タカラノタマゴ

日々の発見は、どんなにちいさくてもタカラノタマゴ!

キッチン中野さんで
「ひとり芝居ミュージカル短編集vol.2」を観て来ました。 

まず脚本、企画がとても面白いと思いました。
この日の主人公たちは、クレオパトラ、
荻野吟子、そしてファニー・メンデルスゾーン。

3番目に登場した神田麻衣さんが演じた
ファニーに心打たれました。
いわゆる私たちが知っているメンデルスゾーンの
姉の人生を描いたもので、
再演とはいえ、これはこの日限りという贅沢。

麻衣さんが魅力的な女優さんなんだということを改めて実感。
体も心もまるごと、ポーンと役に飛び込んでいく人。
イメージを見ながら気持ちを動かしながら、
そこにないものも見せてくれる。
そして、たとえば子ども時代を演じるときも、
ライトを見上げながらの
「なんてすてきなの」的な感情の発露も、
無理につくってます感がなく、内側からの
生き生きとした輝きで自然に表現できる人。
美人リスさんみたいな、キラキラした
アーモンド型の目に見つめられて、
子供のように照れました(笑)。

そして動いても、ぶれない、歌。
体の軸。これ、ほんとに大事ですね。
ミュージカルの世界でやっていくなら
当たり前の前提なのだと思いますが、
小さな空間で、生声で、一人で、
となるともう1mmもごまかせない。

最後に胸がきゅんとして涙が出てきてしまったのは、
弟をその才能で支え続けながら、自身はついに
世間に認められることがなかった姉ファニーのセリフと
父を支えた母の思いが重なったからです。

30分一人で芝居をし抜くというのは、
しかも歌うというのは、ほんとうにたいへんなこと。
この日は、前半はアンダーキャスト公演にもなっていて、
クレオパトラと、荻野吟子は、
アンダーキャストさんがそれぞれを演じました。
クレオパトラさんに感じた、愛嬌と華の、
荻野さんに感じた、時間をかける価値のある味わいの、
それぞれの蕾、今後、開いていきますように。

観劇後、ちょっと心が充血したのは、
麻衣さんの芝居が良かったから、もあるし、
アプローチシアター時代の自分が
戻って来たからでもありました。
帰るなり、ずっとほったらかしていた某作品に着手しました。
形になれよー。
と、鍋をかきまわす魔女の気分で。

いろいろな意味で少数民族ですが、
中でも「かな打ち民族」だというとかなり確実に驚かれます。

英語は英語でブラインドタッチできます。
しかもちゃんと早く打てます。
でも、ローマ字になると、いきなりとろくなる(笑)。
クリスマスとかの外来語をどう打っていいか混乱するし( ;  ; )。
何より、かなの方が打つ数が約半分なので、圧倒的に早いのですね。

頭にひらがなを浮かべて書いているのに、
打つためのイメージがアルファベットだったり 、
頭に浮かんだリズムが、こんにちは、なのに、
聞こえてくるキーボードの音が、こおんんにいちいいはあ、
みたいになるのも、すごく変な感じがするんですよ。 

でも、角川アスキーさんのリサーチによれば、
93パーセント以上がローマ字入力だそうです。
いまの20代は、ほとんどが
もうデザイン的に「かな」はいらないって思ってるとか。
それもわかるけど(笑)。

私の中では、
きものはきものできちんと着られて、
ドレスはドレスで着こなしたり、
日本語は日本語らしく
英語は英語らしくしゃべりたいなと思うのと
英文・かなの打ち分けって、
ちょっと似ているのですが。

近い将来、ローマ字に征服されてしまい、
キーボードからかな入力の機能が消える日が来る気がします。
かな民族は少なすぎて、あらがうことができなそう。
私から、かな配列をうばわないで!
と、弱々しく叫びながら、
少しずつローマ字入力にも慣れていかないといけないかな。

ウッディシアターにて。
ソングサイクル。
とても短いオムニバスを
たくさんつなげていくスタイルのミュージカル。

作詞作曲・演出の藤倉梓ちゃんの着想にニンマリ。
東京の空の下で繰り広げられる
いくつものシーン、さまざまな人生。
これってどんどんふやしていける。
世代も広げられるし、
いろいろな街のバージョンがつくれる、
ワークショップの素材にもなるし、
無限の可能性に満ちてますね。

セットは、東京の景色をバックに
さまざまな窓枠が象徴的に。
センスいいなと思いました。
思えば窓枠って、それだけで
そこがどういう場所かを語ってくれる。
窓枠の数だけ、部屋があり、
部屋の数だけ、ストーリーがある。
見た目のおしゃれ感だけではなくて、
そんな意味も感じて。

オープニングと最後のアカペラ合唱、
パワフルで元気もらいました。

でも、あなどるなかれ、ソングサイクル。
同じ人がいろいろな役にかわるのと、
ワンシーンがとても短いからこそ、
役者さんたちに求められるものって実は高度なんだなと。
一瞬にして、それがだれか、いまここでの役割が何なのか、
何の話なのか、いつも何をしているどんな人なのか、
その人を知らない人にも、
ちゃんと想像させられないといけないんですね。
時間をかけてわからせる時間がないから。
歌も、出だしの声一発でぐっとつかむくらいでないと
ドラマの流れに頼れないから…。

そういう意味で、正直、
まだ少しはがゆい人もいましたが、
谷口あかりさん、中村萌子さんが、
クオリティをしっかり引き上げていた感じ。 

トランプ、すっごい練習したんだろうなー。
仕事柄、マンマ・ミーアはさまざまなキャストで
観ていますが、あかりさんは、
とても好きなソフィーでした。
人を幸せにする笑顔の持ち主さんだなとあらためて。

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映画「サクロモンテの丘」
渋谷アップリンクにて

- 監督:チュス・グティエレス
- 参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、
 ライムンド・エレディア、ペペ・アビチュエラ、
 ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、
 チョンチ・エレディア、マノレーテ他多数

スペイン・アンダルシア地方・グラナダ県
サクロモンテ地区のヒターノたちがたどってきた道。

フラメンコ通の人にはたまらないツボがいっぱい! 
フラメンコに馴染みのない人にはどう見えただろう。
 
まだ洞窟時代を知る生き証人たちが
こうして元気に踊っているところに、
フラメンコが今のような芸術になってからの
不思議な歴史の浅さを感じました。
フラメンコの持つ底知れない深さと
この「最近感」がアンバランスなのです。
しかもハイメはイベリアで見ているし、
アルバ・エレディアももうすぐやってくる。
ガルロチの廊下ですれちがうかもしれない。 
そんな大スターとの距離の近さも、いまだに不思議。

「ヒターノ」が字幕で「ロマ」になっているところに、
かすかな違和感を覚えつつ。
私の中では、ジプシーとヒターノとロマは
少し違うものという認識なのだけれど。
何か理由があってのことなのかな。
もし一般の人にわかりにくいから、
ということが理由ならば、「そこをあえて」に踏み切る
勇気と工夫が欲しいなと思ってしまいます。

「ヒターノ」、この単語の浸透には
たしかに手間取るかもしれないけれど、
ちゃんと知られていってほしい単語です。
もちろん正しい説明とともに。
これが知られずに、日本ではフラメンコが人気がある
なんて、ほんとの意味では言えないと思う。

 
最後に知っている人たちのクレジットが流れて、
「おおおー!」と。 

余談だけれど、アップリンク、気に入りました。
地震や火事があったらちょっと怖いけれど・・・。
選ばれている作品もいいし、椅子はまるでリゾートです。
フラメンコを観る姿勢じゃなかったけど笑
(やっぱりパルマ叩く格好で座りたくなる)、
普通の映画を観るにはいいなー。
ぜったいにぶかっと沈み込むので、
前の人の頭が邪魔、ということにもならなそうです。 

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シアター風姿花伝で上演された
カクシンハンのポケット公演「夏の夜の夢」観てきました。

カクシンハンさんは、今までに2つ観て、
ちと辛いところもあったのですが、
3回はちゃんと観ないと、
何がすべての作品に共通して流れるこの劇団の身上で、
何が作品限定の要素なのか、わからないよねって思ったのと、
岩崎マーク雄大くんが観たかったのと、
なんか基本口には合わないけど、
もいっかい食べてみようかな的な何かがあるのも確かで、
もうちょっと観てみようかなと思ったのと。

やはり、私にとっては、セリフの言い方が荒っぽすぎて。
そしてここが入ってこないと、私の場合、
深いものを感じ取ろうとするアンテナが折れてしまうのです。

でも!
私は「楽しむスイッチ」をいろいろと持っているのです!
今回はそのうちの、「妄想」というスイッチを入れる事にしました。
いやもう、「そちらがそうくるなら、私はこうしちゃうよ」という笑。

台所で料理していたら、
「おかあさーん、劇みてー」って言われて
リビングで展開する男の子たちのすさまじい芝居を
見せられている母。
これがなかなかしっくりきたので、
それで行くことにしました。

何回あっけにとられ、
何回「あほかー」と頭をかかえ、
何回「いいかげんにしなさいっ」と言いかけ、
何回「ここでそんなにどんどんしないっ」と叫んだかしれず、
でもどっか可愛げがあるのでつきあってしまい、
合間にうっかり「よく思いつくな、子どもすごいな」
とその発想に感心してしまい、
たまに不覚にも笑ってしまう。
で、観てたら、女の子も出てきたりして、
「ちょっと待って、お友達のマイミちゃんやら、
 やだ、お姉ちゃんまで刈り出したの、
  しかも何、本気でやっちゃって」
みたいなこともあって、最後は
「終わり? え、まだあんの、今度なに、これなに、ゴリラ?
 ちょっと、この衣装どっから持ってきたの。やだもう」
「終わり? まだやるの? うわ、どうして男子って、
 武器とか好きなんだろう (呆)」
ほんとに終わって、ぐったり疲れて、
みんなにジュース出してあげながら
メイクの落ちてないハーミアちゃんの顔見て、
吹いてしまったりして、で、雄大くんが
「ぼく役者になりたいかも」って言うと、
才能あるよな、って真面目に思って、
「いいと思うよ」って言ったりするわけです。

そしたら、なんだかとても楽しかったのでした。
そんな妄想しないと見られないってどうなの、
っていうのもありますが、
そんな妄想をすれば、楽しめたというのは、
しかもこの設定がはまったというのは、
どういうことなのかなって考えてみました。

たぶん、
子どもの本気まるだしのごっこを、真剣にやっているからです。
この作品はそれがとくに際立って見えました。
子どもが、「ブーン、シャーっ、ガガガガガ、だっぱーん」
みたいな擬声語を発しながら、
ヒーローになりきっているときのあの本気感。
ここに1mmでも、1gでも自意識があると、
たぶん芝居は、観ていられない、三流のお笑い芸に転落します。
でも、彼らはそうとうちゃんと、子どもで居続けてた。
少なくとも、私の目にはそう見えました。

子どもでいること。子どもになれること。
これは、どんなにお行儀のいい芝居をするときも、
絵を描く人も、文章を書く人も、
内在させてないといけないって私は思っています。
ただカクシンハンさんの場合は、それが内在ではなく、
あまり洗練もせずそのまま外に放り出されている感じで
だからやっぱり妄想なしで観るのは、ちと辛いんだけど(笑)。

ここで培われた「子どもたち」をひっさげて、
もっとセリフやイメージを大切にする芝居に出たら
彼らはどうなるんだろうと思うと、ちょっとワクつき、
これを岡本太郎さんが観たら、どんな感想を持ったのかな、と
そんな風に思いながら、早春の寒風の中、劇場をあとにしました。

東京芸術劇場シアターウエストにて、
青蛾館公演 寺山音楽劇
「中国の不思議な役人」
を観てきました。

プロデュースは野口和美さん。
演出は松村武さん。


夢の中で怪しい路地の、しかも見世物小屋のある
一角に迷い込んでしまったような錯覚。
二胡の音と、光の中で
少しずつ、なんとなく、見えてくる、
「不死身の役人が、少女の愛を知ることによって
生きた瞬間死ぬ。そして再生」という物語の芯のまわりに、
万華鏡のような人間模様がまとわりついていく。
いかがわしさと退廃の中に、
夢的に、寺山修司氏の痛烈なメッセージが潜在し、
真実が見え隠れしているのを感じ、
夢的に、それらがつかみきれない。

たまたま前日、新国立劇場のマンスリープロジェクトで
ふじたあさや先生のレクチャーを聞いてきたのだけど、
そこで、三島由紀夫・武田泰淳・椎名麟三・
安部公房・松島栄一各氏の座談会を紹介してくださって。
(私には抱腹絶倒くらい面白かった)
その中に
「人が人を 観るのって、スポーツと芝居くらいですよね」
という話と
「においがするんだよね」
という話題が出てきて、それを思い出した。
実際にはにおってこないんだけれども、
白粉とかアヘンとか、きものの生地とかお香とか、
そういうものがツンと鼻をつき、肌を包む。

この演出、役者たちの個性と技量なしには
成立しないと思うのだけれど、
とにかくメインとなる役者たちが凄まじかった。
それぞれの持つ体の特色も惜しげもなくさらし、
しかもそこに必然性がある。そして
ふだんからこうで、ふだんからこの異様な世界に
暮らしてるんじゃないかというリアリティが徹底している。
ふだんはコンビ二でおにぎりも水も買うんだろうに、
それを感じさせないどころか、想像もつかない。
クセ者たちというか、怪優たちというか。
しっかり鍛えられたこの役者陣の強さが、様式美ともに、
この作品の破壊力や混沌を支える、
太い屋台骨になっているのだ。

たとえば、若手のまだおそらく経験の浅い女優たちの
演劇学校の演習的な安っぽさに転んでしまいそうなあやうさも
のぐちさんがそこにいるだけで、
演劇的な翼の中に入ってしまう。
なんだろうこの存在感。

若松武史さんの異様で強烈なインパクト。
石井愃一さんの時代にも生にもいける縦横無尽なセリフ術。
池田有希子さんの肝っ玉の据わった、声のエネルギー。
世界からまったく浮き上がらず、そのまま
この世界の住人に見えた安藤さん、島地さんの肉体言語。
このお二人の身体能力とダンスの技術はずば抜けているけれど、
全員での動きも効果的で、
演劇におけるダンスやマイムに、
どうしても素が透けるというリスクを感じることが多いこのごろ、
何がそのレベルに引き上げたのかと。

破壊力と混沌を支えたものは、おそらく、伝統の力も大きいと思う。
寺山修司氏や、蜷川幸雄氏らの息がかかった人たち、
こういう世界で呼吸し、生き抜いてきたツワモノたちが集い、
若い役者たちを巻き込んでいく、そのパワー。
ああそれは がなり芝居・・・みたいな人もいたのだけど、
こういう中で学んでいけば、何かが前に進むんだろうな。

「いったいいま見たものはなんだったんだろう、
“怪演者たちの宴”みたいな舞台だったな」
と思いながら席を立ったその瞬間に、
観にいらしてた渡辺えりさんを
至近距離で見てしまったという、
最後まで不思議なシアターウエストの夜だった。

原題 The Danish Girl
2015年イギリス

監督 トム・フーパー
出演 エディ・レッドメイン
   アリシア・ビカンダー ほか

泣きました。
ひとりでかみしめたい感情。
あまり語りたくない感じ。
エディ・レッドメイン素晴らしくて。
アリシアによってその素晴らしさがなお生きている感じ。
今週中に「博士と彼女のセオリー」も観る予定。

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