オウム死刑囚13人 全員執行

これだけ一度に大量に殺害されると(あえて殺害と書く)、死刑制度について考えさせられる。また、国民も死刑の是非あるいは死刑制度のありようについて考えるべきだろう。少なくともそういう社会であってもらいたいものである。

折しも自民党議員が子を産まないことをもって「生産性がない」と断じ、自民党の幹事長はその発言を自党の多様性の表れとして胸を張った矢先の大量死刑である。

私は死刑については消極的な存置論者である。消極的とはつまり、ある犯罪者を「死刑にすべき」とか、滞留する死刑囚を「さっさと死刑にしろ」とかいった主張はしないということだ。また逆に死刑執行があったからと言って、ただそれだけをもって法務大臣を死神呼ばわりもしない。

死刑に賛成の人の中でも、ネットに溢れやすい論調はやたらと粗暴である。死刑囚が執行されずに滞留すると、「さっさと殺せ」と言わんばかりの発言をする。

だが、合法的な法制度下にあっても死刑の本質は権力による国民の殺害なのであって、時の法務大臣がそのような行為に消極的であることは大いに歓迎すべきことだというのが、私の基本的な考えである。その結果の死刑囚の滞留など些末なことだ。

むしろ今回のように、極端な大量殺害がなされ、その執行を命じた法務大臣が執行前夜に赤坂自民亭で女将を務めていたなどという不見識極まりないケースにこそ、国民は恐怖を感じるべきなのだ。先に言及した通り、今の政治権力者たちは、子どもを作らない=生産性がないという意見を批判すらできないような徒党である。

安倍首相にも子どもはいないそうだが、悪質な政治権力者は常に「俺はいいけどお前はダメ」という論理を振り回すものだ。

死刑への感覚の鈍さと、生産性がない国民というレッテル張りの組み合わせは最悪と言っていい。この組み合わせを最も悪質な形で実行に移したのが、やまゆり園で19人を殺害した植松被告である。その植松被告が、「ヒトラーの思想が降りてきた」と証言していることは意外ではないだろう。むしろさもありなんと思う。

そのナチスの手口を学んだらいいと放言した人物は、現職の副総理である。また同じ人物の下で、戦後史上最大スケールでの公文書改ざんがなされたことは果たして偶然だろうか。なにより驚くべきことは、改ざんについて政治権力者が一切責任を取っていないことである。

非常に気味の悪い事実関係が積み重なっている。オウムの死刑囚など死刑になって当然、などという安易な議論では済まされない。

よく死刑に賛成の人々は、自分が被害者の立場だったら許せるのか、といった問いの立て方をする。私はこと死刑についての制度設計というのは、自分が被害者ではなく、冷静さを保っていられる第三者であるからこそ、理性的・合理的な制度設計が可能なのだと理解している。だからこういう問い詰めは、必ずしも殺し文句にはならないと思う。

もちろん自分と異なる立場に想像力を巡らせることには意義がある。しかしそれができるのであれば、安易に死刑執行者の側に自分を置いてオウムを断罪するのではなく、権力者に殺される国民という捉え方で問題を把握することもできるはずだろう。

油断するといい加減な論理で「生産性がない国民」という認定を受け、共謀罪でしょっ引かれて、ナチスばりの手口で死刑にされるかもしれないのだ。たとえ合法であっても、死刑とは国民を権力者が殺害する行為なのだ。