2011年03月19日

リスペクトのススメ!!

大地震から少し時間が経ちましたが、皆様いかがおすごしでしょうか。

こちらは、千葉県の松戸というところなのですが、被害はありませんでした。被害にあわれた方には、謹んで、お見舞い申し上げる次第でございます。

しかし、外にでますと街全体が、何か理由もなく不安なような、心配なような、暗くなっちゃいそうな雰囲気に陥っているのは確かです。

ノーベル賞作家の大江健三郎さんは、日本も今までにない局面をむかえ、今までにない新しい時代に入ったのではないかとおっしゃられてますが、私も全く同感でございます。


どうやって復興してゆけばよいのか、問われるところではあるとおもいます。やり方は、その人なりでよろしいのではないかと思います。

問題は進め方ではないかと私は思います。すべてリスペクトをもってすすめるように心がけることが肝要ではないでしょうか。自分自身に対しても、他人や仕事やほかの物事に対してさえも。

最低限、リスペクトをもって生活するように心がけたいと思いますし、今まで以上にそうしようと思って生活しております。

リスペクトって何、ってことになると思います。リスペクトは、敬意とか尊敬の念とか、そういう感じの意味だと思います。

ただ私は、リスペクトにも2種類あるのではと考えております。

ひとつは、隷属関係や主従関係におけるリスペクトです。土下座をするような感じで、粗相のないように、ちゃんととか、しっかりとか、丁寧にとか、慎重にとか、かしこまるようなリスペクトのあり方です。

もうひとつは、親子関係のようなリスペクトです。上記とは全く逆ですよね。親しみと遠慮なくっていう感じを基調としたリスペクトです。上記のリスペクトが絶対とするならば、親子関係のリスペクトは、かけがえがないって言葉が適切だと思います。


ここで申し上げますリスペクトとは、あとの方のリスペクトになります。
 
リスペクトは、すべてを輝かせる光みたいなものではないかと位置づけています。

愛や感謝について考えることって、大人になれば誰でもあるのではないかと思います。しかし、リスペクトが乏しい愛や感謝は、独りよがりにないかねません。

感謝が大事だっていうことでリスペクトなしで感謝されても、されたほうは、何だかなって感じになってしまうでしょうし、逆にリスペクトのある感謝をされたら、どなたでもよかったって思われるのではないでしょうか。

まず挨拶が大事だって言うかたがいますが、確かにそうだとは思いますが、でもやはりきめ手はリスペクトじゃないでしょうか。

リスペクトのある挨拶ができたら、お互いにいい気分になれると思います。

少なくとも私や私の周りではそうです。

他人に対しても仕事や物事に対しても、そして自分自身に対しても、まだまだリスペクトが浅いですが、もっともっとリスペクトを謙虚に深めて行きたいとおもっております。

もっともっといい歌が歌えるようになりたいです。
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2008年10月07日

久しぶりの更新!

皆様、お久しぶりでございます。


ブログ関係からだけでなく、いろいろな方から更新を待ってます、とおっしゃって頂きまして、更新しようと思いましたら、4月から更新をしてなかったことに逆に私自身が驚いております。


言い訳になってしまうかもしれませんが、バタバタしてました。

お陰様で、春頃から比べますと、少し心境も進んだように感じます。


11月で50歳になりますが、ぜんぜんまだまだでございます。仕事が一番遊べてることは、幸せなことだなという毎日を過ごさせていただけて、家族も含めまして私に縁のある方々には、この上ない感謝の念を抱かずには居られません。皆様があっての今の私でございます。本当にありがとうございます。


でも、まだまだなんですよ。全然まだまだなんだなー、これが。もっと幸せになりたいです。もっともっといろいろな方にハッピーパワーを注げるようになりたいです。
ですから、もっともっと謙虚になりたいんです。お金もほしい。^^?


夢や理想を実現しようと頑張っている方に申し上げます。それよりももっと大事なことってあるのではないでしょうか。それなんて申し上げるのは、失礼かと存じますが、それよりもなによりも単純に幸せになる努力を先にしてみませんか。楽になりますよ。


理想を実現するよりも理想に現実を近ずける勉強や努力をすることは、単純に幸せになることであると思いますし、それがナンバーワンではなくオンリーワンの道なのだと私は信じて疑いをもちません。


まず、楽になる努力が肝要かと存じ上げる次第でございます。

その方法については、追々語らせていただければと思います。


本日は、この辺にて失礼いたします。





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2008年04月03日

反省するということについて その3

高層ビルのようにどんどん成長してゆけばゆくほど、

足元が気になります。誰だってそうじゃないでしょうか。

どれだけ足元を磨いて、しっかりさせて、足元を固めたとしても、

結局高層ビルは高層ビルでしかなく、倒れる可能性は絶対に回避できません。

必ず限界はきてしまいます。


「人間には無限の可能性がある」なんていう言い分は、

ただ単に建て前論に過ぎなくなってしまいます。

そう考えますと、何か虚しいような切ない気分になってしまうのが現実であり、

その辺の感性とうまくお付き合いしていくことが自立である。

という通念が一般化しているのが、今の日本の現状でなないでしょうか。



さてそこで、責任ある大人としてふさわしい反省のしかたとは、

一体どうあるべきなのかを模索してみたいと思います。


ビルが高くなって、足元を気にせざるえなくなってしまったとき、

足元をしっかりと固めようとはせず、もういい加減富士の山のように

すそ野を広げようと反省を促すよう心がけるのです。

その反省の仕方というのが、道徳を踏まえた上での反省ということになるのです。


ここまできて、「あっ」と思われる方もいらっしゃるかとも思いますが、

更にお話を続けさせていただきます。


人というのは、足元にこそ欠点や短所があるのです。

常に足元すくわれないようにとか、こけないように心がけている方は、

自分の足元だけでなく、人様の足元にも気が及んでしまうわけです。

そういうような方に限って、意外と人の長所や良い所を見出すように

心がけないといけない、なんて思ってたりするのです。


もうやめよう、足元を気にする人生は!


何となく、格言が出来てしまいました。


自分が変わらないといけないとわかっているけど、それがどうして難しい。

また、自分を好きになりたくても好きになれない。

と思っている方は、反省の仕方を変えればよいのではないでしょうか。


何かあったら足元をどうのということではなく、富士山のようになろう、

すそ野を広げるんだ。とやるんです。まだまだぶれるな、ってことは、

まだまだすそ野が足りないんだな。と言う感じで、足元に意識を及ばせる

のではなくて、すそ野の広がりに意識を及ばせるように反省を促すのです。


そんな感じで反省を促すようにしてゆきますと、

しまいには間違っても間違わない人になってゆけるわけでございます。

また失敗を成功に導ける人になってゆけるのです。


そして、すそ野がどんどん広がっていくといいうことは、

大きな山に成長してゆけるということになると思うのです。

大きな山ほどすそ野は広いのですから。


尚、すそ野を広げてゆくような反省の仕方を実践して覚えてゆくことは、

寛容の心が養われてゆくということでもあると思います。


ですから昔からよく、大きな人間になりたかったら、寛容の心をやしなうべし。

ということが言われますが、こうなってくると実感として合点がいってくるのです。




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2008年04月02日

反省するということについて  その2

さて、まじめな人はどう反省しますでしょうか。

自分の足元を見つめるように、反省をしませんでしょうか。また、人にもそれを求めたりしませんでしょうか。

しかし、「足元」という言葉は、悪い意味合いでしか使いません。「足元を見る」とか、「足元をすくわれる」とか、「揚げ足をとる」などなど。

どうしてか、足元にこそ欠点や短所があるからです。

自分の足元を気にして生きている人は、必ず人の足元が気になるものです。これでは「ひとの良いところや長所を大事にしましょう。」などと言われましても説得力がございませんし、また更に「自分は何て偽善者なんだろう」とかえって自分自身を責めて追い詰めてしまったりしませんでしょうか。

初等教育を除きまして、日本の学校教育だけで人間形成してゆきますと、塔が立つように、高層ビルのような人間性が構築されてゆきます。

大人になり、何の努力もしなくとも、ひとつ歳をとって、また一階とビルが高くなってゆかれることを想像してみて下さい。

もっと高いビルになれば、もっと幸せになれると信じて疑わずに生きてる方も結構いらっしゃるはずです。

しかし、高層ビルのようになれば成るほど、倒れることが致命的になってしまうのです。

失敗を恐れるなと申されても、失敗できなくなってしまいます。

事実、私が学生のころ、失敗や間違いをすることは致命的であり、無難に生きてゆくことが人生だというような哲学をお持ちの先生のほうが多かったように記憶しております。

わたしは、失敗して間違えてそこから学ぶ勇気を持つことが、勉強することであり教養だと思っております。


さてそうすると、どのように人間性を構築していったら立派な人間になれるのか、を考えるに及びたいと思います。


造形的なイメージとして、富士山のような形を想像してみてください。

山は、頂上は狭く、すそ野は広いです。

高層ビルではなく、富士山の山のように人間性を構築すべし、ということです。


このつづきは、また明日。ありがとうございました。








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2008年04月01日

反省するということについて

「反省しなさい」とか「反省します」とか「反省が足りない」とか言ったり、実行したりしたことのない人は、いらっしゃらないのではないかと思います。

そのくらい「反省」という言葉は、一個の人間におかれまして密接なものではないでしょうか。

さて、道徳とモラルという概念を同じ土俵の上で規範化してしまいますと、どのような問題が出てくるか、を考えてみたいと思います。


違うと言うご意見の方もいらっしゃるとは思いますが、ここではあくまで私の意見を述べさせていただこうと思います。

私は、戦後の学校教育は、「真面目が一番の美徳である。」と位置づけてきたように思っております。

見習いや子供、つまり従者や下僕としては、隷属的な立場においては、私自身もそうであることに疑う余地はありません。まったくその通りです。

しかし、いっぱしの大人や経営者や親になった人や先生と称される人、つまり主役の立場にある場合、それでは困るのです。特に、従う立場の者にとっては、全くやりきれなくなってしまいます。

真面目がいけないとは申し上げるのはちょっと横暴だとは思いますが、真面目すぎる人というのは、自分が尊重されることには敏感ですが、相手を尊重することには極めて鈍感だったりしませんでしょうか。

どの道、誰でも長く生きていれば、指導的な立場にたつ事は当たり前のことだと思います。

それに、自らの人生において、その人本人が主役であることは間違いないことだとも思っております。


責任ある大人としては、一体どういう反省の仕方が望ましいのでしょうか。

前置きが長すぎました。すみません。


長くなりましたので、この続きはまた明日にさせてください。







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2008年03月31日

久しぶりの更新!

いやー、ずいぶんとご無沙汰しました。
皆さん、お変わり御座いませんでしょうか。

今日は、ある意味年度末ですね。いろいろと今日まで忙しい方も多いのではないかと思われます。どうぞご自愛ください。


人間性の構築をどのようにしていったら善いのだろうかと考える方は、今の時代多いのではないかと思います。そして、それがどんどん大きな心配や不安になっていらっしゃる方も、私の周りを見回しても少なくはありません。

ひとつ道徳という観点から、「反省」という言葉を私なりに考えさせて頂きます。

一般通念としての「反省する」という意味は、小学生でも知ってらっしゃると思われますので、そこは割愛させて頂きます。

道徳と言いますと、老荘思想つまり老子が原点でございまして、日本では孔子の方が有名かもわかりませんが、孔子自身が老子を師と仰いだとされる説さえあるような偉い方で御座います。

その辺のところは、ここで述べても仕方ありませんので、老子を私なりに踏まえたうえで、「反省」について述べさせていただきます。


字数が多くなってしまいましたので、明日にその中味については述べさせていただきます。

本来、モラルと道徳は全く違うものであるのです。戦後の教育において、モラルと道徳を混同してきたつけというものが、今の時代になって、特に日本人ひとりひとりの心や日本社会に大きくのしかかってきつつあることを、私は危惧しております。

そうは申しましても、心ある人から本質そのものを学び、実践してゆく風潮が出来上がってくれば、この先の日本は安泰であるとも思っております。




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2008年02月04日

慣れるより習え!

前記事では、皆様からいろいろと励ましのコメントを頂きまして、誠にありがとう御座います。この場をお借りしまして厚く感謝申し上げます。

巷ではよく「人生楽しくやればいいんだよ」とか「自分が楽しければそれでいいじゃないか」とか言われたりすることがあります。果たしてそれでよろしいのか、私は疑問に思います。

私の考えを先に申し上げますと、楽しく生きていけるように成りたければ、楽しまれる人になるしかないと思います。居場所や居心地を求めるならば、親しむ努力をするのではなく、親しまれる努力をすべきだと思うのです。

お嫁さんお姑さんの問題で例えさせていただきますと、意外と出来の良いお嫁さんに限って、確執があるのではないでしょうか。「あんなに出来たお嫁さんなのに、どうしてあのお姑さんは意地悪するのだろう。」なんて周りに思われたりします。確かにお姑さんに至らないところもあるでしょうけど、意外なところに盲点があるのです。

お嫁さんは、はやく嫁いだ先の習慣やしきたりに慣れよう馴染もうとされるのではないでしょうか。慣れるということは、溶け込むことではなく、自分のものにしようとすることなのです。そこに盲点があるのです。

お姑さんからしましたら、息子をとられ尚且つ、自分の住んでるこのうちまで取られる気分にさせられてしまうのです。

ですから、慣れよう馴染もうではなくて、自分を嫁いだ先に溶け込まそう馴染ませようとされるべきなのではないかと思うのです。

最近、相撲の朝青龍が問題になってます。朝青龍も高砂親方も何処に問題があるのかをちゃんと認識されれば、問題は一気に解決してゆくだろうと思うのです。

何故なら、朝青龍は日本や相撲にはやく慣れて頑張って来たところに問題があるのだと思われます。やはり高砂親方の指導に一番問題があるはずです。そこに親方本人が全く気がついてないのです。

朝青龍は頑張って横綱になりました。厳密に言えば、横綱になったのではなく、横綱という地位を奪ったことになるのです。その辺のところが日本人のほとんどがお姑さんの気持ちと同じように、かけがえのないものをもっていかれるような気分にさせられてしまったわけです。

親しまれるなければならない立場にたっているにもかかわらず、「よそもんが、一番美味しいとこもっていきやがって」というような面白くない釈然としない気分に日本人の誰もが感じたと思います。

嫁姑問題と朝青龍問題、同じ盲点のうえになりたっているようで仕方ありません。「習うより慣れろ」という教訓がどれだけ質のよろしくないものであるのか。つまり慣れるということは、自分勝手を覚えることでしかないですし、慣れるということには明日を摘み取る結果しかえられないとおもいます。

楽しみたければ、楽しまれる人に。親しみたければ、親しまれる人に。打ち解けたければ、馴染むよりも馴染ませられる人になる努力が肝要だと思っております。

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2008年01月15日

謙虚について

謙虚という言葉は、とても好きです。年齢を重ねてきまして、やっとわかりました。謙虚であればあるほど、社会はやさしく微笑んでくださいます。社会的に成功を成し遂げたければ、謙虚という言葉が決め手となると申し上げても過言ではないとおもいます。

ただどれだけ謙虚にふるまえるからといって、それが建て前であるならば全く意味も価値もないと思います。何故なら、謙虚というのは、本音の部分が問題だからです。形ばかりの謙虚な態度をみせられることは、むしろ嫌味に思いますし、とてもずるく感じる方が多いのではないかと思います。そこら辺が謙虚になることの難しいところではないでしょうか。

人間性の質のよろしい方に謙虚な方が多いと思います。また、人生の苦労をたくさん乗り越えて前向きに生きている方にも謙虚な方が多いと思います。どんな苦労をしても卑屈にならないということは、質を大事に護れるからにほかならないと考えますとやはり謙虚になるということは、人間性の質を育むとかして大事にすることなのではないでしょうか。

いくら謙虚な態度や振る舞いが出来る努力をしましても、絶対に謙虚にはなれないですし、それで良いと思っている方で本当に謙虚な方と出会ったことは一度もありません。勿論、世間の狭い私の場合ですけど。

何はともあれ、親しまれる人間性の持ち合わせている方は、尊敬いたしますし、私自身もそうなれるよう、謙虚に自分自身の質というものを反省できる日々を送って行きたいです。





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2008年01月09日

不思議だなと感じる縁

原宿でうたのレッスンをさせて頂いてた時の話です。前回の記事でお話した皇后様に大変よく似てらっしゃる方(公的なお立場のある方なので、仮にMさんと呼ばせていただきます。)のレッスンをさせて頂いていた時の話です。

「口角を上げるようになさいますと、明るい雰囲気で歌えますので、心がけてください。人と接せられる時でも、相手に好印象を与えますから試みてください。」とアドバイスをさせて頂きました。今でこそ、そういうことも周知のこととなりましたが、17年も前では未だあまり知られてませんでした。

それからしばらく経ってからテレビを観てまして、「あっ」っと、びっくりしました。画面に紀宮様が映られてたのですが、意識的に口角をずっと上げておられたのです。さらに「へっ」って思ったくらいです。あっけにとられるとはそういう時の事を言うのだなとあとで思いましたけど。

Mさんが、紀宮様にお花をご教授されていることをその時存じてましたもので。全くの偶然だったのかもわかりません。その当時Mさんにそんな下衆なことをお聞きすることはできませんでしたので何とも申せませんが、私の中ではずっと今でもきっかけは私ではないかと思っている次第です。何か、自慢話しているみたいで、ちょっと恥ずかしいです。

紀宮様は偉い方だなと、私が思っているのは、勿論テレビ画面でしかご尊顔を拝見したことはございませんが、いついかなる時でもその事を徹底して心がけ続けてこられたことです。最近、黒田さんと言う方とご結婚なさいましたが、そのお顔つきも年季が入られて、本物になられたなと感じております。

人間、善いにつけ悪いに付け、何処でどういう風に人様に影響を与えたり与えられたりしているのかわかりません。ですからやはり人間性の質の向上を、昨日よりも今日、今日よりも明日、と心がけないといけないのではないかと日々思うのです。

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2008年01月07日

珠玉の出会い

今の仕事を始めたころオファーがありまして、原宿で約半年間うたを教えてたことがあります。31歳の頃でした。

生徒の数は10人前後だったと思います。その中に「あれっ」て思った方がお一人だけいらっしゃいました。その方は、美智子皇后陛下にそっくりと言ってもよいぐらに、似ていらっしゃいました。まさかなと思いながらレッスンをさせていただきました。

その日レッスンが終了して、この会を主催して頂いた方にお聞きしましたら、皇后様ととてもお親しく、紀宮様にもお花をご教授されている方だとわかりました。

私はこの方と出会いまして、大きく人生観を左右するくらいの大きな出会いだったと、今でも感謝の念を抱いております。

どういう事かと申し上げますと、30歳を越えた頃の私は、普通の人以上の経験と出会いをしてきて、結構世の中のことがわかっている大人だ、ぐらいに自負しておりました。今から思いますと、とても青かったなとおもいますし、お恥ずかしい限りでございます。

そんな調子でしたから、上流階級だか何だか判らないけど一皮剥いたら皆一緒だろう、ぐらいに思ってたんです。だけど、その方は全く違いました。嘘みたいだけど、こんな人っているんだ、世の中って広いんだな。っておもっておりました。

どんな方かと申しますと、本音も建て前も全くなく、飾り気もまったくありませんでした。地そのものに品格を備えた方だったのです。世の中は本当に広いです。一緒に居させていただくだけで、春風に華香るようなとても良い気分になりました。いつお会いしてもです。ずっと一緒に居たいと感じさせてくださるのです。

真の貴族っているんだな、自分もこんな人になりたいなと心に誓い、今日まで来たのですが、一向に近づいた感じはしませんけど、しかし、珠玉の出会いってあるもんですね。人生捨てたものじゃないなと今でも思っております。貴族まではいかなくても、この人と出会えて本当によかったなと思っていただけるような人には、少なくともなりたいと日々研鑽はしております。まだまだですけどね。







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2007年12月30日

オンリーワンとナンバーワン

オンリーワンという言葉が、スマップの「世界でひとつだけの花」が大ヒットして以来、急速にコンセンサスをもってきました。

やはり質という基準でこの言葉を考えてみたいと思います。質のよろしくない人ほどなんだかんだ言ったところで、ナンバーワンがお好きなのではないでしょうか。
質のよろしい人は、結局それなりのテイストを持っていますので、格付けをするよりも味の違いを認めるような判断をなさるのではないでしょうか。

コーヒー豆で例えますと、キリマンジェロとブラジルとモカがあるとします。質のよろしくない人は、すぐに格付けしてどれが一番かときめたがるのではないでしょうか。

又逆に、上質な人間性のお持ちの方は、どれが一番かという判断をすることよりも、そのテイストの違いを判断されるのではないかと思うのです。

どちらのほうがインテリジェンスを感じるかと申しますと、私は後者の判断のほうが教養を感じます。

オンリーワンというのは、質に裏づけされたテイストの違いであって、人と人の格付けや差別を促すような基準ではないと思うわけです。

どっちが上か下かなんて判断は、これからの時代、意味と価値がほんとうにあるんでしょうか。

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2007年12月26日

一生懸命になるという事について

一生懸命になるということはどういうことか考えてみたいと思います。
人はよく頑張って一生懸命何かをしましょう。とか言ったりいたしませんでしょうか。頑張ること、イコール一生懸命になること。というのが常識になっていませんでしょうか。確かに昔から学校教育でそのように教わってきた覚えがあります。しかし私は、その教えは如何なものかと考えております。


その辺のことをやはり質という基準で捉えて頂きたいと思います。
人間性の質感のよろしくない人ほど、頑張らないと一生懸命になれないと思い込んでいらっしゃるのではないかと思います。一生懸命になる努力を頑張ってするのが当たり前だと思っていらっしゃるのではないでしょうか。


又逆に上質な質感を持っている様な人は、頑張らなくても当たり前に一生懸命だったりします。一生懸命が普通なのです。普通にしてて、人様から「あの人は、何をやるにも一生懸命だ」とか「どんな人でもどんなことでも馬鹿にしないで取り組める人だ」とか言われたりします。当の本人は、そのくせ頑張ってませんから、褒められて当然だなんて思ったりしないのではないかと思います。


ですから、頑張ればいいってもんじゃないと思うのです。むしろ頑張り屋さんほど質がよろしくないわけですから、頑張る努力はむしろいたずらに質を落とす結果になってしまうのだと私は考えているわけです。


一生懸命にとか真剣に生きられるようになるには、頑張る努力ではなくて、人間性の質感をよくする努力こそが肝要だと思います。



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2007年12月23日

「適当」と「いい加減」という言葉

「適当」という言葉と「いい加減」という言葉があります。この言葉そのものを質という基準で説明してみたいと思います。


最近の一般通念ではこの二つの言葉を、どうしようもないとか信用がおけないとかそういった意味だけに使われる傾向にあると感じております。この場合の意味は、質がよろしくない時に使われる意味と捕らえて考えてみます。


また、上質な意味としてこれらの言葉が使われる時というのはどういう時かを考えてみますと、「適当」は、それが一番ふさわしいという時に使われるはずです。そして
「いい加減」という言葉は、良い塩梅の時に良い加減として使われるはずです。


そうやって考えて見ますと、質という基準でものを考える時に使用する言葉としては、この二つの言葉は、なかなか適当ではないかと私は感じております。

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2007年12月20日

書くということについて

最近すこしだけ美味しい文章が書けるようになったと自負しております。かつては、文法的にとか、起承転結だとか、何だか上手な文章が書けるようになることにこだわってたように思います。


上手下手という秤ではなく、美味いかまずいかという秤に換えてみましたら、書くことが少し面白くなってきました。このブログ自体、まめに更新してますし。


相田みつをさんが、「人間だもの」と言ってのけるからこそみなが共感したのではないでしょうか。人間だものという言葉を私みたいな普通の人間が使用したからと言って、誰も何も思わないのではないでしょうか。普通の言葉を使って人を感動させたり感銘を受けさせることというのは、上手下手ではないと私は思っております。


結局、やはりその人の人間性の質が、美味いかまずいかという明暗をわけるのではないかと思うのです。


ですから私は、下手だけど美味しい文章が書けるようになりたいですし、歌もそういう歌がうたえるようにもっとなりたいと思います。



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2007年12月19日

賢さについて

賢さとは一体どういうものなのでしょうか。利発なことでしょうか。はたまた、利口に生きることが賢い生き方だと言えるものなのでしょうか。


賢さにも私は質があるのではないかと考えます。質のよろしくない人は、意外と利口になることや利口な人に憧れたり執心しませんでしょうか。このような方は、「わかってるけどできない」というようなことをよく口にされませんでしょうか。できるけどわからない、と言っておいた方が、後で恥をかいたりしませんし無難なはずなのに。


又逆に、上質の人間性をもっているような方は、滅多に利口さをひけらかしたりしないはずです。「能ある鷹はつめ隠す」とはよく言ったものだと思います。


質の良い賢さを持ち合わせているような人は、まず難しいことは言わないと思います。むしろ、己の馬鹿さ加減を表現できるようにしませんでしょうか。そこに誰もが教養を感じたりするのではないでしょうか。つまりただの馬鹿さ加減ではなく、そこにはエスプリもユーモアもペイソスがあったりするのではないでしょうか。教養というのはやはり知識やスキルの量できまるのではなく、人間性の質できまってくるように思います。


賢い人ほど馬鹿になれる。賢い人ほど馬鹿で十分通用するだけの親しみと味わいを持っているのではないかと、私は思っております。



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2007年12月18日

頭が良くなるということ

頭の良さにも質というものがあるのではないかと私は考えます。頭が良いと言いますと普通、暗記力があって博識だとか、分析する能力があるとか、一般的な意味合いで学力に優れているとか、頭の回転がハヤイなど、例えがあまりよくないかもわかりませんが、そういった意味で使われているように思います。


例え知識が豊富であっても、仕事や人生に応用が利かないのでは、無駄なだけではないでしょうか。学力も同様に思います。


パソコンにデータをインプットするような頭では、どれだけ優れていてもクリエイティブな思考はできる様にはならないのではないかと思います。パソコンみたいな頭は良いのかもわかりませんが、質で考えて見ますとよろしくないのではないでしょうか。


同じ人生などこの世に二つとないとするならば、独創的な思考ができなくて、オンリーワンの人生を全うできるとは到底考えられません。


学んだ知識を活かせる頭を上質の頭脳だと意味づけすることは、自然なことではないのかと私は考えます。


学力を付けて何かができるようになることが勉強の本質ではなく、学ぶことを通して人間性の質を向上してゆくことこそが、勉強の本質であり、賢くなることではないでしょうか。




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2007年12月17日

素直が一番

質のよろしくない人というのは、意外と独りよがりの人が多く、独善的だと思います。独善的ですから、自負と申しますか変にプライドが高く気難しいような人が多いのではないかと思います。


それに比べて、上質な人間性を持ち合わせている人と言うのは、独尊的で自尊のプライドを持っていて、気さくな人が多いように思います。


プライドの質がよろしくない人ほど真面目にこだわる人が多く、上質なプライドを持ち合わせている人ほど、素直な人間性を持ち合わせている人が多いと感じております。


真面目な人って、融通が利かなくて、気難しい人が多いじゃないですか。もちろん、真面目が悪いとは一言も申し上げてるつもりはないです。付き合いにくい人が多いとは申し上げたいです。いくら社交的でも付き合いにくい人は、あまり好きではありません。あくまでも私の場合の話です。


しかし、あまり真面目にこだわりすぎると、人間性の質を確実に落としますから、真面目もほどほどでないといけないと思います。


やっぱ、素直が一番じゃないっすかねー。




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2007年12月16日

道徳はモラルではない

道徳とモラルの違いについて、考えてみたいと思います。

近年、テレビゲームでも手伝ってかモラルハザードという言葉が、かなりコンセンサスをもってきました。また、道徳という言葉は形骸化してしまって、教育に携わる方達でさえ、道徳という言葉のルーツさえ全く知らないと言う方も少なくないのではないでしょうか。

ですから、道徳という言葉に代わってモラルという言葉が一般化してきてしまい、道徳=モラルと捉えることが常識化してきています。これは全く由々しき問題だと私は思っております。

どうしてかと言いますと、道徳とモラルは全く違うものであるからです。その辺についてはまたあらためて述べたいと思います。

私の捉え方を述べさせていただきます。

人としての質、つまり上質な人間性を持ち合わせている人のことを、徳のある人とか人徳のある人とか呼称されるのではないかと思います。また、徳を積むという言い方を一度くらいは使われたことのある方も少なくはないと思います。徳を積むということは、逆な言い方をすれば、人としての質を善くすることは言えないでしょうか。

道徳心を養うとは、つまり人としての質を善くするということに尽きると申し上げてもやぶさかではないと思います。

質のよろしくない人が、何か間違いをおかしたとします。それはとてもまずいことですから、間違いをおかすまいと反省をするのではないでしょうか。そこからモラルやマナーやルールが必要になって出てくるのではないでしょうか。勿論、間違いをおかして良いと言いたい訳ではありません。

反対に、とても上質な人間性、人徳のある人つまり徳の高い人が、何か間違いをおかしたとします。しかし、質が良いということは、まずくないということでもありますので、意外と人様や社会に迷惑がかからなかったりします。しかし反省はあると思います。間違いは間違いで真摯に反省はされると思います。ここまでは一緒なのですが、その後が違うのです。その次更に、人としての質はまだまだだな、さらにもっと上質を目指そうと謙虚に質を反省するはずです。こういう人は、徳の上に徳を重ねる努力ができるわけです。

私自身、後者のようなひとになりたいと常々思っております。また、反省と言う言葉自体、道徳から由来する言葉であることもここで述べさせていただきます。

道徳心を養えばやしなうほど、モラルやマナーを必要としない人間になれるということです。又逆に、人としての質がまずければまずい人ほど、モラルやマナーを強いられ縛られると言うことになります。

ですから今は、モラルハザードな時代ではなく、本当道徳心の低下劣化の時代だ、と言い替えたほうが善いのではないかと私は思います。

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2007年12月15日

ため息は命をけずる鉋かな

質のよろしくない人であればあるほど、平気でため息をついてたりします。良質・上質な人間性を持ち合わせているような方は、滅多にため息などつきません。


昔から、ため息は命を削るカンナかな、と川柳として人々に語り継がれてきたくらいに、してはまずい事だと私は思っております。


ため息をつけばつくほど、人としての質を損なうからです。すこしずつまわたで首を絞めていくような、自殺行為に等しいと感じますし思います。質を落としていくということは、肉体的にも精神的にも運命的にも難しくしてゆくといいますか、どんどんまずくしていってしまうということです。


運命的にとはどういうことか少し説明しますと、勤勉で約束もちゃんと守るし、人に対してもちゃんと気配りのできる人がいたとします。誰からもできた人だと思われているくらいの人です。しかし、苦労ばかり背負い込んで、一難去ってまた一難、といのが当たり前のような生き方をしている。こんな人は、何処にでも居るくらい結構いらっしゃるのではないでしょうか。このような人に共通していえるのは、必ず当たり前のようにため息をついている、ということです。


ため息をつくのが当たり前になって、運命を難しい方に知らず知らずのうちに導いてしまい、しなくてもよいような苦労まで、その気がなくても背負い込んでしまうのです。つまりこのような人は、運命が病んでしまっている、と言えるのではないでしょうか。


私は、こういうような人が一番困った人だと思っております。何故なら、常識的に考えて否がないからです。


兎に角も、ため息をつけば必ず、人としての質を悪くします。質が悪くなりますと、どれだけ恵まれた環境を手に入れてたとしても、必ず不幸を覚えるからです。ですから良質な呼吸を覚えなくても、最低限ため息をつかない努力は誰しもができるはずですから、したほうがよいと思っております。


私ももっと上質な呼吸ができるように、一日一日を過ごしてゆきたいです。





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2007年12月14日

愛について

愛という言葉がありますが、よく使われる言葉ではありますが、意外と使われるその意味は、千差万別で結局抽象的といいますか、はっきりとした概念はないのではないでしょうか。


私は、やはり愛にも質があると考えています。質のよろしくない愛を執着と言い、良質なあいであればあるほど、見返りを期待しない無償の愛というような基準で考えています。


質のよろしくない人は、淋しがり屋の方が多いですから、やはり愛するより愛されたいと思うのではないでしょうか。愛される努力を惜しまないのではないでしょうか。しかし、そこに意外と落とし穴があって、愛されるために努力するわけですから、期待に添えませんと、ガッカリしたり、落ち込んだり、恨んだりしてしまったりします。そういうのは、如何なものかと私は思います。


また逆に、良質の人間性を持った方であればあるほど、愛される期待など持たないで愛する努力をされるのではないでしょうか。そこには、さっぱりとした潔さがあるのではないかと思います。


愛されることを期待するより、みかえりを求めない無償の愛行をできるようになりたいのなら、愛する努力をするよりも己自身の質を向上させる努力をなさるべきだと思うのです。


つまり、己自身の質を向上させることは、自分を愛することなのです。
自分を愛せない人が、何で自分以外のものを愛せると言うのでしょうか。


私自身、まだまだ発展途上でございます。質の向上が無限であるのなら、良質な愛も無限ではないかと思います。日々研鑽にて候、というところでございます。






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2007年12月13日

孤独にも質がある

孤独にも質というものがあると私は思います。


質のよろしくない人が感じる孤独とは、孤立感ではないでしょうか。淋しさとの追いかけっこをしている毎日を送っている人も多いと思います。私も昔は、相当な淋しがり屋でした。今から考えますと、社交的ではありましたが、病的なくらいの淋しがりや立ったと思います。


また、質の良い人の孤独という意識は、この世に唯一人、オンリーワンという自尊心でなりたっているのではないでしょうか。むかし、お釈迦様が「天上天下唯我独尊」と言われたとされる、それもこの世に唯一人という自尊心からきているのではないかと察するのです。


孤独であることは、淋しくもなければ、誰に侵されるわけでもない様なすっきりとさっぱりとした気分に裏づけされているのが、本来なる意味ではないかと私は思っています。


人というのは、相手に尊重されればされるほど、孤独の質感というものが良くなってゆくものです。尊重されたければ、先に尊重するのがコツとも言えると思います。


ですから、プライドの質と孤独の質というのは、本来同じものなのではないかとも常々思っております。



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2007年12月12日

我慢することと逃げないということについて

我慢することと逃げないということについて述べたいと思います。


忍耐という言葉がありますが、我慢するという意味が一般通念化してますので、どちらかというとあまり好きな言葉ではありません。忍耐というこの言葉にも質というものがあって本来使い分けるべきではないかと、常々思っております。


質のよろしくない人がする忍耐を我慢、質の良い人のする忍耐を逃げない、という風に私は使い分けております。


まず、我慢というのは苦痛がともないます。しかし、逃げないということは苦痛をともないません。辛さはあっても苦痛に感じません。


いじめが学校だけではなくて、いろいろなところで問題になってます。いじめられる人というのは、意外と我慢強いのではないでしょうか。でも気持ちがいじめ現状から逃げているはずです。


雨は待っていれば、通り過ぎます。しかし、いじめは続くのです。我慢に我慢を重ねるだけでは、人としての品格も含め質を落としてゆくだけだということに早く気がついてほしいとは思うのですが、なかなかそう簡単にいかないのも事実だと思います。


質の良い人なら、きっといじめから逃げないで、真っ向から立ち向かうことでしょう。例え、絶対に勝てない相手だとわかっていてもきっと立ち向かうことでしょう。そういう相手には、自分の方が腕力があるとわかっていても、真剣なその勇気に敬意を持つものだと思うのです。次からはきっとへたなことはしなくなるのではないでしょうか。逃げないということは、勇気と言ってもよいのかもしれません。


私は死んでも逃げない。負けない。


我慢をするところに哲学はありません。逃げないというところにこそ、哲学も美学もあるのではないかと思います。


忍耐は美徳なり、なんて嘘っぱちです。我慢すればいいわけではないとおもいます。


cilf2002 at 18:01|PermalinkComments(1)TrackBack(0)clip!

2007年12月11日

お手本になるには

お手本になることと、お手本通りにできるようになることでは、全く違うのではないかと思います。


どれだけお手本通りに出来るようになっても、お手本になることが出来ないことは、大概の人は経験しているのではないかと思います。


しかし、今までの学校教育の現状はどうかと言いますと、お手本通りに出来れば、お手本になれるはずだ、ということを基本にしてきたのではないでしょうか。


社会や社会システムの歯車になるために心血を注いできたのではないか、と言ってしまうと言いすぎなのかもわかりません。


私もあまり大きなことは言えませんが、子供のお手本になっている大人というのは、あまりにも少なすぎませんでしょうか。大人の世界は、本音と建て前を使い分け、つじつまあわせと言い訳と自己弁護を上手にできればそれで良いのでしょうか。甚だ、疑問は尽きません。


料理でたとえますと、やはり上質の素材の旨味を活かすようなスキルを手に入れないとお手本にはなれないと思います。質のよろしくない素材のまずさを殺すような料理ばかり上達しても、お手本通りにはできるようになってもお手本には絶対になれないと思います。


そうするとやはり、お手本になるには、料理ができる様になることよりも、その人の質感を良くすることに尽きるのではないかと、私はおもいます。






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2007年12月10日

敬語をつかうことについて

人としての質のよろしくない人と質の良い人にこだわってます。
今日は敬語を使うことについて語ります。


質のあまりよろしくない人が、敬語を使うとどうでしょうか。私の経験からすると、とても嫌味で可愛くないなと感じることが多いです。こういう人は、本人も気づいてないんでしょうが、上からものを言うような言い方してたりします。それで、敬語を使われるんですから、やっぱり可愛くないです。質のいい人だとそれが憎めないんですけどね。


質の良い人が敬語を使うと、謙虚な人だとか、腰が低い人だとか思われたりしますし、フランクな言葉遣いをしても相手が尊重されてると感じることが多いのではないかと思います。


ですから中学校を卒業する頃にはどんなひとも、ほどほど敬語の遣い方くらいは出来るわけですから、敬語の遣い方を磨くのではなく、やはり人としての質を向上させる努力をすべきだと思います。


ちなみに、質のよろしくない人と言うのは、どうしてお辞儀は出来ても、人に頭を下げることが出来ないのだろうかと最近感じることが多いです。


私も駄目人間筆頭みたいなものですから、日々研鑽を怠らないように心がけて行きたいです。




cilf2002 at 17:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2007年12月09日

本質は出来るようになることだろうか

人間の質感というのは、上手か下手かという物差しでははかれません。うまいかまずいかという物差しにつきると思います。


料理で例えてみますと、上手か下手かというのは料理の腕前の問題で、うまいかまずいかというのは、素材そのものの質の問題ということと位置づけております。


百グラム百円というあまり質のよろしくない肉があるとします。それを料理するとするなら、牛の臭みを如何に殺すかという料理になるとおもいます。そんな肉でどれだけ料理の腕を磨いても、百グラム一万円もするような上質な肉を上手に料理できるでしょうか。私ははなはだ疑問に思います。


なぜなら、上質な牛肉を料理する場合、牛の旨味を如何に活かすかというスキルが要求されるからです。


ですから、料理の腕を上げるには、料理の数をやたらこなせばよいというのではなく、少しずつ質の良い素材を使ってゆくことが大事だと思います。


まずいから上手に何かをできるようになることは、如何なものでしょうか。何事も出来るようになったからといって、豊かになった、実を得たなどとは決して言えないと思います。




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2007年12月08日

気配りが出来る人になりたかったら

気配りをすることにも、その人の人間性の質感で違いが出てくるのではないかと思います。


どういうことかと言いますと、いくら人のために思いやりや気配りを尽くしても、人間性の質感がよろしくないと、全ておせっかいとしてしか伝わりません。結局うざったく思われたり、感謝などちっともされなかったりします。


また逆に質の良い人間性の持ち合わせている人は、ちょっとの気配りで、予想以上に感謝されたり、「あんなに気の利いた人はいない」と思われたりします。


さらにもっと良質の人間性を持ち合わせている人は、普通にしているだけで感謝され、ありがたい人だと思われたりします。


ですから気配りが出来る人になろうとすることは、実にナンセンスなことで、無駄な努力なだけです。もし気配りが出来る人になりたいのなら、人間性の質感をよくするしか道はないのだと思います。


私自身も、もっともっとおいしい人になりたいと思います。



cilf2002 at 22:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2007年12月07日

神経質ということについて

神経質という言葉があります。一般通念としての意味は誰でも知っているのではないかと思います。

私は神経質というのは、神経の質がよろしくない人のことをいうのだと考えております。

さらにもっと神経の質がよろしくなくなると、潔癖症と言われて、もう病気の範疇に入ってしまいます。洗浄恐怖症の人と会ったとき思ったのですが、手がもう洗いすぎで皮がめくれるほどボロボロになり、本人もこれじゃいけないとわかっていても、手を洗わないといられないみたいで、本当に気の毒でした。

又逆に、神経の質の良い人ほど、人に気持ちよく気配りが出来て、普通だったら不潔と感じてしまうようなことに出くわしても、気に障らず平気でいられるみたいです。

私の場合、昔から比べれば良くなったとは思いますが、もっともっと気さくな人になりたいと思っています。

cilf2002 at 17:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2007年12月06日

量より質の時代

人は、何のために勉強するのでしょうか。様々な考え方や意見があるのではないかと思います。

私は、人としての質を向上させてゆくことこそが、その本質だと考えます。

人としての質とは何かと言いますと、人格や人柄、つまりその人そのものの人間性の質と言うことです。

ひとつ例えをあげてみますと、人気のある人とない人の違いです。真面目で約束は守るし、人にも思いやりがあり、礼儀もちゃんとしていて、とてもいい人だと誰からもおもわれてる人がいるとします。しかし、何か辛気臭かったり、一緒に居てもちっともおもしろくなかったり、ため息ばかりついてるような人だったらどうでしょうか。
たぶん誰も近寄りたいとは思わないのではないでしょうか。

又逆に、時間はルーズだし、約束してもいいかげんだし、ちゃらちゃら生きてるような人がいたとします。しかし、この人は、天真爛漫でいつも明るくニコニコしていて、一緒に居て気分がいい人だったりするとします。不思議とこういう人には人が寄ってくるのです。

つまり前者はいい人であっても、人としての質がよろしくないひとで、後者は質が良い人ということになります。

私は、後者のような人になりたいと常日頃思っています。



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2007年12月05日

12月を迎えて

最近のテレビを観ていますと、年金問題や政治や行政の汚職問題、民間に至っては、船場キッチョウや赤福の日付捏造問題など、もううんざりするようなことが次々とボロボロでてきます。

日本も来るところまで来ちゃってるな、と感じることが多いです。

経済もよくなったと言われる割には、景気はかえって冷えてるように感じます。こんな風に感じているのは私だけなのでしょうか。

来年はもっといろいろ出てくるだろうと容易に予想できます。何処へ行くのか日本よ。

十二月に入るとあれよあれよと月日が経ち、年賀状を出さなきゃ出さなきゃと思ってるうちに年の瀬を向かえ、出したと思ったら大掃除に追われ、気がつくと大晦日になってたりするのが、私の場合の慣わしです。

若いころと違って、クリスマスもあまり興味がないですし、おやじになったと言われれば、そうですと抵抗なく納得できちゃう年頃になりました。

とりとめもなく語ってしまいましたが、日々是吉日、を肝に銘じ生きていたいと思います。

cilf2002 at 17:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2007年12月04日

あれから30年!

牛丼の吉野家で昔アルバイトしてました。そのころは、松田瑞穂という方が社長でした。現社長の阿部さんは、そのころスーパーバイザーをされてました。リーダーシップのとれる方で、とても人間的な魅力を20歳ぐらいの私は感じておりました。

最近よく阿部さんがテレビに出演される機会につけ、懐かしいな、とそのころのことが思い出されてなりません。

そういえば、一緒にバイトをしていた先輩が数年前、ニュースステイションに、なんでだか忘れましたが、出たのを偶然観てビックリしたこともあります。吉野家で結構お偉いさんになっていらっしゃいました。

あれから約30年の月日が経ち、誰もがそれぞれの人生を生きています。それなりに皆さん頑張ってるんだろうなと思いますし、私自身も50歳を前にして、もっと明るく元気に精一杯に生きていきたいと願う毎日を贈らせていただいております。

まだまだ道の途中ではございますが、いろいろな方からご指導とご鞭撻をいただけることは、誠に幸せなことだと思っております。

cilf2002 at 16:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!
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