気候変動・千夜一話

地球温暖化の研究に真面目に取り組む科学者たちの日記です。

2012年07月

原子力防災と気象学会・気象学者のかかわり

日本気象学会(ウェブサイトはhttp://www.metsoc.or.jp)が、2011年3月の原子力事故の際にとった態度、とくに3月18日づけ(ウェブサイトに置かれたのは21日)の理事長から会員向けに出されたメッセージが、情報の流通をさまたげるものであり、住民の安全に役立つ情報を提供するという公共的役割からも、科学研究の自由という面からも、まずかった、という批判が多くあります。近ごろ、わたしは他の専門の科学者から聞きました。また、「雲の王」という小説を出された川端裕人さんが、集英社のウェブサイトのこの本の紹介ページの対談の中で「失望した」「日本の科学史に残る汚点」と論じておられます。

会員であるわたしから見ると、このメッセージは強制力のあるものとは感じられず(学会理事長には学会業務以外の強制権限はありませんので)、注意喚起としては妥当だと思いました。このような態度しかとれなかったのは残念ではありますが、当時の学会の力量ではそれしかなかったかと思います。しかし、今後に向けてはよりよい態度をとりたいと思います。

理事長メッセージには2011年4月12日に補足が出されました。その後、気象学会は「原子力関連施設の事故に伴う放射性物質拡散に関する作業部会」をつくり、2012年3月5日に提言をまとめました。文書ファイルへのリンクは次のとおりです。(なお、このブログの過去の記事にあるリンクは気象学会ウェブサイトの移転のため無効になっていることがあります。)

  • 東北地方太平洋沖地震に関して日本気象学会理事長から会員へのメッセージ(2011年03月21日) [PDF]

  • 日本気象学会会員各位:3月18日付けの理事長メッセージについて (2011年04月12日) [PDF]

  • 原子力関連施設の事故発生時の放射性物質拡散への対策に関する提言 (2012年3月5日)[PDF]

  • 理事長メッセージ:「原子力関連施設の事故発生時の放射性物質拡散への対策に関する提言」を行うに当たって (2012年3月5日) [PDF]



2012年3月の提言には次のような項目を含んでいます。

  • 事実の公表

  • モニタリング体制の整備

  • 数値モデルを用いた予測の活用

  • 専門機関の役割

  • 情報公開と啓発



また、この提言を出す際の理事長メッセージで、日本気象学会として反省すべき点として次のことをあげています。(表現はわたしが少し変えたところがあります。正確には原文をごらんください。)

  1. 研究の自由の制限と受け取られかねないメッセージを出したのは失敗だった。

  2. 「SPEEDIのデータを一刻も早く公表すべきだ」と提言するべきだった。

  3. 気象学会として放射性物質の移流・拡散の防災の整備にほとんど貢献してこなかった。

  4. 会員全員に情報を伝えるメーリングリストを整備していなかった。



ここからわたしの考えです。

2011年3月の理事長メッセージの背景には第1に、いわば「災害情報一元化」という思想がありました。メッセージでは「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報を提供し、その情報に基づいて行動することです。」と述べています。防災情報のうちでもとくに警報などは、複数の機関から違うものが出されると社会が混乱するので、担当機関が決められています。大雨などの気象災害と、地震・津波については、気象庁です。気象学会の理事長そのほかおもだった人はこの体制をよく知っているので、警報は警報担当機関が責任をもって出してくれると想定し、他の人は警報とまぎらわしいものを出すべきでないと考えたのでした。

もちろん、警報担当機関が実際その機能を持っていなければこれではだめです。しかし、東日本大震災の際も、気象庁の気象・地震・津波に関する警報業務はほぼ正常に働いていました。津波警報を当初高さ6メートルと出してしまったという問題はありました。また、被災地の自治体の側の情報を受け取る体制が崩れていたところもありました。しかし少なくともマスメディアとインターネットを経由して情報は伝わりました。震災後の気象情報については、気象庁本庁と福島地方気象台それぞれのウェブサイトで、強化した発信をしていました。

ところが、原子力防災の情報発信のしくみはずっと弱いものしかありませんでした。役所間の役割分担が明確でなかったこと、実際に起こったよりもだいぶ小規模な事故が想定されていたことも問題でした。それで、結果として、的確な原子力防災情報の発信がなされなかったのでした。あとからこの状況を考えると、正式な警報とは別に、むしろ気象学会員を含む科学者の有志が予測情報を積極的に発信したほうがよかったのかもしれません。

本来は原子力についても正式な警報のしくみがあるべきです。しかし、たとえ2011年3月に起こった規模の事故が想定内だったとしても、確率の低い現象にちがいないので、そのために気象庁のものに負けない警報体制を発電所などの原子力施設から何十kmもの範囲を対象としていつも待機させておくことは現実的でないと思います。原子力専用の防災体制は施設の近くについて手厚く整備し、ある程度以上遠いところは気象庁の警報システムを利用するのが現実的ではないでしょうか。ただし、気象庁の業務がなしくずしにふえる案では実現に向かいませんので、 内閣レベルで国土交通省が分担する業務として決定して必要な予算を分配すべきだと思います。

第2に、理事長メッセージで「防災対策に関する情報等を混乱させることになりかねない」と言っているところ、これだけではわかりにくいのですが、2011年3月18日ごろわたしがインターネット上(検索で見つかるブログなど)の情報を見て実際このままではまずいと思った状況がありました。当時、事故を起こした原子力発電所からの放射性物質の放出量はよくわかっていませんでした。外国のいくつかの機関による移流拡散シミュレーションの結果の図がネット上で流れていましたが、わかった限りでいずれも単位量の放出を仮定したシミュレーションでした。しかし、その結果の数値を実際に人が受ける放射線量だとした解釈し、それは危険な量であるという説明がついた形で伝わっていることがよくあったと思います。(記録をとらなかったので「思います」としか言えないのですが)。 「それは単位量放出の計算であり、その数値を見て危険かどうか判断するのは不適切だ」というメッセージを出す人もいたのですが、画像と危険を訴えることばを含んだメッセージに比べてずっと伝わりにくいのです。そこで、わたしも、理事長メッセージを見る前に、シミュレーション結果の発信は、それが何を仮定してどのように計算されたものかの説明を確実にいっしょに届けるのでないかぎり、あぶないと思ったのでした。とりわけ震災直後の被災地では通信回線の能力が落ちていましたから、その多くを充分現実的でないシミュレーション結果でふさいでしまうのは悪いことだろうとも思いました(4月には通信がだいぶ回復したのでこの点は気にしなくてよいと思いました)。

さて、(「雲の王」はフィクションですが川端さんはノンフィクションも書くかたなので、ふとこの一対のキーワードに思いあたったのですが)、シミュレーションは、きびしく言えばすべてフィクションなのです。しかし、できる限り現実的なモデルに、できる限り現実的な初期値を与えて行なった予測計算は、ノンフィクションとみなすこともできるでしょう。ところが、現実的なモデルに、勝手な初期値を与えてシミュレーションすることもできます。これはまことしやかなフィクションで、説明が不足していれば受け取り手はノンフィクションとまちがえる可能性が常にあります。単位量放出はこのようなまことしやかなフィクションで、それがどのような意味で現実と似ていてどのような意味で違うのかを理解してもらうのは手間がかかります。災害時のみんな余裕のないときにそれは不可能だと考えてSPEEDIの単位量放出の結果を公開しなかった(そしてその意味を理解できるアメリカ軍にだけ見せた)という政府の判断になったのかもしれません。そこで気象学会員有志が「自分たちが被災地に説明に行くから、政府は情報を出せ」と言えばよかったのかもしれません。

緊急時でない今ならば単位量放出をじっくり説明することはできます。ふだんから単位量放出を見慣れていれば、緊急時にも「単位量放出です」と言って出すことができるのです。大飯の発電所の稼動を始めるにあたって、毎日「きょう大飯から単位量放出があったらどう広がるだろうか」というシミュレーションをして結果を公開することは、福島の教訓の応用として当然行なわれるべきだとわたしは思います。まだ行なわれていないことにあきれております。

シミュレーション結果を見るにはもうひとつ注意が必要です。地上でくらす人が長期にわたって受ける放射線は、おもに地表に落ちた放射性物質によります。このうち雨や雪に混じって落ちるぶんが多く、降水は空間的に不均一に起こる現象なので、放射性物質の空間分布も不均一になります。気象シミュレーションでも、降水過程を現実的に表現していれば、その不均一の度合いは現実的に表現できるかもしれません。しかし、空間スケール1kmでどこに雨が多くどこに少ないかまで現実と一致はしないでしょう。空間スケール50kmの特徴についてノンフィクションとみなせるシミュレーションでも、空間スケール1kmに注目するとまことしやかなフィクションになってしまうのです。地上の人の安全確保や除染のためには、シミュレーションでなく実際に雨・雪がどこに降ったかの情報をもつことが重要です。

放出量が的確に見積もられていない場合、単位量放出シミュレーションは可能ではありますが、それで得られる情報は、通常の気象シミュレーションによって得られる風などの気象場の情報につけ加わるものが少ないかもしれません。もしそうだとすると、そのような状況では、SPEEDIのような原子力防災専用システムではなく、通常の天気予報に原子力防災の機能をつけ加えたほうが有用かもしれません。複数の省庁にまたがりますが、混成チームなり省庁間業務委託なりによって実務的一体運営が行なわれるべきだと思います。予報の中枢で、気象場の情報と、排出源に関する得られる限りの情報、放射性物質の輸送と沈着に関する知見をもとに、予報文を組み立てる専門家に働いてもらうことと、現場の予報士に、放射能関係の用語の意味を正しく理解して予報文を説明できるように研修をしてもらうことが必要になるでしょう。

masudako

「日経サイエンス」2012年8月号「太陽異変」

日経サイエンス」の2012年8月号には「太陽異変」「竜巻の脅威」という2つの特集があります。ここでは太陽のほうをとりあげます。これはScientific Americanからの翻訳ではなく日本独自の企画です。

気候変化の研究者から見て、太陽の変動は注目すべきもののひとつです。5月の気象学会の中で行なわれた講演会でも、天文学者との意思疎通をもっと進める必要があるという発言がありました (わたしの覚え書きは[別ブログ6月23日の記事])。だから、この企画がされたことはありがたいことなのです。ただし、雑誌編集者がつけたと思われる表題や導入文に、地球の気候が寒くなるだろうという期待をもたせそうなことばがならんでいます。中身を読んでみると「かもしれない」とは言えますが「だろう」というほどの主張にはなっていません。また、二酸化炭素そのほかの温室効果の変化の効果との重みの比較はされていません。蛇足かもしれませんが、これは人為起源温室効果強化による地球温暖化を否定する根拠になる記事群ではないことに注意しておきたいと思います。

常田 佐久「特異な磁場出現 活動 未知の領域へ」は、太陽観測衛星「ひので」の観測でわかったことの報告です。このブログではすでに[2011年9月6日の記事][2012年4月12日の記事]でふれていますが、その後の進展も含めて、雑誌記事のほうがよくわかると思います。太陽磁場の「2重極構造」(わたしの4月12日の記事では「双極子磁場」と表現しました)つまり自転軸と磁石のN・S極の軸が一致するような構造が弱まり「4重極構造」が強まっています。また、黒点周期が通常の11年よりも長くなっています。これらの特徴が、過去に黒点が非常に少なかったMaunder極小期(1650-1700年ごろ)やDalton極小期(1800-1820年ごろ)に似ていると言っていますが、その根拠は次にのっている宮原さんの研究のようです。常田さんは太陽がそのような極小期に向かいつつある可能性があると言っていますが、断定してはおらず、あと11年くらい観測を続ければはっきりするだろうと言っています。なお、これらの極小期をさして「寒冷期」ということばも見出しには出てきますが、本文にはなく、見出しは編集者がつけたものではないかと思われます。

宮原 ひろ子「地球は冷えるか」は、地球に達する銀河宇宙線と太陽活動の関係の説明と、それが気候におよぼす影響に関する考えを述べたものです。宮原さんはもともと宇宙線の研究者であり、太陽磁場の変化によって宇宙線の動きがどう変わるかは専門家としての確かな知見なのだと思います。太陽活動周期はふつう約11年ですが、その回ごとに太陽磁場の向きが逆転します。太陽磁場と地球磁場が同じ向きか逆向きかによって、地球に達する宇宙線への影響は対称的にならないそうです。(これは古気候指標から原因をさぐるうえで重要なヒントであるとは思いますが、確かめるのはとてもむずかしいと思います。今回の解説ではそこはふれていません。)  宇宙線が気候に影響を及ぼすしくみについては次の草野さんと同じように考えているようです。そのうえで、因果関係を示唆する傍証というつもりだと思いますが、45ページの図では、2009-2010年の世界の異常天候(大雨・かんばつ・寒波など)の分布を定性的に示し、Maunder極小期中に宇宙線が異常に多かった時期の同様な分布とならべています。この部分については、ネット上で、気候に関して何かを主張する論法としてはあまりに雑だという匿名の論評を見ました。実際、最近の古気候学研究の中には、過去のさまざまな記録を温度などの定量的変数にそろえて統計的にパタンの類似性を見るものがふえています。わたしは定量的扱いと定性的扱いのどちらがよいかわかりませんが、45ページの図は「研究する価値がありそうである」ことを示唆するものではあるが研究成果として引用できるようなものではないと思います。

草野 完也 「雲と太陽 深い関係」は、太陽活動が気候に影響を与えるしくみに関する説を、(太陽光のエネルギー流の変動は小さすぎるとことわったあとで) 宇宙線と雲を介するものにしぼって述べています。まずSvensmarkの説を好意的に紹介しています。ただし、よく読むと、雲凝結核(草野さんの表現は「雲凝縮核」、たぶん「凝結」が気象用語で「凝縮」が物理用語)として働くには50 nm (ナノメートル)以上の大きさがほしいのですが、SvensmarkのSKY実験で得られた「3 nm以上」やCERNのCLOUD実験で得られた「1.7 nm以上」では小さすぎ、その成長過程が起こることはまだ説明できていません。草野さんはこれと並列に、雲の中にたまった電荷が重要だというTinsleyという人の説も紹介しています。わたしは、太陽磁場の変化は宇宙線を介するよりももっと直接的に電荷の動きに影響しうるだろうと思うのですが、草野さんは宇宙線を介する因果連鎖にこだわっているようです。気候への影響の定量的見積もりとしては、Svensmarkが前に示した銀河宇宙線と海上の対流圏下部の雲量との相関によるものを紹介しているだけで、そのデータは代表性に乏しいという気候学者からの批判にはこたえていません。

masudako

氷期の終わり、温度が先か、二酸化炭素が先か

直前の記事でもふれた雑誌『パリティ』には「ニュースダイジェスト」という欄があります。これはアメリカのPhysics Todayの記事の翻訳だそうです。対象分野は広い意味の物理科学で、地球物理を含みます。

2012年7月号31ページに「二酸化炭素と最後の氷河期の終わり」という記事があります。これは次の論文の紹介です。
  • J.D. Shakun, P.U. Clark, F. He, S.A. Marcott, A.C. Mix, Z. Liu, B. Otto-Bliesner, A. Schmittner, and E. Bard, 2012: Global warming preceded by increasing carbon dioxide concentrations during the last deglaciation. Nature, 484, 49-54. [要旨と、購読者向けの本文へのリンク]

わたしはまだ原論文を読んでいませんが、Skeptical Scienceというblogのdana1981さんの2012年4月10日の記事Shakun et al. Clarify the CO2-Temperature Lagと、RealClimateというblogのChris Coloseさんの2012年4月28日の記事Unlocking the secrets to ending an Ice Ageを見ました。

過去の気候の記録を見ると、寒暖と大気中二酸化炭素濃度とが関連して変動していますが、どちらが先かについてはいろいろな論争がありました。

この論文は、「最終氷期の終わり」つまり約2万年前から約1万年前にかけての時期について、南極氷床コアをはじめとする世界多地点の証拠を総合して、その順序を検討しています。結果を簡単に言うと、
南半球の温度上昇→二酸化炭素濃度上昇→北半球の温度上昇

の順で起こったということです (Skeptical Scienceの記事に引用されているShakunほかの図3参照)。

パリティ」の紹介記事の中の「南極の気温のほうが先に上昇しているという誤解を招きそうな現象の原因は」という日本語表現は、誤解を招きそうです。dana1981さんの説明と照らし合わせてみると、「南極の気温のほうが先に上昇しているという現象」は(Shakunほかの解析結果に従えば)実際あるのです。どんな誤解を招きやすいと言いたかったのかはわかりませんが、たぶん、南極ではなく全球平均を想定して「気温が先で二酸化炭素があと」という解釈が誤解だと言いたかったのだと思います。 (この日本語文を「南極の気温のほうが先に上昇しているという誤解」で切るのは誤解なのですが日本語だけ読む限りではそれを判断するのはむずかしいです。)

masudako

『パリティ』2012年7月号の吉田英生さんの評論へのコメント

パリティ』は丸善出版(丸善から分かれた)から市販されている物理に関する雑誌ですが、その昨年3月号に「温暖化問題、討論のすすめ」がのりました。このブログでは2011年03月11日の記事「『パリティ』3月号の温暖化問題の企画と松田卓也さんの評論へのコメント」で紹介・論評しました。

震災そのほかによって編集部の対応に手間取ったようですが、11月号から毎号1つの記事が連載されました。そのうち12月号について2011年11月28日「『パリティ』連載の温暖化問題の企画と安井至さんの評論へのコメント」でふれました。

この連載が、2012年7月号で一段落することになったようです。7月号の記事は、吉田英生さんによる「エンジニアからみた熱流体力学シミュレーション」です。

吉田さんといえば、エネルギー・資源学会 (http://www.jser.gr.jp/)の学会誌編集委員長で、学会誌の2009年1月号および3月号にのった電子メール討論「地球温暖化: その科学的真実を問う」の企画をされたかたです。学会誌にのった討論の内容は(2012年07月12日現在) 同学会ホームページ右下からリンクされたPDFファイル群にあります。この討論については、このブログで吉村じゅんきちさんが2009年01月16日の記事「『エネルギー・資源』新春e-mail討論」でとりあげました。吉村さんは、いわゆる温暖化懐疑論者(ただし主張内容はそれぞれに異なる)4人に対して、IPCC第1部会の結論が科学的に正しいとする江守正多さんのほうが議論に勝ったと見ていました。

ところが、今度の「パリティ」の記事で吉田さんは、「このメール討論をとおして、筆者はあくまでもコーディネータとして中立な立場を貫いたつもりではあるが、個人的には人為起源の温暖化説に疑問を感じている。」と述べておられます。江守さんに近い考えを持っている者として、残念です。

もっとも、その先を読んでみると、吉田さんの主張は、地球温暖化のしくみや観測事実に対する疑問ではなく、数値シミュレーションが現実に対応しているかどうか、そしてそのようなシミュレーションの結果を社会的意志決定に使えるだけの確かさがあるかどうかについての疑問であることがわかります。

ご自分でも内燃機関のエンジンの中など化学反応や相変化が起こる流体のシミュレーションによる研究をしておられる立場からの、乱流モデルには未解決の問題があり、水の相変化を含む大気のシミュレーションはさらにむずかしいという指摘はもっともです。

しかし、地球温暖化の見通しは、流体運動と相変化を含む3次元の気候モデルによるシミュレーションだけに依存しているわけではないのです。このことが、吉田さんに限らず、IPCCが第1次報告書を出した1990年よりもあとに地球温暖化問題を追いかけはじめたかたにはわかりにくいかもしれません。

基本は、Manabe and Wetherald (1967)の鉛直1次元のいわゆる「放射対流平衡モデル」によって、二酸化炭素濃度が全球平均地上気温をどのくらい変えることができるかの量の規模がわかったことでした。(高さ方向の違いを考えない0次元モデルでは決まらなかったのでした。) このモデルは、大気の対流による鉛直エネルギー交換を「気温減率が6.5K/kmに調節される」という形で入れているところが、理論的根拠という意味では3次元流体モデルよりもさらに弱いのですが、ここの仮定をありそうな範囲で変更すると(たとえば、専門用語を使ってしまいますが、「湿潤断熱減率になる」とする)、結果として得られる定常応答の温度変化が2倍・2分の1くらいの範囲で変わりえますが、桁違いになることはとてもありそうもないです。

3次元モデルの結果がこの範囲からはずれれば、1次元モデル・3次元モデル両方とも考えなおす必要がありますが、大筋で一致するので、完全な検証にはなっていないものの一方だけよりは知識の確かさが高まったと認識されたのでした。そのようなつきあわせを経た3次元モデルなので、もちろん雲の扱いなどが完全でないことは承知ですが、たとえば「これこれの二酸化炭素濃度シナリオが与えられた場合の全球平均地上気温の変化量が3℃を中心に1.5℃から6℃の範囲におさまる可能性が高い」などと言える程度には使えそうだという意味で、気候研究者は自信をもっているのです。

これだけでは議論がかみあっていないかもしれません。工学系の先生や大学院生がすぐためしてみられる形で1次元モデルとその論理構成説明文書を用意しておくことができればかみあいそうな気がします。残る問題は、そのような教材を整備することに能力と時間をさく人がそのことを業績として認められるかかもしれません。

masudako

見通しが持てるのはグローバル気候、経験するのはローカル気候

英語圏のことわざに
“Climate is what we expect, weather is what we get.”

([仮訳] わたしたちが期待するものは気候ですが、実際に得るものは天気です。)

というのがあって、気候・気象の話題によく出てきます。新しく出たDavid Randall (ランドール)さんの気候システム入門書「Atmosphere, Clouds, and Climate [わたしの読書メモ]の出だしでこれが使われていて、Robert Heinlein (ハインライン)さんのことばだと書かれていました。少し調べたところ、1973年に出た「Time Enough for Love」 (日本語題名は「愛に時間を」)というSFにあるらしいです。これがもし気候や気象が重要な役割をする作品ならばすぐ読んでみたくなるのですが、どうもそうではないようなので、この表現が小説の中でどういう役割で使われているのか確かめておりません。

わたしはこの表現を次のように理解します。(「期待」ということばを統計学でいう「期待値」のほうに引き寄せた解釈になっています。) たとえばこれまで行ったことのないところに来年数日間の旅行をする予定をたてているとします。来年行ったとき経験するのは、その数日間のそれぞれの日の天気です。しかし、今から来年の毎日あるいは週ごとの天気予報はできません。予備知識として持てるのは、その土地のその季節の過去の経験に基づく平均気温とか、気温の変動幅とか、降水確率とかの気候情報です。行ったときにはその気候の母集団からランダムに選ばれた要素が出現するだろうと考えて備えることになるでしょう。

さて、気候変化に関して何がわかっているかについて、気候変化の専門家とそれ以外の人(気候変化以外のものごとの専門家を含む)との間で、議論がかみあわないことがあります。その理由を考えてみて、いわば次のような問題があることに気づきました。
見通しが持てるのはグローバル気候、経験するのはローカル気候

さきほどの気候と天気の違いは視野に入れる時間スケールの違いとみなせますが、今度のは、空間スケールの違いです。

人がからだで感じる気候要素たとえば気温は、その場のローカルな気温です。観測機器たとえば温度計を使うとしても、それが直接測定するのはローカルな気温です。(観測に基づくグローバル平均気温はたくさんの観測値を集計して得られたものです。) 生態系や人間社会に影響を与える気候要素も多くの場合ローカルなものでしょう。人間社会が将来の気候変化について見通しを持ちたいと思ったとき、ほしいのはローカルな気候の変化の見通しであることが多いでしょう。(それは必ずしも自分の住むところについてとは限らず、原料を供給してくれるところ、製品を買ってくれるところ、競争相手がいるところなどかもしれませんが。)

ところが、気候の理論やそれに基づくシミュレーションによってこの期待にこたえるのはなかなかむずかしいのです。グローバルな気候システムのエネルギー収支をずらす要因は、わりあい少数個にしぼりこむことができます。それぞれの要因がどう働くかについて理屈で考えることもできます。ところが、気候システムのローカルな各部分の変化は、グローバルな変化要因に加えて、ある部分から他の部分にエネルギーが移ることによっても起こりうるので、さまざまな可能性があって、過去の変化の原因を説明することも、将来の変化の見通しをもつことも、グローバルな気候の場合よりもむずかしいのです。

研究を続ければ、ローカルな気候の見通しの精度は、少しずつ高まっていくと思います。しかし、将来とも、グローバルな気候の見通しよりも大きな不確かさをもつでしょう。ただし、不確かさが大きいということは何もわからないのと同じではありません。不確かさを承知のうえで判断の参考にしていく方法をくふうしていくべきなのだと思います。

masudako
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