カクシンハンのハムレットが先になりましたが、
観たのはこちらが先です。
これもまた、素晴らしく、
私の「そう!こういうミュージカルが観たかった!」にささりました。
「さくらまつ」で貴重なアドバイスをくださった板垣さんの演出。
観に来てくださって、うれしい感想をくださった
conSeptの宋さんのプロデュース。
勉強になりそう、素敵になりそう、康平くん出るし・・・と、
2回、チケットを確保。
2回で正解、でも本当は、もっと何回も観たかった。
まずこの作品を
見つけてきたプロデューサーの宋さんすばらし。
ネットサーフィンしてて・・・っておっしゃってたけれど、
どんなサーフィンしてたんでしょう(笑)。
字幕やカルチケの採用もまた、すてきだと思いました。
字幕やカルチケの採用もまた、すてきだと思いました。
全体的には、とても詩的で演劇的に濃密で、
まるで、一冊の本を読んだような印象すらありました。
Before AfterやLast 5 Years をはじめ、
小さな空間で上演される演劇性の高いミュージカル作品は増え続けています。
でもこれはさらに、文学的な匂いの色濃いものでした。
決して難解ということはなく、美しく、すっと心に染みて来ます。
ただ、その中に、シンボライズ、メタファー、伏線などが仕込まれていて、
観れば観るほど、読み解いたり、探したりする
ちょっと知的な楽しみもまた見つかるのです。
たぶん原語で読むともっともっと見つかります。
歌や音楽の立ち位置も、いわゆる「ミュージカル」という
ジャンルから想像されるものとは違います。
ジャンルから想像されるものとは違います。
日常の中で、気持ちが高まって
ふと歌が口をついてでる、そんな風にして歌いだされ、
とても自然にセリフの中に組み込まれていました。
音楽は繊細に景色や光や風をイメージさせます。
また、歌ですべてを語ってしまうわけでもありません。
もともと伝統的な西洋演劇には「独白は本音」というお約束がありますが
その独白の部分を、ミュージカルでは歌が担って、
なんでもわかりやすく伝えてしまうことが多いのですね。
中には「運命に負けずにがんばろう」「友情は素晴らしい」と
感じ取ってほしい結論までベタに言ってしまうものもあって
私は「これじゃなきゃだめなのかなあ」とずっと疑問なんですけど(^_^;)。
でもこの作品では、歌にもたくさんの含みがありました。
演出や翻訳、演技の質感によるところも大きいかもしれません。
まず印象的だったのは、冒頭。
夫婦の登場の演出が、心にくいのです。
どきっとするほど美しく、
でも事情を知ってからもう一度見ると、
あ、そういうことなんだ・・・と。
最初は、夫婦がどこかへ行っていて、久しぶりに
いまは空き家になっているなつかしの我が家に
戻ってきてみた、という設定なのかな?と思いました。
まあそうなんだけれど(笑)。
その後も、いろいろ、ちょいちょい不思議なんですね。
壁ってなんだろう? 私が大事なところ聞き損なっちゃったのかな。
寒がり方がみんな違う? でも必ず意味があるはず。
最初のナレーションが「ヘンリーは」って三人称ではじめるのに
いつから「僕は」の一人称になったの?
あれ、ここで暮らすんじゃないんだ。
そして最後に
え、もしかして、そういうこと?やっぱり?
待って待って、最初から観たい。
ってなる。
私は、いくつかのPVは拝見しましたが、あえて予習ゼロで観たので、
この衝撃は新鮮でした。でもここがまたいいところなんですが、
ジャーン!って感じでは種明かしされないんですよ、ジャーン!とは。
「ネクスト・トゥ・ノーマル」や「楽屋」(ぜんぜん違うけど笑)でも
用いられているアイデアなので(ほぼネタバレですね笑)
それ自体はかならずしも斬新ではないですが、
でもなぜこの設定でなければならなかったんだろう、
というところが、あからさまではない分、また考えさせられるのです。
で、わかって観ると、あらためて泣けたり、違うところが不思議になったりする。
大晦日、そして新年。
これはただの1年の境目じゃないはず・・・。
しかも気づかないうちに、その線をこしてしまうという。
それからたとえばアニーが「掘りおこす」仕事をしている、というのも象徴的。
だって彼女の登場からいろんなものが掘り返されるわけですものね。
そんな風に、あれは、これは、ってまだまだ
見つけてないものがあるはずなんです。
それにしても、
人は、なぜ愛している相手に、大事なことを伝えられないのでしょう。
聞きたいことをしかるべきときに、たずねられないのでしょう。
または言葉どおりに受け取ればいいときに、さまざまな憶測をめぐらし
察しなければならないときに、言葉そのままとったりして
傷ついたりしてしまうのでしょう。
男と女の間には、どうしてこんな溝がいつもできてしまうのでしょう。
死と向き合うまで。いや、向き合ってもなお。
そして愛する身近な人を失うということは、
あらゆるものの色を変えてしまうことでもあります。
時の流れも、止めてしまう。
あるいは突然洪水のように流し去ってしまう。
でもそこから見えてくるものがある。
そこからしか見えてこないものがある・・・のですね。
知らない人に話すことで、
開いていく心の扉があるのだと思いました。
冒頭と並んで印象的だったのは、幕切れ。
最後から2つ目の音でした。
ピン、と高い音でなるピアノ。
私はこの瞬間に、アニーが息をひきとったんじゃないかと思いました。
そういう音に、私には聞こえました。
そして、ボンって落ちついて終わるの。泣きました。
でもこれが、また次の時間へのはじまりなのです、たぶん。
まさに、最後の夜。最初の朝。
そして、今の自分と重ねて観てもいました。
家、というもの。
「ここには家にあるべき大切なものがある」
でしたか、ちょっと正確に覚えていませんが、
物語と離れて、単独で心に残ったセリフです。
両親を見送ってから数年、ずっと感じているのです。
家にさまざまな精霊のようなものが息づいていること。
あるいは普段いなくても、何かのときに
呼び寄せられているような。
先祖? 両親? 生まれることのなかった2人の兄たち?
若者たちのざわめきを吸い込んだ何か?
私は別に霊感が強いわけでも、迷信深いわけでもありませんが、
たしかに感じますし、わが家に来た感受性の強い人は、必ず
あたりをみわたして「なんだろう、ここ、なんか感じる」
と言って、「帰りたくない」とか言ったりします。
音楽が流れた後は、なんとなく家自体がご機嫌な
雰囲気に満ちているのですよ(笑)。
そんな私の家は、今年、45年の月日を経て、ついに姿を消します。
そんなタイミングでこの芝居を観たので、
私は帰宅してから、バカみたいに
家のあらゆるものにむかってしゃべりました。
引っ越すという計画が次第に現実的になってきましたが、
思い出の中で、重荷になるような何かは、
ここで感謝とともにお別れをして、
私や私の仲間たちを応援してくれる精霊たちは、
壁から出てもらって、次の家へひきつれて行こうと思います。
そんな話も、「見えない彼ら」にきちんとしました(笑)。
だれかが、引っ越したと知らずに我が家の跡地に戻って来ちゃって、
「すっかりかわったわねぇ」って泣かないように。
もとへ。
役者さんたちはたいへんだったと思います。
歌の雰囲気に依存することなく、
ストレートプレイとして成立するレベルの演技を
要求されたのであろうことが、手にとるようにわかりました。
でも板垣さんは、引き出したり育てたりするの
とってもうまいのです。ちょっと体感ずみ(笑)。
ご本人にも伝えていませんが、「花咲か板さん」って
私の中ではニックネームがついております(^_^;)
さくらまつだったからー。
岸さんと入絵さん、何十年と背負って来たもの、
築いて来た関係を、存在で感じさせるところが
さすがでした。そしてあの声・・・(涙)
そのなかで、綿引さんと康平くんが、
のびやかに成長していくのが
2回観ただけでもわかりました。
4人とも、歌と気持ちを同化させるのがほんとにうまくて、
それもあって、歌が飛び出しているような感じが
しなかったのかもしれません。
康平くんの成長、うれしかったです。
ずいぶん笑わせてももらいました。
私は、残念そして申し訳ないことに、「さくらまつ」で会うまで
彼の舞台を観たことがありませんでした。
なのでそこからしか語れませんが、
わからないことがあると子どものように率直に疑問をぶつけてきて、
でも「こういう意味だよ」と説明すると
もうそこから歌い方がガラっと変わるのです。
さらに当日、お客さまが入ってライトを浴びた瞬間、
また数段飛びで階段を上がりました。リハと別人。
すごい感受性と適性の持ち主だなと思いました。
今のかわいい、かっこいい、も存分に大事にしてほしい。
でも一方で、この魅力と才能が、これからもいい刺激を受けて花開いて
30、40になっても活躍できる役者さんになっていきますように。
でもそこへの足がかりができた、In This Houseだったんじゃないかな。
人のことばっかり書いてないで(笑)、
すてきな仲間たちに置いていかれないように、
私も早く住環境を落ち着けて、がんばろうと思います。