気候変動・千夜一話

地球温暖化の研究に真面目に取り組む科学者たちの日記です。

2010年03月

IPCCとヒマラヤの氷河の件など、「ウェッジ」4月号の伊藤公紀氏の評論について

わたしは、このブログをいわゆる温暖化懐疑論への反論ばかりにするつもりはありません。温暖化の脅威を強調しすぎる議論や、確かでないことを確かであるかのように言う議論にも反論しておく必要があると感じています。また、もっと積極的な科学の話題の紹介や議論もしたいと思います。しかし、このところ、温暖化懐疑論があまりに勢いづいているので、それに対してもんくを言いたいことが多くなってしまいます。

雑誌「WEDGE」(ウェッジ)の4月号に、伊藤公紀さんの「IPCC崩壊、それでも25%削減掲げ続けるのか」(81-84ページ)と赤祖父俊一さんの「CO2起因論はなぜ正説らしくなったのか」(85-86ページ)という評論がのっています。ここでは、そのうち伊藤さんの評論について、温暖化対策に関する件は見送り、事実認識に納得がいかないところを指摘します。その話題に関連する限りで、赤祖父さんの評論について少しだけふれます。

== IPCC報告書のヒマラヤの氷河の件 ==
伊藤さんの「情報ロンダリングが次々と発覚」と「ずさんなチェックシステム」の節についてです。

--- 情報ロンダリング? ---
IPCC第4次報告書のうち第2部会報告書のアジアの章で、ヒマラヤの氷河の将来見通しについて、あやしい情報が確かであるかのように見せられていた、というのは事実だと言ってよいでしょう。わたしが知ることができたことは、別のブログ記事[その1][その2]に書きました。

それや、それと同様に見える事例をとりあげて、IPCCあるいはその主要人物が「情報ロンダリング(laundering、洗浄)」をした、つまり、あやしい情報を確かであるかのように意図的に見せかけた、と疑う人がいます。伊藤さんもその立場に立っているようです。

わたしは、世界のあちこちの人が時間を部分的にさいて参加するIPCCがそういう陰謀をたくらむことは、非常に考えにくいと思います。ありそうなのは、(伊藤さんも83ページ上段で述べているように)能力のわりに仕事をかかえこみすぎた結果、不注意になったことです。そこに少数の人の悪意によってあやしい情報が持ちこまれたこともありえますが、これまでに判明した問題は、悪意を仮定しなくても説明できると思います。

このような問題の再発を防ぐための策は、日本学術会議がメンバーになっているInter-Academy Councilという国際組織によるIPCCのレビュー[別ブログ記事参照]でとりあげられると思います。

--- ライナ氏の報告書の評価 ---
インド環境省から出されたライナ(Raina)氏の報告書は、査読済み論文でもそれを総合したものでもなく、図書館情報学用語でいうグレイ・リテラチャー(grey literature)という種類にはいります。この点ではWWFの報告書と同様です。

また、「各国の氷河研究者の意見はライナの結果を支持していた」という伊藤さんの認識は支持できません。

氷河研究者たちが雑誌「Science」に出した手紙[J. Graham Cogley, Jeffery S. Kargel, G. Kaser and C.J. van der Veen, 2010: Tracking the Source of Glacier Misinformation]で、IPCC報告書のアジアの章のヒマラヤの氷河の将来見通しの情報源があやしかったという指摘をしましたが、きびしい字数制限のなかでライナ氏の報告書にもふれて、「その『氷河は1万5千年前の気候に応答している』という主張は支持できない」と述べています。なお、この手紙の著者には、伊藤さんが「ケイザー」として紹介している(わたしはドイツ語読みが正しいと推測して「カーゼル」としますが)第1部会の執筆者Kaser氏が含まれています。

ライナ氏の報告書に対するもう少し詳しい批評は、手紙のもうひとりの共著者のカーゲル(Kargel)氏が中心となって編集したプレゼンテーション資料([別記事その2]からPDF版にリンクしておきました)の41ページめにあります。

--- パチャウリ議長の発言 ---
IPCCのパチャウリ議長がライナ氏の報告書を「ブードゥー科学」と呼んだという話はわたしは確認できませんでしたが、「school boy science」(「高校生なみの科学」というところでしょう)と呼んだという話はイギリスの新聞Guardianの(ウェブサイトの) 2009年11月9日づけのデリーのラメシュ(Randeep Ramesh)記者による記事にありました。パチャウリ氏が「ライナ氏の報告書の質がIPCC報告書よりも劣る」と判断したことはまちがいなさそうです。ただし、そのとき念頭にあったのは、アジアの章ではなく、第1部会報告書と、第2部会報告書の水資源の章にちがいないと、わたしは思います。

IPCCが1月20日に出した声明では、第2部会報告書のアジアの章のまちがいを認めるとともに、統合報告書の49ページの主張は変更の必要がないと述べているのですが、統合報告書のそこで参照されているのは第1部会報告書と第2部会報告書の水資源の章なのです。

--- 査読済み論文でない文献の扱い ---
IPCCが使う材料は査読済み論文に限られているわけではありません。そのことは[別記事その1]で紹介しました。ただし、査読済み論文でないものを採用する場合には著者たちによる検討が必要で、残念ながらアジアの章の氷河のところではその手続きがとられていなかったようです。

--- ラル氏の発言 ---
伊藤さんは、アジアの章の編著者のひとりのラル(Lal)氏が、「間違いに気付いていた」と述べています。その出典は示されていません。

わたしはイギリスの新聞Daily Mailの(ウェブサイトの) 2010年1月31日づけのローズ(David Rose)記者による記事を見ました。そこでは、ラル氏の発言は「WWFの報告書がグレイ・リテラチャーであることを知っていた」ということです。ローズ記者はラル氏が編著者の職務をじゅうぶん果たさなかったと見ているようですが、意図的にまちがった内容を混入させたとは見ていません。

なお、ローズ記者の記事には、カーゼル氏が(アジアの章の原稿の)まちがいを指摘する手紙をラル氏に送ったと言い、ラル氏は受け取っていないと言ったとあります。実際はカーゼル氏が手紙を送った先はIPCC事務局であり(たとえば[別記事その2]で紹介したイェール(Yale)大学の大学院生による評論参照)、そこからアジアの章の編著者には送られなかったようです。(今後にIPCCがよりよい仕事をするために、このような連絡をよくすることが大事なのは確かです。)

== いわゆるホッケースティック曲線の件 ==
伊藤さんの「作られた温暖化人為説」の節で、過去約千年間の気温の復元推定がいろいろあげられています。しかし、それぞれの対象とする地域の広がりは必ずしも同じではありません。復元推定が理想的にできたならば同じ値になるべきものばかりではないのです。

IPCC第3次報告書でとりあげられたマン(Mann)ほか(1999)の復元推定(伊藤さんの図B)は北半球平均気温、第4次報告書の図(図C)は全球平均または北半球平均です。他方、第1次報告書の図(図A)は出典が示されていませんが、伊藤さんが指摘するようにラム(Lamb)氏の復元推定だとすれば、イングランド中部、広くとっても西ヨーロッパの気温です。また、図DのOppoほか(2009)の研究についてはわたしはまだ調べていませんが、分析の手法は精密であっても、特定の地点の気候変数の復元であって、全球や半球の代表値ではないはずです。

「気候科学はホッケースティック曲線の呪縛から逃れつつある」というのはそのとおり、というよりも、とっくに呪縛されていないのです。ホッケースティック曲線に呪縛されているのは(あるいはそれを使って相手を呪縛しようとしているのは)一部の温暖化懐疑論者なのです。

ついでながら、赤祖父さんは「明るみになったIPCCの本質」の節で、「IPCCは現在でもホッケースティックを公には取り消していない」と言っていて、取り消すべきだと言いたいようです。わたしが思うには、Mannたちの結果の今の位置づけは、伊藤さんの図Cにある多数の曲線を含む多数の研究結果のひとつであり、重要なものではなくなったが、否定されたわけでもありません。「公には取り消していない」という状態こそ正当な扱いなのだと思います。

== そのほか ==
伊藤さんはそのほかいろいろな科学的知見を短く紹介しています。しかしどの文献にのっている件かよくわからないので、批評がしにくいです。また、短い記述では、そこに使われている用語の意味の説明をしっかりすることができず、用語の解釈のしかたによって、違う意味になってしまうことがよくあります。

なお、関連する話題を論じた英語圏のウェブサイトの多くは、新聞社やテレビ局などのマスメディアから情報を得ることが多いようですが、その見出しだけを見て勝手に解釈している場合もあるようです。また、マスメディアのウェブサイトに、原論文の趣旨をまちがえて解釈した解説がのっていることも(悲しいことに、たびたび)あります。

科学的話題を広めようとするかたがたには、報道や評論をうのみにせず、新しい科学研究の成果については原論文の要旨を確認し、読者も出典をたどれるようなヒントを与えて紹介してくださるよう、お願いしたいです。

masudako

「地球温暖化懐疑論批判」の本についてひとこと(masudako)

前の記事いわゆるClimategate事件、渡辺(2010)への反論(3)の中で、「地球温暖化懐疑論批判」という出版物については別の機会に論じる、と書きました。裁判の材料ともなっておりますので慎重にする必要がありますが、まずひとこと述べておきたいと思います。

ここで述べるのは共著者のひとりであるわたし個人の発言です。(わたしは他の著者の考えも近いと思っておりますが、確認をとっておりません。)

この本は題名のとおり「地球温暖化懐疑論」と通称されるさまざまな「論」を批判しようとしたものです。「懐疑論者」あるいは「懐疑派」と呼ばれる「人」を批判する態度はとらないようにつとめました。

批判対象について、著作物を文献リストにあげ、著者名と発行年でたとえば「渡辺(2005)」のような形で表記しました。懐疑論といわれるものの内容は多様なので、それぞれの議論の対象となる「論」の例を明示したかったのです。必要なのは「論」であって著作物の表現ではないので、原則として文章を引用せず要約して表現しました。

渡辺さんは「発言を指弾した」と表現されていますし、読売新聞社説も「研究者が...自説を誹謗中傷されたとして...」と書かれており、説が誹謗中傷の対象となりうるのか疑問ではあるのですが、わたしたちが人ではなく論を論じようとしたことはわかってくださったのだろうと思います。

ただし、第1章の議論1の証拠1・2のところ、とくにFrederick SeitzとFred Singerに対する記述は「人」の批判になっていると思います。この章は担当執筆者を明示しており文章はその人の判断によったものですが、わたしがこの部分はそれでよいと考えた理由は次のとおりです。

北アメリカ(アメリカ合衆国とカナダ)には、地球温暖化の科学に関するさまざまな疑いをふりまく活動をしている団体がいろいろあります(たとえばHoggan 2009の本を参照)。その多くはシンクタンク(think tank)に分類されていますが、むしろ宣伝機関です。SeitzやSingerは、かつては科学者として業績をあげた人なのですが、最近はこのような温暖化懐疑論宣伝機関の論客となっているのです。宣伝機関が発信する懐疑論を批判するには、論の中身よりも宣伝という人の行動に注目するのが適当です。

わたしの知る限り、日本語圏にはこのような組織的な温暖化懐疑論宣伝活動は見あたりません。日本語圏内の温暖化懐疑論を批判するには、「論」に注目するのが適切だと思っています。

文献

  • 明日香 壽川ほか, 2009年:
    地球温暖化懐疑論批判 (IR3S/TIGS叢書 1)。東京大学サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)・東京大学地球持続戦略研究イニシアティブ(TIGS)。80ページ、非売品。PDF版がウェブサイトhttp://www.ir3s.u-tokyo.ac.jp/sosho にある。[読書ノート]

  • James Hoggan, 2009: Climate Cover-Up: The Crusade to Deny Global Warming. Vancouver BC Canada: Greystone Books (D&M Publishers), 250 pp. ISBN 978-1-55365-485-8.
    [読書ノート]


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