スイスの小さな町で暮らす中年女性クローディーヌの生活は、様々な意味で閉ざされている。住む町はアルプスにも近い山奥、地理的にも狭い世界。息子パティストは心身に障害があり、彼女の世話なしには生きていけない。彼女は一人で仕立て屋を営んでいるが、経済的に豊かでないことも制約になっている。そんな彼女は、毎週白いドレスをまとってダム湖近くのホテルへ行き、一人で来ている男性客を選んでは一夜を共にするという、娼婦のようなことをやっている。娼婦と違うのは、彼女が金を要求しないこと、彼女の方から男を選ぶこと、付き合いは必ず一夜限りであることだろう。彼女にとってそれは、日々の生活の閉塞感とバランスを取り、自身に内在する欲望に忠実であろうとする行為なのだろう。ある意味、好きでやっているというより、日々の抑圧と精神のバランスを取るためにやっているように見える。これがヨーロッパあるいは日本の都会での一人暮らしなら、ホスト通いをして、お気に入りの推しに貢ぐという行為に発展するのかもしれない。しかし、彼女は一人の男に執着するようなことはなかった。
その彼女が、ドイツ人のダム研究者ミヒャエルと出会ったことで、お互いに転機が訪れる。ミヒャエルの篤実な人柄にふれることで、クローディーヌは若かったころの自分の恋愛感情を取り戻していく。クローディーヌの境遇について何も知らなかったミヒャエルは、彼女を特別な存在と感じ、次の赴任地ブラジルへ一緒に行かないかと誘う。自分の未来が閉ざされていると感じているクローディーヌが、故郷と息子から解き放たれることを選んでも何の不思議もなかった。成人している息子には、施設という形ではあれ、いつか自立しなければならない時が訪れるはず。クローディーヌは自宅を売り、店をたたみ、その資金で息子を施設に入れる選択をする。何も知らない息子は手をふって彼女を見送るが、自分の行為に対して罪障感を感じている彼女は、激しい呼吸困難に陥る。女性としての恋情と母親としての責任感との間で引裂かれようとしている人間臭さが魅力だった。
マキシム・ラッパズ監督は、ドラマを通して中高年の女性であっても自分自身の可能性を追求したいという人としての権利を肯定したかったのだろう。しかし、その年齢の女性が抱えている社会的制約や不自由についても熟知している。監督の頭には、誰かモデルとなるような女性像があったような気がしてならない。それは、彼の身近な人、例えば母親だったのかもしれない。
クローディーヌの物語は、ブラジルへ旅立って終わりとも、施設に息子を預けて絶縁ともならないだろう。彼女の迷いと葛藤の物語はこれからも続いていくと思われる。

映画のエンディングがわかりにくかったという方もいらっしゃると思います。施設を後にしたクローディーヌが過呼吸に陥るわけですが、あれが怒りの表出ー怒っているように見えたという方もいらっしゃいました。
長回しの難しい演技だったのですが、過呼吸症に見えるためにはもうワンテイク撮る必要があったのではないかと思っています。
監督は新人だし、女優は大御所なので言いにくかったのかも・・・なんてことを考えます。