2009年03月05日

Reach to the Blue Sky



西條拓巳の葬儀はしめやかに行われた。限られた家族と親族だけが招かれた、閉じた葬式。香を上げるものは少ない。涙を流す者も同じく。黙祷を捧げる者の内、一体幾らの人間が彼の冥福を切に願ったのだろう。葬儀に参列する者は皆、何処か憑き物が落ちたかのような安堵を浮かべていた。彼の両親とて、その例に漏れる事は無かった。
葬儀場に流れる、白々しく、寒気のする空気。皆一様に、この重苦しい雰囲気が逸早く過ぎ去ってくれる事を望んでいた。


ただ、柩に縋って滂沱する彼の妹と。

ただ、葬儀場の外からその風景を眺める少女と。

そして、『彼自身』を除いて。









詰まる所、彼はそれだけの存在だったのだろう。








告別式が終わり、出棺する……その寸前だった。誰一人として口を開かない事で形作られた静謐が、突如として打ち破られる。参列する遺族が何事か、と目を向けると、その視線の先には息急き切って走ってきた人間の姿があった。年の頃はそう、まともに成長していたのなら、という限定条件下に於いての彼と同程度。同じか一つ上くらいの、十代後半の少女だ。長い黒髪に精悍な顔つき、そして高い身長。見る者に怜悧な印象を与えるその表情は……しかし今は見る影も無く、歪んでいた。怒りを覚えているようにも、虚しさを覚えているようにも、悲しみを覚えているようにも見え、或いはその全てであるようにも見える。肩で息をする彼女は鋭い視線で式場内をぐるりと一瞥すると、息も絶え絶えに、こう叫んだ。

「に、西條が死んだというのは、本当か――――!?」

返答は無い。少女に突き刺さるのは誰何の視線か、或いは怪訝な表情。遺族の誰もが、少女を知らない。少女の方もそれを承知しているのか、近くに居た遺族の男性に目を付けると掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。

「おいお前、答えろ! 西條が、西條拓巳が死んだというのは本当か!」
「な、何を言っているんだ君は……それに、君は誰、」

堤防の崩壊は早かった。少女は憤怒の形相で男性の胸座を掴み上げると、その細腕からは想像もつかないほどの力で男性の身体を釣り上げる。その口から放たれるのは、先程と同じ質問。即ち、

「いいから答えろ! 西條はどうなった!」

西條拓巳の安否。

少女は、彼と別れてからそれだけを考え、そして無事を祈り想い続けてきた。その結末が……こんなものだとは。少女には、信じ難かったのだ。いまや式場を目の前にして、少女の心中は荒れ狂っていた。不安。焦燥。憤怒。哀切。まるで足元が覚束なくような、雑多な感情。深い闇を湛えた混沌が、少女の心を支配している。彼女が強硬な手段を取るのも、全てはこれが原因。強気でいなければ今すぐにでも、泣き出してしまいそうな自分がいることを認めたくは無かったのだ。

しかしその強がりも、男性の一言で無残にも打ち砕かれる。

「そ、そうだ! 死んだよ! 拓巳は死んだ!」

その台詞を聞いた瞬間。少女の体からは力が抜け、男性は彼女の腕から解放される。「何だって言うんだ一体……」と呟きながら荒れた胸元を正し、傍から離れる男性など意にも介さずに、少女――――蒼井セナは、その場にくずおれる。先程までの勢いがまるで嘘のように消沈したその表情からは、全ての色が失われていた。

「そんな……嘘、だろう……?」

茫然自失として、呟く。

「……私は、梢に……なんて言ったら良いんだ……?」

思い描くのは友人の姿。足の怪我が原因で入院し、身動きが取れない自分の代わりに拓巳の無事を確かめてきてほしいと言った折原梢の今にも泣き出しそうな笑顔。無事だと信じている、でも不安で堪らない……そういった表情だった。それが絶望の色に染まるのを、彼女は見たくは無かった。それも自分の口から、西條拓巳の死を伝えなければならないのだ。嘘を吐こうにも、梢は他人の心を読むことが出来る。隠し事は無意味だ。寧ろ下手に隠そうとすれば、却って傷付いてしまう恐れがある。

そしてそれ以上に。

「う……あ、ああ……」

セナ自身も、西條拓巳の死という事実に耐えられそうには、無かった。

「わああああああああああああああああああああ――――――っ!!」

慟哭。喉が裂けんばかりの絶叫が迸った。瞳からは大粒の涙が零れ落ちて大地に染みを作る。その場に居る誰もが彼女に近付くことを逡巡する中、一人の少年がその肩に優しく手を置いた。囁く。

「セナ」

――その声には、聞き覚えがあった。あの日、最後に彼と別れた日、神泉駅のホームで確かに聞いた声。

「にし、じょう……?」

誘われるように、顔を上げる。そこには戸惑っているような、心配しているような表情があって。

「……泣かないでよ……セナ。その、」

それは間違いなく、彼女の知る、西條拓巳の顔だった。

「せ、セナは……その、そう言うキャラじゃ、ないだろ……?」

……ついでに言えば。慰めが下手なのも、同じだった。




CHAOS;HEAD Unofficial Story
The After of the CHAOS;HEAD/AA Route

"Reach to the Blue Sky"




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「ん……」

閉ざした瞼の奥、眼球に覚えた僅かな軋みで、西條拓巳は目を覚ました。欠伸交じりに伸びを一つ。涙腺から塩味の液体が分泌され、瞳から零れ落ちた。視界に滲みが広がるのは同時、寝惚けた頭と相まって眼前の風景を曖昧にする。判然としない視界に感じるのは漠然とした不安。自身の存在を疑ってしまいそうになる程、目覚めの感覚に現実感が足りない。まるで『夢から覚めた夢』を見ているように、漫然としている。

先程瞳から零した液体で頬が濡れているのを、頬の触覚は訴えている。しかし、肉体の感覚は寧ろ信頼に値しない事を彼はよく知っていた。現実も夢も妄想も、元の形がどうあれ……受容器たる人間はそれを電気信号以外では受け取れはしないのだ。曖昧に思い出されるのは僅か数日前の記憶。ディソード。野呂瀬。ノア供C琶匆修気譴燭修譴蕕鰐棲里雰舛鯑世困北源兇掘一つの言葉を残して消えていく。


――――光は電磁場の波。その振動現象を、人の視覚は色として捉える。自分のデッドスポットに望んだ色を当て嵌めれば、空は見える。


それは、今見ているものを棄却すると言うこと。そしてそれが可能だということは逆説的に……見ているものなど、どうとでも出来るということ。

――止めよう。

思考は無益だ。視覚が受容した刺激を脳が世界と認識し、構築する。そこに疑問を挟む余地はない。現状の真偽を求めることなど、端から無理な話なのだ。嘆息を一つ洩らし、脱力する。

実在の照明は殊の外困難であるというのは、誰の言葉だったか。凝り固まっていた体を解し、尾を引く思考を振り払う。服の裾で雫を拭えば視界は晴れた。ここ最近、彼が塒にしているROOM37の風景を視認する。少し薄暗いのは、電気が来ていないからだろう。ここにある光源は唯一、罅割れた壁から漏れ入る陽光のみ。建物の中も荒れ切っており、見たところ崩落の危険性が無いのが唯一の救い、といった風情だ。座っていたリクライニングシートから腰をあげる。服も髪も全てが埃っぽい。風呂に入りたい欲求が生まれるが、無理だ。拓巳だけでなく、渋谷自体が最早それを許すような状況に無い。

数日前に起きた関東大震災……その正体は野呂瀬による“サードメルト”の影響なのだが……の被害は甚大で、首都圏に繋がるライフラインは全てカットされている。加えて交通状況が最悪だ。道路はあちこちで崩落が発生しまともに車の走れる状況ではなく、電車はそもそも電気が通っていないため使えない。食糧も配給や有志ボランティアの手による炊き出しに頼るしか無く、『深夜でもコンビニに立ち寄れば食糧は手に入る』といった気楽な状況は既に過去の遺物だ。食料を求めた暴動が起こることも珍しくなくなってきた。電話は回線がパンクしているのか常に通話中で何処にも繋がらず、避難所には常に不穏な空気が漂い、追い詰められた人々の顔は見事に憔悴しきっている。急ピッチで復興は進められているが、渋谷が、首都が完全に機能を取り戻すのは何時の事になるのかは分からない。これを機に首都を西方に移してはどうかという話さえ出ており、更には暫定的にではあるが京都に政府の会議室が置かれている程で、ひょっとしたらもうこの街は見捨てられてしまうのではないか、という不安さえ抱かせる。

外に出れば、見えるのは建物内と同じく荒れ切った街の風景で……拓巳はひっそりと溜息を吐く。前までは信じられなかった、しかし今では有り触れた風景。もう何の感慨も抱けない。当初はそれこそ近くにある瓦礫の中に誰か生き埋めになっているかもしれない、と妄想しかけたものだが、最近は全く考えなくなった。それは“妄想してはいけない”と強く念を押されたからでも有るのだが、やはり一番の理由は慣れ、だろう。脱感作が起こっているのだ。壊れゆく街並みにも……人の死にも。

食料を求めて、壊れた渋谷を歩く。隆起した道路の一部に足を取られ転びかけたが踏みとどまり、気を取り直して高校の方角へと足を向ける。今や無用の長物となった携帯電話を取り出し、時刻を確認。あと一時間ほどで、食料の配給が各避難所で行われる予定だ。それに参加しなければ、朝食抜きで昼まで耐えなければならない。それは避けたい事態だった。配給も、いつまで続くのか分からないからだ。もし、配給を受け損ねて。そして次が来なかったら。餓死までのリミットが早くなってしまう。

――彼に、彼女に、生きることを許されたこの身だから。僕は生き続けなければならない。それは義務であり、使命であり、そして僕自身が望む願望。

――生きるんだ。例え死にたいなんて思うことがあっても。それが、僕の今の望みだから。

荒れた道路は歩き辛く、歩みは少し覚束ない。目的地に着くまではもう少し、時間がかかりそうだった。




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やがて歩む拓巳の目の前に、目的地が見えてきた。私立翠明学園。現在は本来の機能を失い、渋谷に住んでいる人達の避難所になっている。だからか、その場を支配するのは嘗て有った穏やかな喧噪とは程遠い沈黙。胸中に重い凝りが下りたような心持ちになり、気分が僅かに悪くなる。敷地に踏み入れた瞬間、拓巳は反射的に顔を伏せ、誰とも視線を合わせないようにして歩いていた。良くも悪くも、悪目立ちを避けようとする癖は拓巳の心底まで染み付いている。しかしそれはこの場では誰もが行っていることだ。現状に対する不満、将来に対する不安で、誰一人として面を上げて歩く者はいない。これだけで、状況がどれだけ切迫しているか理解できるというものだろう。

配給は校庭で行われる。見れば、配給を待ちわびる人達で既に人だかりが出来ていた。顔は伏せたまま、群衆に近付く。――その時だった。誰かに声をかけられたのは。

「……ねぇ、キミ。ひょっとして西條拓巳じゃない?」
「……え?」

声に振り返ってみれば、そこに居たのは見ず知らずの少女。年齢は拓巳と同程度だろう。こんな状況だというのにその顔にはばっちり化粧が決められていた。沈んだ空気にそぐわない浮わついた表情。その顔を見た瞬間、拓巳の背筋に悪寒が走り抜けた。


――――僕を、見るな。


「やっぱりそうだよね! あたし見てたよ! ほら、こないだのスクランブル交差点で、ニュージェネの犯人捕まえた奴!」
「……っ!」

周囲を顧みないほどの大声に、人々から疑問と不機嫌の綯い交ぜになった視線を向けられる。好奇の色が混じるものも幾許か存在し、中には会話しているのが西條拓巳だと知って近付いてくるものも居た。気付けば拓巳の周りには人だかりが出来あがっており、皆一様に興奮した様子で話しかけてくる。

「街頭ビジョンに映像が映ったのって、あれキミがやったんだよね? あれってどうやったの?」「どうしてあの女が犯人だって分かったんだ? やっぱりエスパーなのか?」「俺、あんたのファンなんだ! サインくれよ、サイン!」「ずっと前から好きでした! 付き合ってください!」


――――僕を、見るな。


身勝手に放たれる言葉に記憶が刺激される。覚えるのは、既視感に近い感覚。しかしそれはデジャヴなどではない。目の前にあるのは完全なる過去の再現。あの、サードメルトが起こった晩。スクランブル交差点での光景と何から何まで同じだった。

「で、さ。あの時言ってたキモオタがどーの、エロゲーがどうのって言うのは……アレ、嘘なんだよね? 英雄扱いされるのが恥ずかしかったから言っちゃっただけなんだよね? 渋谷を救ったヒーローが、そんなこと言うはずないもんね」

不意に眩暈を感じ、よろめく。込み上げるのは吐き気。口の中まで上って来た吐瀉物を、“騒ぎにしたくない”その一心で吐き出すことだけは避け、嚥下する。胃酸で喉がひりつき、涙腺からは雫が零れた。

――こいつらは僕を見ていない。『僕』という外殻に、『僕』という妄想を見ているだけ。自分にとって都合の良い偶像をでっち上げているに過ぎないんだ。

先程の一言で、それを理解した。同時に、彼を取り巻くすべての人間たちが、どう足掻いても受け入れ難いものであるということも。

気付けば俯きがちになっていた顔を上げ、眼前を睨みつける。深呼吸を、一つ。吐き出した吐息は訳の分らぬ熱に満ちて。想起するのは、あらゆる意味を持つ直線と曲線。硬質でいて軟質、滾る様に怜悧で、流麗たる悪意の塊。握り締める。


「――――ッ!」


その時だった。


「ようタク! 無事だったのかよ!」

声とともに背中を叩かれ、手の中の感触は霧散する。驚いて振り返ればそこには見覚えのある顔。拓巳を視認して、笑っている。

「全然顔見ないからよ、てっきり生き埋めにでもなっちまったのかと思ったぜ」

そう言いながら、彼は周囲の様子など気にも留めていないといった風に拓巳の肩に腕を回した。そのままずるずると何処かへと引きずって行こうとし、しかし、拓巳に一番初めに話しかけた少女がそれを驚いたように声をかける。

「え? あ、ちょっと! まだ聞きたいことが、」
「悪いな。せっかくの感動の再会なんだ。水入らずで話させてくれ」

少女に申し訳そうな笑顔を向け、彼は手をひらひらとさせた。少女が不服そうな顔で唸る。食い下がろうとかける言葉は、しかし轟音にかき消されて届かなかった。音源の方に目を向ければ、そこにはコンテナを提げたヘリコプターの姿。配給のための物資の搬入。それを認めた人々は途端に拓巳への興味を失ったかのようにコンテナへと殺到する。展開される、誘導しようとする係員と我先に食料を手に入れようとする人々との些細な諍い。いまや校庭は、静寂とは程遠い怒号と喧騒に包まれていた。それを見ながら、ひっそりと大輔が呟く。

「なんとかやり過ごせたみたいだな。ったく、人が困ってんの見てわかんねーのかよ、あいつら」
「……三住、くん」
「おう。久しぶりだな。何日ぶりだ? お前に会うの」

三住大輔。クラスメイトで、親しげに話しかけてくれていた。しかしそれは所詮、作り上げられた妄想でしかない。そう、妄想。繋がりは畸形じみて醜悪。不純ですらない下種以下の愚物。崇高さの欠片も無い、人工物。創作物。三文芝居の脚本のようで。嫌悪感は無い。振り返れば楽しかったと分かる記憶の数々が否定されたようで、ただただ悲しい。ただただ虚しい――――

胸中に疼きを覚え、顔を伏せる。まともに顔を見れそうになかった。否、今までまともに顔を見たことなど有っただろうか。いつも、何に対してでも目を背けがちだった様な気がして、浮かぶ悔恨に握りしめた拳、爪の食い込んだ掌からは僅かに血が滲む。

そんな拓巳の心境を知ってか知らずか、他愛ない話を振っていた大輔だったが、不意に何気ない風に……或いはそれは装ってのことだったのか……訊ねる。

「なぁタク、お前、ニュージェネ解決したって、ホントか?」

どくり、と心臓が一度、大きく跳ねた。きっと彼も同じだ、と拓巳は思う。あの事件以来人の拓巳を見る目が変わった。隙あらば彼を取り囲み、質問攻めにしてくるようになったのだ。それは避難所でも変わらず、元より他人を関わるのが不得手な拓巳は行きつけのネットカフェへと逃げ込まざるを得なくなった。人のことなんか知らないで。好き勝手に他人の心を土足で踏みにじって。自分の妄想を相手に押し付けているだけなのに。全くそれに気付かない。そんな人間と同じに、彼も変わってしまった。いや、変わってしまったのは自分か。誰もを信じられなくなった。

「いいか、正直に答えろ」

未だかつて見たことのない、真剣見に溢れる表情。心臓が早鐘を打ち、知らず、拓巳は唾を飲み込んでいた。その音が厭に大きく聞こえたのは、きっと気のせいではない。……何を答えればいいのか。どう答えたら、また、あの日々のように――――

「……お前一体何人とヤッたんだ?」
「……へ?」
「恍けんなよ。お前ほどの有名人ともなりゃ、女なんて選り取り見取りだろ? いくら二次元にしか興味ないお前でも、グラっとくる娘、一人は居たんじゃないのか?」

口端を釣り上げていやらしく笑う大輔に、拓巳は言葉を何も返せないでいた。呆気に取られ、丸くした眼を向けている。

「で、物は相談なんだが。……何人か俺に、可愛い娘紹介してくれねぇか?」

呆れるくらいに、彼は彼だった。

「……は、はは」
「ん? どうしたタク。いきなり笑いだしたりなんかして。……あ、さてはアレだな。お前が見つけた可愛い娘思い出してたんだな? くーっ! 全く羨まし過ぎるぜお前はよ! ちょっとは俺にも分けてくれよ! なぁ――――」

首に回していた腕を力強く締め、彼は、三住大輔は、


「――――友達だろ!?」


そう、言った。

「……はは、ははは……うん、うん……」
「お! 誰か紹介してくれんのか!?」
「うん……それ、いい……はは、ははははは」
「よっし決まりな! 週末は絶対空けとくようにしとくからな! 約束だぞ!」
「うん……分かった。ぜ、絶対三住くんが喜ぶような、か、かわ、可愛い女の子、用意、しとく……」
「おっし!! 頼んだぜタク!!」

拓巳を開放し、虚空に向けてガッツポーズをする大輔。鬱陶しかった。前までは、多少。けれど今は、心の底から微笑ましいと感じる。

――――きっとそれは単純なことで。言ってしまえば一言で済むことなのだろう。それでもその言葉に集約されるすべての意味は、きっと、何よりも、尊い。

――――友達なんだ。僕らは、変わらずに。

それが堪らなく嬉しかった。それが堪らなく愛おしかった。故に、告げる。


「ねぇ、大ちん」
「ん? なんだタク……ておわ!? なんだよお前いきなり、ちょ、ハァ?」
「え、えっと……め、迷惑だった? その……こ、こういう風に名前、名前呼ぶのってさ……」
「いや、別に迷惑じゃねぇけどよ……なんつーか、いきなりすぎてビビったっつーかな。てかよ」

頭を鷲掴みにして引き寄せ、至近距離で凄む。

「大ちんは止めろ。……男にそう呼ばれんの、鳥肌もんだ」
「そ、そっか……そりゃ、そうだよね……」
「大輔でいい」
「……え?」
「何度も言わせんなって。大ちんは止めろ。大輔で呼べ。分かったか?」
「……うん。あ、ありがとう、大輔……」
「……」
「……」
「……なんか、照れるな」
「……そ、そう……だね」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……くっ」
「……ぷっ」
「く、はは、ははは」
「ふ、はは、あはは」

過去は過去でしか無く、今は今でしか無い。例え切っ掛けがどのようなものであっても、彼と友人であった過去は変えようのない事実として存在し、そしてそれは確かに、楽しかった記憶を形どり、今、この時へと繋がっている。それは、これからも変わることなく連綿と続いていくのであろう。勿論それが永遠のものとなるかどうかは彼ら次第なのだが、


「「あっはははははははははははははははははは!!!」」


いずれにせよ、彼は。

この日、生まれて初めて、腹の底から笑う事を知ったのだった。





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屋上へと続く扉は鍵が閉められていなかった。それもそうだ。こんな時代に、わざわざ貴重な体力を使ってまで屋上に来る人間はそういない。朝食を取る人間とくれば尚更だ。屋上には彼ら以外の人間は皆無。遠くから人のざわめきのようなものは聞こえるものの、そこは無音に近い静寂に包まれていた。適当な場所に腰掛け、食えよ、そう言って差し出されたカンパンの缶詰を二人で食べる。味気ねぇなぁ、と大輔が文句を言い、拓巳がそれに同意した時だった。軋みを上げて屋上のドアが開く。

「あ、いたいた。やっほー、タク。それに大ちんも」
「あ……」
「ん? なんだ梨深かよ。相変わらず色気のねー」
「ひっどーい。それが久々に会った友達に言う台詞?」
「うっせ、悔しかったらもう少し女らしくなってみろよ。なぁタク、お前もそう思うだろ?」
「タクはそんなこと言わないよねー。ね、タク?」
「え、あ、僕、僕は」

二人に視線を向けられて拓巳はうろたえる。おろおろと視線を彷徨わせ、そして梨深と目があった。梨深もそれに気付いたのか、はにかむようにして微笑む。瞬間的に、拓巳は顔を背けていた。やってから、しまった、と思う。

――これじゃまるで、僕が梨深を避けているみたいじゃないか。

避けているわけではない。ないのだが、なんとなく顔を合わせづらいのだ。その原因となった光景が、脳内にフラッシュバックする。あれはそう、ほんの数日前の事だった。





梨深が泣き止むのを待って、拓巳は身体を起こす。普段使わない筋肉を酷使した代償だろうか、全身が悲鳴を上げていた。しかし、言ってしまえば目立つ痛みはそれ以外に無く、それだけで済んだこと自体は幸運と言えた。

――こんなことなら、普段から運動しておけば良かったな。

そんな後悔も今更である。ノア兇和麑Δその手で破壊した。黒幕である野呂瀬も……恐らくは、死んだ。もう拓巳が狙われることは無い。梨深や七海に危険が及ぶ心配は無いし、セナの憂慮は取り除かれた。そう、全てはもう終わったのだ。彼らを縛るものは既に無い。これからは、自由に生きていける。ただ一人を除いては。

「……『将軍』……」

呟く。その言葉には、どんな感情が込められていただろうか。上を向く形で固定された頭、その顔には無表情。そこからは何も窺い知ることは出来ない。或いは、拓巳自身も理解していなかったのか。嫌いだ、と明確に宣言したにも拘らず。その彼が死んで、何処か、空虚を覚える自分が居る。ざまぁみろ、と言うことも出来ない。それは彼を既に半身として認めていたからなのか、はたまた別の理由か。それは、これからも知り得るものではないのだろう。『将軍』は既にこの世には居ないのだから。

――きみはぼく。ぼくはきみ。でも、そのきみはどうやら、死んでしまったらしい。

――きみは死んだ。ぼくは生きてる。確かな矛盾。些細な矛盾。でも、それは確かに存在する。

――ねぇぼく。きみは、本当に――――?

答えは無い。ある訳も無い。自嘲するように頬を歪めると、遣る瀬無い気持ちが込み上げてきた。嗚咽を零しそうになるが、耐える。これ以上、彼女の前でみっともない姿を曝したくはなかった。

蟠る思いを振り切り、視線を下ろした。咲畑梨深が、そこにいる。彼女の方も拓巳を見ていたのだろう。目が合った。梨深の、心配顔が朱に染まる。その表情の変化に、拓巳もつられて頬を染める。何処かむず痒いような、気恥ずかしい雰囲気。耐え切れずに先に目を逸らしたのは、珍しく梨深の方だった。そのまま小さく唇を動かす。

「タクはあたしのこと好きって、言ったけど」

その一言に、拓巳の顔が梨深のそれとは比べ物にならないほどに赤くなった。そんな言葉、言った覚えが……あった。間違いなく、誤魔化しようもないほどに、確かに記憶に刻まれている。冷静になってみればこの自分がよくもまぁそんな事を言えたものだ。密かに戦慄する拓巳の前、梨深は恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、やがて覚悟を決めたかのように口を開いた。

「えっと、それってあたしたち、付き合うってことで、いいんだよね……?」
「あ、え、そ、そ、それは、えと、そう、だね。その、」

付き合うという単語に過剰反応を示した拓巳が慌てふためく。それを見た梨深はくすりと微笑し、

「――――ごめん」
「……え?」

そしてその表情を凍らせた。信じられないと言った風に、拓巳を見る。視線を向けられて自分の失言に気付いた拓巳は、一瞬見せた真剣な表情を、再び情けないものへと変わらせた。

「あ。え、えっとそういう訳じゃなくて、違うんだ、そ、その、なんて言うか、ま、まだ自分に自信が持てないって言うか、別、別に嫌いな訳じゃなくて、う、嘘だったわけでもないし。き、気持ちに整理をつけたいんだ。ぼ、僕は妄想だから、その、色々と不安で」
「……」
「だ、だから、その……待ってて欲しいんだ。梨深には。気持ちの整理がつくまで」

色々と言い繕ってはいるが、踏ん切りがつかないだけだ。彼女と付き合っている自分が想像できない。コンプレックスまみれの自分では釣りあわない。もしも何か間違えて、嫌われてしまったら困る。というか人生終わる。そんな、雑多な感情が素直に受け入れることを阻害しているのだ。

詰まりは……この期に及んで、彼はまだヘタレだったというだけのこと。

「うん――――」

しかし彼女はそんな彼を嘲笑うわけでもなく、失望するでもなく。ただ笑って、こう告げる。

「――――あたしは、タクを、あなたをずっと待ってるよ」


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「ねぇタク、聞いてる?」

梨深の呼びかけに我に返る。どうやら少しぼんやりし過ぎていたらしい。目を瞬かせ、認識を改める。視界に映る景色は廃墟の街ではない、屋上の風景だ。しかし、先程に比べて欠けているものがある。三住大輔の姿だ。首を捻り、訊ねる。

「あれ、三住く……大輔は、どこに?」
「何故にフルネーム?」

怪訝顔をされる。顔から火が出そうだった。

「大ちんなら、なんかさっき校庭に可愛い子見付けたって走ってったよ?」

友達甲斐無いよね、と不貞腐れたように言う。思わず、苦笑が漏れた。それが三住大輔と言う友人なのだから仕方がない、と拓巳は思う。それに、

――梨深も、大輔を友達だと思ってくれてるんだな。

『友達甲斐の無い』というその言葉も、友達にこそ向けられるものなのだから。多分それは、間違いないことなのだろう。

――ああ、友達がいるって、こういう気分だったんだ。

胸に溢れる、えも言われぬ充足感。だと言うのに穏やかな心境。確かに感じる親愛と信頼。その絆。不思議な感覚。けれど、不快ではない。もし他人に幸せか否かと訊ねられれば、間違いなく是を返すことが出来るだろう。知れず、口端が吊り上がっていた。晴れやかな笑みだった。

「……って、大ちん居なくなったのに気付いて無いって、それって何も聞いて無かったってことだよね」
「あ、うん、ご、ごめん。で、ええと、何の話だっけ」
「しょーがないなぁ。もっかい言うよ?」

上手く会話を繋げられるだろうか。悩む。けれどその懊悩も、何処か気持ちいいものだった。



「タクミの葬式をやることが、決まったよ」



告げられた言葉に、絶句する。上手い返事など、考えられるはずも無かった。



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それは拓巳自身の願いだった。『将軍』の葬式を、他でもない彼の家族に執り行ってもらうこと。彼自身の死に対して割り切れない感情を抱いていた彼は、ケジメを付けるために、梨深に頼んでおいたのだ。七海もそれを願っているだろうから、と口添えて。

状況が状況だけに、こんなにすぐ実現するとは思っていなかった。震災の犠牲者も数多くいただろう。式場を使いたい者も掃いて捨てる程。それなのにこうやって、式は執り行われようとしている。

――もっと落ち着いてからでもよかったのに。

あまりにも良すぎる手際に、違和感を拭えない。まるで彼のことなど早く忘れたがっているような気さえしてくる。視線の先には沈痛な面持ちの人々。しかし、その内面までは計り知れない。一体何人が本当に彼の死を悼んでいるのか。分からない。

誰かに問い詰めてみたくなった。お前らは本当に彼の死を悲しんでいるのか。肩の荷が下りたなんて思ってはいないだろうな。しかしそれでどうしようと言うのか。遺族のだれもが、親族のだれもが、拓巳のことを知らないのだ。本当のことを正直に話しても信じてもらえるとは思えない。警察に通報されるのがオチだ。故に彼は彼自身の葬儀を、こうして外から眺めているしか出来ない。そばに梨深が居るのが救いと言えば救いだが、どうにも遣る瀬無いものを感じる。俯く。そうやって悔しさを噛み締めた。

胸の内に、沸々と込み上げるものがある。手の中に剣の感触を夢想しそうになった。疑念は尽きない。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんなんだ、これは――――!

「あ……」
「――っ!」

声に、弾かれるようにして顔を上げた。見れば、そこには見知った顔がある。彼の妹。

「七海……」



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兄が死んだ。無機質な病室の白いベッドの上で。この自分が見守る前で。まるで老人のようにやせ細って、17歳の短い人生を終えたのだ。それは果たして幸せといえたのだろうか。兄の人生は、幸せだったと言えるのだろうか。

「おにぃ……」

虚空に向けて、呟く。返事は、いつまでたっても返ってこなかった。ひょっとして、なんて考えてみたけれども、やっぱり兄は死んでしまって、返事を返すことが出来なくなった。実感する。泣きそうになった。
葬儀が行われることになったのは、それから一週間ほど後のこと。震災の影響でもう少し遅れると思っていたが、どうにもそう言うことは無いらしい。至極、どうでもいいことだが。

兄が死んでからこの一週間、私はどうも泣きっぱなしだったように思う。それ以外のことは記憶にない。友達にも合わなかった。学校はもちろん休校だ。出かけたような覚えはあるけど、それも目的はなんだったか。兄を……探していたような気はする。けれど空腹を然程感じないから、きっと食事くらいは取っていたのだろう。あと、睡眠も。母が借りてきた礼服を合わせた時に見た顔は、それほど荒れてはいなかったから。

でも、泣いた記憶だけは確かにある。一日数回、数十回。泣いて、泣き止んで、兄を思い出して、また泣いて。それを繰り返して過ごしてきた。

葬式の日。ベットから起きたと同時に、私は涙を流した。夢を見ていたのだ。昔の夢。懐かしい風景。まだ私が幼稚園児の頃の兄の記憶。

別に、なんでもない記憶だったと思う。ただ、幼い私がいて、その頃はまだ元気な兄がいて、一緒に公園で遊んで、日が暮れて、遊び足りない私がぐずついて、兄がそれを優しく宥めている。暮れなずむ朱色の街並みを、手を繋いで歩いて、帰り道の途中で寄り道してひとつ買ったコロッケを、内緒だよって言って分けあった、そんな記憶。

それがあまりに優しくて。それがあまりに幸せで。それがあまりに悲しいから、私の頬に涙が伝った。

しばらくはそうやって涙を流して、止まったのは十分ほど後のこと。袖で涙を拭って、ベッドから這い出る。泣き過ぎた所為なのか、厭に体が重かった。そう言えば今月生理がまだだったっけ。ひょっとしたら来たのかも。そうだとしたらなんてタイミングの悪い。せめて葬儀の最中に退席する羽目にならない事を祈るしか無いか。

部屋を出て、階下へ向かい、洗面所兼脱衣所にて服を脱ぐ。兄の葬儀なのだ、身体を清めて行かなければならない。少しばかり臭う気もするし。ああ、前にお風呂に入ったのは何時だっけ。思い出せない。身体がだるい。

服を脱ぎ終わり、風呂場へ。その音を聞きつけた母が顔を出し、気を付けてね、と言ってから鍋を手渡してきた。最近の東京で風呂と言ったら、笑えることに、まずは鍋が出てくるのだ。お湯はもとより、震災で浄水施設が全滅したから水さえもロクに使えない。ミネラルウォーターを沸かした熱湯にタオルを浸し、少し覚ましてからそれで髪と体を拭く。物足りなさを覚えながらも、事務的にすべての行程を済ませ、脱衣所に戻って服を着る。趣味じゃない、黒い服。葬式用の、味気ない。嘆息は出なかった。出ないほどに、精神が摩耗している。

その後出された味気ない朝食をこれまた事務的に胃の中に詰め込み、そうこうしているうちに葬儀の時間がやって来たらしい。車は使えないので、葬儀場まで歩いていくことになる。式場と火葬場が一体になった斎場。そこに、二十分ほどで到着した。人は少ない。十人居るか居ないかくらい。けれど、知らない顔も有る位だから、集まった方だと言えるのだろうか。

不意に、違和感を覚える。知らない顔。会うことも無かった人。それが、なんでこの場所に。面識が無かったのなら、別に、繰る必要も無かったのではないだろうか。じゃぁ来たのは何のため? 体裁のため? 親族の葬儀にも顔を出さない奴、なんてレッテルを張られたくなかったから? 信じられない。気分が悪くなって、逃げだした。会場の外に出る。




そこに、居た。兄が。

兄だと思っていた人物が、だ。




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拓巳は、七海を前にして何も出来ないでいた。何と声を掛ければ良いものかも分からない。……七海は、本当の妹などではないのだ。

フラッシュバック。七海を自分の妹として過ごした一年半の記憶が脳裏に過ぎる。つくづく最低な兄貴だったと思う。本物の兄となどとは比べ物にならない。邪険にしか扱ってこなかった。兄らしいことなど一つも。見限られても仕方がないとも思う。

しかし、拓巳にとって七海は……妹以外の何者でもなかった。

本気で心配もした。心の底から大切だとも思った。しかしそれは一方的な思い込み。七海には、妄想ではない、本物の兄がいる。そして七海が自分に向けていた感情は、本来その兄に向けられていたものだ。拓巳に対してではない。その事実に、胸が圧迫される。

――浅ましい。七海から兄を奪ったも同然だと言うのに、なんて。悔しいとか悲しいなんて思うのは、間違ってる。

化け物らしい奇怪で醜怪な感情だ、と、そう思う。歯を食いしばり、踵を返す。一刻も早く七海の視界から自分の存在を消してしまいたかった。或いは。拓巳は恐怖していたのかもしれない。妹である……そう思い込んでいる、七海に否定されるのを。

「……おにぃ」

七海に呼ばれて、肩が震えた。踏み出しかけた足は中途で止まる。振り返ることは出来ない。七海が、自分が、どんな表情をしているのか確かめるのが怖かった。背後からは七海の声だけが届く。おにぃ、ともう一度声が聞こえ、


――――とん、と背中に軽い衝撃。抱きしめられた。背後から。熱と振動が伝播する。その震えは何から来るものなのか。答えはもう分かっていた。柔らかく包み込むような温もりの中、一点にだけ、じわりと広がる熱がある。胸が締め付けられるような思いがして、拓巳はそっと、七海の手に自らの手を重ねる。


「会いたかった。会いたかったよ、おにぃ」
「……うん、ごめん、七海」

胸中に込み上げるありったけの親愛を込めて、告げる。堪え切れなくなったのか、七海の口からは嗚咽が零れ始めた。やがてそれは、慟哭に変わる。拓巳は何も言わず、自分がそこに居ることを示すかのように手を重ね、自分の背中に、熱を伝え続けた。




clearvoice1989 at 16:22│Comments(0)TrackBack(0)小説 

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