チョコ助が全国の街を訪れて、平将門伝説やパワースポットを巡ったり、グルメやスイーツをご紹介するという拙ブログ恒例企画❗
今回はレンタカーを利用して、千葉県東金市、山武郡九十九里町、山武市、山武郡横芝光町、匝瑳市、旭市の将門伝説を巡ってみました🎵
引き続き、山武郡横芝光町(旧 横芝町)の将門伝説をご紹介いたします!
(*ゝω・)ノ
題して
❮チョコ助と行く💀山武郡横芝光町の将門伝説スピリチュアルぶらり旅❯
その⑤。
次に、横芝光町坂田にある「坂田城址」へ行ってみました!
平良兼の館は、一説に、横芝の北方台地のこの辺りに建てられたといいます。
それが後に、この坂田城となったとされています。
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『坂田城址』
◇所在地 横芝光町坂田426―1
◇「ちば観光ナビ」の紹介ページはこちら👇
【坂田城址 (山武郡横芝町坂田)】
平良兼の館は、一説に、横芝の北方台地のこの辺りに建てられたという。
それが後に、この坂田城となったとされている。
(「将門地誌」昭和四十七年 赤城宗徳 毎日新聞社)
◇参考文献
村上春樹 著「平将門伝説ハンドブック」(公孫樹舎)
【良兼館跡 (山武郡横芝町坂田)】
上総介良兼の館は横芝駅の西北二キロ、坂田沼を眼下にのぞむ丘陵上にあった。
台地の東、沼に最も近く、物見塚のある杉林が一郭、それに続いて今は畑となっている平地が二つ、それぞれ空濠で仕切られて残る。もっとも、この形態になったのは後世、千葉氏の居城になってから。良兼の頃は中央の第二郭あたりに置かれていたらしい。
◇参考文献
「関東中心 平将門故蹟写真資料集」昭和五十一年 財団法人 日本教育文化協会 監修

現地に掲示されている案内板より引用させていただきます。
m(_ _)m
【坂田城跡
所在地 千葉県山武郡横芝町坂田字登城ほか
別称 市場城・城山
区分 中世城郭
形態 戦国期丘陵多郭式城郭
伝承によると、14世紀の中ごろ、千葉氏によって築城されたと伝えられる。その後、千葉氏の重臣である三谷大膳亮胤興(信慈入道)の居城となり、長倉砦や小堤要害などの支城が整備された。弘治元年(1555)以降、大台城(芝山町)の井田因幡守友胤は、三谷氏の内紛に剩じて大膳亮胤興を討って、坂田城へ移ったとされる(「山室譜伝記」)。
坂田城主となった井田氏は、千葉氏に仕えるとともに、また小田原北条氏の被官として手勢300騎を擁して、東上総における典型的な戦国土豪であった。やがて、栗山川・高谷川の流域一帯に勢力を張り、関東各地に出陣した(「井田文書」)。天正18年(1590)4月、豊臣秀吉の小田原攻めの際、坂田城も追討軍のために落城したと伝えられる。
この坂田城跡は、JR横芝駅の北西約1.5kmに位置して、俗に「城山」と呼ばれる。その遺構は、栗山川の支谷によって形成された東西250m、南北1500mの半島状台地の先端部に展開している。周囲は沖積低地に接した急崖で寺方北側から延びる谷の鞍部によって親台地から区画され、その南方には坂田沼の低湿地を控え「要害の地」である。
その構造は、直線連郭式とよばれるもので、本丸から見台・登城・外城まで曲輪が直線的に配置され、その先端には城門桝形が設けられている。各曲輪は土塁や空堀によって守られており、土塁の一部を切って柵門(虎口)とし、その要所には櫓台を置き、帯郭などを備えている一方、登城には姫塚の円墳が在るが、これは城普請の安全を祷った「地鎮」の跡であるものと察せられる。
昭和63年10月 横芝町教育委員会】

《山武市編・さらに続く》
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