かおるの今日のコラム


 自民党竹下亘総務会長が、国、地方の議員年金が廃止されたことについて『若くして国会に出てきた議員は、退職したら生活保護だ。こんな国は世界中にない』と述べ、見直しの必要性に言及した。

 この方は、忘れもしない、森友、籠池氏が安倍昭恵夫人から100万円を受領したと証言した際、安倍総理への侮辱だとして、証人喚問を強く主張した人物である。

 自民、公明連立政権の立派な政策のお陰で、世界の一流経済大国、日本では、この好景気の中でも、100万人以上の生活保護認定者が存在している。
 
 ただ生活保護だから、恥じることはないわけで、病状や様々な事情で就業できず、やむを得ず認定を受けて生活を営んでいる人達である。

 国会議員経験者が、老後、生活保護生活を送ることの、一体どこがおかしいというのだろうか?

 どうも竹下亘氏には、生活保護生活者を見下しているように見えるのだが、思い過ごしだろうか。

 それとも国会議員は、特別な存在で老後も特権として経済的に豊かな生活を付与することが当然とでもお考えなのであろうか。
 もし、そうだとすれば、トンデモナイ考え違いで、国会議員経験者と言えども、退職すれば一国民に過ぎず、老後の安寧を図るのは自己責任なのである。
 
国会議員になったばかりに、老後が不安ならば、国会議員にならなければよろしいわけで、私達国民が、立候補をお願いしたわけではない。

 大概の我が国の国民は、自分の老後設計は、自己責任制であって、政府の手厚い庇護など当てにできないと思っている。老後は、政府が手取り足取り面倒を見てくれるなどと能天気に構えている人がいたら、お目にかかりたいものである。

 あたかも国会議員経験者だけが、特権で庇護されるという考えこそ、国民参加選挙もなく、人権のない何処かの国の発想に似ていて、気分が悪くなる。

 国会議員経験者の老後が、生活保護で何が悪いというのだろうか? 国会議員には、自己責任という発想がないのだろうか。むしろ、清貧に、つつましく老後を送る元国会議員こそ、私腹を肥やさなかった立派な議員だったとして誇りに思ってよいのではないだろうか。


 下記引用は11月13日の毎日新聞の記事である。

 『日本維新の会の足立康史衆院議員(52)が学校法人「加計学園」を巡る朝日新聞の社説を巡り、自身のツイッターに「朝日新聞、死ね」と投稿していたことが分かった。足立氏は異議申し立ての趣旨だったと釈明したが、発言を疑問視する声も上がっている。

 足立氏は12日、文部科学省の審議会が加計学園の獣医学部新設を認可するよう答申したことに、「『総理のご意向』を巡る疑いが晴れたことには全くならない」と指摘した朝日新聞の11日付朝刊の社説をツイッターで引用。「朝日新聞、死ね。」と書き込んだ。

 足立氏は毎日新聞の取材に「朝日新聞の加計学園問題に対する扱い方への異議申し立てを、考え得る最も厳しい言葉で非難した」と述べた。流行語にもなった「保育園落ちた日本死ね」を念頭に「『死ね』という言葉は私自身は許容されると思っていないが、今の国会と日本社会は是としているようなので使った」と説明した。

 ジャーナリストの大谷昭宏さんは「保育園に落ちた一人のお母さんのつらい立場の発言をまねしたのだろうが、根本的に違う。言論の府の国会議員が民主国家の最大の柱である言論機関に『死ね』と言うのは、浅はかに尽きる」と批判した。』

 表現の自由は、民主主義の根幹であることに異論はないが、排他的、差別的な言動は民主主義の桎梏となることも真実である。
 日本死ね、という言い回しも適切とは思わないが、子育て世帯の悲痛な叫びとしてメデイアが捉えたものだろう。しかし、他者を排除し、抹殺を意図する「死ね」という表現は、基本的に、共存・共栄という人類の理念に相応しいとは到底思えない。

 まして、税金で生活する足立氏は、国会議員という公の立場の人である。言論機関に「死ね」という真意がどこにあるのか、説明して頂きたいものである。自分は許容されると思っていなかったのなら、何故、このような発言をしたのだろうか。今の国会と日本社会が是としているようなので使ったというのは、単なる言い訳に過ぎないのではないだろうか。


 いわゆる団塊の世代と呼ばれる人たちにとっては、年齢的に多くの方々が、ご自分の両親の介護を経験したことだろうと思う。まさか自分の親が老いて病床に伏し、死に直面するなど思いもしなかった事実を目の当たりにし、人生の時の流れを自覚した人も少なくないだろう。

 安倍政権は、自民党支持の多い若年層への福祉拡充に力点を置いている。少子高齢化と言われれば文句の一つも言えないかもしれないが、国というものは、多様な世代で形成されているのだ。確かに待機児童問題は、軽んじてはならない重要問題だ。しかし、その一方で、待機老人問題も厳然とした事実なのである。

 自分の親の足腰が弱り、思考能力が低下してくると家人の世話では足りなくなって、介護保険制度に頼らざるを得なくなる。ところが割高感のある介護保険を懸命に納付していても、いざ、この制度を利用するとなると、幾多の難関が待ち受けている。

 要介護度の認定である。これは厳格に定められているとはいえ、要介護の老人たちが、まるで工場で出来上がった商品の品質検査の如く、これはA,これはBなどとランク付けされているようで、果たして、そこに人間の尊厳はあるのだろうかと戸惑ってしまうのだ。長年、国民としてこの国で生まれ、働き、生活してきた人たちである。

 社会保障のためと言いながら始まった消費税、それでも足らないとばかり、介護保険制度まで設けたわりには、簡単に介護を受けることはできず、まして特養などの施設に入所するすることは容易ではない。しかも、介護度によっては、月々の年金では賄えない場合もある。一体、自公政権のいう100年安心プランはどこへ行ってしまったのだろうか。

 お金に色がないとはよく言ったもので、いくら消費税を上げたところで、制度を拡充しない限り、安心した老後を送ることは無理のようだ。若者に明るい未来を!と叫んでも、若者もやがて老いて老人となる。一部の世代だけを優遇する意味などどこにもない。為政者の思惑に振り回されて、投票行動が変わるというのは、余りにも無知蒙昧というしかない。

  認知症の高齢者が入所する施設としては、一般的に知られている介護老人福祉施設、いわゆる「特別養護老人ホーム」、主にリハビリなどの訓練を目的とした「介護老人保健施設」、長期療養ができる「介護療養型医療施設」のほか、「有料老人ホーム」、近年施設数が増えてきた認知症対応型共同生活「認知症高齢者グループホーム」などがある。

 中でも、在宅生活が困難で、常時介護が必要な高齢者を対象とした特別養護老人ホームは特にニーズが多く、入所申込者数が増え続けていることが問題になっている。

 政府は、介護費用の増大を懸念し、在宅介護を推奨している。いわゆる「老々介護」である。この結果、先進国といわれるわが国で、孤独死や餓死など老人の不幸な事例が散々、ニュースで目の当たりにすることになる。

 国家予算の配分は、時の政権によって変動するのが常套だが、選挙期間中だけ、甘い宣伝文句で乗せられた有権者は、後で後悔することになる。総選挙が終わった途端、政権与党は、あらゆる方面での増税に舵を取った。給与所得控除の見直し、全ての幼児教育の無償化も言葉が薄くなってきている。

 若い人たちにとって、自分の未来像は、現在の老人の生活実態なのである。

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