【ストーリー】
 大腸ガンを患っている川村(山内明)の隣のベッドに、肺ガンを患っている妻が入院してくる。夫妻は一時、二人きりの闘病生活を送るが、妻は肺ガン治療のために転院していく。一方、働き盛りで2児の父でもある野口(塩野谷正幸)は、一度の手術で回復を見せ、間もなく退院していく。しかし、彼の腫瘍は完全に取り切れていなかった。
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※『病院で死ぬということ』の結末に言及しています。未見の方はご注意ください。

■ 死ぬことだけが唯一の希望 ☆☆☆

本作『病院で死ぬということ』は、終末医療(ターミナルケア)に取り組む医師を軸に、定点観測のように据え付けられたカメラを通して、入院患者の病室での生活を切り取っている。終末医療を扱っているが、本作にはこれといった暗さはない。どちらかというと、のんびりした気楽さのようなものが漂っている。シーンはどれも短く、感情の昂りを捉えることもあるが、全体的には極めて他愛のない情景に占められている。それなのに、少しずつ変化していく患者の姿を追うことに、次第に夢中になってしまう面白さがあった。

しかし、映画としては口当たりのよいものができたかもしれないが、「病院で死ぬということ」を、十分に描いた作品とは言えなかった。

死ぬ瞬間』を著した精神科医エリザベス・キューブラー=ロスの、最期の日々を追ったドキュメンタリー番組を観たことがある。当時も今も、私はキューブラー=ロスについてほとんど無知だが、さまざまな人の死に寄り添った女性が、自分の死に際には不満や怒りを爆発させ、神を罵る言葉を吐いている姿は衝撃的だった。だが、怒りを表出させることも彼女なりの死の受け入れ方であり、「愛について学ばなくてはならない」という言葉尻からは、彼女の死に対する真摯な姿勢を伺い知ることができた。
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本作に登場する患者のうち、最も短い描写に終わるのが浮浪者・藤井に関するエピソードだ。末期の食道ガンを患っていた彼は身寄りがなく、わずかばかり同室の患者と触れ合うが、間もなく気管を切開して声を失うことになる。定期的に酸素を供給するパイプに繋がれた藤井に、同室の患者が奇異の眼差しを送る。同じ生ける人間なのに、そこには埋め難い断絶があるように思えた。

だが、それだけだ。藤井は呆気なく死に、綺麗に片付けられたベッドがそれを象徴するように映し出される。藤井の孤独や絶望や痛みへの喘ぎを、映画は一切映さない。パイプに繋がれた藤井が、最期の生をどう謳歌したのか、あるいはやり過ごしたのか、映画はそれすらも感じさせてくれなかった。

打つ手が無く、弱っていく体を抱えて病院で過ごす彼らにとって、唯一の希望は”死”だけだ。そんな彼らの日常の合間に、映画は、病院外の情景を挿入して見せる。子供が運動会に興じ、大人たちがそれを見守る。カメラを携えて野山を散策する。友人達と居酒屋で飲み明かす。そうした、”健康であれば当たり前だったこと”が、いかにも法外な価値を伴ったもののようにやや無神経にインサートされる様は、少しだけ不快だった。

病に繋がれて死にゆくことは綺麗事ではない。本作の登場人物の一人は、『死を乗り越えることができるのは、勇気でも、諦めでもない。愛なんだ』と言い残すが、それは、キューブラー=ロスが残した「愛について学ばなくてはならない」という言葉に比べると、いささか傲慢に聞こえた。愛の境地に辿り着ける人もいるだろうが、それまでには多くの痛みや絶望感を乗り越えたはずだ。それを描かず、一足飛びに愛に至る様は、むしろ医療を施す側や、患者を見守る側の”希望”のように思えてならなかった。


<作品情報>
病院で死ぬということ
製作国:日 公開年:1993年
監督:市川準
原作:山崎章郎
出演:岸部一徳、塩野谷正幸、石井育代、七尾伶子

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