馬鹿としか言いようがない自己責任論

安田さん解放 「自己責任論」再燃

見識に欠ける人々がいつものように「自己責任論」なる珍論を吐いて、己の程度の低さをアピールしているようである。身代金によって結果的にテロリストを潤しただの、紛争地帯と知りながら乗り込んで、むざむざ捕まり日本政府ほか多くの人に迷惑をかけただの。

馬鹿としか言いようがない議論だ。

こういう人々は、今回のような事例において安田氏を擁護することが、とりもなおさず「ジャーナリズム」を擁護することなのだという基本的な理解を欠いている。安田氏という個人を擁護するのではないのである。

戦場ジャーナリズムの役割とは、危険を顧みず紛争地帯にも足を踏み入れて、あくまでも平和的手段により情報の収集と発信を行い、世の人々に戦争・紛争の実態を知らしめ、多くの洞察を提供することにある。

それはたとえ安田氏のように誘拐・拘束され、いわば「失敗」したとしても、世界に貴重な洞察をもたらす価値ある行動として評価され、支援されるべき活動である。それを安手の「自己責任論」で切って捨てたとき、いったい誰が得するだろうか。言うまでもなく暴力的手段で人命を蹂躙し、その意を通そうとするテロリストや、人権を屁とも思わない独裁者たちが得するのである。

こうしたテロリストや独裁者にとって、最も疎ましく目障りな存在は、自分たちが隠しておきたい戦場の真実を暴き、世界に発信する安田氏らジャーナリストである。サウジの反体制ジャーナリストが殺害されたことは、それを間接証明していると言えるだろう。

今、安田氏を自己責任論で罵倒している馬鹿たちは、自分がテロリストや暴力的独裁者の味方をしていることに気づいていない。それどころか自分こそが本質を捉えた正論を主張しているとすら思っている。

安田氏を拘束したテロリストは、日本で安田氏がバッシングされていると知ったら喜ぶだろう。これで少なくとも日本から邪魔くさいジャーナリストが自分たちの知られたくない秘密を暴き立てにくる恐れが減るのだから。

分かっていない連中は、過去の安田氏のツイートなどを持ち出して、「こういう偏見の持ち主だから」と自己正当化したつもりになっている。だが「ジャーナリズム」とは、自分が支持する言論だけを指すのではない。自明のことだ。

時には自分とは意見を異にする言論もあるだろう。ユダヤ人支持者にとっては、アラブ人の方を持つジャーナリストは気に食わないかもしれない。サウジの体制を支持する人間にとって、殺害されたジャーナリストは気に食わないかもしれない。

しかしそうであったとしても、そのジャーナリストがあくまでも「言論」のみを武器にして活動していたのであれば、それはジャーナリズムの精神にのっとっていたのであり、擁護されなければならないのである。気に入るか気に入らないかは問題にならないし、それをいくら持ち出したところで、ジャーナリズム攻撃の正当化はできないのである。

文明社会を文明社会たらしめているのは、多様な見識の持ち主がそれぞれに意見をぶつけ合うことのできる健全な言論空間である。この空間は多くの政治権力者から絶え間なく攻撃を受ける。もちろん今回のようにテロリストから攻撃を受けることもある。なぜなら、こうした権力や武力の保有者たちを監視し、批判し、抑制しているのが「言論」だからである。

文明社会の恩恵を知り、その価値を知る者ならば、こうした攻撃には断固として立ち向かわなくてはならない。そしてその対抗上、最も力を持つ「武器」がほかならぬジャーナリズムなのである。

今、安田氏を自己責任論で罵倒している連中は、こうした背景が分かっていない。この連中に見えるのは、目先の税金が使われただの、身代金でテロリストが潤っただのという、甚だしく表層的な問題だけだ。

日本社会の圧倒的多数が、安田氏の個別の言論を超えて、ジャーナリズムの価値を擁護し、テロリストに批判の目を向け、安田氏が伝えんとした戦場の現実を直視すること。これこそ、テロリストたちが最も恐れている展開なのである。「自己責任論」でテロリスト擁護にいそしんでいる連中は、もう一度言うが、馬鹿としか言いようがない。

陛下のお言葉を「アレンジ」する不敬な大臣

柴山文科相、教育勅語「アレンジし道徳に使える分野も」

右翼的な見地から見ると、この大臣の発言は問題である。全国の右翼諸君は全力を挙げてこの大臣を批判しつくさなければならないだろう。

なぜなら、「勅語」とは右翼(小川栄太郎流に伝統保守主義者と言ってもいいが)にとっては「畏れ多くも天皇陛下のお言葉」に他ならない。それをあろうことか「アレンジ」しようというのである。不敬もここに極まれりだろう。これに怒らないようでは右翼ではあるまい。

右翼思想の持ち主にとっては「勅語」を「アレンジ」するなどもってのほかで、陛下のお言葉は文字通りに受け取らなければならない、神聖なる「玉音」なのである。

「勅語」の性格をそのように認識した場合にやらねばならないことは、勅語を文字通りに受け取るためにも、これが出された当時の時代状況、時代の文脈を正しく踏まえることが求められる。

例えば勅語には「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ」とある。ここで踏まえるべき時代状況は、1890年時点での女性の社会的立場である。この時代、女性は結婚したら男性の所有物であり、今でいうところの「基本的人権」など一切認められていない存在である。法的には「無能力者」だったのである。

そういう無能力者=女という前提があっての、「父母」の関係性であり、「夫婦」の関係性だったのである。圧倒的な男性優位社会であることは、「兄弟ニ友ニ」という表現からもうかがえるだろう。断じて「姉妹ニ友ニ」ではないのである。

現在の日本国憲法第24条にあるような、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」という価値観とは、全く重なるところのない社会構造があったのである。

勅語を「畏れ多くも天皇陛下のお言葉」として尊重するならば、勅語が前提とした社会構造を踏まえてお言葉を受け止めなければならない。そうすると、「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚」することが求められている現代社会に、ただ単純に言葉だけ横滑りさせて持ってきて、「ホラ、現代にも通用する」などと胸を張るというのは、事実上のアレンジであって不敬な振る舞いと言わざるを得ない。

現代日本にはいわゆる「ネトウヨ」が跋扈して、右翼思想も相当劣化が進んでいる。そのせいだろうか、明治神宮のHP(http://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.html)においても教育勅語をあの時代の文脈の中に位置付けるという基本的な所作が守られていない。

ご丁寧に明治神宮のHPでは、わざわざ表まで作って「教育勅語の十二の徳目」が並べられている。例えば、「夫婦 ふうふ ノ の 和 わ」は「夫婦はいつも仲むつまじくしましょう」だし、「博愛 はくあい」は「広く全ての人に愛の手をさしのべましょう」である。

もう一度言うが、当時の女性は「無能力者」扱いであって、それを前提としての夫婦の和、博愛なのである。そこを踏まえずに明治神宮のごとき無邪気な「言い換え」をするのは、右翼の立場からすると思想的背任である。

そもそも明治神宮のHPにしてからが、「戦後に教育勅語が排除された結果、我が国の倫理道徳観は著しく低下し、極端な個人主義が横溢し、教育現場はもとより、地域社会、家庭においても深刻な問題が多発しています」という問題意識なのである。

そうであるならば、なおさら「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚」した現代日本に、教育勅語を安易に横滑りさせてはならないはずである。むしろ、明治神宮の立場からは、現代日本には教育勅語が成立する前提基盤がない。よって女性の権利を全否定するなどの社会変革が先であり、それがなされなければ教育勅語も意味が変えられてしまう。と主張すべきだろう。

日本の右翼諸君。教育勅語をアレンジしようなどという不敬な振る舞いを画策する文科大臣を許しておいていいのか。明治神宮の世迷言を正さなくていいのか。教育勅語の復活を本気で臨むなら、「女性に基本的人権など一切認めるな」と主張しなければ嘘である。

なお、私は右翼ではないので、そのような社会変革には断固反対だし、アレンジしようとすまいと教育勅語を持ち出して「道徳などに使う」など一片の価値も見出さない。女性の基本的人権が尊重されている現代社会に生まれたことを率直に喜んでいる。

正直、私も現代右翼に上記に述べたような意味で教育勅語の復活を望み、女性の権利を全否定したがる人間はほとんどいないと思っている。だがそうであるならば、教育勅語はあくまでも歴史文書として扱い、アレンジや安易な現代への横滑りを企むべきではないだろう。そうでないと上述したような思想的背任という問題を惹起せざるを得ないのだから。 

新潮45の杉田擁護キャンペーンを解読する

新潮45が「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」なる特集を改めて組んで、擁護の論陣を張っている。

本ブログでも杉田水脈論文は子細に取り上げて、その「反動話法」を整理した。ポイントだけ上げると氏の反動話法は次のようになる。

1 差別の存在自体を否定
2 問題の矮小化(社会問題を両親からの理解の問題に矮小化)
3 問題のすり替え(差別解消の議論を税金投入の費用対効果の議論にすり替え)
4 普通・常識に頼った正当化

さて、こういう反動話法を擁護しようとした今回の特集では、応援団諸君はどのように立論したのだろうか。

◆藤岡信勝氏

まず藤岡信勝氏は、「生産性」を杉田氏がいかなる意味で用いたかを指摘し、世間の批判は的外れだと主張する。氏によれば、杉田氏が言わんとしたことは、LGBTは「次の世代の子どもを再生産しない」という事実の指摘であって、LGBTが社会的に無価値だというがごとき含みはないという。

実は私もこの点では同意見である。杉田氏の生産性という言葉は、確かにそのような意味で用いられており、このくだりを取り上げた世間の批判の多くは的を外している。

(追記:ただし、LGBTの人々は生殖能力を欠いているわけではないので、「子どもを再生産しない」と言い切るのは間違いだ。だからそういう角度からの杉田批判は正当だ。)

が、だったらどうだというのか、というのが私の意見だ。

生産性という言葉をどう使ったにせよ、LGBの人々を「不幸な人」と決めつけ、現に差別を実感している人々の声を無視して「差別などない」と、自分の差別に気づきもせず言い放ち、差別解消の問題を少子化対策として有効かどうかという別の尺度を持ち込むことで切って捨てる。このような国会議員は批判されて当然である。

藤岡氏にはそういう問題意識がない。氏は杉田論文を読んで「全く何の違和感も持たなかった」というのだ。

しかし藤岡氏は今回の寄稿の中で、「同性愛カップルが部屋を借りることが困難だとか、病院で家族として認定されない、などのことはお気の毒で改善する必要があろう」とか、「同性愛者などに対する差別や不利益で、社会の側が改善すべきことがあれば取り組むことは否定すべきではない」と、正論も主張する。

こういう認識を本心から持っている人間が、「全く何の違和感も持たなかった」というのだから驚きである。杉田氏は「差別などない」と、薄弱極まりない根拠に基づいて断定したのだから、「改善すべきことがあれば取り組むことは否定すべきではない」とする藤岡氏はそこに違和感をもってしかるべきだろう。

藤岡氏の杉田擁護論はこの程度の内容であり、あとは婚姻制度に手を付けるのは反対だとか、あまり杉田擁護論とは関係のない自身の主義主張である。

◆小川栄太郎氏

続いて小川栄太郎氏の擁護論であるが、こちらは支離滅裂の一言である。こんな駄文で援護射撃されたのでは杉田氏も迷惑だろう。

何しろこの人はのっけから「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」と言い切ってしまうのだ。勉強して出直しなさいと言うほかない。

しかし「知らない」にしては、矛盾する記述も頻出する。

氏は論考の中で「トランスジェンダーは、現代心理学が量産する様々な心的変容同様、曖昧な概念だ」とか、「ましてレズ、ゲイに至っては!全くの性的嗜好ではないか」とか、「LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば十分ふざけた概念だからである」とか、「知らない」はずの概念を「こういう概念だ」と決めつけて、言い切っている。

そしてその知らないはずの概念についてこうも言う。

「無論LGBTという概念の本音のゴールは、性的嗜好への白眼視を取り除く事にはないのだろう。結婚という社会的合意と権利の獲得なのであって・・・」

知らない概念の「本音のゴール」を断定できる「文芸評論家」には恐れ入るほかない。

◆八幡和郎氏

他には八幡和郎氏が次のように述べているのが印象的だった。

「杉田氏自身もLGBTに偏見を持っていないと明言しているのだから、差別主義者だと批判する余地などない」

驚いたことに八幡氏においては、本人が明言していれば批判する余地などなくなってしまうのだ。杉田氏は少なくともLGBの人々に対して「不幸な人」と決めつけるという、決定的な差別を行っているのであるから、本人がどう自己言及しようと批判する余地は大いにある。

八幡氏は次のようにも言う。

「LGBTに対して侮蔑的な言葉もなく、抑圧的な政策をとるように提案したわけでもなく、予算配分など政策的な優先順位を論じただけ。」

客観事実として、「だけ」ではない。「不幸な人」という決めつけは、侮蔑的ではないかもしれないが差別的である。そもそも杉田氏は差別体験についての当事者たちの多くの証言を無視して「差別などない」と、満足な根拠も示さずに断定したのだ。差別の存在を否定することもまた、一つの差別である。

また「予算配分など政策的な優先順位」について言及したのはその通りだが、以前批判した通り差別解消の問題を「予算配分など政策的な優先順位」にすり替えるという論法もまた、差別解消への取り組みを阻む「反動話法」なのである。

八幡氏が杉田論文に言及したのは、冒頭のこのあたりだけである。あとはメディアによる批判を「メディア・リンチ」と非難したり、杉田氏がどういう人物でどんな個性を持っていて、八幡氏が彼女を高く評価しているという、今回の杉田氏の主張からは離れた議論である。どちらも杉田氏の主張自体を補強する擁護論にはなっていない。

他にも擁護論者はいるが、一番マシなのは自らもゲイであるという松浦大吾氏の「特権ではなくフェアな社会を求む」だろうか。この論考くらいは読む価値があるかもしれない。

いずれにせよ、本企画における擁護論は、杉田氏の立論を何ら補強しない。「差別などない」と主張したのだから、差別の不存在について証明すればいいものを、誰もそれを試みない。

矮小化とすり替えの問題については、それが「問題」であることにすら認識が及んでおらず、「予算配分など政策的な優先順位を論じた」ことは正当だと誰もが考えているようだ。

今回の新潮45は日本言論史に残る珍論愚論のオンパレードだった。

『JFK』のクライマックスは現代日本への警句

だいぶ古い映画だが、オリバー・ストーン監督の『JFK』を見た。ケネディ暗殺事件を扱った法廷サスペンスだ。

そのクライマックスで検事のジム・ギャリソン(ケビン・コスナー)が弁を振るう。現代日本にも示唆するところの多いくだりだと思うので、部分的に引用しよう。(日本語字幕:進藤光太)

「当局の創作を報道が拡大する。堂々たるウソと圧倒的なJFKの葬儀とで人は思考力を失う。
ヒトラーは言った。“ウソが大きいほど人は信じる”と。」

「我々はみんなハムレットの心境です。殺人者が王座にいる。
ケネディの亡霊がこの殺人を許すか?理想への挑戦です。
彼は質問している。憲法の基本は何か?命の尊さとはなんだ?大統領の殺される国で民主主義の将来は?
しかも陰謀の疑惑があるのに法組織が動かない。」

いつも検事局や市民が重要証拠の提出を求めても、政府の答えは決まってる。“国家機密だ”
大統領を奪われて何の国家機密だ?国家機密の名目なら基本的権利を奪っていいと?
合衆国の影の政府を認めるのか?
そういう国家機密はどんな感じでどんな形か?
それはずばり、ファシズムです。」

「ある作家の言葉です。
“愛国者は自分の国を政府から守るべきだ”
考えてください。ここでご覧になった門外不出の証拠をね。
我々が子供のころ、みんなこう思っていた。正義は自然に生まれると。美徳は価値があり善は悪に勝つと。
でもこれは真実じゃない。正義は人間が作るもので簡単ではない。
真実は権力にとって脅威だ。でも権力と戦うのは命懸けです。
真実は最も貴重です。真実が無力になり真実を殺す政府をもはや尊敬できなければ、この国で生まれてもこの国で死にたくない。」

どうだろう。何か想起しないだろうか。

「人は思考力を失う。ヒトラーは言った。“ウソが大きいほど人は信じる”と。」
「陰謀の疑惑があるのに法組織が動かない。」
「そういう国家機密はどんな感じでどんな形か?それはずばり、ファシズムです。」
「ある作家の言葉です。“愛国者は自分の国を政府から守るべきだ”」
「真実は権力にとって脅威だ。」

現代日本は「正直・公正」を口にすると、現職首相への個人攻撃になるのだという。「正直」が攻撃文句になる人間は、嘘つきだけだ。「公正」が攻撃として作用するのは、不公正な人間だけだ。

自民党は、総裁選のメディア報道について「公平・公正な報道」を求めたという。自分たちは「公平・公正な」取り扱いをしてもらいたいということだろう。国民もまた政府権力から「公平・公正な」取り扱いを願っているのだが、おそらく国民が政府に向けてそれを口にしたら、現職首相への「個人攻撃だ」ということになるのだろう。

「真実は権力にとって脅威だ。」

今、時代はポスト真実の時代だという。「真実が無力になり真実を殺す政府をもはや尊敬できなければ、この国で生まれてもこの国で死にたくない。」

枝野演説に見る「たゆみない努力」の中身

平成最後の戦没者追悼式 陛下最後のおことば

陛下の「おことば」には「国民のたゆみない努力により」との一節がある。これは現行憲法の第12条前段の「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とよく整合する。今国民に求められている「たゆみない努力」「不断の努力」とは、いかなるものだろうか。

ちょうど緊急出版された『枝野幸男、魂の3時間大演説』を読んだ。この演説内容は、我々国民が今何を失おうとしているか、何を取り戻すべきなのかについてちょうどいい示唆を与えてくれる。

演説内容は至極真っ当で、考えようによっては何の新しさもないものだ。つまり、「質問に答えろ、話を逸らすな、嘘をつくな、文書を書き換えるな、ごまかすな、説明せよ、根拠を示せ、責任を取れ」である。当たり前である。

先日、自民党総裁選で石破氏の選挙ポスターが「正直、公正、石破茂」で、これが安倍政権批判であると注目されていた。恐ろしい世の中になったもので、「正直、公正」という当たり前すぎるほど当たり前のワードを掲げただけで、それが政権批判になってしまうのである。

枝野演説は確かに長いものであるが、おそらく枝野氏はこの演説を組み立てるのにそれほどのエネルギーは必要としなかったのではないだろうか。なぜなら、冒頭示したように、別に高尚・難解な議論が求められているわけではなく、極めて初歩的なルールや原則を確認するだけで安倍内閣への痛烈な批判として成立してしまうからだ。

私は安倍政権が存続することの危うさは、一連のモラルハザードに加えて、国家のフォーマットを突き崩してしまう点にあると思っている。例えば枝野演説では、野党がモリカケ問題を追及すると「いつまでやっているのか」という批判を受けることに答えて、次のように言う。

「国会の役割は法律を作ることだけではありません。・・・まさに議会には行政の監視という大変重要な役割があります。・・・議院内閣制ですから、政府と与党一体ですから、与党の皆さんが政府の問題点を厳しく指摘をするということについては、そもそも制度として予定されていません。・・・したがって、モリカケ問題についていつまでやっているんだと与党が野党に対して野次るのは、全く議院内閣制を理解していないことだ」

その通りなのである。そして中間報告で委員会決議をすっ飛ばしたり、与党の審議時間を無意味に延長したり、国会提出文書を改ざんし嘘をついたりするから、野党も審議拒否をもって応じたのである。審議する以上は、それが形骸ではなく実質を伴うものでなければ意味がなく、嘘がまかり通ったり、時間稼ぎが許されたり、審議自体がすっ飛ばされたりしないという、「フォーマット」の適正化が前提条件なのである。

そういう経緯を無視して、単に野党が審議拒否をしているという部分だけを取り出して、さぼっているなどと批判した人間は、議院内閣制における野党の役割、三権分立における国会の役割が根本的に理解できていないのだろう。さもなければ理解したうえで、いや理解しているからこそそれを破綻せしめた確信犯ということになろう。

国民が今、「たゆみない努力」を注ぐべきは、近代国家が成立するうえで不可欠な国家の基本構造=フォーマットを、ごく常識的な形で回復させることである。つまり「質問に答える総理、話を逸らさない答弁、嘘をつかない内閣、文書を書き換えない官僚、ごまかさない大臣、説明する政府、根拠を示す行政、責任を取る責任者」を回復させることである。

私は石破茂氏が「正直、公正」な政治家とは寸毫たりとも思っていないが、石破内閣に代わることで、安倍政権のおかしな全能感は払しょくできるし、「一強」が生み出したひずみも少しは緩和できると思っている。

野党に政権を取らせよなどという、一足飛びの議論はしない。石破政権がいいとは言わないが、ともかく安倍政権はもう限界である。
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