カテゴリ: 旅/愛媛

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樹齢三千年といわれる大楠の根元にぽっかりと開いたトンネルのような空洞そしてその空洞へ続く石段。まるで大楠の胎内くぐりのようで、ここをくぐり抜けると、新しく生まれ変わったような気持ちになれるのでしょうか。

一昨年の4月上旬に訪れた際の備忘録です。


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しまなみ海道の大三島にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)。全国に一万社余りある山祇神社と三島神社の総本社です。

祀られているのは天照大神の兄神である大山積大神。山の神として、さらに海の神、軍神、鉱山、農業に関わる神様など、その御神徳は多岐にわたります。


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源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた甲冑や鎧兜、刀の約4割がこの神社に集まっています。

巴御前の薙刀、弁慶の薙刀、源義経の太刀や鎧に鶴姫の鎧……

大三島は瀬戸内海に浮かぶ島。しまなみ海道がなければ船でしか渡れない場所です。だからこそ、古から大事に守られてきたのかもしれません。


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大山祇神社の境内には有名な二本の御神木がありますが、今回アップするのは境内の外、奥の院の手前にある生樹の御門(いききのごもん)”と呼ばれる樹齢三千年の大楠です。


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神社の境内を出て、民家の間の細い路地を進んで行くと、みかん畑の先にひと際大きな巨樹が目に入ります。


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巨樹と呼ばれる木で、本当の樹齢が分かっている木はほとんど無いと思いますが、この大楠樹齢三千年というのは、あながちオーバーな表現ではないと思えるほどの雰囲気を持っています。


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なるほど、生きた樹でできた門昔の人々は、この大楠の空洞をくぐって奥の院へ参拝していたようです。つまり奥の院へ続く参道です。


根元にトンネルのような大きな穴の開いた木というのは根上がりの木といって珍しくはありません。

樹木もやがて寿命がきて倒れてしまいます。その倒木の上に種が落ち、やがて芽を出した若い木は、倒れて腐った木から養分を吸ってだんだん大きくなってゆきます。

倒木はやがて腐ってなくなりますが、倒木の上で成長した木はそのまま根を張って大きくなるので根上がりになるのです。

東京タワーの塔脚4本を根だとすると、タワー足元にあるフットタウンの部分が穴みたいなイメージです。


ちなみに京都伏見稲荷大社の奥社奉拝所にある根上がりの松(膝松さん)が有名で、2つの御利益があることで知られています。

松の木肌を撫で、それから自分の身体の痛むところを撫でるとその痛みが治ると言われています。また地表に持ち上がった根元の下をくぐることでも御利益を得ることができるそうです。

もうひとつの御利益は根上がりの松を値上がりの待つに読み替えたもの。

株などの値が上がることに通じるので、証券マンや株に関わっている人にとっては縁起が良いとされています。


生樹の御門が根上がりの木なのかどうかは解りません。斜面で育ったため、根がむきだしになって穴が開いたのかもただ、佐賀県・武雄神社の大楠のように、スケールがあまりにも大きすぎて、心にズシンと響きます。


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個人的な考えですが、古木には何か強い力が宿っているような気がしてその中に入ってくぐるという体験はなんともミステリアスです。

御利益ではなく、永い時を生き抜いてきた強い生命力を全身に浴びて生まれ変わるような気分になります。


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大楠をくぐり、振り返ります。画像だと大きさが伝わりませんね


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大楠の参道から奥の院に続く桜がキレイでした。


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春だからこその自然の演出大袈裟ですがまるで天国にたどり着いたかのような気がしました。


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弥生時代に生まれた樹齢三千年の巨樹を間近で見ること自体稀なのに、その幹の中の空洞が参道となっていてくぐることが出来る樹となると、大変珍しく貴重な場所だと思います。

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前回の“旧別子エリア小足谷集落の遺構群”

http://blog.livedoor.jp/club007/archives/26029619.html

からの続きとなります。

森に還っているとはいえ、これまでの遺構からは人が生活していた跡というか温もりを感じましたが、これからは別子銅山の中で近代化の象徴とされる東延(とうえん)エリアに向かいます。


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ダイヤモンド水が湧く広場からアブと追いかけっこしながら分岐へ。


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右に曲がり橋を渡ります。


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山道を登りきるとまた分岐が。

左に折れれば歓喜坑や銅山越方面。

東延地区へはまっすぐ進みます。


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第一通洞手前にあるこの水路…

東平の第三変電所付近以上にアブが大量発生していました。


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左にある煉瓦の遺構…たしか金庫室跡?だったと思います…


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運搬の効率化の為に掘られた第一通洞の南口。

1886年(明治19)、4年の歳月をかけて総延長1,021mのトンネルが貫通しました。

坑内には軌道が敷かれ、人車・馬車が往来。

精錬された粗銅を新居浜側(北口)へ送り、新居浜側からは生活物資が送られたそうです。

別子銅山のメインストリートですね。

石組みのアーチがとても美しい…


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わかりやすい俯瞰図がありました。


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東延へは通洞の右手から山道を登っていきます。


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少し登ると案内板がありました。


《この谷の上部が東延地区である。明治7年(1874)住友家が招いたフランス人鉱山技師ルイ・ラロックの構想に基き明治9年から近代化の開発が始まった。

あの見事な石垣の築造は2年の歳月を要して明治18年に完成したもので、面石は背後の山腹にある蛇紋岩を採石し築造した。

谷川の流水は赤煉瓦30万枚を使って暗渠を構築し、用地の底を伏流させている。造成当時の用地面積は約6,600㎡、造成に要した作業者の数は延べ23,000人であった。ただし、冬季45ヶ月は積雪・凍結で工事を中断したが、その間に新居浜地区で暗渠用の煉瓦を作った》


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谷側に見える巨大トンネルのような石垣の遺構

木々に覆われてはっきりとは見えませんが、かなりの大きさです。

これ、実は、谷を埋立てて造られた人工的な穴で堰堤です。

本来、谷に流れていた川を暗渠(あんきょ:地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路)という形で伏流させています。

第一通洞の横にある水路の水もそのようです。

東京で例えるなら玉川上水でしょうか。


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東延に到着。


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ここが別子銅山最先端技術を駆使し、近代化発祥の地と思えない静かな佇まい

何故、近代化発祥の地かというと、

明治政府による新産業の育成政策である“殖産興業”を受け、住友家は別子銅山の近代化を決断します。

外国人技師を雇い入れ、それまで人力で堀り進んでいた採鉱の工程に、火薬・ダイナマイトを導入しました。

そして東延斜坑という斜めに掘った坑道を設け、蒸気機関を利用した巻き上げ機で効率的な搬出を可能にしたのです。


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埋め立て地に残る祭壇のように見えるこのレンガ造りの遺構


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正確な情報は残っておらず、ワイヤーなどを通した巻き取りのローラー(圧縮機)の土台ではないか?と言われているようです。


肝心の東延斜坑は、坑口周りの泥濘みが酷かったのと、アブの大群に阻まれ遠目から見学させて頂きました。

そしてこちらが東延機械場跡です。

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外壁だけが残る巨大な煉瓦造の遺構。

手ブレが酷いなぁアブと格闘中です。


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裏手に回ってみます。


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重厚感がありながらも繊細な煉瓦積みですね。

明治の遺構ってほんとに素晴らしい。


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廃墟でよく目にする光景完全に自然に呑み込まれています。


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ここに、蒸気機関の巻き上げ機が備え付けられていて、東延斜坑の中から鉱石を乗せた台車を引き上げていたそうです。

鉱石を地下から引き揚げる別子銅山の心臓部ですね。

鉄筋が剥き出しになり、沼地化しています。

それにしてもとても生々しい


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ワイヤーも残っていました。

旧別子の主な施設は1916年(大正5)頃までに東平エリアに移動しており、この機械場も1932年(昭和7)に廃止されたと言われています。


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全国各地の鉱山跡に訪れて思うのは、当時の財閥系企業の資源開発に賭けてきた執念を感じます…旧別子を歩くとより一層感じます。

日本を引っ張ってましたよね。

人の三井、組織の三菱、結束の住友という企業風土は、トップ組織が牽引して脈々と受け継がれてきた文化と言われていますが、今現在はどうなんだろう?

IT企業がなにかと脚光を浴びていますが、やはり今なお日本経済に大きな影響を与えているはずです。


東延エリアは埋め立て地なので、足場が悪かったり地面に穴が開いている箇所があります。

ちょっと注意が必要です。

他にもいろいろと探索したかったのですが、もう無理です。

頭皮からふくらはぎまでアブにやられました。

やはり訪れた時期が悪かった特に歓喜坑は見たかったんですけど。

今回、一緒に歩いた今治在住の友人の話だと、

標高約1300mの銅山峰からは、四国の山々と瀬戸内海を一望できるそうです。

そして5月中旬頃には高山植物の「ツガザクラ」が満開になりとても美しく癒されるそうです。

機会があれば再訪してみたいと思っています。

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前回の“東平エリアの旧東平第三変電所”

http://blog.livedoor.jp/club007/archives/26018978.html

からの続きとなります。


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R47で山を越え、別子ダムを通過してすぐの日浦登山口へ移動し、旧別子エリアの天空都市を歩きます。

登山口には10台ぐらい駐車可能でトイレがありますが、マイントピア別子から先のR47沿いにはコンビニ等はありませんのでご注意下さい。


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別子銅山の採鉱本部が置かれていた場所は、旧別子東平(とうなる)端出場(はでば:マイントピア別子)へと移行していきます。

鉱脈を掘りやすい上層から堀りはじめ、下へ下へと堀り進めていくのが常套手段。

別子銅山もその例にもれず、初期の坑口は標高1,000m以上の山頂付近に作られ、鉱脈が枯れてくると、その下に新たな坑口を設けて掘り進むという過程を繰り返しました。


旧別子エリアは、別子銅山最古のエリア。

別子銅山の歴史は17世紀の終わり頃、銅山越の南斜面に鉱脈が突き出ているとの情報が住友家にもたらされて始まりました。


観光地化され近代遺構が残る端出場エリアや東平エリアが目立ちますが、旧別子エリアこそが別子銅山のルーツであり、200年以上も繁栄していた場所です。

別子銅山最大の見所といえます。


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登山口から銅山越までは約3km

足谷川を遡るように往還が作られています。

この先に最大1万人あまりが生活していたというから驚きです。


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10分ほどで銅山専用墓所であった円通寺跡。

この辺りから石垣や煉瓦壁が点在し、脳内はタイムスリップし始めました。


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この橋を渡ると小足谷集落天空都市が姿を現します。


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《この辺りは別子銅山で最も新しく開かれた集落跡である。

小足谷の集落は大きく分けて3つに分かれ、小足谷の橋を渡る手前とその対岸の朝日谷集落には労働者が住み、この辺りには往還に沿って商家が軒を連ねていた。

そして、この先の接待館地並みから上は傭人(職員)の集落で俗に上前集落といって商人の住む下前集落と区別されていた。

右の屋敷跡は味噌と醤油の製造所で、煉瓦造りの窯や煙突の跡が今も残っている。

上の段の広い敷地はよく話題になる小足谷醸造所跡である。

別子銅山で酒の醸造を始めたのは明治3年(1870)からで、最盛期には年間100キロリットルも製造していた。銘柄ヰゲタ正宗、別名「鬼ごろし」ともいった》


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酒?…小足谷醸造所跡へ寄り道。


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野良煉瓦が未だに散乱しています。


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10m近くある醸造所の煙突圧倒的な存在感。

山中で働く人々にとって酒を酌み交わすことは大いなる楽しみだったはず。

しかし材料の米は、別子の山中ではほとんど生産されていませんので全て人の背・牛の背に負われて届けられたものです。

明治15年からは醤油や味噌も生産されていたというから凄いですね


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往還に戻らず石垣の山中を歩いていると、高台にひときわ異彩を放つ遺構を見つけました。


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煉瓦塀なんなんだろう?


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あとで往還に戻り案内板を見るまでは、この遺構がなんなのかわかりませんでした。


《小足谷接待館と傭人社宅    明治期に入って急速に鉱業の近代化が進むなかで、それに伴う各界の要人が来山するようになった中略…50mほど先に見える煉瓦塀を廻らせた邸宅跡は、歴代の採鉱課長が住んでいたと言われている。その隣が醸造課長宅で、これより小足谷に沿って20棟ほどの傭人社宅や倶楽部などが建ち並んでいた


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どうやらここが、歴代の採鉱課長が住んでいた邸宅跡みたいです。


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木造部分が残っていないので、見た感じは山城。


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手前の石の上に木造建屋があり、煉瓦塀の手前は庭園だったのでしょうか?

いろんな想像をするのですが、常にアブに襲われているためなかなか集中できません。


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往還に戻り、少し歩くと学校跡と測候所跡がありました。


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こちらは学校跡。

最盛期の明治32年には、生徒298名だったそうです信じられませんね。


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学校跡の先にはまるで城壁と見間違うほどの立派な石積みが広がっています。


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ここは土木課の建屋跡(劇場跡)。

普段は土木課や山林課の事務所として機能し、祝祭の日にはのぼりや提灯飾りを取り付け、京都や大阪から役者を迎えて歌舞伎や芝居を上演したそうです。酒と娯楽大事です


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この先にも、往還沿いの森の中には病院跡もあり、鉱山都市として大いに栄えた様子をうかがい知ることができます。


登山口から登ってきて気になったのは、禿げ山のように荒廃した銅山のイメージ。

現在その面影は全くありません。

むしろ森に呑み込まれ、自然に還っていく遺構群を見ると、改めて自然の力って凄いなぁと思うのですが、実はその裏には住友グループの地道な植林活動があります。

銅製錬に伴う森林の伐採と煙害で荒廃した山を元通りにするため、明治中期には早くも大量の植林を開始しています。

これは、保水機能を失った山肌が激しい山津波を起こし、銅山施設の壊滅的な打撃を受けたと同時に多くの人命をも失ったことが大きなきっかけの一つでしょうが、毎年100万本以上を植林してきたそうです。企業の姿勢として素晴らしいですね。


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劇場跡から約15分でバイオトイレとダイヤモンド水が湧く広場に到着します。


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ダイヤモンド水は昭和26年、鉱脈調査のための掘削中に水脈にあたり、地中から湧き出した水です。

先端の工業用ダイヤモンドをちりばめたドリルが回収不可能になり地中に残された事からこの名がつきました。

地中深くから涌き出す水はとても冷たくて美味しいのですが

この日はアブたちの縄張りになっていました


ここまでも僕らの身体の周りには、常にアブが数百匹まとわりついています。

この先どうしよう?皆で相談した結果、銅山越は諦め、東延(とうえん)地区の遺構だけでも見ようとのことになりました。

ここから先はちょっとした山歩きです。

#3 旧別子エリア東延地区の機械場跡に続きます。

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今回は画像点数が多いので別子銅山を3回に分けてアップします。

#1は東平エリアの旧東平第三変電所

#2は旧別子エリア小足谷集落の遺構群

#3は旧別子エリア東延地区の機械場跡


「東洋のマチュピチュ」と呼ばれている東平(とうなる)エリアには、別子銅山の代表的な遺構が残されています。

僕も過去45回訪れています。


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でも、この巨大な遺構はあくまでもほんの一部であり、銅山越の先の南斜面旧別子にこそ、別子銅山・住友家の歴史が詰まっています。


猛暑日が続いた8月上旬。

予定は早朝から東平エリアの遺構を見て、別子ダム湖に移動し、日浦登山口から銅山越までの旧別子の遺構群を見学することでした

結局、この予定は早々と崩れてしまいます。

原因はアブです訪れた時期が悪かった

今夏は各地でアブが大量発生しましたが、ここ赤石山系はとにかく異常でした。

とにかく大軍の雨あられ状態!

厄介なのはメス皮膚を刺すのではなく、まるで噛み切って吸血してくる感じ。

ついでに、毒素も皮膚へインサートしてくるのでパンパンに腫れ、しばらくすると熱を持って痛みが増します。

翌日はもう最悪です。

山を歩く際には、アブやブヨ対策として「ハッカ油」を使った自作の虫除けスプレーを持っていきますが今回は効果ゼロ

初めての経験でした。

ですので、全ての画像は手ブレ状態です。


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東洋のマチュピチュの代名詞ともいえる貯鉱庫・索道場の先に眠る旧東平第三変電所。

1904年(明治37)に建築されたレンガ造りの遺構で洋館のような姿です。


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煉瓦造りの建物はとても堅固で、今でも生活できるような空間が保たれています。


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明治の近代建築らしい美しいアーチ状の窓ガラスしかし建物内はアブの棲家と化していました


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2階に通じる木階段は腐敗し、歩いたら確実に踏み抜いてしまいそう。


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釜の跡でしょうか。

当時の変電設備は何も残されていませんが、“モノ”がたくさん残っていて、なんとなく生活感が漂っていました。

立ち入り禁止にもなっていなければ、補強・補修もされていません。

とても貴重な遺構普通に一般公開されていることに驚きますね。


さらに奥には、迷路のような何百キロにも及ぶ坑道の入口門が閉ざされた第三通洞がありますが、アブの攻撃に負けて撤退。

この後、R47で山を越え、別子ダムを通過してすぐの日浦登山口へ移動し、旧別子エリアの天空都市を歩きます。












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宇和海に面した愛媛県の愛南町。

隣町は高知県の宿毛市…ほんとに遠い。











そして宇和島市から愛南町かけての海岸線は豊後水道ににゅっと突き出た半島が多くて、くまなく巡ろうとすると大変なことになってしまいます。

それでも天気に恵まれれば最高のドライブになるので何度でも訪れたくなります。











翼を広げた海鳥を逆さまにしたような形。

豊後水道に突き出た船越半島の先端に草原が広がる岬・高茂岬があります。











半島の付け根、「道の駅 みしょうMIC 」からこんな感じで、時計の反対周りにぐるっとドライブしてみましたのであたりの画像も含めてアップします。

春と秋の画像が混載していますのでご容赦ください。











宇和海に浮かぶ3つの小島「三ツ畑田島」











R293の終点、猿鳴(さるなぎ)漁港

静かで落ち着く漁港のんびり釣りでも楽しみたい。











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外泊の「石垣の里」

民家の数はだいぶ減りましたが、桃源郷のような雰囲気は変わっていません。ここは桜の季節がいいですね。











無人島の鹿島が最も近くに見える場所。

鹿島の瀬戸。











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交通量の少ない道をのんびりドライブして高茂岬へ到着しました。柏島が見えます。

誰もいなかったなぁ











岬の遊歩道を降りて行けば、断崖絶壁の岬の先端を望めますが、個人的には高茂岬の景色はこの位置からがハイライト。

草原が広がる岬というのは北海道以外ではなかなか見かけませんからね。











立派なWCと東屋がありますので、時間を気にせずのんびりと青い海を眺めます。

最高の贅沢です。

岬の先端からは大分の鶴御崎が見えるようなのですが見えたことないなぁ。

冬がいいのかな? でも緑の草原があった方が素晴らしいし 夕日も素敵らしいしまた来ないといけませんね。


ここから、

松山方面へ向かうなら遊子水荷浦の段畑










▶︎http://blog.livedoor.jp/club007/archives/1766451.html


足摺岬方面へ向かうなら柏島











▶︎http://blog.livedoor.jp/club007/archives/761050.html


併せて訪れればさらに充実した旅になるかもしれませんね。

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