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「子孫に謝罪させぬ」


「戦時という環境において、日本を含む世界各国の兵士が女性の尊厳を蹂躙する行為を行なってきた、という許容できない普遍的構造自体をこそ、私たちは問題にすべきなのです。・・・戦場の性の問題を旧日本兵のみに特有の問題であったかのように扱い、日本だけを非難することによってこの問題を矮小化する限り、世界が直視しなければならない過去の過ちは正されず、今日においても根絶されていない兵士による女性の尊厳の蹂躙問題は解決されないでしょう」

極めて正論でなんの異議もないが、問題はこれが2013年に橋下徹当時大阪市長がサンフランシスコ市議会に宛てて出した公開書簡の一節であることだ。その意図することころは、何のことはない「日本だけが悪いんじゃない。みんなやっていたじゃないか」という幼児のような反論にある。

何しろ彼は「慰安婦制度ってのは必要だということは誰だってわかる」と言い放ち、慰安婦制度が人道に対する罪にあたるというなら、「世界各国も同様」だし、世界各国があたらないというのなら「それでは申し訳ないけれど、うちもあたりませんね」と主張しているのだから。決して、文章から素直に受け取れるような、「日本も悪かったが、それに留まってはならない。世界的・普遍的な構造問題なのだ」という、高邁な認識に発したものではない。

本当に「日本を含む世界各国の兵士が女性の尊厳を蹂躙する行為を行なってきた」事実を「許容できない」と考えているならば、他国がそれをどう合理化しようと、「我が国は率直に反省する」のが筋である。「それでは申し訳ないけれど、うちもあたりませんね」という結論に至ることができるのは、問題を矮小化して受け止めているからこそだろう。

こういう道義が問われる問題については、幼稚な抗弁をするよりも、率直にその道義を受け入れてしまったほうが、他に対して同じ道義を説く資格が獲得できるのだ。日本の保守派というのは、自国の無謬を信じたい一心でしばしばこうした拙劣な主張を海外に向けて発信する。

いわゆる東京裁判史観なる罵りもその類だ。あれが勝者の裁きであったこと自体はその通りだが、東京裁判で善悪の基準とされた価値尺度は、戦後国際社会の常識となったことは疑いない。であれば、むしろその価値尺度を受け入れて、勝者の裁きであってもなお日本はその意義と価値を認めるという態度をとったほうが、戦後の様々な戦争でアメリカを道義的に批判する正当な資格が得られるというものだ。

そのような単純な真理にも気づかず、アメリカに洗脳されただのと荒唐無稽な謀略史観を説くことしか出来ないのだから処置なしである。東京裁判の論理こそが、戦後のアメリカに対抗する最も有効な道義的剣なのだ。

今回の慰安婦問題の政治合意も、橋下のような「慰安婦制度は必要。日本だけが悪いんじゃない。他国が過ちを認めないなら、日本も認めない」といった本音を抱いている層が大勢いる以上、国際的には限定的な評価しか得られまい。

そもそも安倍自身がこの「おわび」を、心からのものではないと公言しているのだ。安倍は「私たちの子や孫の世代に、謝罪し続ける宿命を負わせるわけにはいかない」と述べている。つまりこれ以上謝りたくないから謝るのであって、戦後世界のスタンダードとなった女性の地位や、日本を裁いた戦後的価値観を受け入れて謝るわけではないのである。

私はこういった戦争由来の憎しみというのは、いくら謝罪を重ねても解消しない性格のものだと思っている。1000年前の十字軍が、イスラム世界で未だに持ち出されるがごとくである。

大切なことは形骸としての「おわび」ではなく、再発防止なのだ。そのためには橋下のように擬態のロジックとして正論を用いるのではなく、正論を正論として説くことが重要だ。なおかつ、安倍のように「謝らずに済ますために謝る」という不誠実な振る舞いは控え、相手が許すかどうかとは無関係に率直な反省ができるようにならねばならない。