9月8日の記事のたとえ話の途中をふくらませます。
ロッキー山麓には全国音楽院がつくられ、その交響学科には東京スクール正統派でシカゴで教えていたKasahara (笠原)が採用されて、Richardsonのスコアに忠実なオーケストラ演奏ができるようになるための技法を研究した。管楽科に仙台スクールからSasamori (笹森)が来て、オーケストラづくりに参加した。
西海岸のロサンゼルスには、G線技法の演奏を長時間続けるたびに起きた爆発を防いだ東京弦楽合奏団の調律師Arakawa (荒川)が招かれて、オーケストラ演奏中に爆発を起こす心配のない弦楽器を設計した。管のパートは、東京音楽院から来たKatayama (片山)が担当した。手本はやはり仙台スクールだった。UCLAオーケストラがひととおり完成すると、KatayamaはArakawa工房製の楽器を持って日本に帰り、MRIオーケストラ発足をめざして働いた。Arakawaはオーケストラ用の打楽器の設計にとりかかった。ひとつでアフリカ・カリブ・太平洋諸島・日本の太鼓の代わりができるものにしたかった。それでうまくいくかの目ききのために、東京スクールから民族音楽研究家 Yanai (柳井)を呼んだ。
同じころ(1970年代なかば)、ニューヨーク・ブロードウェーではミュージカル「ヴィーナスのヴェール」が千秋楽を迎えようとしていた。そこで働いていた管楽器奏者Hansen (ハンセン)とLacis (レイシス)は、次はオーケストラをやろうと決意した。Arakawa工房から取り寄せた弦楽器とヴィーナスの仕事で鍛えた管楽器を組み合わせた。オーケストラのデビュー前に、まず管楽合奏曲「アグン火山の響き」を世に出した。1963年、その噴火は二人が加わっていた合唱のじゃまになった。そのうらみを、騒音も音楽として表現することで晴らしたのだった。
そして1980年ごろには、世界じゅうでRichardsonの交響曲を聞けるようになった。先進国にはそれぞれオーケストラがあり、その演奏が国境を越えて放送されていた。
1990年代、アグンの曲も、「ピナツボ火山の響き」と変わり、各地のオーケストラのレパートリーに加えられた。
そして2000年代、日本では、打楽器が主役となった「正二十面体オーケストラ」が結成され、....
masudako
ロッキー山麓には全国音楽院がつくられ、その交響学科には東京スクール正統派でシカゴで教えていたKasahara (笠原)が採用されて、Richardsonのスコアに忠実なオーケストラ演奏ができるようになるための技法を研究した。管楽科に仙台スクールからSasamori (笹森)が来て、オーケストラづくりに参加した。
西海岸のロサンゼルスには、G線技法の演奏を長時間続けるたびに起きた爆発を防いだ東京弦楽合奏団の調律師Arakawa (荒川)が招かれて、オーケストラ演奏中に爆発を起こす心配のない弦楽器を設計した。管のパートは、東京音楽院から来たKatayama (片山)が担当した。手本はやはり仙台スクールだった。UCLAオーケストラがひととおり完成すると、KatayamaはArakawa工房製の楽器を持って日本に帰り、MRIオーケストラ発足をめざして働いた。Arakawaはオーケストラ用の打楽器の設計にとりかかった。ひとつでアフリカ・カリブ・太平洋諸島・日本の太鼓の代わりができるものにしたかった。それでうまくいくかの目ききのために、東京スクールから民族音楽研究家 Yanai (柳井)を呼んだ。
同じころ(1970年代なかば)、ニューヨーク・ブロードウェーではミュージカル「ヴィーナスのヴェール」が千秋楽を迎えようとしていた。そこで働いていた管楽器奏者Hansen (ハンセン)とLacis (レイシス)は、次はオーケストラをやろうと決意した。Arakawa工房から取り寄せた弦楽器とヴィーナスの仕事で鍛えた管楽器を組み合わせた。オーケストラのデビュー前に、まず管楽合奏曲「アグン火山の響き」を世に出した。1963年、その噴火は二人が加わっていた合唱のじゃまになった。そのうらみを、騒音も音楽として表現することで晴らしたのだった。
そして1980年ごろには、世界じゅうでRichardsonの交響曲を聞けるようになった。先進国にはそれぞれオーケストラがあり、その演奏が国境を越えて放送されていた。
1990年代、アグンの曲も、「ピナツボ火山の響き」と変わり、各地のオーケストラのレパートリーに加えられた。
そして2000年代、日本では、打楽器が主役となった「正二十面体オーケストラ」が結成され、....
masudako