私たちは普段、他人に作られた情報空間を見ている可能性が高いです。
それも、抽象度の低い煩悩を刺激されるような情報空間です。
単に抽象度の低い煩悩を刺激するならまだしも、多くは欲しいとも思っていないものを欲しいと勘違いさせられるような働きかけがなされています。
需要があるものを提供するのではなく、需要が無かったとしても需要があると思わせて買わせる、といった感じです。
そのあたりの働きかけは結構昔に既に大規模に、それも巧妙に行われており……という話はさておいて、今回はどのようにして本当のwant toのゴールを見つけるのかを考えていきたいと思います。
超情報場理論では、全ては情報で出来ており、物理はその一写像である、と考えています。
また、「抽象度」という構造もそこにあります。
厳密には「情報量の大小で並び替えることができる」ということですが、情報空間(情報宇宙)そのものを抽象度という軸で並び替えることができるということは、同時に情報空間は抽象度という構造を持っていると考えることもできます。
もちろん絶対不変というわけではなく、刻一刻と変化し続け、ありとあらゆる認識主体が抽象度という構造を見出さない状態になれば、抽象度という構造は消滅するでしょう。
というか、一人一宇宙なので「抽象度」や「情報量」に類似する概念を持たない認識主体の宇宙には存在しません。
認識しているものしか存在しないのです。
とはいうものの、何かを認識した瞬間に「それ以外」が認識外に発生します。
「空」に至らない限り、全て部分関数として、何かと何かを分けるものとして働くからです。
本当のwant toのゴールは、この「それ以外」のどこかに存在します。
もしかしたら構成要素そのものは既に現状の認識の中にあるかも知れません。
しかし、ゲシュタルトが「部分と全体の双方向関係」であることからわかるように、今の全体を作り出している自我という重要性評価関数、つまり重要度で並び替える関数によっては現状の認識の中には存在しなくなってしまいます。
体感しやすいであろうものが以下のリンク先で紹介されています。(外部サイトです)
もっと分かりやすく重要性によって見えなくなることを体験できるワークはPX2やTPIEに組み込まれているので、そちらも是非。
さておき、本当のwant toのゴールは「それ以外」から探し出すか、自我を変えて新しく並び替えられた現状から見つけるかの二択です。
前者は、抽象度の階段をどんどん上がっていき、情報空間における視野を広げることで、これまで見えていなかった本当のwant toのゴール、あるいは本当に解決したい問題を見つけるというものです。
後者は以前紹介したRASをコントロールする手法です。
どっちにしろ要する労力は大して変わりません。
抽象度の階段を本気で上がるには思考し続ける根気がどの道要りますし、重要性を一つ一つ変えるにしても新しい重要性に馴染むまで時間がかかり、またちょっとやそっと重要性を変えたところでは本当のwant toのゴールはなかなか見つからない場合が多いからです。
実際は抽象度を一個上がって宇宙を見ることも重要性を変えて見ていることに変わりはないので、結局やることは同じ、というのが正確なところでしょうか。
その上で、今回はどちらかというと視野を広げる感覚の手法を書きたいと思います。
本当のwant toかどうかはさておき、現状には現状なりのwant toの何かがあると思います。
それを利用します。
なんでも良いです。
下世話なものや、反社会的に思えるものでも構いません。
そしてそれを全世界の人間が喜ぶ形で実現するにはどうすれば良いか考えます。
人を殺したいだとか、戦争をしたいだとかの欲求が人が喜ぶ形で昇華された物の一つが戦争ゲームです。
臨場感が低いというのであれば、より臨場感が高くなるような工夫をすればよいのです。
物理空間でやらないとこの欲求は解消されない!という人は、人間の認知を全く理解しておらず、ついでにほとんど物理抽象度しか認識できない可哀そうな人です。
人間は小説や映画の世界に高い臨場感を持つことができる生き物です。
だから小説や映画を見て涙することもあれば、ゲームをして怒ることもできるのです。
ただ単に指で画面をなぞるだけの作業でイライラできるほどスマホゲームに臨場感を持てるのです。
だからゲームをしたり、なんなら自分で小説を書いたりして欲求を満たすことは十分可能です。
今の社会では、というより、昔からゲームをするとバカになったり暴力的になったりするからのめり込むなだとか、やってはいけないだとか言われたりします。
たしかに一日のほとんどをゲームの世界で生活していればそうなる可能性はあります。
やはり他人の作った情報空間なので、その情報空間の抽象度を超えることができず、低い抽象度にとどまってしまう可能性は高いでしょう。
しかし、特に子どものことを言えば、それはゲーム以外に楽しいことを提示できない、ゲームよりも楽しいことを提示できない周囲の人間や社会の方こそ問題ではないでしょうか。
今こうしてブログを読んだり、様々な書籍を読んだりするような人や、真っ当に義務教育課程を修了した大人は自己責任なのでゲームの世界に住もうがゲームなんかより遥かに楽しい世界を作り出そうが好きにすれば良いのですが、自分で手に取れる選択肢が周囲の大人が提示できるものでほとんどを占めている子どもがゲームにばかりのめり込んでしまうことは、明らかに周囲の大人に責任があるのであり、ゲームの面白さを甘い毒として扱うのは正直言って不当であり、かえって無責任でしょう。
特に代案も無いのに政治批判をしたり辞任を要求するよくわからない人たちを見ている気分になります。
ちょっと私怨のようなものが混ざって呪いじみた文面になってしまいましたが、反社会的な欲求だろうと人が喜ぶ形で昇華することは可能であり、そうして社会に提供する分には何の問題も無いことを書こうとしていました。
とにかく、下世話であろうが反社会的であろうが、今の欲求に正直になってみる。
そして全世界の人間が楽しく安全に享受できるものか、役に立つものを考えてみる。
ということをすることによって思考の抽象度が上がり、そのうち本当のwant toのゴールが見つかります。
あるいは最初から本当のwant toのゴールを包摂するゴールを設定する方法もあります。
設定するだけなら難しくありません。
まず最初に自分がwant to100%の人生を送りたいと考えます。
次に抽象度を思いっきり上げて、「全人類がwant to100%の人生を送る世界を作る」というゴールを設定し、思考します。
以上です。
重要なのは、できるだけ抽象度が高いことと、今の現実からより離れていること。
それが最終ゴールとして良いゴールです。
もちろん、そこへ至る足掛かりとしての小ゴールも最終ゴールも日により変わって構いません。
お試しあれ。