2008年11月2日の記事「水蒸気の変化傾向」の続きの話題です。残念ながらその話題全体の展望ではなく、ある部分の理解が少し進んだという話です。
地球温暖化に対する懐疑論のうちに、「ここ数十年の観測データによれば気温は上がっているのに対流圏上部の水蒸気量が減っている、したがって水蒸気によるフィードバックは負であり、温暖化は抑制される」という議論があるそうです。(これは温室効果の存在を否定する議論とは両立しないことにご注意ください。)
水蒸気量が減っているという話は、Paltridge (ポールトリッジ)さんというオーストラリアの気象学者による2009年に出版された論文にあります。Paltridgeさんは。大気の放射伝達について本を書いたり、気候システムに非平衡熱力学のエントロピー生成最大仮説を適用した理論的研究をした実績のある学者ですが、2009年には温暖化懐疑論の主張を書いた本を出しています([読書ノート])。その本に、水蒸気が減っているという論文を投稿したが不採用になったという話があります。その後、別の雑誌に論文を投稿しなおしたものが出版されています。
Paltridgeほかの論文の材料は、「NCEP/NCAR再解析」というデータで、対象期間は1973年から2007年まででした。再解析とは何かを説明すると長くなってしまいますが、簡単に述べると、長期間の気象観測報告を一定の数値天気予報モデルに取りこんで、観測値とも物理法則ともつじつまのあったデータセットを作成することです。(もう少しだけ詳しくは、教材用ページ「気象の数値予報でのモデルの使われかた」[2011-03-31リンク先変更]をごらんください。) 世界でいくつかの20年以上にわたる再解析が行なわれていますが、そのうち最初に実現されたのは、アメリカの気象庁に相当するNOAAのNCEPと大学共同研究所であるNCARとの共同事業によるものでした。この再解析の結果のデータセットに従えば、確かに1973年以来の対流圏上部の水蒸気の変化傾向は減少です。
しかし2010年になって、アメリカのテキサスA&M大学の気象学者Dessler (デスラー)さんの論文が出ました(受理8月、出版10月)。NCEP/NCARを含む5つの再解析データセットについて水蒸気量の変化傾向を見ています。このうちには日本の気象庁と電力中央研究所によるJRA25 (http://jra.kishou.go.jp 参照)も含まれています。再解析データがそろっている必要から対象期間が1979年以後となっていますが、NCEP/NCARデータではPaltridgeほかの結果と同様な対流圏上部の水蒸気の減少が見られるのに対して、他の再解析では増加または変化が小さいです。再解析どうしの違いがかなりあるので、まだ現実の変化傾向に定量的にせまるのはむずかしいですが、対流圏上部の水蒸気の減少傾向はどの再解析でも見られる特徴ではなくNCEP/NCAR特有のものであることがわかったわけです。
違いが生じた原因は次のように推測されています。水蒸気の情報源となる観測データとして、NCEP/NCAR再解析が使ったのは、各国気象庁が定期的に行なっているラジオゾンデ観測でした。これは気球に温度計・湿度計・気圧計と電波発信器をつけて上昇させながら観測するものです。そののちの再解析は、人工衛星センサーで得られた電磁波(赤外線やマイクロ波)の情報をもあわせて使うようになりました。
ラジオゾンデ観測は気候変化に関する貴重な情報源です。とくに衛星観測が始まる前の対流圏の情報はほかにありません。しかし、変化傾向を論じるときにはデータの質の変化に注意が必要です。対流圏のうちでも下のほうに比べて上のほうでは大気中の水蒸気の混合比は桁違いに小さいです。湿度センサーがまわりの湿度の違いに応答するのは時間がかかり、水蒸気の多いところを通過したあとで少ない水蒸気量を精度よく観測するのはむずかしいです。機種が変更されるときには、応答時間の長いものから短いものに変わることが多いです。すると対流圏上部の湿度が見かけ上低いほうにずれることになりがちです。
実はNCEP/NCAR再解析で対流圏上部の水蒸気の減少が見られることにはNCEPの人たちも気づいていて、Yang (ヤン)さんによって2003年に学会発表されて予稿が今もオンラインに置かれています。これは学術論文にはなっていませんでしたが、Paltridgeさんの論文について最初に投稿された学術雑誌の編集者が「これは周知の事実であり掲載価値がない」と判断したとしてもふしぎはないと思います。
なお衛星のほうも、センサーの世代交代があります。違った設計のセンサーの場合は水蒸気の情報を取り出す方法を作りなおさなければなりませんし、同じ設計のセンサーどうしでも個体差があって、データの質をそろえるのはなかなかむずかしいのです。衛星データを取り入れた再解析どうしのくいちがいのおもな理由はこのあたりにあると思います。
masudako
文献
地球温暖化に対する懐疑論のうちに、「ここ数十年の観測データによれば気温は上がっているのに対流圏上部の水蒸気量が減っている、したがって水蒸気によるフィードバックは負であり、温暖化は抑制される」という議論があるそうです。(これは温室効果の存在を否定する議論とは両立しないことにご注意ください。)
水蒸気量が減っているという話は、Paltridge (ポールトリッジ)さんというオーストラリアの気象学者による2009年に出版された論文にあります。Paltridgeさんは。大気の放射伝達について本を書いたり、気候システムに非平衡熱力学のエントロピー生成最大仮説を適用した理論的研究をした実績のある学者ですが、2009年には温暖化懐疑論の主張を書いた本を出しています([読書ノート])。その本に、水蒸気が減っているという論文を投稿したが不採用になったという話があります。その後、別の雑誌に論文を投稿しなおしたものが出版されています。
Paltridgeほかの論文の材料は、「NCEP/NCAR再解析」というデータで、対象期間は1973年から2007年まででした。再解析とは何かを説明すると長くなってしまいますが、簡単に述べると、長期間の気象観測報告を一定の数値天気予報モデルに取りこんで、観測値とも物理法則ともつじつまのあったデータセットを作成することです。(もう少しだけ詳しくは、教材用ページ「気象の数値予報でのモデルの使われかた」[2011-03-31リンク先変更]をごらんください。) 世界でいくつかの20年以上にわたる再解析が行なわれていますが、そのうち最初に実現されたのは、アメリカの気象庁に相当するNOAAのNCEPと大学共同研究所であるNCARとの共同事業によるものでした。この再解析の結果のデータセットに従えば、確かに1973年以来の対流圏上部の水蒸気の変化傾向は減少です。
しかし2010年になって、アメリカのテキサスA&M大学の気象学者Dessler (デスラー)さんの論文が出ました(受理8月、出版10月)。NCEP/NCARを含む5つの再解析データセットについて水蒸気量の変化傾向を見ています。このうちには日本の気象庁と電力中央研究所によるJRA25 (http://jra.kishou.go.jp 参照)も含まれています。再解析データがそろっている必要から対象期間が1979年以後となっていますが、NCEP/NCARデータではPaltridgeほかの結果と同様な対流圏上部の水蒸気の減少が見られるのに対して、他の再解析では増加または変化が小さいです。再解析どうしの違いがかなりあるので、まだ現実の変化傾向に定量的にせまるのはむずかしいですが、対流圏上部の水蒸気の減少傾向はどの再解析でも見られる特徴ではなくNCEP/NCAR特有のものであることがわかったわけです。
違いが生じた原因は次のように推測されています。水蒸気の情報源となる観測データとして、NCEP/NCAR再解析が使ったのは、各国気象庁が定期的に行なっているラジオゾンデ観測でした。これは気球に温度計・湿度計・気圧計と電波発信器をつけて上昇させながら観測するものです。そののちの再解析は、人工衛星センサーで得られた電磁波(赤外線やマイクロ波)の情報をもあわせて使うようになりました。
ラジオゾンデ観測は気候変化に関する貴重な情報源です。とくに衛星観測が始まる前の対流圏の情報はほかにありません。しかし、変化傾向を論じるときにはデータの質の変化に注意が必要です。対流圏のうちでも下のほうに比べて上のほうでは大気中の水蒸気の混合比は桁違いに小さいです。湿度センサーがまわりの湿度の違いに応答するのは時間がかかり、水蒸気の多いところを通過したあとで少ない水蒸気量を精度よく観測するのはむずかしいです。機種が変更されるときには、応答時間の長いものから短いものに変わることが多いです。すると対流圏上部の湿度が見かけ上低いほうにずれることになりがちです。
実はNCEP/NCAR再解析で対流圏上部の水蒸気の減少が見られることにはNCEPの人たちも気づいていて、Yang (ヤン)さんによって2003年に学会発表されて予稿が今もオンラインに置かれています。これは学術論文にはなっていませんでしたが、Paltridgeさんの論文について最初に投稿された学術雑誌の編集者が「これは周知の事実であり掲載価値がない」と判断したとしてもふしぎはないと思います。
なお衛星のほうも、センサーの世代交代があります。違った設計のセンサーの場合は水蒸気の情報を取り出す方法を作りなおさなければなりませんし、同じ設計のセンサーどうしでも個体差があって、データの質をそろえるのはなかなかむずかしいのです。衛星データを取り入れた再解析どうしのくいちがいのおもな理由はこのあたりにあると思います。
masudako
文献
- A.E. DESSLER & S.M. DAVIS, 2010: Trends in tropospheric humidity from reanalysis systems. Journal of Geophysical Research, 115, D19127, doi:10.1029/2010JD014192. [要旨は無料、本文は有料] [PDF (著者サイト)] [2011-09-26訂正: 発行年をわたしが2001と書きまちがえていましたが、正しくは2010です。]
- Garth PALTRIDGE, Albert ARKING & Michael POOK, 2009: Trends in middle- and upper-level tropospheric humidity from NCEP reanalysis data. Theoretical and Applied Climatology, 98, 351 - 359. doi:10.1007/s00704-009-0117-x [要旨は無料、本文は有料]
- S.-K. YANG, M. KANAMITSU, W. EBISUZAKI, A.J. MILLER & G. POTTER, 2003: The tropospheric humidity trends of NCEP/NCAR Reanalysis before satellite era. Symposium on Observing and Understanding the Variability of Water in Weather and Climate, American Meteorological Society. [PDF (学会サイト)]