シネマニア日記

無類の映画好きが独自の観点でレビューするシネマニアの日記

無類の映画好きが独自の観点でレビューするシネマニアの日記

◇山田洋次監督

◆倍賞千恵子、井川比佐志、笠智衆、前田吟、花澤徳衛、渥美清、春川ますみ、塚本信夫、森川信、太宰久雄、ハナ肇とクレイジーキャッツ、木下剛志、富山真沙子

 

 1970年は「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた日本万国博覧会(通称・大阪万博EXPO’70)が開催され、日本が高度経済成長軌道に乗る直接的な誘因になった年だが、その陰では従来型の産業(たとえば炭鉱業など)が廃れ、職を失って右往左往する人々を生み出していた時代でもあった。

時代の変わり目には、時代に取り残されていく人々が常に存在するということだろう。

「家族]1『家族』は、この年に職を失った一家が長崎県の離島から仕事を求めて北海道まで行く道程を描いたロード・ムーヴィーである。

長崎県の伊王島で暮らしていた風見精一(井川比佐志)は、勤めていた会社の倒産で失職し、先に北海道標津地方で酪農家として入植していた友人の勧めで同じ所へ開拓民として移り住もうと決意する。

最初は家族を置いて単身で行くつもりだったが、入植を渋っていた妻民子(倍賞千恵子)が「私も一緒に行く」と言い出し、結局、幼い息子とまだ乳児の長女も連れて同時に入植することになった。

同居している精一の父源蔵(笠智衆)は福山市で会社員をしている次男(前田吟)のところへ同居することにし、一家5人は1970年4月6日、島を離れて長旅に出た。

高度経済成長は軌道に乗っていたが、貧しい一家が航空便で一気に北の果てまで飛べるような時代ではまだなかった。大阪万博に合わせて開業した東海道新幹線を除く区間を一家は国鉄在来線に乗り継ぎながら4日がかりで標津にたどり着く。

「家族」2途中、旅の無理がたたって長女が東京で急死し、一家が信仰するカソリックの葬式をするエピソード以外、全般を通して劇的な起伏はなく、ドキュメンタリーのような手法で家族の行動が描かれている。 

福山では相談もなく突然父親を押し付けられようとして次男が強く不満を洩らす。源蔵は精一一家に付いて行く決断をする。家族の絆といっても、結局は自分の生活が第一なのだ。このあたり、山田洋次監督の眼は冷徹である。

大阪では新幹線への乗り継ぎまでの時間を利用して家族全員で大阪万博会場のゲートまで行き、大混雑風景だけを見て戻る。会場内風景を見せないのは、観光映画ではなく、万博を社会発展の象徴として望見するという姿勢の表れだろう。

山田洋次は5年間も構想を温めていたということで、自身でオリジナル脚本を書いている。映画にかける山田洋次の情熱や才能が十分に見て取れる作品だが、渥美清を使ったくすぐり的なシーンなどに山田洋次の軽喜劇嗜好も感じられる。

6月になって精一一家が開拓生活に明るい希望を見出すラストシーンは救いではあるけれども、現実的な結末かどうかは少々疑問が残る。

☆☆☆

◇パオロ・ベンヴェヌーティ監督

◆タニア・スクイッラーリオ、リッカルド・ジョシュア・モレッティ、ジョヴァンナ・ダッディ、デボラ・マッティエロ、フェデリカ・ケッツィ

 

220px-GiacomoPuccini「トスカ」「蝶々夫人」「ラ・ボエーム」などの作品で知られるオペラ作曲家のジャコモ・プッチーニ(1858-1924年/写真=右)は、イタリア・トスカーナ州のルッカで18世紀から連綿と続く宗教音楽家の家系に生まれ、少年時代に教会付オルガン奏者として出発したが、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ「アイーダ」に接してオペラ作曲家を目指した。

1891年にトスカーナ州のトッレ・デル・ラーゴの湖畔に別荘を購入、終生の自宅兼仕事場とし、第三作「マノン・レスコー」(1893)以降名声に包まれて作曲活動を続けたが、「蝶々夫人」(1904)以降はご難続きとなった。

その一つがドーリア・マンフレディ事件である。

1909年1月、50歳のプッチーニが「西部の娘」の作曲に没頭していた最中にメイドのドーリア・マンフレディが服毒自殺した。プッチーニの妻エルヴィーラが夫との姦通を疑い厳しく責め立てたのが原因だった。

ドーリアの遺言で遺体が解剖され、純潔だったことが証明されて疑いは晴れた。エルヴィーラはドーリアの遺族から告訴され、プッチーニもスキャンダルに悩まされた。

エルヴィーラは若い頃に年下のプッチーニと不倫で結ばれて結婚したので、歳をとってからは自分が見捨てられるのではないかという不安のため絶えず夫の女性関係を疑っていたという話もある。事実、プッチーニには多くの女性関係があったとされている。

『プッチーニの愛人』(2008年、イタリア製作)は、ドーリア・マンフレディ事件の顛末を描いた映画である。但し、ドーリアの自殺を間接的に描いたところで終わっている。

「プッチーニの愛人」1パオロ・ベンヴェヌーティはイタリア映画界で孤高の監督だということだが、この作品ではかなり特異な手法を用いている。音声は収録されているのだが、通常の台詞を全て省き、手紙を読み上げる声などごく僅かな情報で物語を運んでいるのだ。

物語の時代に合わせてサイレント映画を髣髴させていると見ることも可能だが、なぜこのような手法を選んだのか理解できない。映画自体が極端なまでに寡黙だから、ドーリア・マンフレディ事件をよく知っている物識りはどうだか知らないが、普通の観客には状況がのみ込みにくいし、興趣も感じられない。

字幕の形で状況を補足説明してあるけれども、それより俳優に普通の台詞で語らせた方が俳優の演技を評価したり楽しんだりするうえでも効果的だろうと思う。

映画公開当時、「キネマ旬報」の評論家の短評欄に過褒と思われる理屈っぽい評が載っていた。通俗的でない難解な映画を高く評価しなければ専門家の沽券にかかわるとでも考えているのだろうか。だとすれば軽薄のそしりを免れない。

☆☆

◇小津安二郎監督

◆笠智衆、岩下志麻、佐田啓二、岡田茉莉子、三上真一郎、吉田輝雄、中村伸郎、東野英治郎、杉村春子、牧紀子、北竜二、加東大介、岸田今日子,環三千世

 

『秋刀魚の味』(1962)は、小津安二郎の遺作である。

小津は次回作「大根と人参」の準備に取りかかった翌年3月、東京・築地の癌センターに入院、満60歳の誕生日1212日に亡くなった。晩年の小津は数々の賞に輝き、名実ともに巨匠となっていたが、「映画は時代を映す鏡である」と言われる通り時代と共に評価も変わらざるを得ない。いや、観客側の立場に立てば、過去の映画評論や映画史にとらわれずに評価を変えて当然である。

「秋刀魚の味」1小津晩年の作品群の中には、今観れば平板で退屈なだけにしか感じられない凡作が少なからずある。この『秋刀魚の味』もそうである。現在でも映画評論家たちが小津作品全てをアンタッチャブルな名作扱いするのは理解し難い。

『秋刀魚の味』は、小津が戦後間もなく撮った『晩春』と殆ど同じ題材を扱っている。リメイクではないかも知れないが、やもめの父親が妻代わりに便利使いしていた娘をその幸せを願って嫁にやり、改めて孤独感をかみしめるというメイン・ストーリーのテーマが全く同じなのである。

『秋刀魚の味』の主人公・平山周吉(笠智衆)は戦前に旧制中学を卒業、大学を出たのかどうかは判らないが戦時中は海軍で駆逐艦の艦長をしていた。復員後、先輩の世話で現在の会社に勤め、今は重役になっている。

妻を早く亡くし、家には娘の路子(岩下志麻)と大学生の弟がおり、長男(佐田啓二)は結婚して近くのアパートに住んでいる。

「秋刀魚の味」2周吉は旧制中学の同窓生で特に仲の良い友人数人と行きつけの小料理屋で頻繁に飲食し、卒業以来40年になるのを記念して恩師(漢文教師)を招いて同窓会を開く相談をし、且つ実行する。

その友人の一人から周吉は路子の縁談を持ち込まれるが、「急ぐ必要はない」と逡巡する。ちょっとした曲折を経て、結局、周吉は路子に見合いを勧め、路子はその相手と結婚に至り、結婚式の夜、自宅で独りになった周吉はじっと考え込む。それが結末である。

こういう中心のストーリーと並行して同窓会の相談と実際の同窓会当日の前後の様子がかなり綿密に描かれる。そのために彼ら友人同士や師弟、あるいは親子、嘗ての上官と部下が酒を飲むシーンが頻出する。そこら辺が実に悠長な感じである。ドラマの展開上、必然性のあるシーンとは到底思えない。

さらに撮影アングル──小津流のローアングル、T字型に交わる通路のTの足の部分にカメラを固定した視線──がどの場面でも常に同じように繰り返されるので、ますます単調感が助長される。

小津流のスタイルは、それを信奉もしくは崇拝する人には評価されるかも知れないが、時代と共に急激に進化(と言っていいかどうかは別として)する映画術としては時代遅れと言うほかはない。

☆☆☆

◇セルジュ・ブールギニョン監督

◆ハーディ・クリューガー、パトリシア・ゴッジ、ニコール・クールセル、ダニエル・イヴェネル、アンドレ・オウマンスキー、ミシェル・ド・レ

 

『シベールの日曜日』(1962年、フランス製作)はフランスの作家ベルナール・エシャスリオーの小説「ヴィル・ダブレの日曜日」の映画化である。

主人公ピエール(ハーディ・クリューガー)は記憶喪失者である。軍のパイロットだった彼は戦時中(第一次インドシナ戦争の時らしい)、操縦していた戦闘機が墜落事故を起こし、生命は助かったもののショックで記憶を喪失した。

「シベールの日曜日」1入院していた病院で知り合った看護婦のマドレーヌ(ニコール・クールセル)に支えられて、現在は田舎町ヴィル・ダブレで「自分はいったい何者なのか」と自問自答しながら孤独に暮らしている。

ある日、いつも行く鉄道の駅へ暇つぶしに出かけたピエールは、父親に連れられて列車から降りた少女(パトリシア・ゴッジ)を見かけ、お互いに顔を見交わして心惹かれるものを感じ合った。

少女は修道院が経営する寄宿舎へ入れられるために連れてこられたのだ。少女は親から見捨てられることを本能的に察知していた。

父娘の跡をつけたピエールは少女が寄宿舎に残されたのを確かめ、次の日曜日、父親を装って面会に出かけた。少女はすぐピエールを見分けて懐き、自分はフランソワーズと呼ばれているが本当の名前ではないと言った。

こうして二人の日曜日ごとの“デート”が始まった。逢瀬を重ねているうち二人の心に疑似恋愛のような気持が芽生えた。ピエールはこの逢瀬を守るためにマドレーヌにも嘘をつかなければならなかった。

「シベールの日曜日」2ピエールを恋人として愛しているマドレーヌはその嘘に気付き、嫉妬めいた気持ちからピエールの跡をつけ、彼の相手が少女だと知って少し安心した。

ピエールとフランソワーズの心は無垢だったが、周囲は次第にピエールの行動に不審の目を向けるようになる。特にマドレーヌが勤める病院の医師はピエールを一方的に変質者と見做していた。

記憶を喪失したために却って純粋になっている青年と親に見捨てられた少女という孤独な者同士の無垢な心の通わせ合いが周囲に理解されず、ピエールが通報で駆け付けた警官隊に誤解から射殺されてしまうという悲劇に終わる。

邦題にあるシベールとは、ギリシャ神話の女神の名前である。これがフランソワーズの本名で、彼女はクリスマスの夜、教会の尖塔の上に取り付けられている鶏の彫像をピエールが約束通りに取って来てくれた時、それを明かすのである。

撮影は名手アンリ・ドカエで、モノクロの映像は非常に抒情的だ。

二人の逢瀬はあくまでも美しく描かれているが、難を言えば、ピエールがシベールを殺そうとしていると勘違いされて射殺されるフィナーレの描写が不十分で、余韻を残したと言うにはほど遠い感じであることだ。

☆☆☆

◇ジョン・キャメロン・ミッチェル監督

◆ニコール・キッドマン、アーロン・エッカート、ダイアン・ウィースト、サンドラ・オー、タミー・ブランチャード、ジャン・カルロ・エスポジト、マイルズ・テラー

 

 幼い子供を不測の事件・事故で喪った両親の悲しみと喪失感は、そういう経験を持たない者には計り知れないほど深いに違いない。そういう喪失感に向き合う姿勢には、しかし、人それぞれに大きな差異があるようだ。『ラビット・ホール』(2010年、アメリカ製作)は、喪失感に向き合う姿勢の違いにお互いに苛立って対立を深めていく夫婦の物語である。

「ラビット・ホール」1ハウィ(アーロン・エッカート)と妻ベッカ(ニコール・キッドマン)は八か月前に4歳の一人息子ダニーを交通事故で亡くし、喪失感に陥って夫婦の関係がギスギスしている。

ハウィは携帯電話に保存していたダニーの動画を繰り返し見ては生前のダニーを偲んおり、彼を思い出すよすがとなるものはそっくり保存しておきたいと考えている。

ところがベッカの方は、ダニーを思い出すようなものは身辺から一切無くしてしまいたいと、何でもかんでも捨てたり遠ざけたりするよう努めている。

二人は子供を亡くした親たちのグループ・セラピーの会に入会してミーティングに通っていたが、ベッカは、他の会員たちが神の恩寵とか神の救いとかをやたらに口にするのにいらだってその場を凍りつかせるようなことを口走り、参加をやめてしまった。

ベッカは実家に立ち寄っても、未亡人となっている母親や、妊娠したので結婚を決めた妹に心無い言葉を浴びせてしまう。母親は「私も息子を亡くした経験を持っている」と言うが、ベッカはそれに対して「兄さんは40歳にもなって薬物中毒で死んだのだから、ダニーの場合とは一緒にはならない」と言い返すのだ。

そんなベッカだが、ある日、車の中からバスに乗っている少年の横顔を見てハッとし、跡をつけた。少年の名はジェイスンといい、ダニーが愛犬の跡を追って道路へ飛び出したところを車ではねて死なせたのだった。

「ラビット・ホール」3ベッカは、しかし、ジェイソンに憎しみを感じず、時々公園のベンチに座って話し合うようになった。ベッカはジェイソンが図書館で借りて返した本を借り出して読み始めた。その書名は「並行宇宙(パラレル・ワールド)」。ベッカがそのことをジェイソンに洩らすと、ジェイソンは彼女にその本を参考に描いた「ラビット・ホール」と題した漫画を差し出した。科学者の父親を亡くした少年が、パラレル・ワールドに住んでいる別の父親を捜しに行くためウサギの穴をくぐる抜けるという不思議なストーリーだった。

一方、ハウィはグループ・セラピーにもう8年間も通っているという気さくな女性モリー(ダイアン・オー)に親しみを感じ、接近していくが……。

デヴィッド・リンゼイの同名戯曲の映画化である。全体的に動きが少なく、夫婦が何に悩んでいるのかを後半まで明示しない語り口だが、話の筋は案外判り易い。

が、ドラマとしては陰々滅々とした感じで、夫婦が心の闇を打開しようと努力する姿に感銘を受けるところまではいかない。

ベッカの母親の「子供を亡くした悲しみは最初は大きくて重い石のように感じるが、やがてポケットの中の小石のようになる」という言葉が救いの方向性を示唆しており、実際にそうなりそうな気配で映画は終わる。

☆☆☆

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