小林ゆみ杉並区議の杉田氏擁護が炎上 「文脈から切り取って感情的になってはいけない」

前回、杉田氏の寄稿文について、それがいかなるロジックによるものか子細に読み解いた。確かに杉田氏は生産性という言葉に「」をつけていることからしても、いわゆる経済活動上の生産性ではなく、人口の再生産すなわち『子供を産めるかどうか』という意味合いで使っているであろうことは容易に読み取れる。

しかし、だったらどうだというのだろうか?その事実を指摘したからと言って、杉田氏の寄稿文が何か正論を主張していることになるのだろうか?

前回の投稿でつまびらかにしたように、杉田氏は自らLGBTを差別しながら、「差別なんてあるの?」と疑問を呈するという自己矛盾に陥っている。そしてLGBT差別を解消しても少子化問題の解決につながらないという理解をほのめかし、差別の解消という政治課題を「別の政治課題解決のための手段」と位置付けていた。

この点を私は次のように批判した。

「差別解消の問題というのは、少子化問題のように何か社会経済上の不利益が存在して、その処方箋として取り組まれる性質のものではない。たいていの文明国が受け入れている、「法の下の平等」や「幸福追求の権利」といった、それ自体に実現すべき価値があると認められる普遍的価値の実現のために取り組まれるのである。」

LGBTに限らず差別の解消はそれ自体が目的である。何かの手段ではない。日本国憲法上も統治権力には差別解消のための取り組みが求められているのである。差別解消によって、何らかの経済合理性が確保できるかどうかとか、別の社会問題の解決につながるかどうかといった問題は考慮されないのである。

そのような副産物を求め始めると、例えば被差別者が人口の0.01%程度しかいない場合(それでも1億人の0.01%は1万人もいるが)、差別を解消しても何ももたらされないからこの差別は放置していい、という判断すら正当化できてしまう。往々にして差別はマイノリティにおいて発生することを考えると、この発想は要するに差別肯定論なのである。

差別を解消すると差別のない社会がもたらされる。それで充分なのであって、その社会が少子化問題をなお抱えていたとしても、そのことをもって差別解消の必要なしと結論付けることはできないのである。

この杉並区議は、「生産性」という言葉を『子供を産めるかどうか』という意味だと理解すれば、杉田氏の主張に問題はなくなるかのように呼びかけるのだが、はっきり言って意味が分からない。

杉田氏の意図通りに受け取っても、LGBTは子どもを産めない不幸な人だと決めつけ、それを手助けするような税金の使い方は納税者の賛同が得られないと訴えるというのは、差別そのものであり、批判されて当然である。

失言報道があると、この区議のような「一部だけ切り取るな」「全文を読め」「文脈を無視するな」という弁護団が決まって現れる。もちろん本格的に批判するなら、全文を読み、意図を正確に汲むことは必要だ。だが、全文読んだことが明らかな批判を目にして、そこに同調することはそんなに不当なことではない。むしろ誰もが全文読む必要がどこにあるのかのほうが論証困難だろう。

要するに本格的な弁護の論陣が張れないから、「読んでないこと批判」程度しかできないのである。本件に限って言えば、杉田氏の寄稿文は全文読んだ場合でも、杉田氏自身にとって大いに不利である。きっちり読んだうえで批判されたら、ボロボロになってしまうだろう。

杉田氏を擁護したいなら、杉田氏が主張した内容(LGBTはそんなに差別されてない、など)を補強するようなデータを示すとか、あるいはLGBT差別には十分な合理性があることを論証するとかすべきである。少なくとも「ちゃんと読め」は逆効果だろう。

私の感覚では、みんなにちゃんと読まれたら杉田氏がかわいそうである。なぜなら、元の雑誌の特集は明らかに杉田氏が普段仲良くしてそうな一部の人々向けに組まれた特集で、杉田氏自身そういう読者を想定して書いているはずだからである。仲間内で気炎を上げただけのつもりが想定外の読者に読まれてしまい、困っているのではなかろうか。「全文読め」は残酷である。