躍している弟子に与えられた御書の一部と考えられております。本抄の全体が残されていない為、執筆の時期、宛先等詳細は不明です。「米穀御書」との別名が付けられております。

 

本抄では、謗法の者を養う米穀は法華経の敵対者を栄えさせる事になること。一方で法華経の行者を養う米穀は一切衆生を救いゆく大慈悲の米穀に成る事を述べられています。続いて、大聖人の元へ供養を届けられた弟子の真心を喜ばれ、賞賛されております。さらには、門下に地域広布を託されるとともに、深い信頼を寄せられています。そして仏種は縁によって起こるという原理を示され、万人成仏の種である法華経の教えを説き広め行く様教えられています。

 

○本抄及び通解(大百蓮華)

同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは

仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、

又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、

又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、

一切衆生を利益するなればなり

 

○通解

同じ米であっても、謗法の者を養うのは、成仏の種子を断つ働きをする者の命を永らえさせて、さらに強盛な敵人としてしまうことになる。

 それとも、命を助けて最終的には法華経に引き入れることになるであろうか。

 また法華経の行者を養うのは、慈悲の中の大慈悲の米である。一切衆生を利益するものだからである。

 

○解説

まず初めに「同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる」とあります、当時、米は人々の生命を支える貴重な食物でした。しかし、同じ米であったとしても謗法の者を養うのか、法華経の行者を養うのかで正反対の働きと成る事を教えられています。謗法の者への供養は、単にその者を養うだけでなく強く活発にしてしまう事になり、多くの人々の仏種、すなわち仏に成るための可能性を断ち切る事になります。

 続いて「又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か」とあります。これは、例え謗法の者であっても心を改めさせて正法に導く可能性に触れられ、謗法厳戒の精神であっても相手の生命を助ける事もあると言われているのです。仏法の広大な慈悲の顕れと言えます。

そして最後に「又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり」と仰せです。法華経行者を養う米穀は慈悲の中の大慈悲となると表現され、最も深い根源的な慈悲になると仰せです。法華経の行者を支える事は、広宣流布の大偉業を守り広げる事になり、慈悲の中の大慈悲となるのです。そこに大きな功徳がそなわるのです。

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2012年10月14日

平成24年10月度拝読御書「佐渡御書」

佐渡御書

 

○背景と大意

文永9年(1272年)3月、日蓮大聖人が51歳の時、流罪地の佐渡で執筆され門下一同に宛てられたお手紙です。竜の口の法難から3ヶ月が経ち、大聖人は佐渡に流され、門下は迫害を受けておりました。大聖人御自身、また門下一同も最大の苦難の真っただ中にいました。その中で、大難を受ける事に疑念を抱き、厳しい迫害を恐れて退転する者が続出したのです。

大聖人は難に動揺する弟子たちを案じ、如何なる大難にも負けない師子王の心で戦い抜くよう師弟不二の人生の真髄を教えられました。また、本抄の最後に大聖人に対する愚かな批判を一蹴され、彼らが念仏者より長く無間地獄に落ちる事を深く哀れまれ本抄を結ばれております。

 

○本抄及び通解(大百蓮華)

悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人

をなして智者を失はん時は師子王の如く

なる心をもてる者必ず仏になるべし例せ

ば日蓮が如し、これおごれるにはあらず

正法を惜む心の強盛なるべし

 

○通解

悪王が正法を破壊しようとするのに、邪法の僧たちがその味方をして、智者をなきものにしようとする時は、師子王の心を持つ者が必ず仏になるのである。

 例を挙げれば、日蓮である。これは、おごって言うのではない。正法を惜しむ心が強盛だからである。

 

○解説

まず初めに「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時」とありますが、権力と宗教権威の結託により正義の人を迫害し正法を破壊しようとする働きです。これは当時、大聖人と門下が直面している現実でした。事実、本抄執筆の前年に起こったお竜の口の法難や佐渡流罪は、平左衛門尉頼綱や極楽寺良観による弾圧事件でした。

 

続いて「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」とある様に、この一番困難な時に師子王の如くなる心を持てる者、すなわち如何なる大難にも負けない一番強い生命を保ち続けた人間は、必ず仏に成るのだと断言されています。「畜生の心」を悠然と見降ろし、打ち破っていくのが「師子王の心」です。

 

そして「例せば日蓮の如し」と仰せの様に、その模範を示されたのが日蓮大聖人に他なりません。師弟不二の信心の真髄を、大聖人が身を持って教えられています。続いて最後に「これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし」と仰せですが、これは決しておごり高ぶって言っているのでなく自分の命よりも正法を惜しむ気持が強いからであると仰せです。「法」を惜しむからこそ、わが身を惜しまぬ「不惜身命」の精神で、法華経の敵に怖気づく事無く「師子王の心」で戦い抜かれたのが、大聖人の御心です。

 



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2012年02月18日

平成24年2月度拝読御書「妙一尼御前御消息」

妙一尼御前御消息

 


背景と大意

本抄は、健治元年(1275年)5月、大聖人が54歳の御時、身延で著され鎌倉に住む妙一尼に与えられたお手紙です。

大 聖人が竜の口の法難、佐渡流罪、と迫害が続く中、妙一尼とその夫も所領を没収されるなどの難を受けました。そうした中、どこまでも大聖人の弟子として法華 経の信仰を毅然と貫きました。大聖人が佐渡流罪から御帰還される前に、妙一尼の夫が亡くなり、また自身が厳しい状況におかれていましたが、従者を送るなど して大聖人をお守りしました。大聖人は、妙一尼に全魂の激励をされ、法華経の行者の大確信からすれば、信心を貫いた人は「冬は必ず春となる」との例えを用 いられ、妙一尼の夫は絶対に成仏されている、と御断言されています。

御本尊を信じて広める人は、厳しい寒さの冬の様な難があっても、それを乗り越え信心を貫けば必ず成仏の春を迎えられるとの妙法の大確信が述べられています。

 

本抄

法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候

 

通解

法華 経を信ずる人は冬のようなものである。冬は必ず春となる。昔より今まで、聞いたことも見たこともない。冬が秋に戻るということを。(同じように) 今まで 聞いたことがない。法華経を信じる人が仏になれず、凡夫のままでいることを。経文には「もし法を聞くことがあれば、一人として成仏しない人はいない」と説 かれている。

 

解説

まず初めに「法華経を信ずる人は冬のごとし」とありますが、一切の宿命と戦い、乗り越え、厳然たる成仏への軌道を歩む事を教えられています。「冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を」と 続く様に、冬は必ず春となり、秋に逆戻りする事はない、これは誰も動かす事のできない自然の法則であり、信心の試練を勝ち超えた凡夫は必ず仏となることを 示されています。これは、試練の冬を避けない鍛錬の冬に挑戦する勇気があれば、成仏という偉大な春へ、広宣流布という偉大な春へ前進する事ができ、勝利の 花を咲かせる事ができるという勝利の要諦を示されております。

 

最後に「経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候」とあります。御本尊を信じて南妙法蓮華経と唱えた人は、必ず仏となり、苦悩に沈む凡夫のままではないとの仰せと拝せます。そしてこの通理を法華経方便品の文を引かれて示され、法華経を聞いた人は、一人ももれなく成仏できる事を説かれております。



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2012年01月21日

平成24年1月度拝読御書「一生成仏抄」

一生成仏抄

 

○背景と大意

本抄は、建長7年(1255年)に著され富木常忍に与えられたと伝えられております。

題 号に「一生成仏」ありますが、私たち凡夫が一生のうちに成仏できるという意味です。本抄では私たちが凡夫の身のままで、この一生のうちに成仏するために 「唱題行」の意義・重要性を明らかにされています。南妙法蓮華経を唱えることが、最高の悟りの得る直道であることが示されております。一生成仏抄では、こ の原理を教えられるとともに、私たちが唱題をする上で大事な指導を教えられています。

題目を唱えていても、自身の外に法があると思ったならば、妙法では無くなり一生成仏は叶わないと戒められています。自身の生命が妙法蓮華経の当体であることを深く信じて、題目を唱えていくところに一生成仏が成就すると述べられています。

以上の法理と信心を教えられているのが本抄です。

 

○本抄及び通解(大百蓮華)

衆 生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる 鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是 をみがくとは云うなり。

 

○通解

衆 生といっても仏といっても、また同様である(二つの隔てがあるわけではない)。迷っている時には衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。例え ば、写りの悪い鏡も磨いたなら、輝く玉のように見えるようなものである。今の衆生の一念は、無明に覆われた迷いの心であり、いわばまだ磨いていない鏡であ る。これを磨けば必ず、真実の悟りの生命となり、よく映る明鏡となるのである。深く信心を起こして、昼も夜も朝も夕も怠ることなく磨くべきである。では、 どのようにして磨けばよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱える事、これが磨くということである。

 

○解説

まず初めに「衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」とあります。これは仏教の本質を明快に教えられた一節です。大聖人は、衆生と仏に隔たりはなく、衆生における「迷い」と「悟り」の違いに過ぎないと仰せです。誰人も仏に成れる原理が書かれているのが、法華経です。

続いて、「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし」と あるように、写りの悪い暗鏡を磨けば、あらゆるものを写し出すことができる明鏡となるのです。これを私たちに置き換えると、南妙法蓮華経と唱えていくこと で、生命が練磨され、無明を打ち払い、自身に本来具わっている仏の生命を開き顕すことができるということです。しかし、無明という生命の働きがあり、これ は成仏を阻む根本の迷いであります。

 

本抄の最後に「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。」とあるように、日夜朝暮弛みない生命練磨の唱題行による「持続の信心」の積み重ねが大切であることを教えられております。



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2011年12月11日

平成23年12月度拝読御書「可延定業書」

可延定業書


○背景と大意

本抄は、日蓮大聖人が弘安2年(1279年)或いは文永12年(1275年)に御執筆されたお手紙です。現在は、後者の文永12年 の御執筆が有力説とされております。下総国葛飾郡若宮(しもうさのくにかつしかぐんわかみや:現在の千葉県市川市)に住んでいた富木常忍(ときじょうに ん)の妻、富木尼御前(ときあまごぜん)に宛てられたお手紙です。大聖人は富木尼御前を心から励まし、生き抜く希望と勇気を送られました。仏法は通りであ り、医学を活かしながら、生命本然の生きる力、健康になる力が仏法である教えられた上で、医術に優れた四条金吾の治療を受けるように懇切丁寧に御指導され ています。

 

○本抄及び通解(大百蓮華)

命は三千にもすぎて候・而も齢もいまだ・たけさせ給はず、而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命や・をしの命や

 

○通解

 命は三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)の財よりも尊いのです。しかも富木尼御前は、年齢もまだ、それほどとっているわけではありません。

 その上、法華経にあわれたのです。1日でも長く生きていらっしゃるなら、それだけ功徳が積もるのです。

 ああ、惜しい命です。惜しい命です。

 

○解説

まず初めに「命は三千にもすぎて候」とありますが、生命は全宇宙の財宝を集めたよりも尊く無上の価値があると仰せになり、大聖人は生命の大切さを教えられています。

続けて「而も齢もいまだ・たけさせ給はず、而して法華経にあわせ給いぬ」とあるように、あなたはお歳もそれほどとられておりませんと励まされました。その上、法華経に出会い、信受し実践されている事を賞賛され、妙法を保って生きれば益々若々しく、益々福徳に満ちて行ける事を教えられております。

そして「一日もいきてをはせば功徳つもるべし」と ある様に妙法を持って一日でも生きるなら、偉大な功徳を積む事ができると仰せです。妙法を唱え自行化他の実践をする事で、生命の無限の可能性を開花される 事ができるのです。また、私たちが妙法を唱え、宿命を乗り越え、前進する姿そのものが妙法の偉大さの証明となるのです。

最後に「ああ、惜しい命です。惜しい命です。」と、 大事な大事な命です。生きて生きて生きるのです、と渾身の激励をされております。本抄を通して、仏法は最高の健康長寿の知恵であり、生命というこの世で一 番大切な宝を輝かせて行く最高の生命尊厳哲理であり、生老病死の苦悩を乗り越え、宿命も使命に転じながら力強く生き抜く原動力である事を教えられておりま す。

 



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2011年10月23日

平成23年10月度拝読御書「上野殿後家尼御返事」

上野殿後家尼御返事

 

○背景と大意

本抄は、日蓮大聖人が駿河の国富士郡上野郷の門下である上野殿後家尼に送られたお手紙です。御執筆については、文永11年(1274年)と言われておりますが、兵衛七郎(ひょうえしちろう)の逝去後の文永2年(1265年)7月の御述作と言われております。兵衛七郎は幕府の御家人でもあり大聖人から深い期待を寄せられていましたが、重い病のため、文永2年に逝去されました。

 大聖人は即身成仏を説く法華経の信仰に生き抜いた兵衛七郎について、生きていた ときも亡くなった今も「生死ともに仏」であると断言されています。さらに浄土といっても地獄といっても全て自分自身の胸中にあるのであり、「地獄即寂光」 を説く法華経を信じ抜くならば、いかなる苦悩も境遇も、絶対の幸福境涯へと転じ行くことができると教えられています。そして、いよいよ求道心を燃やし、信 心に励み行くことが大切であり、夫の即身成仏を確信しきって、心行くまで追善の祈りを重ねて行くよう励まされております。

 

○本抄

法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり、天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりも・なをそむれば・いよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきは・いよいよあをきがごとし

 

○通解

 法華経の法門を聞くにつけて、ますます信心に励むのを、まことの道心者というの です。天台大師は「藍よりして而も青し」といわれています。この釈の意味は、藍は葉のときよりも、染めれば染めるほど、いよいよ青くなるということです。 法華経は藍のようであり、修行が深いのは、藍が染まるにしたがって、ますます青くなるようなものです。

 

○解説

まず初めに「法華経の法門をきくにつけて」とありますが、大聖人は門下の信心を深めるため「即身成仏」や「地獄即寂光」などの深い法理を説き、「なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり」と続くように、信が大事であることを教えられています。信心を深めれば深めるほど、私たちの生命は仏界の色彩に染め上げられるからです。

続いて、「天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりも・なをそむれば・いよいよあをし」とありますが、大聖人は天台大師の「従藍而青」(じゅうらんにしょう)を通して教えられています。藍染が何度も染め抜くことによって別物のような深く鮮やかな青色に成って行くように、妙法の修行を重ねて信心を深めて行きなさいと説かれています。

最後に「法華経はあいのごとし修行のふかきは・いよいよあをきがごとし」とあるように幾度も繰り返し、信心を深めることで、生命を仏界に染め上げて行くことができるのです。大聖人の仏法では法理を聞いて信心を深め、益々修行に励んでいけば実際に仏界を顕し一生成仏を実現できる。この絶対信心の姿勢を教えられています。



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