2017年03月

「淵に立つ」(深田晃司監督、シネマ四国 ☆☆☆)

 何とも不吉で禍々しい映画だった。まるで映画に呪いでもかけられたかのように、禍々しさが後からじわじわ効いてくる。

筋立てとしては、殺人の罪で8年間服役していた八坂が、実は共犯者でありながらその名を黙秘していた鈴岡の家に入りこみ、長年抑えこんでいた怒りや憎しみを突発的に爆発させて、鈴岡の妻に暴行しようとし、また娘に暴力を加えて重度の障害者にしてしまうと言う、暗い復讐の物語ということになる。そして映画は、その出来事が引き金となった8年後の家族の崩壊を追って行く。

物語は八坂を通してではなく、鈴岡夫婦の目を通して語られるので、表面的には穏やかさを保っているかに見える八坂の真意がわからず、その不穏な存在感と、殺人罪を彼一人に負わせてしまったという夫の罪悪感から、一家はどんどん深刻な事態に追い込まれていく。それは八坂が娘を傷つけて失踪した後も続き、あたかも八坂の悪意の呪詛がいつまでも効いていて、彼がそばにいなくても鈴岡家や、その作業場で働くことになった(父を知らない)八坂の息子にも及んでいるかのようだ。鈴岡の妻が屋上で八坂の幻影を見るように、彼がいなくなってからも、心は不在者である八坂に支配されているかのように見える。その支配が、次第に暗雲が垂れこめるかのように広がっていき、一家を破滅へと導いていく様はまるでホラー映画のように怖い。

 八坂がいつも着ている白いYシャツも、汚れひとつないつなぎの作業着も、自己を厳格にコントロールしていると言っている八坂の抑制の象徴なのだろう。突然、そのタガが外れたかのように、彼が歩きながら白いつなぎを脱ぐと、下から真っ赤なTシャツが現れ、彼はその姿のまま鈴岡の妻を強姦しようとする。深紅のTシャツは彼が長い間抑圧してきた暗い想念の象徴と言える。それが現れたときギョッとするのは、八坂の抑制のタガが外れたことが視覚的にうまく表現されていたからだ。

 もうひとつの見所は、八坂の息子・孝司の打ち明け話を聞くうちに、父親への怒りから鈴岡が突然孝司の頬を平手打ちしてしまう場面だろう。孝司自身に罪があるわけではないことは判っているにもかかわらず、娘を障害者にされたことへの怒りが嵩じてきてその息子に手をあげてしまう。それは、八坂が鈴岡の娘に暴行を働いてしまったことと同根の感情なのだ。人は、怒りに駆られるとそんな理不尽なこともやってしまう。そんなリアルな人間洞察がそこには在る。 監督は、なぜこういう映画を作るのだろう? 何に関心があるのだろう? 悪意を通して人間を逆照射するように描くというのは、もともと黒沢清などの映画手法だったが、深田監督もその流れを汲んでいるように見える。開けてはならないパンドラの箱を開けてしまう人物、そういう人や事件と隣り合わせた社会で、今や私たちは暮らしている。普段は気がつかないこと、気づいても考えたくないと思っていること、そういう事実を突き付けてくる作品だった。


「ニュースの真相」(ジェームズ・ヴァンダービルト監督、アメリカ ☆☆☆)

  ケイト・ブランシェット、ロバート・レッドフォードの共演映画と言うより、メディア(放送局)のあり方を巡る社会派群像映画。世界俳優列伝②と題して、ケイト・ブランシェットの演技に着目した企画だったのだが(ちなみに①は、「エレジー」のベン・キングズレーだった)、いつもながらの名演ではあったけれど、劇中で特に彼女の存在だけがクローズ・アップされているわけではなく、名優たちの迫真の演技がせめぎ合っていた。ロバート・レッド
フォードは90歳になるそうで、今なお現役で活躍しているのは凄いことだが、ケイト・ブランシェット演じる敏腕プロデューサー・メアリーの取材スタッフを演じているトファー・グレイスやエリザベス・モスなど、自分がよく知らない30代・40代の中堅俳優たちの活躍を見ると、世代は間違いなく交代しているのだと感じる。

映画は、ブッシュ元大統領の軍歴詐称疑惑をスクープした文書の信憑性を巡って、ニュース製作側のスタッフと、それが偽物であると断じられたことによりニュースの責任を誰かに取らせようとする放送局上層部との確執を描いた作品とも言える。上層部の態度には、ブッシュ政権側、それと繋がる経済界の意向や圧力もあるのだろうが、はたしてブッシュの軍歴の実態に問題はなかったかと言う事実確認よりも、書類が本物か偽物かの論議にすり替えられていき、真実は闇の中に置き去りにされる。

素人考えでは、ブッシュと選挙戦を争ったケリー候補の裏選対もしくは支持者がブッシュの軍歴詐称の事実をつかみ、それを誰がリークしたのか分かりにくくするような巧妙な方法でマスコミに流し、ブッシュ側にダメージを与えようと図ったのではないかと思うが、メアリー率いるニュース・スタッフはきわめて短い取材期間の中で完全な裏付け調査ができないままそれを報道してしまった、ということではないだろうか。彼らのジャーナリストとしての嗅覚では、軍歴詐称は紛れもない真実だったのだろうが、確固たる裏取りができないまま“推定有罪”で報道してしまったことで足元をすくわれ、メアリーは解雇、ダン・ラザーは番組の降板と言う手痛いしっぺ返しを受けてしまう。同じように、調査報道を扱ってアカデミー作品賞に輝いた「スポットライト 世紀のスクープ」は、神職にあることを隠れ蓑にした神父たちの性犯罪を新聞記者たちが告発するというジャーナリズムの言わば光の部分を描いた作品だったが、本作は功を焦るあまりスクープの落とし穴に嵌まるというジャーナリズムの影の部分を、飾ることなく冷徹に描き出している。

彼らの一大スクープの結果は裏目に出てしまった。しかし、ダン・ラザーがニュース・スタッフの一員である若いジャーナリスト、マイク・スミス(トファー・グレイス)に語った言葉、「質問することは重要だ。“やめておけ”と言われたり、“偏向だ”と批判されたりしても、質問しなくなったら米国は終わりだ。」というジャーナリスト精神は継承されていくのだろうか。それともメアリーが内部調査委員会で訴えたように「報道の主旨は、ブッシュが兵役をつとめあげたかどうか。今はみんな、主旨が気に入らなければ、フォント、偽造、陰謀論ばかりを指摘し、わめき、政治傾向、客観性、人間性まで疑ってかかり、スクラムを組んで真実を消し去る。異常なほど騒いですべてが終わった時には、主旨はなんだったか思い出せない。」という状況がまかり通ってしまうのか。日米の混沌とした政治情勢を見ていると、そうした危惧を感じずにはいられない。この映画は、ニュース報道という先端メディアの明暗や危うさを描くことで、ジャーナリズムの果たすべき役割や責任を今日的に問い直す作品となっている。 

「聖の青春」(大崎善生、講談社文庫 ☆☆☆☆)

子供の頃から難病を押して将棋に打ち込み、A級棋士として29歳で夭逝した村山聖(さとし)の生涯を描いたノンフィクション。ネフローゼで入院していた病院や施設で将棋と出会い、自分には残された時間が少ないことを知りながら、命を削るようにして将棋に全身全霊を捧げ、最期まで名人となる夢を諦めなかった聖の青春を、愛惜の熱筆で描き切る。

筆者は将棋ジャーナリストなのだが、ご自身ももちろん将棋を指す人であり、極限の勝負の世界に生きる棋士たちを敬愛している。(奥さんは、高橋和(やまと)と言う女流棋士なのだそうだ。)大崎さんの、明晰で精緻で、ときに詩のように文学的な文章に終始魅了されながら読んだ。斎藤学さんの著書のタイトルにあるように、声に出して読みたくなるような清々しく美しい文章だった。(文章には人柄が出るわけだから、内容に関わりなく文章自体に惹かれるということがあっていいはずだ。)

本作で何より印象に残るのは、村山聖と師匠・森信雄との関係かもしれない。森さんの、聖以上に身なりに構わないヒッピーかフーテンのような破天荒な生き方も魅力なのだが、洗濯や買い物などかいがいしく聖の身の回りの世話をしたり、病気や勝負の苦しみに煩悶する彼にとことん付き合ってやる森さんと、将棋では師匠以上の実力を持ちながら、実の親以上に甘えたり頼ったりしている聖との師弟愛は、まるで犬の親子が相手の汚れを舐めとってやるかのような親密さで、深く心を打たれる。

何事であれそうなのだろうが、一事に打ち込むことでその人の人柄が現れるもので、様々な対局や日常の親交の中に谷川や羽生名人など棋士それぞれの個性も伺えて面白い。今年読んだ本の中でも屈指の名著だった。


「この世界の片隅で」(こうの史代、双葉社 ☆☆☆☆)

遅まきながら、こうの史代さんの原作をやっと読むことができた。2007年頃、漫画アクションに本作の連載が始まった頃、書店の立ち読みでチラチラ見たりしていたが(その頃から作品の評価は高かった)、どうも僕はチマチマしてコマの中にセリフと描線の多いこうのさんのマンガが読みづらく、どちらかと言うと苦手だった。今になれば、細かいエピソードの積み重ねで出来ている連載を、立ち読みで切れ切れに読んだところでその面白さがわかろうはずもなかった。今回通しで読んでみると、これほど大きなテーマとメッセージ性を持っていて、スケール感(戦時下で、日本中の国民がなんらかの形で体験した、という意味においてだが)さえ感じさせる作品であったことに驚かされる。マンガの基本的な絵柄は保守的なように見えて、本編に挟みこまれている鬼(オニ)イチャンの冒険は子供の落書き風であり、広島の街での“ばけもの”との遭遇は絵本のようであり、セリフが過剰かと思

えば一切のセリフがなくサイレント映画のような描写もあり、様々な表現上の実験が行われている。もともと取材を綿密にする人なので、戦時下のカルタや新聞投稿を並べることでストーリーを転がしていく、という離れ業もある。すずさんが敵機の機銃掃射を受ける場面など、ハッとするほどの劇画的なカット割りで、手塚治虫の影響が感じられる。

ものすごく単純化して言えば、こうのさんの描こうとしている世界は、学校の教室のようなものかもしれない。笑っている子供もいれば、泣いている子、怒っている子もいる。教室の中に主人公がいたとしても、その子だけにドラマがあって、その子だけに出来事が降りかかるわけではない。誰もが笑いたいときには大いに笑えばいいし、泣きたいときには大声で泣けばいい。でも、自分が笑っているときに泣いている人がいるかもしれないこと、笑うに笑えない人がいるかもしれないことに、こうのさんは目をつぶっていてもらいたくないのだ。主人公には、そういうことに心を配れる人であって欲しいと思っているし、他の人の気持ちに想像力を働かせる人で教室(世界)が一杯になれば、世界はもっと生きやすくなると思っているのではないだろうか。そしてそれは、今この時の教室だけを指すのではなく、教室にいた過去の子供たち、これから教室で生きる子供たちも含めてのことであり、そこに歴史を遡った作品を描く意味がある。

同じ比喩を使うなら、こうのさんのマンガに登場する人物たちは、あたかも同じ教室を共にする子供たちのようである。それが家族であれ、地域であれ、町でれ、誰もが思い思いに好きなことをして好きなことを言っている。主人公だけにウェイトが置かれているわけではない。脇役であったはずの人が、いつの間にか主人公にすり替わってもおかしくないような群像処理がされている。主人公への拘泥のなさが、こうのさんの作品の一番の特徴かもしれない。そして、いずれの作品も、登場人物たちが同じ時代、同じ場所を共にしているという共生感覚に溢れている。そういう関係を根こそぎ奪い取ってしまうものとして、怒りをこめて“戦争”が置かれているのが「この世界の片隅に」という作品だと思う。

「好きにならずにいられない」(ダーグル・カウリ監督、アイスランド ☆☆☆)

 金なし、地位なし、女っ気なしの43歳独身男フーシ。150キロ以上はあるだろう体重をかかえ、頭も動きも鈍重そうに見える。無口で、顔は表情に乏しく、感情を読み取りにくい。アイスランドの片隅で生きるフーシが、ふとしたきっかけから多分生まれて初めての恋をした。

恋をすることで人は変われるということを、ゆるい展開の中で証明して見せてくれた映画だった。傍目にはなかなかそう見えないが、フーシにしてみれば大変な変わりようだったと思う。まず、自分で申し出て職場の有給休暇を取ることができた。その有給を使って、自分が好意を寄せているシェヴンのために代わりにゴミ処理場で働く。(誰が自分の有給を使ってまで、人のために働くだろうか。)引きこもっているシェヴンを尋ねて、体を洗ってやったり、彼女が花屋を開きたいと夢見ている貸店舗を塗装したり、何かと彼女のために尽くしている。そのシェヴンとベッドを共にすることも出来た。母子密着型の親子だったのに、母親と離れてアパート暮らしを始めると宣言した。初めて飛行機に乗って、これも初めての海外旅行に一人で出かけた。(本当はシェヴンと一緒に行くはずだったのだが。)全体にまったりしたテンポなのに退屈することもなく、映画を見終わると、フーシと共に同じ時間を過ごしたような気持ちにさせられる。そういう映画と言うのは、最近本当に少なくなった。

シェヴンについて、尋ねてきたフーシを邪険に追い返したり、自分から一緒に暮さないかと誘っておいて、フーシがいざ家を出ようとすると、「ごめんなさい。一緒には住めない。」と拒絶する彼女をひどい人だと思うかもしれないが、彼女は本当はフーシのような自分を庇護してくれる人と暮らしたいのだろうが、誰かと一緒に生活することに耐えられそうもないのだ。心の問題というのは厄介なもので、すべては病気の成せる技なのだろう。そういう人にとって、何も問わない、何も責めないというフーシのような態度は何よりの心のケアになっていたはず。それでも二人に安易なハッピーエンドを与えていないところが、この監督の資質であり才能でもあるのだろう。フーシによって塗装された店舗を見てシェヴンが顔を輝かせる・・・というような、二人の関係に希望の持てそうなカットが入っても良かったような気がするが、映画はあくまでもフーシの側の物語に終止する。

日照時間が短いというアイスランドの気候を反映しているかのような、冷ややかで色彩に乏しい画面が、華やかさとは縁遠いシミジミしたドラマを語るのにふさわしいトーンをもたらしていた。

アイスランド語の原題はフーシ。英語タイトルはVIRGIN MOUNTAINSで、大きな変化はフーシにとって未踏の山に登るようなものだったろう。なお、エルビス・プレスリーの楽曲に「好きにならずにいられない」という歌があるらしい。

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  • 「間諜X27」(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、美術館ホール ☆☆☆)
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