2014年11月

自民党による報道への圧力

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自民 テレビ局の選挙報道で細かく公平性要請


特定秘密保護法を巡っての議論の中、安倍は報道抑圧があったら私は辞めると言い放った。それが見え透いた嘘であることは、安倍の人間性を知る者ならすぐに分かることだが、その舌の根も乾かぬうちにこの有様である。

そもそもジャーナリズムに期待されている本来のありようは、権力の批判と監視である。例えばワシントン・ポストの編集主幹だったブラッドレーは新聞と政府の関係について、次のように述べている。

「新聞は支配する者の利益に奉仕するためではなく、支配される者の利益に奉仕するためにある。したがって、新聞と政府は対立関係にあるということが、両者の本質的な関係である」

言うまでもなく、これはテレビと政府の関係においても言えることだ。またジャーナリズムと政府の関係について有名な箴言としては、トマス・ジェファーソンの次の言葉がある。

「新聞のない政府と、政府のない新聞、どちらかを選ぶとしたらためらうことなく後者を選ぶ」

ここでためらうことなく「新聞のない政府」を選ぶのが安倍率いる自民党である。要望の中でしきりに「公平中立、公正」を強調しているが、上記のようなジャーナリズムの本質に照らすと、本来報道機関は権力との関係においては中立であってはならないのである。ジャーナリズムと権力は永遠の緊張関係に立つことが理想なのである。

一方で、報道機関が「公平中立、公正」であることは、国民を危険にさらすこともある。前坂俊之著『太平洋戦争と新聞』には次のような指摘がある。

「これこそ大新聞のアキレス腱となったことだが、公平、客観報道が既成事実を次々に追認していくこととなり、軍部の独走を容認し、あおる結果になったのである」

報道機関はことさら客観公正を気取る必要などない。世の中にはCNNもあれば、アルジャジーラもある。それでいいのである。それぞれが一定の偏向を持って、それぞれの観点から報道すればいい。重要なことは、CNNしか認めないとか、アルジャジーラに報道を許すなとか、自分と異なる偏向を持った報道機関を剪除・抹殺するかのような姿勢を取らないことなのだ。

民主主義社会の報道にとっては、客観公正が重要なのではなく、他者の偏向を認める姿勢が重要なのである。数多ある偏向の中から真理・真実を掴み取っていくのは、情報の受け手である大衆の責任においてなすべきことなのだ。

権力の座についている与党が選挙報道で公平中立を求めるなど、政府とジャーナリズムの関係性からも不適切である上、公平中立であること自体も報道機関の本質に照らして不要なことである。

二重のナンセンスを臆面もなく要求する自民党は、まるで中国共産党のようである。

ケント・ギルバートの9条否定論を嗤う

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ケント・ギルバートの9条否定論
http://blog.livedoor.jp/thethedragoon-mehikari/archives/42045534.html

バカ丸出しの9条否定論がFacebook上でもてはやされていたので、軽く批判しておく。というのもここで展開されている議論は、ネット上でよく見かける典型的な9条否定論だからである。

ケント・ギルバートは得意げに言う。「「平和主義を掲げた日本国憲法を守っていれば他国は日本に戦争を仕掛けてこない」という論理は、62年前に破綻している。日本国憲法公布の6年後、日本は韓国に島根県・竹島を強奪されているではないか。」

まあそうかもしれないが、だったらどうだと言うのだろうか?こういう議論は9条否定論者の間にまことに多いのだが、実は何も批判したことになっていない、完全な一人相撲である。なぜなら憲法9条は「平和主義を掲げた日本国憲法を守っていれば他国は日本に戦争を仕掛けてこないという論理」とは無関係だからである。

それは9条を普通の読解力で読み解けばすぐに分かることだ。9条1項にはこうある。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

一読してわかるとおり、憲法9条は「国際紛争」が存在することを自明の前提にしている。他国が戦争を仕掛けてこないという前提は9条のどこにも存在しない。9条が言っているのは、例えば竹島に見られるような「国際紛争」を戦争や武力行使で解決しない、ということだけである。

つまり外交努力、経済政策、貿易、文化交流といった武力行使以外の手法による解決を目指すということだ。9条を守っていれば大丈夫、などとんでもない話で、安易な武力行使に走るよりもよっぽど大変な選択を国民に求めているのである。

だから、そういう9条に対して「憲法守ってりゃ大丈夫、なんてアホか」と嘲笑を浴びせてもてんで的外れなのである。大体、9条嫌いの連中というのは9条のことをよく分かっていない。こうに違いないという思い込みで幻想の9条を捏造し、それを必死になって叩いているのである。アホである。

さらにケント・ギルバートの議論を追ってみよう。

「《私はこの地域を犯罪のない誇りある場所にしたいのです。従って、わが家はドアと全ての窓、自家用車、自転車にカギを掛けません。わが家に武器は一切なく、もし強盗や強姦魔が侵入しても、決して反撃しません》

このような張り紙を、自宅のドアや壁、車などに貼るのである。そして、どの程度の期間無事でいられたのか、私に報告してほしい。」

この議論も日本の9条嫌いがよく使う論法である。そしてここでも9条についての強い思い込みがある。彼らは9条が「鍵を一切かけず、そして武器を一切持たず、強盗や強姦魔が侵入しても、決して反撃しない」と宣言した条文だと思い込んでいる。

ところが彼らの思い込みに反して、9条はそのようなことを一切言っていない。9条に書かれているのは、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」という条文だけだ。

別に反撃しないと宣言しているわけではないし、「鍵をかけない」即ち国土の防備を何もしないと言っているわけでもない。少なくとも内閣法制局は必要最小限度の実力による自衛としての反撃は可能だと解釈している。実は自衛隊や在日米軍が存在しているのも、9条がまさにそういう条文だからこそなのである。戦争放棄・戦力不保持を謳った条文の範囲内で、できうるギリギリの選択として自衛隊や日米安保が存在しているのである。ある意味では抜け穴を残した条文なのだ。

もし本当に9条が「鍵を一切かけず、そして武器を一切持たず、強盗や強姦魔が侵入しても、決して反撃しない」と宣言した条文だったなら、自衛隊や在日米軍はどんなに工夫しても日本に存在し得なかったろう。ここでもやはりケント・ギルバートは思い込みに立脚して論を立てているわけだ。

笑ってしまうのは、議論の締めくくりでケント・ギルバートが次のように締めていることだ。

「日本が戦後70年間も無事でいられた理由は憲法第9条ではなく、在日米軍、自衛隊、日米安保条約のおかげである」

残念なことにギルバート氏、「在日米軍、自衛隊、日米安保条約」は9条があったればこそ生まれたものであって、9条と無関係に存在していたわけではないのだよ。9条が、もしあなたが思うような条文だったなら、これらはそもそも存在できなかったのだ。そうではないからこそ、「在日米軍、自衛隊、日米安保条約」は存在し得た。

逆に9条がなかったなら、そもそも自衛隊は存在せず、日本軍だったろう。日米安保条約も今とは全く違った姿をとっていただろう。そして米軍との関係ももちろん違った形をとったろう。アメリカが経験した、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争、そのそれぞれで日本は実際の歴史とは全く違った戦争への関与をしたことだろう。

その場合間違いなく、日本は「戦後70年間も無事でいられ」はしなかっただろう。

誤読と思い込みで幻想の9条を捏造し、それを血眼になって叩いている姿は滑稽としか言いようがない。「第9条を読むと、米国人法律家の1人として心の底からの恥ずかしさと、日本に対する申し訳なさを感じる」そうだが、ご心配には及ばない。なぜなら9条はあなたが思っているような条文ではないのだから。むしろあなたが恥ずかしさを感じるべきは、法律家を名乗りながら、この程度の条文読解力しか持たない己の姿ではなかろうか。

嘘つき野郎、安倍晋三

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安倍首相、“小4なりすまし”政治サイト「どうして解散するんですか?」をFacebookで批判 「最も卑劣な行為」


第一次安倍内閣の時にやらせのタウンミーティングを開いて世論を捏造した男が、随分と偉そうな口をきくものである。金を配ってイカサマの質問をさせる行為と、子供をダシに使う今回の行為、卑劣さで言えばいい勝負だろう。権力者の行為である分、安倍の方が悪質である。

本人はすっかり知らんぷりだが、安倍は第一次安倍内閣の退陣の際、施政方針演説で「これからこういう政策に取り組んで行きます」と宣言した直後に辞任している。これは国民に対して特大のウソをついたということだ。やる気もない政策をいい加減にぶち上げて、責任を放り出したのである。

なるほどその原因は病気にあったのかもしれない。しかし、昨日今日患った病ではないわけで、演説の以前に自分がもう続けられないことを分からなかったはずはない。それをさも大丈夫であるかのように嘘をつき、実現不可能と知りながら施政方針を語り、国民を欺いたのである。体調が悪く、重責を担えないのなら、国政を混乱させずに退くのが責任というものだ。

まるで「病気だから仕方が無かった」かのような受け止められ方をしているが、とんでもない話である。

安倍が国民に嘘をつくことを定石としている政治家であると理解したとき、特定秘密保護法の真の意図が理解できるというものだ。NHKの経営委員人事に露骨なまでに容喙し、「政府が右というものを左というわけにはいかない」などと言い放つ人間をその会長に座らせたことも、安倍が嘘をつきやすい環境を整えるためなのである。

安倍は特定秘密保護法について、それが報道抑圧を招いたら私は辞めると堂々と言い放った。つまり同法が制度上報道抑圧可能な法律であることを認識しているということである。安倍が本質的に嘘つきであることを考えれば、「私は辞める」の部分に信頼を置くことはできない。

そもそもお前が辞めるかどうかはこの際問題ではない、ということが分かっていないのだ。辞めた後も権力者による報道抑圧が可能な法律が残り続けることが問題なのである。自分個人の身の処し方と、国家・社会の制度設計の問題を峻別できない幼稚さは相変わらずである。

別に安倍が個人として嘘つきであることは構わない。問題はそういう人間を首相にしておいていいのかということだ。

アベノミクスと軍国主義

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「小4が作った」は嘘 解散問うサイト炎上でNPO団体代表が謝罪


個人的にはこういった「どうしていま解散するんだ」といった議論にさほど興味がない。確かに唐突な解散ではあるが、信を問うタイミングとしてはそう悪くない。アベノミクスの破綻が判明し始め、集団的自衛権の解釈変更をなし、閣僚の不祥事も起こり、消費税再増税の見送りを決めた。黙っていればむしろ野党の方から、解散して信を問うべきだという議論が出てもおかしくなかったと思う。

だったら政策の破綻がこれ以上明らかになる前に解散しておこうと考えるのは、政治家の戦略として自然である。だから解散したこと自体に私は憤りはしない。

むしろ有権者はこれを政権打倒ないし政権弱体化の好機と捉えるべきなのだ。立憲主義を否定する政権にとって、本来選挙とは国民からの唾棄すべき雑音に過ぎない。安倍にとっては国民の意思などどうでもいいのである。

だからこそ安倍は、これまで建前として掲げてきた自主憲法路線をも否定する、立憲主義からの根本的離脱を実践したのである。国民が自ら作った憲法など、彼にとっては煩わしいの一言だろう。国民風情がこしゃくにも権力を縛ろうなど思い上がるな、というわけだ。

そういう政権に審判を下す機会をせっかく得たのに、「どうして解散するんですか?」などと寝ぼけたことを言っていてもらっては困るのである。ここぞとばかり専制政治への強烈な異議を立てるべきなのだ。

気をつけなければいけないのは、いわゆる格差拡大すなわち国民の貧困化は、安倍の狙う国民の声を聞かないですむ政体に好都合だということだ。誰しも自分の明日の食い扶持がおぼつかない状態では政治に関心を持つことはできない。国民の政治参加は国民に一定の余裕があって初めて可能になる。まさに恒産なくして恒心なしである。民主主義とは分厚い中流層によって支えられるものなのだ。

その中流層を消滅させ、国民を貧困に陥れておくことは、安倍のように何かと言うと軍事力を行使したがる連中にとって好都合である。働き口に困った若者を軍隊にリクルートすることは、イラク・アフガン戦争時のアメリカで頻繁に見られた現象だ。安倍がやりたがっているのもまさにこれなのだ。

自分が指揮する戦争に若者を送り出し、その死者を「英霊」として顕彰する。そういう未来に強いあこがれを抱いているのである。安倍が戦前の軍国主義日本を愛してやまないことがそれを間接的に証明している。

つまりアベノミクスによる格差拡大と集団的自衛権の行使容認は、車の両輪なのである。確認しておくと集団的自衛権とは、戦争を始めるための仕組みである。自国が攻撃されていない状態で、他国に攻撃を仕掛けるわけであるから、こちらの認識は「反撃」であっても、相手国から見れば攻撃してもいない国から先制攻撃を受けたことにしかならない。そうなれば当然、相手国は日本にも攻撃を仕掛けてくるだろう。そうやって応戦を繰り返す状態は、すなわち戦争である。

集団的自衛権という戦争開始の仕組み、解釈という名の立憲主義の否定、アベノミクスによる国民の貧困化、特定秘密保護法による情報操作の仕組み、軍隊リクルートのための人材確保、バカのくせにこういうことは周到に準備するのである。

軍国主義の社会では選挙などまず公正に行われない。それを考えれば、安倍政権が自ら選挙に打って出る今の状況は大変幸福なことだ。現行憲法が機能しているうちに、選挙のチャンスを活かして危うい政権を弱体化させるべきである。「どうして解散するんですか?」じゃないのである。

立憲主義が問われる選挙

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今回の解散は「アベノミクス解散」


結果的に実質賃金は低下し、物価は上昇し、GDPも減少しているのだから経済政策の失敗は明白である。是非を論ずる価値もないほどだ。

安倍としては今回の選挙をアベノミクスへの審判と位置づけたいようだが、こういう自分勝手な論点設定に乗っかる必要はない。この選挙に問われるべきは、立憲主義、つまり憲法による権力の規制というシステムを採用するか否かである。

これは改憲か護憲かという議論よりもっと根本的な問題だ。立憲主義を放棄した人間には、改憲を唱える資格が無い。なぜなら、いかなる憲法を作ったところで、時の権力者が「いや、私はこう解釈する」といって蹴散らせるのだから。

これは何もイヤミや皮肉で言っているのではない。事実安倍は立憲主義を「王権時代の考え方だ」として自ら退けている。これが週刊誌の対談など非公式な場での発言ならまだしも、国会答弁で開陳された認識なのである。

そしてまた立憲主義を選挙の争点とすることは、ほかならぬ安倍自身が望んだことでもある。集団的自衛権の解釈変更について、安倍は「最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける」と明言しているのだ。

もちろん選挙で勝利すれば好きなように憲法解釈ができるというわけではないし、無法な解釈が合憲に変わるわけでもない。通常の国政選挙でそれができてしまったら、憲法は何のために改憲のための特別の手続きを定めているのだということになるだろう。

安倍は改憲手続きを定めた96条を改正して、裏口から改憲を実現しようと試みて失敗しているが、本質的にこの男は憲法の定める改憲手続きを認めたくないのである。だから選挙で信任されればそれでいいじゃないかといった身勝手な発想がついつい顔を覗かせるのである。

忘れるべきでないことは、安倍は現行憲法を否定したいのではなく、「憲法」そのものを否定したいのである。権力と自己を一体化させて思考する癖のある安倍にとって、憲法とは自分を縛る邪魔な枷でしかない。

改憲して自主憲法を望む人々は間違っても安倍を支持すべきではない。もしかしたら、あなた方は安倍の統治下にある限り、憲法などなくてもいいと感じる感性を持っているかもしれない。しかし、憲法なき社会において、安倍が権力を握り続ける保証はどこにもない。状況いかんでは、あなた方が蛇蝎のごとく嫌う「売国反日」の徒が権力を握るかもしれないのだ。

その時、権力者を縛る憲法を懐かしがってももう遅い。見せかけだけの張り子の憲法はあるかもしれないが、好きなように解釈されて終わりである。

護憲派は当然安倍の支持には回るまいが、改憲を望む人々も、本当に意味のある自主憲法を望むのであれば、安倍を支持することはできないはずだ。もし支持するとしたら、それは自らの信念への裏切りである。つまり本音では自主憲法などどうでもいいということなのだ。国民を信じていないから、国民自らの手で作ろうとも、そんな憲法はどうでもいいということだろう。

安倍を支持する自主憲法論者は、単なるバカか、国民の味方という擬態を施した反日分子と評さざるを得まい。

捏造は安倍の常套手段

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安倍首相:民主、維新が資質追及で一致…「高圧的な答弁」


全体的にこの首相はブラックジョークとしか思えない振る舞いが目立つ。先日も社民党が週刊誌をネタに質問に立ったら、犯罪者扱いだとキレていたようだが、本来総理大臣が最も遵守すべき憲法をないがしろにし、その遵法意識の低さを満天下に晒しながら、犯罪者扱いされて腹を立てるなど完全に子どもである。

そういう自分勝手な人間が、道徳教育の強化を政策に掲げ、道徳の教科書を国で検定しようと目論んでいるのだから恐れ入ったものである。どうやら自分はどんなルールも守る気はないが、他人は自分が決めたルールを徹底的に守るべきと考えているらしい。

手元の辞書によると、「自分だけが正しいと信じ込んで行動する態度」のことを独善と呼ぶそうだ。まさに今の首相にぴったりである。

また、従軍慰安婦をめぐる朝日の誤報以来、何かというと「捏造」と断じるのがお気に入りらしいが、実は捏造を常套手段としているのは安倍晋三自身なのである。

第一次安倍内閣の時に、教育基本法改正をめぐって開催されたタウンミーティングにおいて、内閣府の指示でヤラセの質問とその応答が行われた。しかもこの時、一部質問者には謝礼金が支払われていたのである。金を握らせて都合のいい結論を導こうという浅ましい魂胆のどこに道徳があるだろうか。

これこそまさに世論の捏造である。私は朝日の誤報を弁護する気は毛頭ないが、少なくとも安倍に「捏造、捏造」と浮かれ騒ぐ資格はないと思う。

しかもその後安倍晋三は、総理として多摩川河川敷での小学生のゴミ拾いに参加したおり、拾うべきゴミがなかったため、わざとゴミをまいてそれを自ら拾ったために批判を受けている。自作自演の捏造劇である。

合意の捏造については、ノーム・チョムスキーが『マニュファクチャリング・コンセント』において、「メディア企業の政府への依存と結託」を重要な要素として指摘している。曰く、「ラジオやテレビの放送局やネットワークは、すべて政府の認可を必要としているため・・・メディアはロビー活動などの政治支出を行い、政界に人脈を広げ、行動に気をつける」

つい最近の週刊誌記事で、ウソかまことか次のような記事が出ている。ある大手紙のベテラン記者の弁として、「民主党政権はケチだったけど、安倍自民に政権交代して雰囲気が変わった。与党議員側から食事の誘いがかかるときはだいたい高級料理店の個室。もちろん支払いは向こう持ち。民主党政権時は割り勘も多かったから“情”の移り方も違う」ネタ元http://www.news-postseven.com/archives/20141104_284814.html

もちろんこれがヨタ記事の可能性は否定できないが、週刊誌のゴシップによらずとも安倍政権によるメディアの取り込み戦略は簡単に確認できる。例えば、政府税調の委員には、産経新聞の論説委員、日経新聞の取締役会長、読売新聞東京本社調査研究本部総務がいるし、NHK経営委員人事への露骨なまでの影響力行使は誰もが知るところだ。

インチキな報道や情報操作という点で、ほとんど代名詞のように使われるのは「大本営発表」である。歴史家の保阪正康は言う。「大本営発表は・・・都合のいい時には執拗に発表を行い、状況が悪くなるとそれを隠そうと嘘を用いるか、誇大に発表するかになり、状況が悪化すると沈黙してしまう」。そして「大本営発表文に様々な粉飾を施して国民を情報の虚構空間に閉じ込めたのは主に新聞の役割だった」。

ここでいう新聞の筆頭が当時は朝日新聞だったというのが歴史の皮肉である。

その朝日新聞は終戦後まもなくの社告で次のように反省の弁を述べた。「開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいえ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果たしえず・・・国民をして事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せん」

こうして戦後を歩みだした朝日新聞を、大本営発表の時代を礼賛してやまない歴史観の持ち主である安倍晋三が「捏造、捏造」と騒ぎ立てている姿は、皮肉を超えて滑稽ですらある。

その首相に任命された麻生副総理は、憲法改正について「ナチスの手口に学んだらどうか」と放言した。誰にも気づかれずにワイマール憲法を改正した(と本人が信じる)手口を学んで、こっそり改憲したいのである。国民を騙してやろうという汚い魂胆だが、親分も親分なら子分も子分である。

安倍晋三が捏造を常套手段とすることと、大本営発表時代の日本を礼賛する歴史観の持ち主であることとは、ものの見事に整合している。人間この年になってその本質を転換することはもはや望めない。重要なことはそういう手合いに首相を任せていいのかということだ。

大学の自治 否定の果てにある亡国

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元朝日記者、来年雇用せず

北星学園大学はくだんの講師を来年度以降は雇用しない方針だという。従軍慰安婦をめぐる誤報に腹を立てている人々ほど、この決断を支持するのだろう。しかし、いささかなりとも歴史を学んだことのある人ならば、思想検察官気取りの暴力的圧力に大学が膝を屈することの危うさはすぐに理解できる。

誰もが知るとおり、戦前・戦中と軍国主義が猖獗を極めた結果、大日本帝国は消滅してしまった。つまり、あの時代を牽引した右翼国粋主義は、文字通りの意味で国を滅ぼしてしまったのである。罵り言葉としてではなく、歴史事実としてこれらの人々は「亡国の徒」であった。

大学の自治との関係で、当時これらの人々がどのように振舞ってきたかを知ることは、二度と国を滅ぼさないためにも重要なことである。

個別に具体的な解説は手に余るので簡単に列挙していこう。

森戸事件
クロポトキンの無政府主義を扱った論文を執筆した森戸辰男を、上杉慎吉を筆頭とする右翼団体が攻撃し、東大から森戸を追い出す。

河上肇の京大辞職
マルクス経済学の大家であった河上肇を辞めさせるよう文部省が京大の荒木総長に働きかけ、河上肇に辞表を提出させる。

滝川事件
文部大臣の鳩山一郎が京大の滝川幸辰教授の学説をマルクス主義的と批判し、強権発動によって大学から追放。これに抗議して7人の教授が辞職。

美濃部達吉天皇機関説事件
美濃部の学説を天皇統治大権の侵犯と決めつけた右翼イデオローグ蓑田胸喜やそれに同調する菊地武夫貴族院議員が美濃部を攻撃し、議員辞職に追い込む。その後美濃部は右翼暴漢に襲われて重傷を負う。

矢内原忠雄追放
クリスチャンであった東大教授矢内原が反戦と平和を主張したことを、戦争総動員体制の構築を支持する土方成美経済学部長らが批判し、東大から追放する。

津田左右吉 早稲田大学追放事件
津田の古事記・日本書紀についての研究を、右翼イデオローグ蓑田胸喜らが大逆思想と決めつけて攻撃。書籍の発禁処分と早稲田大学からの追放にあう。

人民戦線事件
コミンテルンの意を受けて日本で人民戦線を結成しようとしたとして、非共産党系左翼であった大学教授ら400名が治安維持法違反で一斉検挙。

こういう大学の自治への執拗な侵犯の果てに、大日本帝国は消滅したのである。大学の自治への侵犯とは、とりもなおさず言論の自由、思想信条の自由の否定である。自分の気に入らない言説を剪除して、見かけばかり居心地のいい言論空間を作り出そうとする社会がたどる末路は常に衰退と崩壊である。

後世に生きる人間の強みは、その後の具体的な歴史展開を知っていることだ。我々は、上に列挙した事件が結局国を繁栄せしめなかったことを知っている。この時どう振る舞えばその後の悲劇を防ぎ得たか、どのような活動・運動を力づけることが必要だったか、それが分かることが我々の強みである。

暴力的恫喝に屈して大学講師との雇用関係を打ち切ることは、日本国の消滅につながる道である。その講師が左翼か右翼かはこの際問題ではないのである。元朝日記者だからクビにしてもいいとか、右翼の学者なら追放してもいいとか、そういう低レベルな好き嫌いでしかこの問題を捉えられない人間は幼稚である。

その幼稚さは国を滅ぼす幼稚さである。困ったことにそういう連中ほど、我こそは愛国者という顔をして回るのだ。

上に書いた矢内原教授はその最終講義で「体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する」と述べた。そして当時同僚だった大河内一男が東大総長になったとき、卒業式で「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」と演説している。

愛国を僭称する「太った豚」が国を滅ばさなければいいのだが。
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