2018年04月23日

【No.4120】「道徳」が正式な教科に 密着・先生は? 子どもは?

「国や郷土を愛する態度」、「家族愛」、「節度・節制」など22の項目について考え、議論することを目指す道徳が、この4月から小学校で、再来年度からは中学校で教科化される。道徳の教科化は、これまで一貫して価値観の押し付けにつながるのではないかと、見送られてきた。だが、国はいじめ問題などを理由に教科化を進めた。先行して授業を実施してきた都内の小学校を取材、課題を検証する。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4120/

視聴者の過半は、報道内容の多くに違和感を覚えただろう。
教諭が道徳で教えているのは、本当に道徳なのか。
はたまた、価値観や視点の多様性なのか、「協調性」という名の集団における右へ倣え思考&志向なのか、評価者や空気を忖度する意義&能力なのか、と。
違和感の根因は何か。
そもそも「道徳」とは何か、定義が十人十色だからである。
たしかに、よく「それは道徳的に問題がある」と見聞きするが、この場合の「道徳」は、「的」という言葉で主観化、ひいては、誤魔化されており、理解は個人任せである。

そうである。
国が、国策として道徳を教諭に教科と「強い」、かつ、学生の理解を「評価させ」るなら、先ず定義の社会的コンセンサスを形成しておく必要があったのである。
これを端折り、「工夫しろ」のひと言で教諭に丸投げしたのは、未来に禍根を残し、かつ、合理的に裁かれない点で完全犯罪と同義である。
未来を担う子供を前に大人の代表の教諭が困惑しきりなのは、当然である。
国であれ、個人であれ、何かを他者に強いるなら、「目標」と「目的」については勿論、「対象」の定義の確立、および、合意形成が最重要、かつ、不可欠である。  続きを読む

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2016年10月12日

【No.3874】追跡!チケット高額転売の舞台ウラ

プロ野球クライマックスシリーズのチケットが1席30万円。男性人気アイドルグループのコンサートは20万円。今、入手困難な人気チケットが「専門サイト」を通じて、取引きされている。売りに出しているのは、「転売(てんばい)ヤー」と呼ばれる人たちだ。免許のない人が転売目的でチケット購入することは違法だが、「急用」などを理由とした転売は取り締まれない。“新たなダフ行為”は一般人にも広がり、一回の取引で数十万円稼ぐ高校生も…。番組では、転売ヤーたちを直撃取材。手口の実態に迫る。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3874/

今夏来、音楽業界、ならびに、チケットの大手売り手がチケットの高額転売に声高に異を唱えているが、その根本動機は、自分の母屋で荒稼ぎしている、見知らぬ非業界人への嫉妬と排他心だろう。
彼らがもし、本当に「ファンにフェアでありたい」との一心で異を唱えるのなら、前売りを止め、入り口での対面当日売りに絞れば済む話だからだ。
この場合、ファン、それもとりわけ遠方のファンは追加の移動コストが強いられるし、彼らも決済と入場にまつわる追加のトランザクションコストを強いられるが、彼らがトータルかつ真に「ファンにフェアでありたい」なら、こんな原始的なやり方でも十分だろう。
こんな原始的なやり方を彼らが取らないのは、前売りがもたらすマーケティングと財務(キャッシュフロー)上の旨味、そして、前売りというビジネスモデルと商習慣、を捨てたくないからに違いない。

かく言う私自身、かれこれ十年来、ライブのチケットは彼らからではなく、売り手が「転売ヤー」かどうかはさておき(というか本当のところは不明だが)、専ら転売者からネット経由で入手している。
理由は簡単で、凡そ半年先の予定、しかも、それも基本平日夜の予定、など立てようがないからだが、これは今の現役社会人なら、そんなものだろう。
彼らが現役社会人を主要ターゲットにし、数カ月先のチケットを売りつけ、キャッシュを前払いさせるのは、どだい昭和のビジネスモデルだろう。
いつでもどこでもスマホとにらめっこしている今の老若男女を見れば明らかな様に、平成のビジネスモデルの肝は「顧客の可処分時間の納得的奪取」だが、彼らのこのビジネスモデルは見事に外している。
テレビ局が同じ現役社会人に依然、毎週同時刻にテレビの前に座らせ、連続ドラマをダダ流ししているのと同様、時代錯誤かつ無理筋も甚だしい。  続きを読む

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2016年07月27日

【No.3845】360兆円!企業のカネは誰のものか 「内部留保」をめぐる攻防

政府が成長戦略の要としている成長分野への投資と消費拡大のための賃金上昇…。その“起爆剤”として注目されているのが、企業が抱える360兆円余りの現金などの内部留保だ。いま、この360兆円あまりを巡り企業や投資家も巻き込んだ議論が巻き起こっている。内部留保を「はき出せ」と主張するのは投資家、特に株式市場の取引額で、7割を占めるようになった海外の投資家たちだ。その中に、10年前“村上ファンド事件”で有罪となり、表舞台から姿を消した村上世彰氏がいる。近年、株式市場にカムバック、電子部品商社などの株を買い進め、内部留保を利用した業界再編や配当の大幅増などを要求。「日本企業はカネを貯め込み過ぎだ」と批判する。一方の企業側は、世界経済の不透明感もあり、「手元資金は必要だ」と反発している。内部留保は誰のものか、どう使うべきなのか。村上氏と「ハゲタカ」で知られる作家、真山仁氏の激論も交えながら、日本経済の針路を探っていく。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3845/

村上世彰さんの主張の内、改めて意義を再認識したのは、機会費用とその最小化の努めだ。

(事業で勝ち得たカネは)企業の中にためるんじゃなくて、新しい投資をするか株主に返す。
もし株主に返したら、株主が別のところに投資する。
そしてどんどん変わっていく。
変化がこの国に起きてほしいと思っている。

日本の内部留保は、上場企業でものすごく大きい。
投資をして利益を出す自信がないならば、思い切って株主に返す。
株主はもらったお金を次の成長企業に投資する。
そこのお金がまた使われるという、お金の流れができた方がいい。

※番組HPから転載
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3845/1.html

村上さんの理想の企業、及び、経営はアマゾンなのかもしれない。
周知の通り、アマゾンは「宵越しのゼニは持たない」を地で行き(笑)、持続的な赤字経営(笑)を創業来断行しているが、それはCEOのジェフ・ベゾスが、顧客満足の向上と事業の成長のために、勝ち得た利益をそっくり、否、それ以上に即再投資してしまうからだ。
今やアマゾンは押しも押されぬ世界最大のECサイトで、我々日本人もその恩恵に多々預かっているが、それはジェフのこの断行による所が大きい。

ジェフの決断の動力源は何か。
やはり直接的には、優勝劣敗を旨とする資本主義社会における、自社の顧客満足の向上とその結果としての事業の成長への飽きなき危機感と執念だろう。
ただ、「後悔最小化フレーム」に基づきアマゾンの創業を決断したジェフのこと、根源的には、村上さんの主張の肝である、機会費用とその最小化への飽くなき危機感と執念も同等、もしくは、それ以上にあるのかもしれない。  続きを読む

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2016年02月08日

【No.3766】ITが変える「お金の未来」 フィンテック革命の衝撃

今、フィンテックと呼ばれるIT技術を駆使した新たな金融サービスが次々と生まれている。指紋だけで支払いが出来る「手ぶら決済」、人工知能による資産運用「ロボ・アドバイザー」など、金融をより便利で身近に変えようというものだ。“フィンテック革命”の主役はベンチャー企業。先進地アメリカでは、ビッグデータを活用して瞬時に融資を判断し実行するサービスや、金の借り手と貸し手をネットで結びつける融資仲介など、これまでの銀行の常識を覆すサービスを生み出している。こうした動きに銀行側も危機感を募らせ、新サービスの開発に乗り出している。“フィンテック革命”の最前線を追う。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3766.html

私がこれまで経営コンサルタントとして、店頭、及び、対面の販売、営業に従事するスタッフとそのマネージャーに口酸っぱく説いてきたことの一つは、「(対面)スタッフは『キャッシャー』に成ってはいけない」、ということだ。
なぜ、対面スタッフは「キャッシャー」に成ってはいけないのか。
今のお客さまは、商品の購入経験が公私共に豊富だ。
対面スタッフがキャッシャーに成り下がり、単に商品と代金を交換するだけなら、まず満足いただけない。

また、これはネットショッピングが当たり前になったことも大きいのだが、今のお客さまは、対面スタッフを介して商品を購入するのが億劫だ。
致し方なく対面スタッフを介して購入する際は、何らか「つい人に話したくなるような」良いオマケやオチの類を欲する。
「商品をわざわざ対面で購入した挙句、実際に得られるのが商品、釣り銭、領収書、それとスタッフの形ばかりの笑顔とお辞儀だけというのは、もう勘弁してくださいよ。それなら対面に費やすコストが報われず、アマゾン(=インターネット)で購入した方がコスパもメンタルも全然良いので」。
これが、今のお客さまの本音、本望だ。

フィンテックはITを基盤とする対面スタッフレスの金融サービスで、貸出金利に加え、与信の時間や対象が大幅カイゼンされているのが特徴だ。
ITの技術とコストが飛躍的に進化した今、また、金融サービスの対面スタッフの殆どが事実上「キャッシャー」に成り下がった今、フィンテックが誕生し、旧来の、対面スタッフの(個)人力を基盤とする金融サービスを傍目に急成長しているのは、極めて自然であり当然だ。

もし、あなたが金融サービスのスタッフで、本件に違和感を覚えたなら、胸に手を当てて自問自答してみて欲しい。
「自分は本当に、目の前のお客さまを他とは完全に異なる、唯一無二の『個客』と認識すると共に、唯一無二的に関心を寄せているか」、と。
更には、「『その』個客が自分、及び、自分の会社に商品の販売機会を恵んでくださった理由を全力で推量すると共に、推量した理由に最も相応しい商品を全力かつタイムリーに提案しているか、結果、『その』顧客から安堵や希望の笑みを引き出しているか」、と。  続きを読む

2016年01月19日

【No.3755】「最期のとき」をどう決める 「終末期鎮静」めぐる葛藤

いま、在宅で療養する末期のがん患者に、「終末期鎮静」という新たな医療が静かに広がっている。耐えがたい苦痛を取り除くために鎮静剤で意識を落とし、眠ったまま最期を迎えるというものだ。最新の調査では、在宅で亡くなったがん患者の7人に1人に行われていたことがわかった。自分の意志で、眠ったまま苦しむことなく死を迎える患者。その一方で、遺族の中には、「“終末期鎮静”に同意したことで、患者の人生を終わらせてしまったのではないか」と悩んだり、罪悪感にさいなまれたりする人もいる。自宅で最期を迎えるがん患者が増える中、終末期の医療はどうあるべきか、考える。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3755.html

私は母を37才の時に、父を39才の時に亡くした。
両親を亡くすには少し早かったが、いずれも終末期、延命治療はしていない。
なぜか。
生前というか、まだ心身が確かな時、本人がそれを望んでいなかったからだ。
「『生きる屍』となって生きているのは、ただ生きているだけ、死んでいないだけ、で仕方がない。『生きる屍』のための延命治療はしないで良い。というか、しないでくれ」。
とりわけ母など、こう明言、厳命していた。
当時、兄と私は母のこの厳命、及び、意思に従ったわけだが、今、兄も私もつゆも後悔していない。
今の自分があるのは他者のお陰にほかならないが、中でも親は格別だ。
親の確かな意思を尊重し、最大限従い、個人の人生を援助するのは、子の当然の務めだ。

番組は、「終末期鎮静」の実施の難しさについて、二件の事例を紹介していたが、とりわけ一件目の、自らそれを望んだ姉への実施を躊躇い、更に死後、以下の旨、最後の最後で決断したことへの罪悪感と後悔に苛まれている妹さんの事例に違和感を覚えた。

姉の死に加担してしまったとか[・・・]どうしても罪悪感とか(ある)。
[中略]
最後まで、たとえ本人が苦しかろうとも、望んだものはなかろうとも、生きるための医療行為をし続けることが、ある種、家族にとっての、姉を諦めないことなんじゃないか(と思ってしまう)。

妹さんもお姉さんも、30代と若かった。
若く、一人息子の居る姉が同じ若い妹に、困苦の極みの中、最終手段の終末期鎮静を懇願したのは、伴侶や両親がもはや居ないか、もしくは、居ても対応できる状況にないから、並びに、妹をそれだけこの世で最も信頼していたから、だろう。
ではなぜ、妹さんは、姉の正に最後の懇願に躊躇したのか。
また、なぜ、最後の最後に従ったことに依然罪悪感を覚え、後悔しているのか。
失礼ながら、終末期鎮静という最終手段の対象、目的が姉ではなく、自分だったのではないか。
妹さんは、本当は姉の人生の幸福を最大化すべく終末期鎮静を決断すべきところ、自分の人生の不幸を、それも困苦に喘ぐ姉を「背負わされている」不幸を最小化したい、その目の前の不幸から兎に角「解放されたい」、ばかりに決断してしまった。
挙句、最愛(かつ唯一の肉親)の姉を失った今、最終手段を決断した矛先、動機の不確かさ、不純さに、罪悪感と後悔の念が絶えない、のではないか。  続きを読む

2015年10月05日

【No.3711】ニッポンの女性は「やせすぎ」!? 「健康で美しい」そのコツは

今、日本人女性の8人に1人は “やせすぎ”ており、その割合は戦後最多を記録。中でも20代女性の平均摂取カロリーは食糧難だった終戦直後を下回る1628kcalで、世界的にも異例の低水準にあることが国の調査で判明した。なぜ飽食の時代に日本女性はやせるのか。やせ女性の全国実態調査に乗り出した民間団体によると、その背景には、生活スタイル変化の中での「長時間労働」や「孤食」があるという。さらに本来は男性市場をターゲットにしたメタボ予防商品が忙しい女性に売り上げを伸ばし、結果的に「やせ」を促進していることなどが見えてきた。女性のやせすぎは低体重児の出産や不妊などの医学的な危険性が指摘されており、将来的には要介護者の増加など社会的コスト増になることが懸念されている。メタボ対策に比較して軽視されてきたやせすぎ対策だが、やせすぎたモデルの起用制限などの動きが世界的に広がりつつある。「やせすぎ大国」日本の現状と、その根本対策に迫る。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3711.html

なぜ、今のハタチ前後の若い女性は痩せ過ぎているのか。
二度目の成人式をとうに迎えた(笑)妻にこう質問したところ以下回答され、正否はさておき、同性ならではの厳しく、かつ、想定外の視点に感心と成る程感を覚えた。

【1】自分は特にそう思わない。たしかに、今の若い女性は手足が長く、顔が小さいが(笑)。痩せ過ぎている若者は、女性よりむしろ男性だと思う。

【2】若い女性に関して言えば、普通の体格の子が減り、その分太っている子が増えたように思う。今は、痩せている子と太っている子で二極化しているのではないか。
  続きを読む

2015年08月05日

【No.3696】ヒバクシャの声が届かない 被爆70年「語りの現場」で何が

被爆から70年の間、自らの過酷な体験を語ることで、核兵器の愚かさや平和の尊さを伝える大きな役割を果たしてきた広島・長崎の被爆者たち。平均年齢が80歳に迫り、この1年で1万人近い人が亡くなっている。NHKは、全国各地の被爆者1000人を対象にアンケートを実施。見えてきたのは、被爆者が「語り継ぎたいのに語りにくい」状況が生まれているという実態だ。これまで被爆体験を語ってきた人たちの4割が「語る場が減っている」と回答し、その理由として「証言が求められなくなった」と指摘する人が40%に上っている。学校などの教育現場では、教師たちがカリキュラムに追われ、平和を教える経験を失うと同時に、子どもたちに平和を語ることそのものに萎縮してしまっているのだ。そうした中、被爆者が自らの悲惨な体験を伝えるだけでなく、教師たちといっしょに被爆地などをまわり、原爆投下による具体的な被害状況・実態を伝え、平和の尊さをより深く感じてもらおうという取り組みも始まっている。被爆70年のヒロシマから平和を伝える事の意味を考える。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3696.html

10才まで、私は父方の祖父と暮らした。
祖父の習慣の一つは、出征時の話をすることだった。
格好の聞き手のはずの祖母がスルーなため、同じ出征経験を持つ近所の弟が来ると、家業そっちのけで正に延々としていた。(苦笑)
幼い私は、話の内容は理解できなかったが、「大東亜戦争」という文言が耳に入る度、またジジイの厄介な癖に火が点いたかと辟易したものだ。

後年分かったことだが、祖父のこの習慣に辟易していたのは、7才上の兄も同じだった。
ただ兄は、話の内容を理解した上で、辟易していた。
頭が良く、歴史が好物な兄曰く、祖父の話は「出鱈目」。
私は兄にその理由を具体的に訊いたことはないが、社会人になり、人や組織を管理する仕事に就き、なぜ祖父が実際に出征していながら出鱈目な話を死ぬまで繰り返したのか、見当がつくようになった。

兄に反論する訳ではないが、祖父の出征話は、半分は出鱈目で、半分は本当だったと思う。
勿論、ここでの「半分」に明確な意味や根拠はない。
要するに、祖父の出征話は真否が入り乱れていたのではないか、ということだ。

先ず、なぜ半分は本当なのか。
言うまでもなく、実体験だからだ。
たしかに、人間は実体験の真実、記憶を自分に都合良く変える習性があるが、祖父も全ては変えていなかっただろう。

なぜ半分は出鱈目なのか。
思うに、正しくは「出鱈目」ではなく「誤解」だ。
では、なぜ祖父の話は、実体験なのに誤解なのか。
ひと言で言えば、現場一兵卒の、ミクロ(⇔マクロ)の視点と理解を基盤にしたものだからだ。
断っておくが、これは祖父を馬鹿にしているのではない。
凡そタクシー運転手や営業マンに景気を訊くと「悪いね」とだけ返されるのがオチなように、現場の最前線にどっぷりつかり、体験した真実を、専らミクロの視点で見、個別/個人的(⇔系統/全体的)に理解してしまうと、真実を、更にはその本質を、見誤って、誤解して、しまうものだ。
兄が「出鱈目」と断じたのは、祖父の実体験そのものではなく、その自己理解、解釈が余りに個別的、表層的、個人的、主観的、情緒的で、通説の歴史認識と整合しないことに対してだったのだろう。

「被爆者の『語り』は紛れもない実体験(→真実)、それも代え難く、繰り返してならない悲惨の極致のそれであり、いついかなる時も、後進は心して受容すべし」。
話を本題に戻すと、私は番組の主張をこう理解したが、以上の経験があることを主因に同意しない。

誤解や非難を覚悟して言えば、語り部の被爆者の方々は、自分の「はだしのゲン」を語りたいのだろう。



勿論、その根底には各人様々な思い、動機が在るに違いなく、それらも全く同情しないわけではないし、そもそも内容には先述のように半分「本当」も在り、社会的に有意だ。
しかし、周知の通り、「はだしのゲン」の内容の内、通説の歴史認識と整合していない箇所、端的に言えば、著者の中沢啓治さんが(確信犯かもしれないが)誤解している箇所は少なくない。
然るに、私たちは「はだしのゲン」を、本ブログと同様、あくまで一個人が提供する参考情報として受容、理解する必要があり、被爆者の「語り」も同様だろう。  続きを読む

2015年07月07日

【No.3681】あなたは音楽をどう愛す? 新・配信ビジネスの衝撃

「ひと月に1000円ほどを支払えば、数百万曲の音楽が聴き放題!」。大手レコード会社やIT企業などが始めた音楽の定額配信サービスが、不況が続く業界の起爆剤として注目を集めている。一方、こうしたサービスが先行する海外では、楽曲を提供する有名アーティストの側から、「自らのためではなく、新人やプロデューサーのために」創作活動へは対価がもっと支払われるべきだという主張が相次いでいる。テクノロジーが進化し、音楽を無料で消費する動きが急速に広がる中、「創作の価値」が問われている。世界的に音楽市場が縮小し、日本でも名門スタジオが閉鎖されるなど創作現場の苦境が続く中、独自の道を拓こうとする人気アーティストの模索や、ファンとの結びつきで原点回帰を図る「ワンコインコンサート」などの取り組みから、いまの時代の音楽のありようを考える。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3681.html

物心がつき始めた小学生時分、不思議に思っていたことの一つは、亡き父が、懐メロ番組、それも12チャンネル(※現:テレビ東京)の懐メロ番組(笑)でしか、音楽を聴かなかったことだ。
当時(1970年台)は歌謡曲が全盛だった。
人気歌手はこぞって三ヶ月毎にシングルレコードを出していた。
テレビ、ラジオもこぞって「ベストテン」系の音楽番組をつくり、それらを流していた。
つまり、当時これだけお金を出しても出さなくても音楽が聴ける状況だったにもかかわらず、父は懐メロ番組でしか自分から音楽を聴かなかったという訳だ。
幼く、また、当時ピアノを習わされていた私には、父のそうする理由が皆目見当がつかなかった。

当時の父と同年代に成った今、思い当たる理由が一つある。
それは、「父は懐メロそのものを聴いていた訳でも、また、そもそも音楽を聴きたかった訳でもなかった」、ということだ。
父の父としての人生はお世辞にも良いものではなく、それは年を重ねる毎に加速していった(ように見える)。
父の人としての「glory days」は専ら成人前だったのだろう。
父は、当時の流行歌を懐メロ番組で聴くことが、良いと思えない人生を続ける稀有な励みだったのだろう。

父の個別事情はさておき、父のように音楽を聴く人、つまり、父のように「音楽の価値を非コア価値で規定、評価する人」は少なくないだろう。
先述のように、私は幼い時分はピアノを、そして、学生時分はギターを弾いていたので、自然と規定、評価する音楽の価値は、主旋律とベースラインのコンビネーション、コード進行、ソロ演奏の妙といったコア価値に専らなってしまうが、非コア価値を否定する気はない。
事実、私はこの歳になっても、麻倉未稀さんの「HERO」を耳にするや否や「スクールウォーズ」が脳内復活し、目頭が熱くなってしまう。(笑)



麻倉未稀 パーフェクト・ベスト
麻倉未稀
キングレコード
2010-07-07




しかし、とはいえ私は、麻倉未稀さんの「HERO」のCDは買わないし、ダウンロードもしない。
これは、終生変わらないだろう。
私は、いかに乗り心地やラゲッジ容量が満足でも、「走る・曲がる・止まる」といった操縦性能が満足できなければそのクルマを決して買わないように、やはり音楽を買うならら、非コア価値ではなくコア価値を買いたい。

音楽が、具体的にはCDが売れなくなってから、久しくなる。
その原因は様々論じられているが、私は、音楽のコア価値を評価できる「耳」をリスナーへ積極的に躾けてこなかった売り手の怠慢が元凶に思えてならない。
原宿や自由が丘の芸能人ショップが悉く頓挫するように、音楽に限らず、お客さまは商品のコア価値と非コア価値を無意識裡に分別理解し、非コア価値を頼りに商品を買うのを嫌悪する。
売り手足る者、お客さまに商品を買っていただきたければ、そのコア価値が評価できるよう、ターゲットを積極的に躾けなければいけない。  続きを読む

2015年07月06日

【No.3680】なでしこ 激闘の舞台裏

サッカーの女子ワールドカップで2大会連続の決勝進出を決めた「なでしこジャパン」。6日、連覇をかけて宿敵・アメリカと戦う。メンバー23人中17人は前回大会と同じだが、初戦で安藤梢選手がけがで離脱を余儀なくされた後、安藤選手のユニフォームを着せた熊のぬいぐるみをベンチにおくなどして、チームはさらに結束し、成長を遂げている。最年少の岩渕真奈選手(22)が、準々決勝、準決勝と途中出場したとたん、ゲームの流れを変え、ニューヒロインとなるなど、新たな戦力が次々と活躍し、準決勝までに7選手がゴールをあげている。前回大会で優勝した日本は、世界を魅了した“パスワーク”が各国に研究されたため、その後、苦戦を強いられるようになっていた。より進化したサッカーを目指して模索を続けてきた4年間の成果が、ふたたびの決勝進出へと結びついたのだ。世界の強豪を相手に、選手たちはどんな思いで戦い、どう進化してきたのか、知られざる舞台裏に迫る。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3680.html

「なでしこジャパン」が世界ランク上位のアメリカに決勝で敗退したのは、ゲストの丸山桂里奈さんと番組の言うように、選手の環境劣位の帰趨なのだろうか。
なでしこがプロ・アマ混成だったのは未知かつ驚愕だったが、丸山さんのアメリカプロ選手時代の述懐から推量するに、根本的に帰趨するのは劣位な環境そのものではなく、そうした環境しか作り出せない、また、プロ・アマ混成に甘んじざるを得ない、日本女子サッカーのビジネスモデルの脆弱さだろう。
丸山さんはアメリカでは住居と自動車を提供され(大変助かっ)たようだが、それはアメリカ女子サッカーのビジネスモデルが日本より優れているから、もっと露骨に言えば、元締め団体(笑)が「女子サッカー」という商品を売り込むのが日本より上手かつ、そもそも熱心だからだろう。

少し調べてみたところ、アメリカの女子サッカーも過去には頓挫の憂き目に遭っている
「必要は発明の母」の言葉に従い、アメリカの女子サッカーはこの憂き目を活かしているのだろう。
「スポーツなき経済は罪悪であり 経済なきスポーツは寝言である」と、そして、「女子サッカーなき経済は罪悪であり 経済なき女子サッカーは寝言である」と覚醒、達観の末、「第二のマネーボール」との揶揄を厭わず(→却って目標や誇りにして)、その持続的な具現に一路邁進しているのだろう。

この推量が正しければ、アメリカ女子サッカーの元締め団体は大したものだ。
というのも、男子サッカーも在るし、また、そもそもスポーツ、ないし、競技モノは他にも幾らでも在るからだ。
私はなでしこの試合をナマで観戦したことはないが、世界制覇時を頂点に、観客数が漸減していった(→人気が下落していった)のは、目の肥えたサッカーファン、並びに、Jリーグやその他競技、エンタメに富む日本では当然に思う。
実際、私は将棋が好物エンタメなのだが(笑)、女流棋戦は一切観ない。
直接的な理由は、「男子トッププロのタイトル戦を観る(チェックする)ので手一杯で、そこまでリソース(時間&体力)が割けないから」だが、根源的な理由は、「対局の内容(品質)が男子トッププロのそれに比べて見劣りする(→感心感動値が低い)から」だ。

アメリカ女子サッカーの元締め団体は、プレーや試合内容そのものでは、身体的理由から男子プロに見劣りせざるを得ない女子サッカーをどう適切に商品化し、サッカー、ないし、スポーツファンに売り込んでいるのだろうか。
具体は不明だが、そのコンセプト(根本思想)は、今を遡ること凡そ10年前、以下、元なでしこの東明有美さんが大学院生時代に論じたことなのだろう。  続きを読む

2015年07月02日

【No.3679】「元少年A」 手記出版の波紋

神戸市の連続児童殺傷事件の加害者による手記「絶歌」が、先月、発売され、初版の10万部に続いて、さらに5万部が増刷された。被害者の遺族は、出版社に書籍の回収を要請するも、出版社側は、少年犯罪の実態を知らせる意義があると主張している。元少年Aは、「過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の救済であり、たったひとつの『生きる道』でした」と、執筆の理由を記している。出版にあたっては、過去の犯罪を利用して利益を得ていいのかという批判の声が上がっている他、匿名のままノンフィクションを描くことは道義的に許されるのか、生々しい殺人の現場の描写は、同様の事件が繰り返されることにつながらないのかなど、様々な議論を巻き起こしている。元少年Aの手記が社会に投げかけた波紋を追う。

NHK「クローズアップ現代」番組HPから転載(↓)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3679html

「顰蹙は金を出してでも買え」。
これは幻冬舎の創業者の見城徹さんの名言だが、たしかに「顰蹙を買う」のはビジネスの、否、「儲け」の極意だ。
新聞やニュース番組が身近でまず見かけない殺人事件を延々報じたり、女性週刊誌が別世界の芸能人の破局に多く紙面を割くのは、私たち小市民から顰蹙が買えるからだ。
近年「炎上マーケティング」という言葉を目にするが、これは正に顰蹙を金を出して(各種のコストを投じて)買うビジネス、マーケティング手法であり、新しいようで古い。
企業の命題は生き残ることであり、それにはビジネスでしかと儲けることが欠かせない。
というのも、儲けこそが企業の、全利害関係者の、ひいては社会の「パン」と「ガソリン」だからだ。
社会から「パン」と「ガソリン」が枯渇した成れの果ては、今のギリシアだ。
倫理は企業にもビジネスにも重要だが、十分条件ではない。
太田出版が被害者の遺族に事前告知をしなかったこと、また、著者に実名を強いなかったことは、倫理を好都合に解釈した確信犯に違いないが、そうしてまで彼らが「絶歌」を出版したのは、企業として、そして、ビジネスとして合理的だ。

結局、「絶歌」が顰蹙を買うのは、私たち小市民が「人を憎んで罪を憎まず」だからだろう。
そして、村八分者や落伍者を作ること、彼らを身分固定(社会抹殺)化することに寛容な一方、彼らに出し抜かれること、彼らが再チャレンジ、再浮揚することに不寛容だからだろう。
日々公私不満足状態にある私たちからすると、元少年Aが「犯した罪を現金化すること」、「一夜にしてベストセラー作家に成り上がること」は許せることではなく、「遺族の感情に配慮していない!」、「自己満足的、身勝手で、そもそも贖罪、反省が足りないのではないか!」といった建前を振りかざしてでも咎めなければ、浮かばれていない今の自分がいよいよ浮かばれなく感じられるのだろう。
「罪人の日陰者は、一生罪を背負って、日陰で暮らせば良い」。
私たちの内、こう考える人は少なくないだろう。  続きを読む