高岡城は、3度の危機を乗り越え、築城以来の曲輪や堀がほぼそのまま残している城跡である。1度目の危機は、江戸幕府による「一国一城令」で、このときに高岡城は廃城となった。しかし、3代当主の前田利常は高岡城の水堀を埋め立てず、各曲輪に米や塩などの蔵を設置し、番人を置いて一般の人の出入りを禁止し、城の実質的価値である曲輪と堀を保存したのである。2度目の危機は、明治初期の1870年、金沢藩が高岡城跡を民間に払い下げることを決定したときであった。このときは、町民の間で城跡保存の世論が高まり、当時の第17大区区長の服部嘉十郎たちが県に城跡の公園指定請願書を提出し、1875年7月4日、城跡は「高岡公園」として認定され、無事保存されることとなった。3度目の危機は、高度経済成長期の開発であったが、このときも城跡にはほとんど手は付けられず、約400年前の築城時の姿をとどめている。
●高岡城跡碑
●内堀と本丸土橋の石垣
●本丸土橋西側の石垣
本丸土橋の両面には石垣が残っている。詳細な調査によって、外堀(西)側に837石、内堀(東)側に863石の合計1700石が使用されていることが分かっている。石材は、砂岩、安山岩、花崗岩の3種類が使われていることが判明している。石垣の刻印の種類は組み合わせも含めて127種類確認されている。
●本丸に置かれた石垣石
本丸には13個の大石が置かれているが、これらは2004年の3月に大門町の大門新にあるときわ橋付近の和田川の河床から引き揚げられたもので、1875年頃に護岸工事のために高岡城跡から運ばれた石垣石であると伝えられている。石には矢穴の跡が確認できる。
●高岡城の縄張(高岡市立博物館の城址模型)
高岡城は測量調査によれば、長さ648m、幅416.5mの規模を持っている。面積は約21.8万㎡(東京ドームの約4.5倍)で、そのうち37%が水堀で占められている。縄張形式は、本丸から二ノ丸、鍛冶丸、明丸、三ノ丸、現「梅林」、御城外(元小竹藪)という7つの曲輪(城内の区画)を土橋でつなげる「連続馬出」であり、非常に高い防御力をもっていた。その曲輪の形状や水堀のほぼ全てが現在も残っている。
●明丸土橋から見た枡形堀
●内堀と朝暘橋
●前田利長像(本丸内)
加賀前田家2代当主・前田利長は、1605年に隠居して富山城にいたが、1609年3月上旬の大火により城を失った。利長はいったん魚津城へ避難し、4月6日付で駿府の大御所・徳川家康と江戸の将軍・徳川秀忠から関野(高岡の旧名)での築城許可を得た。関野は加賀藩領のほぼ中心にあり、小矢部川や当時大河であった千保川がつくった広大な沼沢地だった。高岡城はその中に浮かぶ高岡台地(標高約15m)の北隅に築かれた。高岡城は高山右近が縄張(設計)をしたと伝わるが、最近の研究では利長自身が縄張をした可能性が指摘されている。築城および城下町造成に関する利長の書状が約30通も残っており、利長自らが積極的に指示したことが分かっている。5月中旬には城の地鎮祭を行い、これ以降普請(土木工事)が本格化したと思われる。領内から約1万人(推定)の人員を動員して突貫工事で進められ、9月初旬には仕上げの段階になったという。9月13日、利長は主立つ家臣434名を引き連れて入城を果たした。
●前田利長墓所
高岡のまちを開町した加賀藩前田家2代当主・前田利長の墓所として、3代当主・前田利常によって1646年に造営された。正方形の区画で、墓域の総面積は約1万坪(3万3千㎡)、二重の堀で囲まれている。中心には加賀産の戸室石で化粧した、幅15.5m、高さ5.0m(石塔までは11.9m)の御廟(墳墓)がある。大名個人の墓としては全国最大級のもので、こうした破格の規模の造営は異母弟である自分に家督を譲ってくれた利長への恩義によるものだと考えられている。
●高山右近像(大手口)
高岡城の築城に携わったと言われている高山右近の像が大手口に立っている。この像は、西森正昭氏によるもので、同じ形の像が5つ存在している。高岡城址以外では、高槻城址公園(大阪府)、小豆島教会(香川県)、高山右近記念公園(石川県)、パコ駅前広場(フィリピン)にある。
【アクセスについて】
JR・あいの風とやま鉄道の高岡駅からゆっくり歩いても15分あれば着く。
訪問日:平成31年1月12日
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