「遊侠一匹 沓掛時次郎」の中で、これから果たし合いをしようという中村錦之介(時次郎)と東千代之介が、互いに刀を引いて名乗りをあげるシーンがある。ふたりの顔は、長い土塀越しにとらえられていて、体は見えない。しかし観客は、ふたりの凛とした表情と歯切れのいい口舌により、その所作の美しさをありありと思い描く。

 映画の冒頭でもそうだった。冒頭の渥美清(朝吉)との出会いのときも、時次郎の仁義のあざやかさに感服した朝吉が、時次郎の前でそれを真似て見せる。そこでも観客は、朝吉のメリハリをきいた口舌から、時次郎の水際立った仁義を眼前に見るように想像する。

 もちろん、錦之介自身はそういう見せ場を演じることには長けており、観客もそういうシーンを見ることを期待していただろう。錦之介の事務所の方も、彼の十八番とも言うべき見せ場を演じさせない加藤に不満を持っていたかもしれない。しかし、加藤作品を見ているとよく感じることなのだが、加藤泰は観客の期待するもの-それは往々にしてステレオタイプのものなのだが-をそのまま見せるのを潔しとしていない、あるいは野暮なことと考えている節がある。観客の期待以上のものを見せるのが作り手の仕事であり、それをしないのは怠惰なことと考えていたのではないか。もちろん、本編の中で錦之介が仁義を切るのをフルショットで見せるシーンもあったと思うが、それを繰り返し何度も見せるのは加藤にとって野暮なことなのだ。無用なものは切り詰める、あるいは形を変えて表現するという、“省略の美学”といったものを加藤の作品からしばしば感じる。それを加藤は、映画のようには場面転換のできない演劇に親しむことで学んだのではないだろうか。

また、加藤作品には、時々いくつものエピソードを凝縮したようなワンシーン・ワンカットの長いシーンが出て来るが、役者たちの演技力が問われるそうしたシーンも、いかにも演劇的だ。高崎の宿での、錦之介と池内淳子の一年という時を経た再会の名場面は、その前に置かれている、錦之介が宿の女将に池内淳子への想いを第三者に託して切々と語る長い独白のワンシーンがあってこそのものだった。