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<自民党>BPOに政府関与検討 「放送局から独立を」


これぞ国家の私物化である。私はこの日記で過去に何度となく自民党の全体主義的傾向を、その改憲草案を元に指摘し、批判してきた。そして自民党は常にその危惧を裏付けるような行動を取り続けている。

例えば朝日の慰安婦誤報を巡って、石破茂は自身のブログで次のように述べた。

「本質は「第四の権力とも言われるにもかかわらず三権分立などのチェック機能が働かないマスコミのあり方」にあるのだろうと思っています」

言うまでもなく「第四の権力」とは比喩表現に過ぎない。確かに大新聞は強い影響力を持っているが、それは「権力」そのものではない。前回の日記にも書いたが、「権力」とは常に武力・暴力の組織化と無関係ではありえないからだ。国家権力は、その国家が独占し組織化する暴力に裏打ちされている。警察であったり、軍隊であったり、である。

しかし大新聞はなんの武力も持っておらず、どのような形でも「暴力の独占・組織化」をしていない。単に影響力が強いだけでは「権力」とは言えない。権力とは他者に何かを強制する力であり、しかも個人に対してではなく集団に対して作用するものだ。

三権分立が必要とされるのは、権力が組織化された暴力であるからこそである。他者への強制力を持つがゆえに、その抑制のための制度的担保が必要なのだ。言い換えれば、そのような意味での暴力を持たないメディアには「三権分立などのチェック機能」は必要ないのである。 

このあたり細かい議論をし出すと長いので省くが、「第四の権力」を「権力」そのものと混同するというのは、根本的に権力の実体を分かっていない人間にのみ可能な議論である。

そもそも、朝日の誤報も朝日新聞社内でこそチェック機能が働かなかったかもしれないが、社会全体としては大いにチェック機能が働いたのである。朝日とは思想傾向を異にする様々な言論媒体が、朝日の見解をチェックし、相互に批判が応酬された。その結果として誤報を認めるに至ったのだ。

つまり朝日の誤報は、チェック機能が正常に働いたことの実例であって、チェック機能が働かなかった実例では全くない。

そしてこれは同時に言論のチェック機能として、「言論の自由」が極めて有効であることの証でもある。つまり相互に甲論乙駁があって、それが「権力」の干渉を受けずに行われることが、最終的に真理・真実への到達を担保するということだ。

しかし「第四の権力」を「権力」そのものと誤解したままの石破は次のように言う。

「権力とマスコミが一体となったとき、あるいはそれを更に超えてマスコミが権力を主導するようになった時の恐ろしさを改めて思わずにはいられません」

これは朝日の慰安婦誤報が当時の自民党政権を「主導」し、「河野談話」を導いたという石破の妄想を受けての発言である。普通に考えても、よりにもよって自民党政権が朝日新聞に主導されるなどありようはずがない。

今回のBPOへの政府の関与を望む自民党の体質からすると、どうやら「マスコミが権力を主導するようになった時」には恐ろしさを感じるようだが、逆に「権力がマスコミを主導する」ことは問題なしと考えているように受け取れる。

言論の自由がいかに有効かを分かっている私などからすると、「権力がマスコミを主導する」社会に比べたら、「マスコミが権力を主導する」社会の方がよっぽどマシである。

権力がマスコミを主導する社会とは、要するに戦前日本のことだ。当時は死刑法である治安維持法を筆頭に、集会・結社の自由を制限した治安警察法、「公安を害するおそれのある者」を検束できる行政執行法、検閲と販売禁止・差し押さえを認めた新聞紙法など各種の言論弾圧法によって、マスコミは言論の自由を奪われていた。

「権力がマスコミを主導する」とはこういう社会なのである。その結果、社会から本来期待される批判力が消失し、愛すべき日本国は未曾有の大敗戦を喫したのである。

石破のブログは次のように書き換えてこそ正しい。

「権力とマスコミが一体となったとき、あるいはそれを更に超えて権力がマスコミを主導するようになった時の恐ろしさを改めて思わずにはいられません」