シネマの食堂第10回記念ゲスト 大友啓史監督 

毎年開催しているシネマの食堂の、今年は10周年記念と言うことで、「龍馬伝」「るろうに剣心」の大友啓史監督にゲストとして来ていただき、最新作「三月のライオン」前篇・後篇の合間にトークをしていただいた。

随分話し好きの方で、映画のゲストトークでも、後の懇親会の席でもいくらでも言葉が出てくる。今年の夏季大学でも、講師として招かれ初日に講演をしたぐらいだから、話も上手く、活字にしたらそのまま本になりそうだ。

懇親会のとき、各テーブルを回って話をされていたので、我々のテーブルに来られた時の話を一部紹介すると・・・演出する中で、役者の感情を刺激しようとするには、的確な言葉と計画が必要になる。女優のKは、もともと上手な俳優さんではなかったが、売れっ子なのでCM出演とか続いて、過労のあまり感情が湧いてこない状態になっていた。Kさんには赤ん坊を失くして泣く母親の演技が必要だったので、1カ月前から赤ん坊と一緒の暮らしを体験してもらった。そして1カ月後、ずっと一緒にいた子供が亡くなったとしたらどうだろう、と問いかけると、以前には全く泣くことのできなかったKさんが、まるで涙腺が決壊したような涙を見せた。そのように、役者さんの感情を動かすには、的確な言葉と計画性が重要になる、と言われていた。

俳優も、作品との付き合いが長いと、作品を通して成長していく。「龍馬伝」の福山雅治も、最初はとんでもない大根だったが、時とともに役者らしく龍馬らしくなっていき、「龍馬伝」を終えた後には、「俺もう、歌手を辞めようかな」みたいなことを言うまでになっていた。福山雅治は、龍馬の成長を演じることでまた、自分自身も役者として成長していったと言える。

「三月のライオン」の神木隆之介は、演技の上手い役者だったが、あまり感情を入れずに“上手に演じている”という印象だった。後編の中に、それまで押し込めていた感情を神木が一気に爆発させる演技をするシーンがあったが、それまで神木には理性的で抑圧的な演技をずっとさせておいて、感情を爆発させるシーンの撮影を最後に持っていった。その結果、神木は抑えに抑えていた感情を噴出させて、俳優として振れ幅の大きな演技を見せてくれた。

そんな様々な「演出論」「演技論」の話を惜しげもなくしてくれた、エネルギッシュでサービス精神の旺盛な方だった。


「ダンケルク」(クリストファー・ノーラン監督、東宝シネマズ ☆☆☆)

視野が狭く全体を見通せないことに対し、「木を見て森を見ない」という言い方があるけれども、木を見せることで森全体を想像させてしまうような映画だった。

敗戦の地ダンケルクを撤退しようとする兵士たち、兵士の救出に向かう民間人の船長、スピットファイアを駆使する空軍のパイロットのドラマを、7日間、1日、1時間というそれぞれの時間枠の中で並行して描いている。それぞれのエピソードは、物語性を極力抑制して、その場に一緒にいるかのような体感型のドラマに仕立てられている。ほとんど音楽もなく、人物の内面を説明することもなく、いたって淡々とハードボイルドに映像だけで語らせる。これは、通常のドラマの成り立ちとしては、破天荒で挑戦的な試みと言える。切れ切れの物語は併存するが、通常なら物語の全体性を欠いているという批判を受けかねない。実際に、映画がゲームのようにしか感じられない、という批判もあるらしい。

戦場を映画で再現するという意図を持って作られた映画は、これまでも随分あったと思う。しかし、技術的な進歩によって再現力が従来の比ではなく、また、クリストファー・ノーランは本物の飛行機や戦艦を惜しげもなく使っているので、これまでにない迫真のリアリティが生まれている。際だった再現性によって、物語の断片を語ることで

全体を想起させる、「木を見て森を感じさせる」映画が生みだされた。

戦場において、個人は戦況のその一端しか見聞きすることはできないはずなので、木しか見えない状況には逆にリアリティを感じる。しかし、この手法はクリストファー・ノーラン監督であっても何度でも通用するものではなく、また、誰かが真似しようとしても容易に真似できるものでもなく、一回性のものかもしれない。もし、同じような手法の映画を作っても、もはや本作と同じような話題性や興行力を生まないだろう。

ダンケルクは撤退作戦なので、一部空中戦でスピットファイアがメッサーシュミットを撃破したりはするが、基本的には負ける者の側から戦争がとらえられている。戦場の実態がどのようなものか、戦場の死がどのように無残で理不尽なものであるかが、客観描写で淡々と描かれる。何の尊厳も与えられない無残な死。スピルバーグの「プライベート・ライアン」やイーストウッドの「硫黄島からの手紙」のように、肉体がちぎれ飛んだり内臓が飛び出すような残酷描写が少なかったのは助かったが、映画を見ながらひたすら感じたのは、弾がどこから飛んでくるかわからない恐怖、空襲で爆弾が今にも落ちてきそうな恐怖だった。冒頭の、市街地を歩いている兵士たちが次々と狙撃されるシーンの、弾丸の飛んでくる音だけで、首をすくめてしまった。

一番ショッキングだったのは、満潮が来るのを待って座礁した船の中に身を潜めている兵士たちの運命だった。こっそり船底に侵入したのはいいが、船はドイツ兵士たちの射撃練習の的にされていて、いつ何時銃弾が撃ち込まれるかわからない。その恐怖の下、船を軽くするために、イギリス人であることが疑わしい兵士を外に追い出そうとするような、極限の人間ドラマがあり、ようやく潮が寄せてきて船が浮き上がったかと思うと、銃撃で蜂の巣にされているので、いたるところから海水が浸入して、船はあっという間に沈没してしまう。何とか外に出られた兵士たちは、荒れた海を泳いで別の船に救出されるが、その船もまた敵機の爆撃によってあえなく沈没してしまう。海の上に展開する、阿鼻糾喚の戦場。そのリアルで乾いた視点は、世界の名監督たちが、そのフィルモグラフィーの中のどこかで到達するような、“人間にあらざる者”の境地を感じさせる。

こんな映画を作ってしまって、クリストファー・ノーランは一体この先どこへ行くのか? 


「20センチュリー・ウーマン」(マイク・ミルズ監督、ウィークエンドキネマM、☆☆☆) 

戦時中に空軍のパイロットを志して青春時代を送った母親、ヒッピー世代の愛人の男、パンク・ロックの申し子である同居人の若い女性、いつも窓から侵入して主人公ジェイミーと一緒に寝ながら話をするだけの女子高生、いろんな女性たちの洗礼を受けながら、ジェイミーは自分の人生を見出していく・・・というお話。

まるで、70年代の少女マンガに出てきそうな、変で個性的で、どこかチャーミングな登場人物たち。女性たちと音楽が僕を作った、と言っているかのような自伝的な映画。使われている様々なジャンルの音楽が、それぞれの世代を代表しているのも楽しい。

前作の「人生はビギナーズ」は、ゲイであることをカミングアウトした自身の父親を題材にした映画だったが、この作品でもうかがわれる監督のマイノリティへの深い共感はそこから来ているのだろう。


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