181121ところで、亡くなった時点で記入された仮過去帳が「伊三郎」で、後に作られた家別過去帳が「利三郎」。

ならば、位牌は「伊三郎」で、卒塔婆は「利三郎」になるはずです。繰り返しますが、位牌は亡くなった時に作られ、卒塔婆は家別過去帳をもとにつくられます。

ところが、今回の事件ではこれが逆転しています。

なぜそうなったのか。

 

実は仏壇の位牌は、先代住職の文字で書かれており、先住が位牌を作り直したことが分かります。先住はおそらく、仮過去帳を見ずに家別の過去帳だけを参考にして位牌を書いたのでしょう。

だから位牌は「利」になってしまっている。

ところで、写真では「利」の文字の横に、太く別の手で「利」とあります。その下には細く「伊」という文字が書かれており、太い字はそれを消すように重ねて書かれたものです。どの住職か(先住の字ではない)が、一旦は「伊」が正しいだろうと書き直したものの、さらにそれを抹消したわけです。判定が揺れたのが分かります。

しかし四半世紀前、ぼくは、ここはやはり「伊三郎」にすべきと判断して、データ化したわけです。

だから家別過去帳では「利」になっているが、パソコンのデータとしては「伊」に変えられている。

これが逆転現象の経緯です。

そして、「利三郎童子」の位牌は、作り直されないまま、四半世紀が経ってしまったわけです。

 

さてどうするか。位牌を書き直すか、過去帳を変えるか。

位牌も家別過去帳も「利」なので、これを採用するのがもっとも簡単なのですが。

181120家別の過去帳作りは、書き継がれてきた仮過去帳から拾い出すという方法もありますが、「権兵衛父」なんて「続柄」が記されてあっても、どこの権兵衛さんか分からない。

そこで、各檀家を訪問して、仏壇の位牌を書き写すという方法をとることになります。

ところが、位牌が古く黒ずんで文字が読めない、あまりに達筆で読めない、難しい字で坊主には読めないなどなど。様々な理由で、位牌と家別過去帳の戒名が異なる場合が出てきます。

位牌と仮過去帳の戒名は、死去の段階で作られたものですから同じです。

そして当然、ほとんどの場合こちらが正しい。

 

四半世紀前、過去帳をパソコンのデータ化する作業の中で、このふたつの過去帳の違いがボロボロ見つかりました。100年以上前の先輩たちの間違いを、大後輩のぼくが見つけてしまったわけです。

違いが判明したのは、家別の過去帳のデータをそのまま入力するのではなく、仮過去帳と照らし合わせながらという、ひどく手間のかかる作業をしたせいです。

違っている場合は、直接檀家さんを訪ねたり、便りで問い合わせたりしました。

写真の下の過去帳のそばに「伊(仮)」と書き込んであるのは、この作業の名残です。だからぼくの文字。

仮過去帳では「伊」になってるよ、という意味です。
(さらにつづく)

181119法事に出かけたら、書いていった卒塔婆と、祭壇にまつってある位牌の戒名が異なっています。

位牌は「利三郎童子」、卒塔婆は「伊三郎童子」。

明治2年に亡くなった、今年150回忌の男の子。

「どちらかが違ってますねぇ」かなんか言いながら、法事はすませました。

いうまでもなく、参列者の誰も知らない子です。

 

寺に帰ってさっそく過去帳を開いてみました。

上が「仮過去帳」(と、うちでは呼んでいる)。亡くなった時点に書かれたもので、死亡順に書き継がれています。ここには「伊三郎」とある。

下が家別の過去帳。だから書かれた戒名はすべてその家の先祖。こちらは「利三郎」。

寺の過去帳なのに、違う名前が書いてあるわけです。なんと無責任。

 

なぜこういうことが起きるか。

家別の過去帳の成立は、明治維新以降です。うちでは明治15年くらい。

それまでは仮過去帳のみで、家別のものはありませんでした。家を分類する方法がなかったためです。

権兵衛さんが当主でも、彼が亡くなると当主は息子の権吉さんに変わる。

権兵衛さんの先祖は、権吉さんの先祖になる。これでは何が何だか分からなくなります。

 

明治になって、名字を持つようになると、その名字が家を区別する記号になります。

山本家の先祖はずっと山本家の先祖ということになる。

こうして、家別の過去帳が作られることになります。

(つづく)

181117とある銀行から、法人番号を知らせろと言って来ました。会社のマイナンバーです。

「お届けが定められています」なんて。しかも、年明けの1月までと期限まで切られている。

 

小さくても会社ですから、取引銀行はあります。融資などは受けてはいませんが。・・こういうのは取引銀行というのか。

なにしろ会社ですから、必要な手続きはしておかなきゃいけない。ましてお国が決めたことなら。観音さんに国賊の汚名をきせるわけにはいかない。

ともあれ会社ですから、取引銀行は一行ではない。手続きのための書類を入手しなければいけないし、どうせなら一度に済ませたい。他の銀行はどうなっているのか、問い合わせてみました。

どこも、別に急ぐ話ではないといいます。

 

改めて当該銀行に問い合わせたら、ホントは決して急いではいないことを認めました。

カマ、かけたな。人騒がせな話です。

どうせやらなきゃいけない手続きなのだから、いずれは踏むことになる段取り。

あすできることならきょうはしないタイプの人間ではありませんから、直前になって慌てるのは嫌いです。だからといって、他律的かつ強制的に慌てさせられるのはもっと嫌です。

というわけで、この話はしばらくペンディング。

181116金毘羅神社の祭礼は、111415日で、大法会はおおむね、そのあとの直近の週末です。

木津は遅ればせの祭礼の季節。

 

鳴門に来て初めての、長谷寺での大法会は、1999年でした。

神社の祭りでは、なにしろうちの境内いっぱいに屋台が並びますから、祭りが終わるのを待って、大急ぎで詠歌場を建てました。

このときは、多少は日程にゆとりがあったので、準備はなんとか間に合いましたが、12年後の2011年の大法会は祭りの直後なので、準備はどうしたらいいだろうかと、ずいぶん気の早い心配をしました。

しかし、いざ12年が経ってみれば、屋台は激減し、大法会の準備をすませて、詠歌場だけでなく、経木場のテントを建てても、じゅうぶんに屋台が並びました。

これなら、もう12年後の2023年は心配ないだろうと思っていたら、その数年後に屋台が境内から撤退し、今年とうとう姿を消してしまいました。

 

かつての賑わいを知っている地元の面々にとってみれば、金毘羅神社の祭りに屋台が並ばないなんて、きっと、とてつもない大事件です。

これからどんな騒ぎが持ち上がるのだろうか。じっくり定点観測をしたいと思います。

もし持ち上がらなければ、それもまた寂しいことですけれど。

 

写真は10年前。

すでにずいぶん淋しくなっています。

181115きのうときょうは、お隣の金毘羅神社のお祭りです。

お神輿の準備もできたみたい。

 

ところがなんと、テキヤさんが店を出していません。

ゆうべは、子どもたちや、パトロール係のPTAのお母さんが、どうなってるんですかと訪ねてきました。

寺に尋ねられても、よく分かりません。

でもチラシにはたしかに、1415日は「夜市」と書いてあります。

 

数年前までは、うちの境内に屋台を広げました。

ぼくが鳴門に来た頃は、かつての賑わいはすでに失われていたものの、それでもたくさんの屋台が軒を並べたものです。

駐車場には、テキヤさんたちの車が、文字通り立錐の余地もないほど並びました。

夜遅くまで明かりが灯り、翌朝はまだ暗いうちから後片付けに来ました。

終わっても数日は、境内に、甘味料やたこ焼きのソースの匂いが残りました。

 

次第に店が減り、神社の境内だけでこと足りるようになって、寺からは完全撤退しました。

そして今年はとうとう来なくなってしまった。

 

金毘羅神社の祭りといえば、市内の祭りの掉尾を飾り、いとも盛大だったと、いまでも話にだけは聞きます。

時代の終わりは、ときにじわじわと、またときに唐突にやって来ます。

181114不思議な菓子をいただきました。

その名も、清浄歓喜団。

半島の北の国の、将軍さまに奉仕する女性ダンサーたちみたいな名前ですが、この場合の「団」は、「お団子」の謂です。

能書きによると、奈良時代に遣唐使によってもたらされたものらしい。ホントかしら。

 

ちかごろ評判の菓子らしいです。

京都には8年暮らしましたが、存在すら知らなかった。初見、初耳です。

能書きには、史料的根拠まで書いておいてもらわないと困ります。

 

密教の供物なんだそうですが、形は金袋。そんなものがお供えになるのか。

ごま油の揚げ菓子です。だからひどく堅い。八幡製鉄所の「堅パン」(かたぱん 鉄製というわけではない)を想起する堅さ。

中身はあんこです。薬草らしきものも練りこまれている。

美味しいかと訊かれたら、絶句します。

珍味なのはたしかです。

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