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不満、覚悟、懸念…交錯する自衛官の思い 安保法制


何度も指摘していることだが、石破茂は幹事長時代に出撃拒否をする自衛官を死刑にする法律の必要性を大真面目に主張していた。自衛官はその事実を忘れるべきではない。

常々不思議なのはどうして自民党というのは、こうまで人を殺したがるのかということだ。戦争とはどんな大義があるにせよ、そこには殺人が存在する。私には自民党が、自分の殺人衝動を、「国の平和を守りたい」と言い換えているだけにしか思えない。何かと理由をつけて人を殺したがっている。より正確に言うなら、自分の手は汚さずに他人に人を殺させたがっている。

19世紀前半にニューヨーク平和協会を設立したD・ドッジは次のように指摘した。

「戦争をそそのかしたものが実際に戦場に出ることはほとんどなく、最前線に立つことなどないに等しい。戦争の火を煽るのは、たいていの場合、貧困層を働かせて放蕩生活を送る連中なのだ。兵士の大部分は、普通その国の貧困層出身者が多い」

また哲学者のB・ラッセルはこうも指摘する。

「愛国者というのはいつでも、その祖国のために死ぬことを語る。そしてその国のために人殺しをするとは決して言わない」

自衛のためであれ、何のためであれ、戦争や武力行使とは大仕掛けな人殺しなのである。戦争プロパガンダとは、人殺しをどう言い換えるかの技術なのだ。戦争の支持・不支持は状況いかんで様々な態度がありうるだろう。しかし、どちらの態度をとるにしても、それが名前を変えた殺人であるという冷徹な認識を失うべきではない。

国を守るためという大義に酔いしれて、安直な支持を表明する前に、そこで表現されている「国」に自分が含まれていない可能性があることを国民・有権者は気づかなければならない。

民主的に選ばれた政権なのだから、と自己欺瞞に走っても無駄である。実は先日の私の記事へのコメントにもこういう認識の持ち主が現れた。曰く「私は日本国民の心を信じているので、間接的ではあれ国民が選んだ首相とその指揮下にある自衛隊に不安を抱いたことはありません」だそうである。

残念なことに権力者と国民は永遠の緊張関係に立つのであって、それは民主主義の制度でも同じことなのだ。というより、そもそも民主主義というのは、そういう緊張関係を自明の前提にするから成立するのであって、民主主義だから緊張関係が雲散霧消するわけではない。権力者と国民の間になんの対立もないなら、独裁制でいいのである。

特に安倍政権のように、自分たちを規制する憲法を好きなように読み替えて、民主主義を支える大きな柱である立憲主義をないがしろにする手合いが権力を握っている場合は要注意だ。独裁制への強い傾きを持っている政治家ほど、「日本国民の心を信じている」という無邪気さに寄生して国民から主権を簒奪していくものである。

それでも安倍政権を支持するというなら、次のような可能性にも目を向けるべきだろう。時代状況いかんでは、安倍政権と対極にある政治勢力・集団が権力を握ることもある。その時、安倍がやったような憲法の読み替え、殺人の言い換え、各種の欺瞞のロジックは、そのまま今度はあなた自身に突き刺さるのだ。

その政治家も「国を守るため」と言うだろう。しかし、今度の「国」にあなたは含まれていないかもしれないのだ。日本語には「非国民」という便利なワードも存在する。その時々の状況次第で、ウヨ、ブサヨ、在日、マスゴミにカテゴライズされた人々が国民から非国民へと移されていくだろう。

日本国憲法は、政治権力者の左右の属性を問わず、こうした事態を招かないように制度設計されているのだ。その制度的担保の重大な部分を安倍政権はちょろまかした。これを許す人々は、未来において同じちょろまかしを、自分に敵対する政治家が行った場合も甘受しなければならないのである。