「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」(ギャヴィン・フッド監督、イギリス、2016 ☆☆☆) 

海外で首脳会談や外相会議が行われると、テロとの戦いにおいて国際的な協力や連携で合意、というニュースをよく耳にする。この映画は、その国際的な協力が軍事行動において、どういうものになるか具現化された作品と言える。イギリス主導で行われた、アメリカ、ケニヤと連携したテロ組織壊滅の軍事作戦が描かれる。また、現代の軍事行動においては、ドローンや無人機を使って、遠隔操作によって敵の状況を知り、相手と直接対峙することなく、破壊や殺傷を行うことができるという近代戦の実態が描かれる。ドローンには、CG造形された細密なものも登場するが、実際にこれに近い軍事兵器が実用化されているそうだ。

しかし、ドローンや無人機を使おうが使うまいが、空爆には常に民間人を巻き添えにする危険性がある。この映画では、実質的に作戦を主導するイギリス軍司令部のパウエル大佐(ヘレン・ミレン)が、民間人の少女が標的近くに居ることを知りながら、攻撃目標のポイントを意図的にずらすことで、民間人殺傷の可能性を50%以下に数字を改変させてしまう。その結果行われた2度のミサイル攻撃によって、標的近くでパンを売っていた少女が犠牲になる。テロリストを殲滅するという軍人の“大義”を優先させることで、民間人を殺傷しないという人道上の“正義”を踏み外してしまう。政治家と違って、作戦の司令塔たる軍人たちの考え方は、危険な存在の優先的排除であり、そういう意味ではパウエル大佐もその上官たるベンソン中将(本作が遺作となったアラン・リックマン)も一貫してぶれることはないのだが、目的のためには犠牲を厭わない“危うさ”を孕んでいる。その危うさをコ

ントロールするために上部機関として国家緊急事態対策委員会があり、文民統制が図られているのだが、外務大臣や事務次官たちは、自分達が政治的な責任を問われることや、国際的に非難されることを恐れて、決定を先延ばしにしたり、責任を転嫁しようとする。しかしその間にも、状況はみるみる緊迫化していき、次々と難しい決断を迫られる。映画は、人の生き死にを瞬時に判断しなければならない戦争の残酷さ・非情さも描き出している。

映画の中では、一人の少女の命が問われているが、少女は言わば民間人の代表であり、戦争(この場合はテロとの戦い)において民間人の命がないがしろにされる現実を描いている。その最たるものが、テロリストの爆弾による無差別攻撃なのだが、それを阻止しようとする側もまた、同様のリスクを背負っていることを映画は突きつけてくる。     

高校生以上のための映画100選  その16 「独裁者と小さな孫」(モフセン・マフマルバフ監督、2014 ☆☆☆)

ある架空の独裁国家。独裁者一家は、民衆の生活の困窮にも関わらず、宮殿で豪奢な生活を営んでいた。独裁者は、孫に為政者としての権力を示すために、王宮から見下ろす市街地の灯りを、電話一本で消したり点けたりして見せる。このエピソードひとつで、権力に溺れる独裁者の奢りを象徴的に描き出している。そして、もう一度灯りを点けるよう命じても街は暗いままで、各所で爆発音と銃声が響き、クーデターの勃発に転じる。この詩的で美しくさえある導入部だけで、マフマルバフ監督の寓話的世界に引き込まれてしまう。

全編を通して、体制を転覆させられた独裁者とその孫の逃避行の顛末が描かれるわけだが、その行程では搾取に苦しめられてきた国民の貧困、児童労働に従事する孤児、罪のない市民の虐殺やレイプなど、戦争によってもたらされる悲惨な状況が次々と露になる。初めは、ユーモアに彩られたシニカルな寓話と見えていたが、独裁制のもたらした害悪を告発するマフマルバフの舌鋒はなかなか鋭い。映画作りを制限され、自身も投獄されていたことのあるマフマルバフの見聞きしてきた出来事が反映しているのだろう。

独裁者は、逃避行の中で、故郷で彼が若い頃心を寄せていたマリアと再会するが、マリアは娼婦に身を落としており、彼女から聞く姉の嘆願の話に心を痛めたり、自分が幽閉し拷問を加えていた政治犯の男の傷ついた足を撫でさすったり、自分の上着を与えたり、少しずつ人間性を回復していくのだが、時すでに遅く、怒りに駆られた民衆からもたらされる厳しい現実が待ち構えていた・・・。

マフマルバフは映画監督であると同時に小説家であり人権活動家でもある。イランから亡命し、ヨーロッパを活動の拠点としながら、アフガニスタンに2年間滞在し学校を作ったり、アフガニスタン映画の復興に尽力したりしている。彼の作品を見ていると、マフマルバフは映画作りを通して本気で世界平和に貢献しようとしている、と感じる。誰の心にも通じるものとして、映画の力を強く信じているのだろう。

また、低予算でCGを一切使わず、スペクタクルな見せ場を持たない作品であるにも関わらず、卓抜した着想と自在な演出によって、世界を刮目させるような映画作りができることを証明して、映画を志す人々に示唆と勇気を与える作品になっているのではないか。

「PLUTO」(漫画、浦沢直樹 ☆☆☆)

前から、きちんと読んでおかなければと思っていた浦沢直樹の「PLUTO」を高知の漫画図書館(かるぽーとに在る)まで読みに行く。家から片道20分の自転車旅行。

今さらながらだが、「PLUTO」は手塚治虫の描いたアトムシリーズの「史上最大のロボット」篇を、浦沢直樹(作画)・長崎尚志(プロデュース)コンビが、2003年~2009年にかけてリメイクしたもの。最近はそういうのをトリビュートと言うらしい。漫画もテレビアニメの方も、シリーズの白眉とも言うべき名編であり、漫画を読んでいなくてもアニメの方で憶えていると言う方も多いのではないか。何せ、個性的なロボットが何体も出てきて、ロボット王の風格のあるプルートウとのバトルを展開するのだから、子供たち(特に、男の子たち)の記憶に強烈に焼き付いているはずだ。本作の監修を手塚治虫の息子・手塚眞が行っており、全編を通して手塚治虫への、また、シリーズ中最大の話題作とも言うべき原作への深い敬愛に満ちている。それでも、原作の概要をしっかりと押さ

えながら、浦沢作品らしく大胆なディティールを加え、オリジナル・テイストと言っていい作品に仕上がっている。

「史上最大のロボット」は、アラブの国で作られたロボット・プルートウが、自身が史上最強であることを証明するために、人間世界に溶け込み人間のために活躍している世界の有名ロボットと次々と決闘し、破壊していく物語。マッド・サイエンティストによって操られているところに、プルートウの悲しみがある。浦沢版でも、最後までなかなか正体のわからないPLUTOが、人間に親しい存在であり、人間のために働いている七体のロボットを次々と襲う、という基本線は同じ。浦沢版で特徴的なのは、原作では出番が少なかったドイツのロボット刑事ゲジヒトが、アトムやプルートウ以上に重要な位置をしめていること。「ブレードランナー」のハリソン・フォードを思わせる、苦悩するキャラクター・ゲジヒトが実質的な本作の主人公と言ってもいい。彼が、PLUTOがらみの連続殺人

事件の捜査をしていくわけで、物語の狂言回しとなるわけだが、仕事や家庭など彼自身にまつわる数々のエピソードも素晴らしい。考えてみれば、ゲジヒトも何度かPLUTOと対決するものの、彼の最期はPLUTOによってもたらされたものではない。人間のような情愛を持つ彼が、自分が情けをかけた相手に思いがけず殺されてしまう結末に、心が痛んだ。

物語では、終始、ロボットに人間のような感情はあるのか(特に、悲しみを感じことが出来るのか)が、テーマとして問わているが、中盤以降に登場するアトムの妹ウランの、人間以上に情操豊かな言動を見ていると、すでに答えは出ているとも言える。未来社会では、人間以上に人間的感情にこだわるロボットと、機械のように非人間的にも冷酷にもなれる人間とが共存している。

後に、大量破壊兵器はなかったと結論付けられたアメリカのイラク侵攻が、この物語の下敷きになっており、物語は現代世界の隠喩となるような深い社会性を獲得している。浦沢直樹の絶頂期を示す一作、と言えばこれからの彼に悪いだろうか。自由闊達な描写力、人物造形の確かさは、漫画界のスティーブン・スピルバーグと言っていいと思う。

原作の発表当時は、横山光輝の「伊賀の影丸」などが先行してあり、それぞれ得意な忍法を持った個性的な忍者たちの集団抗争劇が面白く、子供たちに手に汗握らせていた。「史上最大のロボット」篇は、ロボットの世界にこのパターンを持ちこんだものだと言える。そこに、人間以上の働きをしながら人間とは同等に扱ってもらえない、あるいは、戦いたくはないのに戦わなければならないロボットの悲哀を盛りこみ、単なる集団抗争に終わらせなかったのが手塚治虫らしいところだ。

なお、作中に登場し、PLUTOと対決する七体のロボットは、モンブラン(スイス)、ノース2号(スコットランド)、ゲジヒト(ドイツ)、ブランド(トルコ)、ヘラクレス(ギリシア)、イプシロン(オーストラリア)、そしてアトム(日本)。いずれも自分の意志を持っている、魅力的なキャラクターばかりだ。

未読の方は、映画以上に面白いのでお薦めします。

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