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安全保障関連法が成立


安保法制そのものの危うさもさることながら、違憲立法がかくも堂々とまかり通ってしまったという、道徳的退廃の方が問題である。さすがに著名な発言者の中にはいなさそうだが、ネット上にはチラホラと「違憲でもいいんだ」と正面から言い放つ人間もいる。

自分が必要だと考えれば違憲立法でもいいんだという発想は、ほとんどテロリストの発想である。日本人の遵法意識はかなり劣化していると見たほうがいい。

悪いことを悪いことと認識できなくなった時、人は周囲を戦慄させるほどの悪をなせるのだ。悪いことを悪いことと認識しながら行動する人間は、実はそれほどの脅威ではない。そういう人間は絶対数としても少ないし、それゆえに大掛かりな悲劇は作り出せないからだ。もっと危ういのは、自分が善行をなしているという確信のもとに行動する人間の方である。

ハンナ・アーレントが指摘したように、人は基本的に善いことをしたがる。悪いことをさせる場合の方がむしろ大変なのだ。それだけに、善いことと悪いことの基準が歪み始めたとき、人は善の確信の中で究極の悪をなす。

それが最も極端な形で現れたのが、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺だった。アーレントに言わせると、当時のドイツ社会では道徳性が崩壊しており、伝統的倫理観ならば悪とされたであろう行為こそが「善」であるとされ、大方の人々は特にそれを疑いもせずに受け入れていた。

「問題なのは、全体主義体制、特にヒトラー体制の最後の数年間には、この犯罪的でない命令にこそ、非合法という明白な烙印が押されていたということです」『責任と判断』50ページ

「道徳性がたんなる習俗の集まりに崩壊してしまい、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごとに堕してしまうのは、犯罪者の責任ではなく、ごく普通の人々の責任なのです。こうした普通の人々は、道徳的な基準が社会に受け入れられている間は、それまで教え込まれてきたことを疑うことなど、考えもしなかったでしょう」同69ページ

今回の安保法制の狂乱から日本人が感じ取るべきは、こうした道徳性の崩壊の兆しである。憲政史上、こうまで堂々と違憲立法がなされたことはない。結果的に違憲立法ということはあっても、明白に違憲だと知りながら立法がなされたことはない。これはつまり、日本人の道徳観念が歪み出していることの証左である。

アーレント曰く、

「私たちが知っている最大の悪人とは、自分のしたことについて思考しないために、自分のしたことを記憶していることのできない人、そして記憶しないために、何をすることも妨げられない人のことなのです」同115ページ

疑うことなど考えもせず、思考しない人間なら、なるほど「違憲でも必要だからいいんだ」と言い放っても不思議はない。言い換えれば、こうした最大の悪人に堕することを避けるには、常に思考し、記憶し、「教え込まれてきたことを疑う」ことが必要なのだ。

「為しうるものに自動的に限界を設けるこうした<自己に根ざした根>がまったくなくならないかぎり、無制限で極端な悪は起こりえないのです」同122ページ

もちろん、幸いにして多くの国民はここまで思考せず、道徳的に劣化した人間になっているわけではない。今回の法案への反発の大きさはそれを物語っている。まだユダヤ人虐殺に至るまでには距離がある。今一度、知性を発揮して倫理を取り戻したいものである。