「刺青の男」(レイ・ブラッドベリ、小笠原豊樹訳、早川新書 ☆☆☆)

思い立って、自分の10代から10年刻みくらいで影響を受けた本、強い印象を受けた本を読み返してみることにした。10代と言うと、否応なくこの本になってしまう。古い本を読むと印象が変わってしまうのではないか、底が浅く感じられるのではないかという心配もあったが、そんなことはなかった。それは、ブラッドベリの着想の面白さ、詩的な美文のおかげもあるのだが、元祖オタクとも言うべきブラッドベリの世界は、彼が10代から親しんできたペーパーバックやコミック、SFや怪奇映画、オズの世界、エドガー・アラン・ポー、10代後半からは当時のジョン・スタインベックやヘミングウェイなどの現代文学の影響が重層的に積み重なっており、容易に古びるものではなかった。

今回読み返してみて、やっぱり「万華鏡」や「長雨」「ロケットマン」は心に痛い名作だったが、火星に亡命している怪奇や幻想小説の登場人物たちが、人間の乗ったロケットの到来を魔術や怪異によって阻止しようとする「亡命者たち」が、作家としてのブラッドベリの立ち位置を示しているようで面白かった。(文豪のディケンズも登場するが、私がここに居るのは間違いだと言って妨害に参加しようとしないのが可笑しい。)“亡命者たち”は、ロケットに積んでいた最後の本が焼かれることによって焼失してしまう。「狐と森」は、未来から現代に逃亡してきた男女が、追手に拉致され、未来へ連れ戻されてしまう話。SFものながら、ヒッチコックの映画を見るような巧みなサスペンスで、拉致した男たちの部屋には煙草や酒など現代から持ち帰るはずだった土産物が累々と残されており、余韻も深い。

ブラッドベリの作品は、10代の子供の怖いもの見たさ、残酷なもの見たさとどこか重なるものがあり、水を吸う砂のようにティーンエイジャーの心に入って行った。日本での彼の人気は、翻訳者である小笠原豊樹、宇野利泰、福島正実さんの功績が大きかったと思う。(小笠原さんは、岩田宏名義の詩人でもある。宇野さんの本など、今でも原作者に関係なく読んでみたいと思う。)


高校生以上のための映画100選 その17「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督、1977 アメリカ ☆☆☆☆)

女性映画の代表作と言えば、まず思い浮かぶのがこの映画。単純にリリアン(ジェーン・フォンダ)とジュリア(バネッサ・レッドグレーブ)の友情物語と言う印象があったのだが、戦時下、リリアンがジュリアに頼まれた反ナチの資金をベルリンに運ぶための列車の道中は、レジスタンスの女性たちやナチスのスパイなど、リリアンにとって得体の知れない人物たちに翻弄され、国境や駅での検問の厳しさもあって、息の詰まるようなサスペンスの連続になっている。彼女は、ジュリアの伝言により帽子とチョコレートの箱を持たされているが、それに何が入っているのか、どこでどう取り扱ったらいいのかは、最後まで謎めいている。

リリアンとジュリアがベルリンの駅前の酒場で再会するシーン。ジュリアは反ナチ組織の指導的闘士であり、ユダヤ人として迫害されることにより片足を失っているが、リリアンと会っているわずかな時間だけで、ジュリアの抱えている状況の重さ・厳しさ、彼女に流れている時間の濃密さといったものがひしひしと伝わってくる。レッドグレーブは本作の演技で助演女優賞を獲得している。

そして、よく言われることだが、本作はまたダシール・ハメットと言う人物の魅力を見せる作品でもある。リリアンにとってハメットは、朋友であり、喧嘩相手であり、父親的な存在でもある。この時点のハメットはすでに筆を折っているが、クールで思慮深く、リリアンの書いた戯曲の鋭い批評者でもある。何度観ても、ジェーソン・ロバーズの演じたダシール・ハメットの存在は渋く、長年の同伴者であったリリアンとの関係は大人の男女を感じさせる。彼もまた助演男優賞を受賞している。

何と映画の豊かさを感じさせてくれる作品だろう。ジンネマンの映画は他に「わが命つきるとも」「ジャッカルの日」「氷壁の女」などがあるが、こういう大人の映画を見ていると、“人生に必要なことは、すべてフレッド・ジンネマンの映画から教わった”というタイトルの本が出てきてもおかしくないと思えてしまう。


「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(ケネス・ローガン監督、2016、アメリカ ☆☆☆)

観終わってみると、不在者の想いといったものを強く感じる作品だった。
(以下、ネタバレあり)

主人公リーの兄ジョーは、心臓病で亡くなってしまうが、遺言として息子パトリックの後見人としてリーを指名していた。事前に何も知らされていなかったので、事情があって故郷には留まりたくないリーにとっては、怒りを感じるほど迷惑なことだった。しかし、重い心臓病で余命の限られていたジョーは、自分の子供のことだけでなく、過去の出来事から心に深い傷を抱え、ボストンで孤独に暮らしているリーの身を案じて、彼を後見人にしたのだった。

リーはかつて、故郷であるマンチェスター・バイ・ザ・シーで結婚し、三人の子供があったが、ある日、自分の不注意から火事によって子供たちを失い、家も焼失、妻とも離婚していた。そして、故郷から1時間半ほど離れたボストンで、古いアパートの便利屋をし、夜は酒浸りで酔って喧嘩をくり返すような自暴自棄な生活を送っていた。自分の死期が近いことを知っているジョーは、そんな彼に立ち直ってもらいたいと言う気持ちから、息子パトリックの後見人にしたのだった。

パトリックは、温厚な兄とは違って、まるでリーに似たかのように喧嘩っ早く、複数の女の子とよろしく付き合い、仲間とバンドに興じる今どきの自己チューな高校生だったが、彼もまた両親の離婚や、父親の死、母親の再婚などで自分の居場所を見失っていた。最初、かつての事件を知る親族や友人たちとの付き合いを避け、早く故郷を出ていきたいリーは、周囲ともパトリックともぶつかってばかりだった。しかし、マンチェスターの町に長逗留し、友人たちの暖かさにふれ、故郷での思い出を蘇らせる中で、彼の意識も徐々に変わってくる。それは、パトリックが再婚している母親に会うのに付き合ったり、離婚した妻から事件後彼を責めたことを心から謝罪されたり、人の心情も変わり、人の立場も変わっていったことも影響したのかもしれない。自分だけ時間が止まっていたような、リーの固く閉ざしていた心が、少しずつ溶けだしたかのように見える。

リーとパトリックは、ジョー亡き後の様々な出来ごとに一緒に対処することで、叔父と甥という関係性によってではなく、お互いが軽口をたたきあえる相棒のようになったとき、やっと二人の間に絆のようなものが生まれる。パトリックを信頼できる友人夫婦の養子にしたリーは、最後にはボストンに帰ってしまうが、パトリックがいつ訪ねてきてもいいように部屋は開けておくと言う。ずっと人との関係を絶って生きてきた彼だったが、初めて自分から人を受け入れることができるようになったことを示す言葉だった。

ケン・ローチ作品のように、登場人物の感情を説明しない、客観描写で淡々と綴られるドキュメンタリーのような映画。しかし、その中にハッとするような心の痛む場面が幾つもある。酒場で泥酔したリーが、他の酔客にからんで突然殴り合いになる場面、火事のとき担架で運ばれる妻が寄り添おうとするリーを何度も拒絶する場面、事件の後、警察での取り調べを終えたリーが、廊下で警官の銃を奪って自殺しようとする場面。派手さはみじんもない映画ながら、心のひりつくような場面が随所に折り込まれている。

見終わった後、自分もまたずっとリーに随伴してマンチェスター・バイ・ザ・シーの町に逗留したような気持ちになった。楽しみのため、慰みのための映画と言うのももちろん在っていいわけだが、映画が人間の生を描ける媒体であることを、再確認させてくれる作品だった。大なり小なり、過去の過ちや罪に対して無自覚で生きられる人はなかなかいないはずで、人間のそうした心性に対するシンパシーを痛切に描き出した作品だった。

監督のケネス・ロナーガンの名前を忘れてはならないし、リーを演じたケイシー・アフレックの次回作に期待したい。


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