日本気象学会(ウェブサイトはhttp://www.metsoc.or.jp)が、2011年3月の原子力事故の際にとった態度、とくに3月18日づけ(ウェブサイトに置かれたのは21日)の理事長から会員向けに出されたメッセージが、情報の流通をさまたげるものであり、住民の安全に役立つ情報を提供するという公共的役割からも、科学研究の自由という面からも、まずかった、という批判が多くあります。近ごろ、わたしは他の専門の科学者から聞きました。また、「雲の王」という小説を出された川端裕人さんが、集英社のウェブサイトのこの本の紹介ページの対談の中で「失望した」「日本の科学史に残る汚点」と論じておられます。
会員であるわたしから見ると、このメッセージは強制力のあるものとは感じられず(学会理事長には学会業務以外の強制権限はありませんので)、注意喚起としては妥当だと思いました。このような態度しかとれなかったのは残念ではありますが、当時の学会の力量ではそれしかなかったかと思います。しかし、今後に向けてはよりよい態度をとりたいと思います。
理事長メッセージには2011年4月12日に補足が出されました。その後、気象学会は「原子力関連施設の事故に伴う放射性物質拡散に関する作業部会」をつくり、2012年3月5日に提言をまとめました。文書ファイルへのリンクは次のとおりです。(なお、このブログの過去の記事にあるリンクは気象学会ウェブサイトの移転のため無効になっていることがあります。)
2012年3月の提言には次のような項目を含んでいます。
また、この提言を出す際の理事長メッセージで、日本気象学会として反省すべき点として次のことをあげています。(表現はわたしが少し変えたところがあります。正確には原文をごらんください。)
ここからわたしの考えです。
2011年3月の理事長メッセージの背景には第1に、いわば「災害情報一元化」という思想がありました。メッセージでは「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報を提供し、その情報に基づいて行動することです。」と述べています。防災情報のうちでもとくに警報などは、複数の機関から違うものが出されると社会が混乱するので、担当機関が決められています。大雨などの気象災害と、地震・津波については、気象庁です。気象学会の理事長そのほかおもだった人はこの体制をよく知っているので、警報は警報担当機関が責任をもって出してくれると想定し、他の人は警報とまぎらわしいものを出すべきでないと考えたのでした。
もちろん、警報担当機関が実際その機能を持っていなければこれではだめです。しかし、東日本大震災の際も、気象庁の気象・地震・津波に関する警報業務はほぼ正常に働いていました。津波警報を当初高さ6メートルと出してしまったという問題はありました。また、被災地の自治体の側の情報を受け取る体制が崩れていたところもありました。しかし少なくともマスメディアとインターネットを経由して情報は伝わりました。震災後の気象情報については、気象庁本庁と福島地方気象台それぞれのウェブサイトで、強化した発信をしていました。
ところが、原子力防災の情報発信のしくみはずっと弱いものしかありませんでした。役所間の役割分担が明確でなかったこと、実際に起こったよりもだいぶ小規模な事故が想定されていたことも問題でした。それで、結果として、的確な原子力防災情報の発信がなされなかったのでした。あとからこの状況を考えると、正式な警報とは別に、むしろ気象学会員を含む科学者の有志が予測情報を積極的に発信したほうがよかったのかもしれません。
本来は原子力についても正式な警報のしくみがあるべきです。しかし、たとえ2011年3月に起こった規模の事故が想定内だったとしても、確率の低い現象にちがいないので、そのために気象庁のものに負けない警報体制を発電所などの原子力施設から何十kmもの範囲を対象としていつも待機させておくことは現実的でないと思います。原子力専用の防災体制は施設の近くについて手厚く整備し、ある程度以上遠いところは気象庁の警報システムを利用するのが現実的ではないでしょうか。ただし、気象庁の業務がなしくずしにふえる案では実現に向かいませんので、 内閣レベルで国土交通省が分担する業務として決定して必要な予算を分配すべきだと思います。
第2に、理事長メッセージで「防災対策に関する情報等を混乱させることになりかねない」と言っているところ、これだけではわかりにくいのですが、2011年3月18日ごろわたしがインターネット上(検索で見つかるブログなど)の情報を見て実際このままではまずいと思った状況がありました。当時、事故を起こした原子力発電所からの放射性物質の放出量はよくわかっていませんでした。外国のいくつかの機関による移流拡散シミュレーションの結果の図がネット上で流れていましたが、わかった限りでいずれも単位量の放出を仮定したシミュレーションでした。しかし、その結果の数値を実際に人が受ける放射線量だとした解釈し、それは危険な量であるという説明がついた形で伝わっていることがよくあったと思います。(記録をとらなかったので「思います」としか言えないのですが)。 「それは単位量放出の計算であり、その数値を見て危険かどうか判断するのは不適切だ」というメッセージを出す人もいたのですが、画像と危険を訴えることばを含んだメッセージに比べてずっと伝わりにくいのです。そこで、わたしも、理事長メッセージを見る前に、シミュレーション結果の発信は、それが何を仮定してどのように計算されたものかの説明を確実にいっしょに届けるのでないかぎり、あぶないと思ったのでした。とりわけ震災直後の被災地では通信回線の能力が落ちていましたから、その多くを充分現実的でないシミュレーション結果でふさいでしまうのは悪いことだろうとも思いました(4月には通信がだいぶ回復したのでこの点は気にしなくてよいと思いました)。
さて、(「雲の王」はフィクションですが川端さんはノンフィクションも書くかたなので、ふとこの一対のキーワードに思いあたったのですが)、シミュレーションは、きびしく言えばすべてフィクションなのです。しかし、できる限り現実的なモデルに、できる限り現実的な初期値を与えて行なった予測計算は、ノンフィクションとみなすこともできるでしょう。ところが、現実的なモデルに、勝手な初期値を与えてシミュレーションすることもできます。これはまことしやかなフィクションで、説明が不足していれば受け取り手はノンフィクションとまちがえる可能性が常にあります。単位量放出はこのようなまことしやかなフィクションで、それがどのような意味で現実と似ていてどのような意味で違うのかを理解してもらうのは手間がかかります。災害時のみんな余裕のないときにそれは不可能だと考えてSPEEDIの単位量放出の結果を公開しなかった(そしてその意味を理解できるアメリカ軍にだけ見せた)という政府の判断になったのかもしれません。そこで気象学会員有志が「自分たちが被災地に説明に行くから、政府は情報を出せ」と言えばよかったのかもしれません。
緊急時でない今ならば単位量放出をじっくり説明することはできます。ふだんから単位量放出を見慣れていれば、緊急時にも「単位量放出です」と言って出すことができるのです。大飯の発電所の稼動を始めるにあたって、毎日「きょう大飯から単位量放出があったらどう広がるだろうか」というシミュレーションをして結果を公開することは、福島の教訓の応用として当然行なわれるべきだとわたしは思います。まだ行なわれていないことにあきれております。
シミュレーション結果を見るにはもうひとつ注意が必要です。地上でくらす人が長期にわたって受ける放射線は、おもに地表に落ちた放射性物質によります。このうち雨や雪に混じって落ちるぶんが多く、降水は空間的に不均一に起こる現象なので、放射性物質の空間分布も不均一になります。気象シミュレーションでも、降水過程を現実的に表現していれば、その不均一の度合いは現実的に表現できるかもしれません。しかし、空間スケール1kmでどこに雨が多くどこに少ないかまで現実と一致はしないでしょう。空間スケール50kmの特徴についてノンフィクションとみなせるシミュレーションでも、空間スケール1kmに注目するとまことしやかなフィクションになってしまうのです。地上の人の安全確保や除染のためには、シミュレーションでなく実際に雨・雪がどこに降ったかの情報をもつことが重要です。
放出量が的確に見積もられていない場合、単位量放出シミュレーションは可能ではありますが、それで得られる情報は、通常の気象シミュレーションによって得られる風などの気象場の情報につけ加わるものが少ないかもしれません。もしそうだとすると、そのような状況では、SPEEDIのような原子力防災専用システムではなく、通常の天気予報に原子力防災の機能をつけ加えたほうが有用かもしれません。複数の省庁にまたがりますが、混成チームなり省庁間業務委託なりによって実務的一体運営が行なわれるべきだと思います。予報の中枢で、気象場の情報と、排出源に関する得られる限りの情報、放射性物質の輸送と沈着に関する知見をもとに、予報文を組み立てる専門家に働いてもらうことと、現場の予報士に、放射能関係の用語の意味を正しく理解して予報文を説明できるように研修をしてもらうことが必要になるでしょう。
masudako
会員であるわたしから見ると、このメッセージは強制力のあるものとは感じられず(学会理事長には学会業務以外の強制権限はありませんので)、注意喚起としては妥当だと思いました。このような態度しかとれなかったのは残念ではありますが、当時の学会の力量ではそれしかなかったかと思います。しかし、今後に向けてはよりよい態度をとりたいと思います。
理事長メッセージには2011年4月12日に補足が出されました。その後、気象学会は「原子力関連施設の事故に伴う放射性物質拡散に関する作業部会」をつくり、2012年3月5日に提言をまとめました。文書ファイルへのリンクは次のとおりです。(なお、このブログの過去の記事にあるリンクは気象学会ウェブサイトの移転のため無効になっていることがあります。)
- 東北地方太平洋沖地震に関して日本気象学会理事長から会員へのメッセージ(2011年03月21日) [PDF]
- 日本気象学会会員各位:3月18日付けの理事長メッセージについて (2011年04月12日) [PDF]
- 原子力関連施設の事故発生時の放射性物質拡散への対策に関する提言 (2012年3月5日)[PDF]
- 理事長メッセージ:「原子力関連施設の事故発生時の放射性物質拡散への対策に関する提言」を行うに当たって (2012年3月5日) [PDF]
2012年3月の提言には次のような項目を含んでいます。
- 事実の公表
- モニタリング体制の整備
- 数値モデルを用いた予測の活用
- 専門機関の役割
- 情報公開と啓発
また、この提言を出す際の理事長メッセージで、日本気象学会として反省すべき点として次のことをあげています。(表現はわたしが少し変えたところがあります。正確には原文をごらんください。)
- 研究の自由の制限と受け取られかねないメッセージを出したのは失敗だった。
- 「SPEEDIのデータを一刻も早く公表すべきだ」と提言するべきだった。
- 気象学会として放射性物質の移流・拡散の防災の整備にほとんど貢献してこなかった。
- 会員全員に情報を伝えるメーリングリストを整備していなかった。
ここからわたしの考えです。
2011年3月の理事長メッセージの背景には第1に、いわば「災害情報一元化」という思想がありました。メッセージでは「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報を提供し、その情報に基づいて行動することです。」と述べています。防災情報のうちでもとくに警報などは、複数の機関から違うものが出されると社会が混乱するので、担当機関が決められています。大雨などの気象災害と、地震・津波については、気象庁です。気象学会の理事長そのほかおもだった人はこの体制をよく知っているので、警報は警報担当機関が責任をもって出してくれると想定し、他の人は警報とまぎらわしいものを出すべきでないと考えたのでした。
もちろん、警報担当機関が実際その機能を持っていなければこれではだめです。しかし、東日本大震災の際も、気象庁の気象・地震・津波に関する警報業務はほぼ正常に働いていました。津波警報を当初高さ6メートルと出してしまったという問題はありました。また、被災地の自治体の側の情報を受け取る体制が崩れていたところもありました。しかし少なくともマスメディアとインターネットを経由して情報は伝わりました。震災後の気象情報については、気象庁本庁と福島地方気象台それぞれのウェブサイトで、強化した発信をしていました。
ところが、原子力防災の情報発信のしくみはずっと弱いものしかありませんでした。役所間の役割分担が明確でなかったこと、実際に起こったよりもだいぶ小規模な事故が想定されていたことも問題でした。それで、結果として、的確な原子力防災情報の発信がなされなかったのでした。あとからこの状況を考えると、正式な警報とは別に、むしろ気象学会員を含む科学者の有志が予測情報を積極的に発信したほうがよかったのかもしれません。
本来は原子力についても正式な警報のしくみがあるべきです。しかし、たとえ2011年3月に起こった規模の事故が想定内だったとしても、確率の低い現象にちがいないので、そのために気象庁のものに負けない警報体制を発電所などの原子力施設から何十kmもの範囲を対象としていつも待機させておくことは現実的でないと思います。原子力専用の防災体制は施設の近くについて手厚く整備し、ある程度以上遠いところは気象庁の警報システムを利用するのが現実的ではないでしょうか。ただし、気象庁の業務がなしくずしにふえる案では実現に向かいませんので、 内閣レベルで国土交通省が分担する業務として決定して必要な予算を分配すべきだと思います。
第2に、理事長メッセージで「防災対策に関する情報等を混乱させることになりかねない」と言っているところ、これだけではわかりにくいのですが、2011年3月18日ごろわたしがインターネット上(検索で見つかるブログなど)の情報を見て実際このままではまずいと思った状況がありました。当時、事故を起こした原子力発電所からの放射性物質の放出量はよくわかっていませんでした。外国のいくつかの機関による移流拡散シミュレーションの結果の図がネット上で流れていましたが、わかった限りでいずれも単位量の放出を仮定したシミュレーションでした。しかし、その結果の数値を実際に人が受ける放射線量だとした解釈し、それは危険な量であるという説明がついた形で伝わっていることがよくあったと思います。(記録をとらなかったので「思います」としか言えないのですが)。 「それは単位量放出の計算であり、その数値を見て危険かどうか判断するのは不適切だ」というメッセージを出す人もいたのですが、画像と危険を訴えることばを含んだメッセージに比べてずっと伝わりにくいのです。そこで、わたしも、理事長メッセージを見る前に、シミュレーション結果の発信は、それが何を仮定してどのように計算されたものかの説明を確実にいっしょに届けるのでないかぎり、あぶないと思ったのでした。とりわけ震災直後の被災地では通信回線の能力が落ちていましたから、その多くを充分現実的でないシミュレーション結果でふさいでしまうのは悪いことだろうとも思いました(4月には通信がだいぶ回復したのでこの点は気にしなくてよいと思いました)。
さて、(「雲の王」はフィクションですが川端さんはノンフィクションも書くかたなので、ふとこの一対のキーワードに思いあたったのですが)、シミュレーションは、きびしく言えばすべてフィクションなのです。しかし、できる限り現実的なモデルに、できる限り現実的な初期値を与えて行なった予測計算は、ノンフィクションとみなすこともできるでしょう。ところが、現実的なモデルに、勝手な初期値を与えてシミュレーションすることもできます。これはまことしやかなフィクションで、説明が不足していれば受け取り手はノンフィクションとまちがえる可能性が常にあります。単位量放出はこのようなまことしやかなフィクションで、それがどのような意味で現実と似ていてどのような意味で違うのかを理解してもらうのは手間がかかります。災害時のみんな余裕のないときにそれは不可能だと考えてSPEEDIの単位量放出の結果を公開しなかった(そしてその意味を理解できるアメリカ軍にだけ見せた)という政府の判断になったのかもしれません。そこで気象学会員有志が「自分たちが被災地に説明に行くから、政府は情報を出せ」と言えばよかったのかもしれません。
緊急時でない今ならば単位量放出をじっくり説明することはできます。ふだんから単位量放出を見慣れていれば、緊急時にも「単位量放出です」と言って出すことができるのです。大飯の発電所の稼動を始めるにあたって、毎日「きょう大飯から単位量放出があったらどう広がるだろうか」というシミュレーションをして結果を公開することは、福島の教訓の応用として当然行なわれるべきだとわたしは思います。まだ行なわれていないことにあきれております。
シミュレーション結果を見るにはもうひとつ注意が必要です。地上でくらす人が長期にわたって受ける放射線は、おもに地表に落ちた放射性物質によります。このうち雨や雪に混じって落ちるぶんが多く、降水は空間的に不均一に起こる現象なので、放射性物質の空間分布も不均一になります。気象シミュレーションでも、降水過程を現実的に表現していれば、その不均一の度合いは現実的に表現できるかもしれません。しかし、空間スケール1kmでどこに雨が多くどこに少ないかまで現実と一致はしないでしょう。空間スケール50kmの特徴についてノンフィクションとみなせるシミュレーションでも、空間スケール1kmに注目するとまことしやかなフィクションになってしまうのです。地上の人の安全確保や除染のためには、シミュレーションでなく実際に雨・雪がどこに降ったかの情報をもつことが重要です。
放出量が的確に見積もられていない場合、単位量放出シミュレーションは可能ではありますが、それで得られる情報は、通常の気象シミュレーションによって得られる風などの気象場の情報につけ加わるものが少ないかもしれません。もしそうだとすると、そのような状況では、SPEEDIのような原子力防災専用システムではなく、通常の天気予報に原子力防災の機能をつけ加えたほうが有用かもしれません。複数の省庁にまたがりますが、混成チームなり省庁間業務委託なりによって実務的一体運営が行なわれるべきだと思います。予報の中枢で、気象場の情報と、排出源に関する得られる限りの情報、放射性物質の輸送と沈着に関する知見をもとに、予報文を組み立てる専門家に働いてもらうことと、現場の予報士に、放射能関係の用語の意味を正しく理解して予報文を説明できるように研修をしてもらうことが必要になるでしょう。
masudako