杉田水脈氏のいわゆる「生産性」発言が物議を醸している。私自身はLGBTの差別の実態にそう詳しくないので、あまり知らないことについて言及するのは避けようと思う。もう少し一般性のある話として、差別解消に向けた取り組みへの反動として、どのような論理が採用されるのかを杉田氏の寄稿文から読み取ってみようと思う。以下では便宜上、「反動話法」として整理したい。

杉田氏は寄稿文の中で言う。

「しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。」

少なくともこのくだりにおいて杉田氏は、LGBT差別を是認しているのではなく、「差別は良くないことだが、そもそもそんな差別はない」と主張しているわけだ。

「差別の存在自体を否定する」、これが杉田氏が採用した最初の反動話法である。

もちろんこういう客観的事実の有無を主張するのであれば、杉田氏は差別の不存在について、「私はこうだから多くの人も同じ」などという弱々しい根拠だけではなく、もう少しマシなデータを提示するなどして議論を組み立てるべきである。

一応、杉田氏は引き続く文章において、差別不存在の根拠らしきことに言及はしている。曰く、「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。・・・日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。」だそうである。

「非国民だ!」という風潮がないことはそうかもしれないが、それだけをもって差別がないと結論付けることはできない。また、日本社会で同性愛者への迫害の歴史が見当たらないとしても、それが現代社会での差別不存在を証明するわけでもない。根拠と呼ぶにはあまりにも貧弱だ。

続いて杉田氏が持ち出した議論は次のようなものだ。

「生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。・・・これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。」

ここに表れている反動話法を私は「問題の矮小化」として整理したい。杉田氏は、LGBTの抱える問題を社会全体の課題から、両親からの理解の問題に、一方的に限定して論を立てている。

上記の引用文は、反動話法の一つ目「差別の存在自体を否定する」とセットになっている。LGBTの当事者にとって家族の無理解は確かに生きづらさを招く深刻な問題だろう。もし仮に問題がそれだけであるなら、なるほど「制度を変えることでどうにかなる」問題ではない。

だが、既に指摘したように杉田氏はほかに問題がない=そのほかに差別はないという点について論証できていないのであるから、「そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。」という結論は導けない。

杉田氏はどうやらLGBT問題に行政が関わったり、その解決に税金が投入されたりするのが嫌らしく、次のように主張する。

「行政が動くということは税金を使うということです。例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。」

LGBTカップルは子どもを作らない。よって少子化対策につながらない。ゆえに税金を投入する必要なし。という三段論法である。反動話法として整理するなら、「問題のすり替え」とでも言うべきだろう。

差別解消の問題というのは、少子化問題のように何か社会経済上の不利益が存在して、その処方箋として取り組まれる性質のものではない。たいていの文明国が受け入れている、「法の下の平等」や「幸福追求の権利」といった、それ自体に実現すべき価値があると認められる普遍的価値の実現のために取り組まれるのである。

杉田氏は、そうした差別解消としてのLGBTの議論を、税金投入にまつわる費用対効果の議論にすり替えている。

そもそも杉田氏の議論は、ここにおいて深刻な自家撞着に陥っている。出発点において、杉田氏は「LGBT差別などない」という主張を掲げ、その線で論理を組み立てていたはずである。ところがここにきて「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がない」として、自らが典型的な差別をしてしまっている。

さらに杉田氏の差別発言はこの後も続く。

「一方、LGBは性的嗜好の話です。・・・普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。」

本人はおそらく無自覚だろうが、はっきりとLGBの人々を「不幸な人」だと言い切っている。一般的な理解では、同性を愛することだけを理由に「生産性がない」「不幸な人」と位置付けられ、本来期待できるはずの人としての尊重を受けられない状態は、まごうかたなき「差別」である。

つまり「差別されていない」という杉田氏自身の主張は、まさに杉田氏自身の主張によって否定されるのである。こういうのを自家撞着というのだ。

寄稿文の終盤はもはや論理というより、感情的反発と困惑の表明に終始している。やれ自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら大混乱だ、とか、もうわけがわかりません、とか、ペット婚・機械と結婚させろという声が出てくる、とか、自分で勝手に対象を拡張させて独り相撲を取っている。
 
「「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。」

最後のこのくだりは差別主義者によくある反動話法である。「普通・常識に頼った正当化」とでも言おうか。

被差別者を暗に「非常識」「普通でない」存在として描き出し、自分は「常識」や「普通であること」の守護者であると位置づける。非常識な存在、普通でないものを見つけ出して排除することで、自己の抱える不安を払拭しようとするのだ。

こういう精神性の持ち主は、首尾よくLGBTを排除したらすぐ次の「普通でないもの」を見つけ出し、同じことを繰り返す。結局のところ、他者を理解できないという自分自身の問題から生まれる不安を解消できない限り、普通でないもの探しは永遠に続くのである。やがて自分自身が誰かから「普通でないもの」として発見されるまで。