2009年01月12日

クロエ -Crowsed Box-


 飛び立った彼が最初に見たのは、荒れた大地と崩れた町の残骸だった。体積の半分以上を失った建築物が林立する町、その隙間に身を潜めるように体を小さくする少女の姿も見える。観察するように、或いは再び空に上がれた事を喜ぶように、彼はそのまま町の上空を旋回する。すると少女はぎらついた目で彼を見上げ、そして言うのだ。

…………「行け」、と。

 言われるまでもない、と翼を振って答え、彼は行く。方角は東、朝日に向かって、振り返らずに飛んだ。




 だから彼は、この時少女の頬に伝った物を…………知ることはない。

 決して。









そして、箱は閉ざされた。










 閉ざした嘴で風を切り、翼を羽ばたかせて空を飛ぶ。全身に感じる透明な空気に、彼は狂喜していた。長らく待ち望んだ空だ、そこに居られる事は、彼にとって何にも代え難い喜びなのだろう。視界を遮る物など何も無い、何処までも遠く広がる自由の空だ。
 しかし、足はまだ、繋がったままで。彼の空に自由など、最早有りはしない。そして彼の足と繋がった糸の先、足の無い少女は、か細い糸を握り締め、繋がりをそこに確かめるようにしてこう言うのだ。

『いいか、よくきけ』

 まるで自分に言い聞かせるように強く、

『あたしはいつもあんたのそばにいる。いつでもあんたを見張ってる。だから、にげようなんて考えるな。かならずここに帰ってこい』
「……イエス、マスター。我があるじ」

――もしも、彼が人ならば。それは、どれほどの渋面であっただろう。
 けれど彼は人ではなく、故にただ一ツ鳴き声だけを漏らすのみ。

 阿呆、と、ただ一ツ。まるで自分を嘲るように。

 それから彼は翼を大きく羽ばたかせると、羽根を散らして飛び去った。



 視界にはまだ、空しか無い。





――駄目か。

 彼はそう吐き捨てると、路傍に転がる浮浪者の頭を一際大きく突いた。鋭い痛みに浮浪者が跳び起きるが、その頃には彼はもう居ない。遥か遠くビルの上まで飛び去っていた。
 憤慨する浮浪者を見下ろし、駄目か、とまた彼が呟く。この町に来てから試した手段の悉くが失敗に終わっている。医者を頼りに病院に行っても不衛生だとつまみ出され、ならばと今度は彼の言葉を理解できる人間を探そうとしてこの様だ。少女に言葉が通じたことから、もしや自分は特別な烏ではないかと思いはしたのだが、なんてことはない、特別か、はたまた異常だったのは、彼ではなく少女の方だったのだ。ただ、それだけの事。だがただそれだけの事で、彼はもう、他人に少女の事を伝える術を失ってしまった。
 眼下では浮浪者が、こちらに背を向けるのが見えた。怪我を追わせた犯人を探すことを諦めたのだろう。額に宛てがった手の隙間から赤い雫を零しながら、憤懣やる瀬ない様子で去っていく。それを呆れたような目で見送りながら、彼は心中で溜息を吐いた。

――俺には後どれだけの手段と、時間が残されているのだろう。今や少女の安否は箱の中、俺は勿論の事、余人には預かり知る事の出来ない物になってしまった。

 ならば、と彼は考える。ならば、

――ならば最早、俺にすべき事は無いのではないだろうか。

 一瞬浮かんだその考えを、肯定してしまいそうになる。
 しかし、足はまだ、繋がったままで。彼の空に自由など、最早有りはしない。そして彼の足と繋がった糸の先、足の無い少女は、か細い糸を握り締め、繋がりをそこに確かめるようにしてこう言うのだ。

『いいか、よくきけ』

 まるで自分に言い聞かせるように強く、

『あたしはいつもあんたのそばにいる。いつでもあんたを見張ってる。だから、にげようなんて考えるな。かならずここに帰ってこい』
「……イエス、マスター。我があるじ」

――もしも、彼が人ならば。それは、どれほどの渋面であっただろう。
 けれど彼は人ではなく、故にただ一ツ鳴き声だけを漏らすのみ。

 阿呆、と、ただ一ツ。まるで自分を嘲るように。

 それから彼は翼を大きく羽ばたかせると、羽根を散らして飛び去った。






 途方に暮れて、不夜の街を飛ぶ。








 彼がこの街に来てから数日。未だ進展の無い状況に、彼は焦躁を感じ始めていた。いっその事諦めてしまおうか、と考えることも一度や二度は有った。しかし、それでも彼は、今日も少女のために不自由な空を飛び回っていた。
 そして空を飛べば、エネルギーは消費されるものだ。この数日間、殆ど食事をしていないのなら尚更の事。羽ばたく翼にも力がない。故に彼は食事を採ろうと考え、ビルの林立する街の中心を目指してふらつきながら飛んで行く。
 と、眼下に広がる住宅地の中の一軒に、大きな鳥籠が見えた。

――鳥を飼っているのか。

 調度良い、と彼は考えた。鳥を飼っているなら餌は有るだろうし、このような都市の住宅なら飼っているのは精々インコなどの小鳥だろう。であれば、それを食べて飢えを凌ぐことが出来る、と。
 高度を下げ、鳥籠の下がっている家のベランダに近付く。そうして始めて気付く鳥籠の異常な大きさ。正方形のそれは、小鳥を一羽飼うためには明らかに大きすぎた。しかし空腹と疲労で思考が鈍っていたのか、彼は特に警戒することも無くベランダに足を掛け、そして、それを見た。
 足だ。しかし彼のものとは違い、ただ枝に留まるためだけに使われる訳では無い……猛禽の爪。それが彼の元に向かい、そして鳥籠に阻まれて止まった。金属が揺れる音が、閑静な住宅街にけたたましく響き渡る。
 あまりの出来事に身動きも出来ないでいた彼に、驚いたような、或いは呆れたかのような声が掛けられる。ほう、と嘆息のように吐き出して、

「ほう、猫や泥棒の類では無かったか。済まないね、最近どうにも物騒なものでね。少々手荒ながらもお暇してもらおうとしたのだよ。……尤も、そんな必要は無かったみたいだがね」

 済まなかった、ともう一度だけ言うと、巨大な鳥籠に見合うだけの体躯をもった梟は翼を振るって鳥籠の中央に戻った。彼の物よりも幾分か力強い羽ばたきの音が耳朶を打つ。

「ふむ。ここで会ったのも何かの縁だ。きみさえよければ、少々、取るに足らない世間話にでも付き合っては貰えないかね?」

 一介の飼い梟たる私には出せる茶も無いのだがね、と、梟は言う。穏やかな口調だ。人の良い老爺の、穏やかな笑みを想起させる。それは、他人に安堵を齎すものであっだだろう。しかし、心身ともに余裕の無い彼にとっては、逆に苛立たしいものでしかない。相手に焦りが無いことに、理不尽な怒りさえ覚えるのだ。苛立ち混じりに否と吐き捨て、彼は申し出を断ろうとした。が、それよりも早く梟が鳥籠の隅に何かを転がした。小振りな鼠だ。既に息は無く、それどころかヒトが手を加えたような跡すら有る。先程の事も有ってか中々手を出そうとしない彼に対し、梟は「警戒するのも無理は無いか」と鷹揚に頷く。

「とはいえ、客人に口を付けたものを出すのも忍びないのでね。黙って受け取ってはくれないか? 何、心配することは無い。それ自体は私の主人が市販されているものを購入してきた物だ。本当は知人に譲ろうと思っていたのだがね。まぁ、彼には申し訳ないが我慢してもらうとしよう」

 一片の嘘も感じられないその言葉に彼はようやく警戒を解くと、鳥籠に近付いて鼠を啄み始めた。久しく忘れていた肉の味に、何か、込み上げるものがある。脳髄にゆっくりと染み入るような、甘やかで切ないそれは――或いは、郷愁と呼べる物だったのかもしれない。実際の所その感情がどのような物なのか……彼には、知る由も無いのだが。

――主人、か。

 呟く彼の心中に僅か、疼くような痛みが走る。足に感じるのは襤褸切れの枷、今にも千切れ落ちてしまいそうな頼りない感触。


――想起する。


 繋がった糸の先で、今、少女は。
 何を思い、感じ、憂えているのだろう。

 それすら、既に少女と共に無い彼には知り得るものではない。認識から隔絶された少女は筐中の猫に等しい。全ての知覚が及ばない厳封された箱の中、不確かな少女の存在を、彼はただ、思うことしか出来ないでいる。


――少女を。


 噛み締める肉の味。似ても似つかない。遠い過去のような最近の事が、脳裏に過ぎる。
 食え、と少女は言った。何を、と彼は問う。不機嫌そうな顔で突き出したのはひどく膿んだ足の断面、僅かな腐敗臭が鼻につく。
 何故、と彼は問う。腹が減っただろう、と少女は言った。それとも腹が減らないのか、と加える彼女に否定を返し、彼は言う。自分の身体を喰わせるなんて頭がおかしいんじゃないのか、と。
 仕方ないだろう、と少女は言った。何が、と彼は問う。その言葉に、少女は周りを見渡す。釣られて彼も周囲に視線を巡らせるが、周りには瓦礫が有るばかりで何も無い。食料も、その代用もだ。だから、文字通り身を削って捻出する以外に無いのだ、と、少女は言う。
 阿呆か、と彼は問う。失礼な、と少女は言った。他に案が有るなら言ってみろ、とも。それに彼は閉口せざるを得なくなる。何を言おうが彼が飢えているのは確かだったし、他に食料が無いのも事実だったからだ。
 頼む、と少女は言った。本当に良いのか、と彼は問う。彼の言葉に頷きを返して、少女は言う。それに、と。

「それに、かゆくてしかたないんだ」

仕方なく、彼は少女の疵に嘴を寄せる。やはり鼻につく腐乱臭を、無理矢理に捩伏せて啄んだ。
 ぐ、と少女が呻きを漏らす。例え腐りかけでも、痛いものはやはり痛いのだ。目尻に涙を浮かべ、しかし叫ぶようなことはしない。彼の食事が終わるまで、歯を食いしばりじっと堪えようとしていた。それどころか、目の端に雫を浮かべ、食いしばった歯の隙間から呻きを零しながらも――微笑ったのだ。未だかつて彼が見たことも無い程優しく、「うまいか」と言って――――。


――美味い筈無いだろうが。

 吐き捨てる悪態もまた、少女に届く事は、無い。口に合わなかったかね、と問う梟に否と答えると、彼は鼠を全て食べ終えた。礼を言い、飛び立とうとする彼を、梟は呼び止める。もう少しだけ話がしたい、と言う申し出に、しかし彼は首を縦には振らなかった。ならば一つだけ、と梟は言う。

「見た所きみは野に生きていた訳では無さそうだが、何かあったのかね」

 もしかしたら力になれるかもしれない、という梟の申し出に、彼は逡巡を見せる。手詰まりなのは確かだ。彼に取れる手段は全て実行してきた。しかし成果は現状が示している通り……まるで上がっていない。従って、知恵を貸してもらえるならそれに越したことは無いのだが。
 焦りが悠長に話などしている暇は無い、と彼を急かす。刻一刻と迫り来る刻限の気配が、背中にべったりと張り付いて離れない。否、だからこそここで知恵を借りるべきなのだ。そう割り切り、彼はここに至るまでの経緯を全て話すことにした。
 彼が話している間、梟が何かを言う事はなかった。適当な相槌を打つ事すらしない。ただ、彼が訥々と言葉を紡ぐのを黙って聞いているだけだ。反応らしい反応と言えば、彼が話し終えたときの溜息一ツだけ。そしてしばらく考え込むような素振りを見せると、やがて「きみは」と口を開いた。

「きみは、その娘の事をどう思っているのかね」と、意図の読めない言葉を吐く。彼が怪訝に思い問い質すと、梟は言い方が悪かったか、と反省の色を滲ませる。

「つまり……なんと言ったら良いのだろうね。きみは、本当に彼女を助けたいのかね?」

 どういうことだ、と彼は問う。

「きみは、本当に自分にそれが出来ると思っているのかね?」





てなわけでクロエ二話。大分間が開きました。スマソ。ってか前後編で終わってねえ……!

つ、次で終わるよ! 絶対!



clearvoice1989 at 11:49│Comments(0)TrackBack(0)小説 

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