カテゴリ: 沖縄グスク跡

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解体が始まってから焼け焦げた独特の臭いがまた少し増したそうです。たしかに現在の迂回ルートとなっている奉神門の横から窺える南殿・番所からは生々しい臭いがしました。それでも、京の内に入ると今までと変わらぬ首里城の緑が広がっています。

燃えた建材が撤去され、雨が降る度に少しずつ燃え跡も洗われて臭いも減っていくのでしょう。


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園比屋武御嶽石門


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歓会門


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瑞泉門からの景観いつもと変わらぬ首里城の風景。


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漏刻門に近づくと異変に気がつきます。


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広福門前から見た北殿すでに足場が組んでありますが、黒く煤けた瓦屋根が確認できます。


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迂回ルートとなっている奉神門の横から窺える南殿・番所。正殿の姿はありませんが猛火に耐えた大龍柱は残っていました。


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10年以上前の正殿。


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正殿の正面で向かい合って立っている2本の大龍柱の位置がわかります。


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京の内入口からの景観。皆一様に現実を受け入れることが出来ない様子でした。


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京の内の物見台からの眺め。


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そして那覇で一番の夕日の名所、西のアザナからの眺め。


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往時の通用門だった久慶門。


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10年以上前の画像当時の僕にとっては、首里城といえばこの景色。沖縄グスク跡に興味を持つきっかけとなりました。


無料エリアは従来通り開放されており火災の影響はありません。

出火の原因の特定に至らなかったとして、県警の捜査が終わり、撤去作業に入ったことにより原因究明と責任の所在はあいまいなままになるかもしれません。

今後は見せる再建の一環として、市民参加型の撤去作業を行い、GWまでには有料エリアの一部公開を目指しているそうです。

今日はまだまだ歩きますこれから金城町石畳道へ向かいます。

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浦添ようどれは、浦添グスク跡の北側崖下にある王陵で、太陽の子(てだこ/英祖王)、そして尚寧王(しょうねいおう/独立国家としての琉球王朝最後の王)と彼の一族が眠っています。

「ようどれ」とは琉球語の夕凪(ゆうなぎ)”のことだそうです。

浦添ようどれを含めた浦添グスク跡の残る前田高地はとても見晴らしが良く、首里城とは違った趣きがあります。浦添グスクは古琉球時代である13世紀に建てられ、15世紀に首里へ遷都するまでの間、中山王のグスクつまり琉球王朝の王府のあった場所。いずれは世界遺産へ追加登録されるかもしれませんね。


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前回アップした普天満参詣道(ふてんまさんけいみち)から浦添大公園のA-3駐車場前広場(御墓番屋敷跡)を通ってきたので、通常の観光ルートとは時系列が異なります。


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ようどれの石垣は三段に組み上げられ、城門や石垣で繋がり、最上部に石室があります。更にその上の奥に見える石垣は浦添グスクの石垣。超広角レンズでないと全てはおさまりません。


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この辺りは2度の侵略(1609年の薩摩軍侵攻と沖縄戦)と戦後の採石で徹底的に破壊されましたが、関係者による長年の地道な発掘・復旧作業で、古琉球の風景が蘇りました。


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芝生広場では、とうやま保育園の園児たちが仲良く手を繋いで散歩しており、沖縄らしい微笑ましい風景でした。


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ようどれへの道は、まず、現世とあの世を結ぶ役割の門…“暗しん御門(くらしんうじょう)”を通ります。


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もともと薄暗い素掘りのトンネルでしたが、沖縄戦で天井の岩盤は崩れてしまいました。


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道にそって左へ曲がると、二番庭と呼ばれる狭い枡形状の場所へ。石段の左右に礎石が残っていることから、ここにはかつて石門があったのでしょう。


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二番庭から、石室のある一番庭へと通じる美しいアーチ石門。


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想像以上に大きな一番庭には、白亜の石室が二つありました。向かって右側の石室には、太陽の子(てだこ)である英祖王が、


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左側には尚寧王と彼の一族が眠っています。

英祖王がこの地に眠るのは合点がいきますが、尚寧王は首里の玉陵でなく、何故この地で眠っているのでしょう?


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諸説ありますが

前国王の尚永王に世継ぎがなかったため、尚寧王は分家の浦添尚氏から王に即位しました。

その後1609年に薩摩が琉球に攻め入り、首里城は陥落。琉球は降伏し、王は薩摩に連れて行かれ、実質的には薩摩の属国となります。

尚寧王は、2年の抑留から琉球に帰ることが許されましたが、このことを恥じて、没後、首里にある王家の墓(玉陵)に入ることを潔しとせず、遺言でふるさとの浦添の墓に入れるよう言い残してこの世を去ったといいます。尚寧は悲劇の王ともいわれています。

ちなみに琉球オペラなどで上演される、尚寧と王妃であるアオリヤエの愛の物語当初は別々の墓で眠っていましたが、没後100年以上経過後、この地に移され一緒に眠っています。


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見事に復元されています。


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眺めも素晴らしい。


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ようどれの上、前田高地に残る、浦添グスク跡に向かってみます。


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芝生広場から見えていた浦添グスク跡の石垣。


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前田高地に来ると、グスク跡だけでなく戦争遺構が数多く残り、急に現実へ引き戻されてしまいます。

ここは、沖縄戦で日本軍の防衛拠点となり、米軍と激戦を繰り広げた地です。


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読谷と嘉手納の海岸に上陸した米軍は、北部を占領したあと南下し日本軍司令部のあった首里を目指しました。

前田高地は首里の北側で防御壁の役割を果たしていて、米軍はここを突破しないと首里に到達できません。

そして、日本軍はこの場所に兵力を集中し、米軍を迎え撃ったのです。

日本軍の徹底抗戦により、米国の戦史で「ありったけの地獄を一つにまとめた戦場」といわれた戦いが繰り広げられました。

2017年に公開された映画、メル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」が記憶に新しいです。


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画像中央の緑の森が、嘉数の戦いとして日米両軍が激戦を繰り広げた嘉数高台公園。そしてそこから右手に伸びる滑走路が普天間基地です。


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渡嘉敷島もくっきり見えています。

本当に眺めの良い場所です涼しい今の時期だからでしょうか、若い女性たちが散策している姿を多く見かけました。


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昨年10月にゆいレールがてだこ浦西駅まで延伸され、浦添グスク跡へのアクセスが楽になりました。今まで以上に注目を浴びるかもしれません。

英祖と尚寧が眠るようどれの内部は、近くの「浦添ようどれ館」で実寸大のレプリカを見学できます。

英祖が生まれたとされる伊祖グスクから、普天満参詣道(ふてんまさんけいみち)、英祖と尚寧が眠る浦添ようどれ・浦添グスクまで歩いてきました。この後は、ゆいレールの浦添前田駅に移動し、首里へ向かいます。

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琉球王朝発祥の地・浦添市の伊祖公園内にある伊祖グスク跡は、太陽の子と呼ばれ琉球史に名君として名を残す英祖王(えいそおう)の生誕の地として伝えられています。

太陽の子(てぃーだのこ)とは浦添市のキャッチフレーズ「てだこ」の語源です。


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綺麗に整備された伊祖公園は、旅の移動疲れを癒すにはもってこいの沖縄らしい公園で、グスクの物見台からは渡嘉敷島を望むことができ、沖縄の心地よい季節風を感じることができます。


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浦添大公園の北側、住宅街の高台に位置し、以前アップしたカーミージー(亀瀬)や港川ステイサイドツタウンの近く。


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繁盛店・高江洲そばさんの裏手になります。

この日はレンタカーを使わずに、とまりん前の泊高橋バス停から琉球バス(具志川BT行き)に乗り浅野浦バス停で下車(¥290)

伊祖城から浦添大公園の浦添城を歩き、浦添前田からゆいレールで儀保まで移動して首里近辺を散策するというプランです。


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浅野浦バス停から10分ほどで伊祖公園大きな駐車場と綺麗に清掃されたWC、たくさんのアスレチック遊具もあり、思っていた以上にアップダウンのある大きな公園です。


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高台にある展望広場へ向かうと、前回アップした那覇市内同様、こちらも緋寒桜(ヒカンザクラ)が満開でした。


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そして気根をスパッとカットされたおかっぱガジュマル”(勝手に命名)


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そのせいなのか、樹高のわりに根元が細いので倒れてしまいそう


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伊祖グスク跡の入口は、広場奥にある木階段(史跡説明の案内板があります)


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でも、ハブの心配の少ない今の時期で、脚力に不安のない方なら、おかっぱガジュマルの裏手からちょっと遠回りして伊祖グスク跡に向かうのがおすすめです。石畳を歩き、


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鬱蒼とした石段を登り、


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丘陵を囲むように巡らされている石垣とその先の浦添の街を眺めると、このグスクの規模やロケーションがよくわかります。


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木階段の先は、白い鳥居まで続く石灰岩剥き出しの石段…SNSによくアップされている風景です。


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鳥居の先に鎮座する伊祖神社とガジュマル。

1934(昭和9)、城門のあった場所に鳥居、本丸跡にはグスク内の拝所を合祀しコンクリート製の神殿を建て伊祖神社と称しました。グスクの本丸跡が神社になっているというのは珍しいのでは。

伊祖グスクは、英祖の父祖代々の居城と言われており、築城年は不明ですが、英祖の生年から推察すると13世紀初頭の創建と考えられています。


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伝説では、英祖の父は天孫氏の流れをくむ恵祖世主(えそよのぬし)で、伊祖の按司(あじ)でした。

彼には子供がいなかったそうですが、ある日、日輪(太陽)が飛んできて妻のふところに入る夢をみました。


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後に生まれた男の子が英祖で、神号は英祖日子(エイソのテダコ)となっています。英祖は非常に戦上手で、「伊祖の太陽」と称されていたそうです。

琉球王国の初代王統とされる舜天王統(しゅんてんおうとう)は伝説性が高いといわれており、その次の王統とされる、英祖王統が沖縄で生まれた最初の王統と考えられています。

毎年7月に開催される「浦添てだこまつり」では、ここで太陽の光から火をおこす採火式が行われているそうです。


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神社の裏手には物見台跡があります。


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目線に電線があるのが残念ですが、とても素晴らしい景色が広がっています。


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牧港の先には渡嘉敷島。沖縄では高台からの展望でも目印となる山や建造物が少ないので、海に浮かぶ島や半島が確認できると方角や位置関係がわかるので助かります。


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読谷村(座喜味城)方面。


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中城村(中城城)方面。

700年以上も前、幼い頃の英祖は、この地に立ってどんな未来を夢見ていたのでしょうか

ここ伊祖グスクもカーミージー(亀瀬)同様、浦添八景のひとつです。

他の八景である当山の石畳・浦添ようどれ(英祖王の陵墓)・浦添グスク(英祖王の居城)に向かって散策してみます。

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バラエティ番組「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」に出演していた小学4年生のお城博士ちゃん。

少年が言うには、

まず城を見る時には『攻める気持ちで見る』。

そして天守の中に入ったら『守り手の目線』。

最後は『城主の気持ち』になると……

なるほど、目から鱗が落ちる思いです。


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うるま市の中心部、安慶名(あげな)。街の真ん中の小高い丘に、あまりひと気のない(駐車場は満車状態なのですが…)安慶名中央公園があります。


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この公園内に、森に隠れた安慶名グスク跡と安慶名闘牛場があります。

先日アップした今帰仁村闘牛場のつながりから、先に闘牛場に向かってみます。


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駐車場から広場へ上がるとこんな感じ森の中に宝物のように隠れているのが安慶名グスク跡。入口は左手奥、案内板のある所です。

広場の右手にある階段を上って行くと立派な慰霊之塔があり、その先に深いすり鉢状の闘牛場があります。


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見晴らしの良い丘の上にある安慶名闘牛場今帰仁村闘牛場とは違った魅力があります。

うるま市石川多目的ドームが平成195月に完成するまでは、ここがメインスタジアムでした。現在は年に12回ほど開催されているそうです。


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ぐるっと廻ってみてびっくりしました広場からは見えなかったグスクの城壁が姿を現します。

グスク跡をバックにした闘牛場気持ちが昂るロケーションです。


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闘牛場から見上げた高い城壁。


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見上げた時にはわかりませんでしたが外郭もありました。


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岩山の中腹に巡らした外郭の壁と、山頂台地に巡らした内郭の大きな壁この二重の壁で城の防御力を高めています。


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岩山に築かれた石の壁は見るからに難攻不落ここを生きたまま登りきるのは至難のワザ。どのように攻略すればいいのだろう?


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このように天願川を天然の堀として活用し、隆起した琉球石灰岩の岩山を巧みに利用した極めて堅固な城。

安慶名グスクは14世紀頃、琉球統一以前の三山(北山・中山・南山)時代に安慶名の按司(あじ・地方の領主)によって築城されたといわれており中山国に属していました。

その後、1429年に中山王・尚巴志が三山を統一し初めて琉球全体の王となり第一尚氏王統が、そして1470年には第二尚氏王統の時代が始まります。


安慶名グスクに大きな転換が起きるのは、第二尚氏王統3代目の尚真王による中央集権体制の強化によります。

尚真王は、各地に割拠して力を持っていた按司を首里に集居させ、地方には代わりに按司掟という役人を派遣して領地を管理させました。

ところが、3代目となる安慶名の按司は首里王府に従順ではなかったようです。

反発すれば攻められるとわかっていても、強固なグスクによほど自信を持っていたのか?、他に確固たる勝機があったのでしょうか?

尚真王は中央集権体制を確立するために、安慶名の按司を服従させる必要がありました。

首里の大軍が安慶名へ向かいます。


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狭く険しい石段城門への進入路はこの石段のみです。


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城門の手前に来ると、石段が高低差のあるつづら折りになっており、攻める側とすると厳しい立場に直面します。


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ここまで何回討ち死したことでしょう石段を登り詰め城門に辿り着きましたが


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この城門は凄い巨岩の裂け目の一部分を切り崩し、巨大な切石と組み合わせ、アーチ状に築かれています。普通に考えれば郭内へ進入することは困難です。


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1m程度の城門をくぐり郭内へ入り、郭内から城門を見た画像です。

ここからは守り手の目線になってみます。

外部からの敵の侵入を防ぐという意味では、まさに鉄壁の守り。

あとは援軍を待ち、首里軍を挟み撃ちにすれば勝機はあります。


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しかし、安慶名の按司はこのグスクで籠城せざるを得ない状況になったようです。


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安慶名の按司は安慶名グスクを拠点としつつ領土を拡大し、具志川グスク、天願グスク、屋良グスク、喜屋武グスクなど数々のグスクを築いて一大勢力に成長していました。

その事を考えると、どうやら各地からの援軍が来なかったのかもしれません。

安慶名へ向かう途中に首里軍によって敗北したのか?それとも裏切りがあったのか?

本当のところはわかりませんが、最初から籠城して戦うことが策ならば、尚真王の命令に背くことは自殺行為に等しいはずです。


結果的にグスクは落城してしまいます。

実は大きな落とし穴がありました。

琉球石灰岩の岩山に築かれた郭内には井戸がなかったのです。つまり最初から籠城に適さなかった消耗戦に弱いグスクだったということ。

水源は天然の堀として活用している、グスクの廻りを流れる天願川の水でした。

それを知った首里軍は、グスクと川の間に駐留し、水の供給路を断ちました。

安慶名の按司にとっては万事休すです。


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闘牛場の先には天願川が流れています彼はどのような思いで敗戦をむかえたのでしょうか?

多くの観光客で賑わう世界遺産に登録されたグスクだけでなく、安慶名や糸数、玉城、具志川など、当時の荒々しさの残る静かなグスクへも訪ねてきましたが、お城博士ちゃんから城の見方を学んだので、再度、グスク巡りをしてみようと思います。もちろん闘牛の闘いも。

次回の沖縄の旅が楽しみになりました。

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数多くのグスク跡をアップしてきましたが、今回は世界遺産に登録されている読谷村にある座喜味城跡。


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他の世界遺産に登録されたグスク(今帰仁城跡・勝連城跡・中城城跡・首里城跡)と比較すると規模が小さめです。

しかし辺り一帯が緑に囲まれた無料の公園となっており、観光地というより地元の人々の憩いの場という感じがしてとても居心地の良い所でした。


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公園に入ると琉球松の並木道が城跡までまっすぐと続きとても静か…他のグスク跡とは雰囲気が違います。


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二の郭の城壁が見えてきました。

第一印象はとてもキレイ。城壁の修復具合はもちろんあたりにはゴミひとつ落ちていません。


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右側のせり出した石垣は物見台になっているようです。


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Googleの航空地図で見ると城壁はこんな感じ。

コンパクトで城壁の張り出しの曲線がとても美しい…そして張り出しが横槍の役割を果たしており防御性を高めています。

小さいながらも姿は万里の長城のよう。


ちなみに座喜味城は、琉球王朝によって三山(北山・中山・南山)が統一された後、旧北山王国残党の蜂起に備える為に、尚巴志(しょうはし)の命により当時築城の名人と呼ばれた護佐丸が築いたといわれています。


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二の郭へ続く石門…今まで訪れたグスクの中で一番綺麗かもしれない。

天井部分は2つの大きな石がアーチ型に組まれていて、かみ合う中央部分は薄いV字型のくさび石が打ち込まれています。

とても繊細な仕事っぷりです。


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ちなみにこちらはアーチ型の石門が残る知念城跡…荒々しいですね。


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二の郭に入ると広々とした空間で、緑の芝が敷かれていました。

一の郭へ向かう前に城壁周りを歩いてみます。


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屏風状の城壁。

沖縄のグスクの大きな特徴は石垣が複雑な曲線を描いて続き、石垣の出隅が尖らずに丸みを帯びていること。


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そして訪れてみるとわかるのですが、この辺りは坂が多い地形で平地が限られています。


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限られた傾斜地をうまく利用していること、さらに横槍の役割を果たす城壁の張り出し具合がよくわかります。


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往時であれば敵を欺く袋小路状態…今となっては美しく穏やかな光景です。


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一の郭へ続く石門。

こちらも綺麗なアーチ型で、くさび石を見てみると二の郭はV字型でしたが一の郭は四角いくさび石でした。ちなみにこの石門は修復されたものだそうです(戦時中は日本軍の砲台となり、戦後は米軍のレーダー基地として使用されていました…返還後に史跡整備されて現在に至ります)。

アールを描き微妙に歪みのある石段も素敵です。


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知念城跡の石段も微妙にアールを描いています。


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一の郭では城壁の上に登ることができ、他のグスク跡と同じく眺めがとても素晴らしい。


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カラダを包み込む風が気持ちいい…


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世界遺産に登録された他のグスクや糸数城・具志川城・玉城城のようにワイルドなグスクと見比べてみると面白いと思います。

直線的な城壁や単純な曲線構造から、曲線や曲面に歪みを強調する構造へと進化していったことがわかります。

石造技術とともに発達した石造美…

ナイチの城とは異なり、聖域を内包した琉球独特の城塞です。

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