新潮45が「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」なる特集を改めて組んで、擁護の論陣を張っている。

本ブログでも杉田水脈論文は子細に取り上げて、その「反動話法」を整理した。ポイントだけ上げると氏の反動話法は次のようになる。

1 差別の存在自体を否定
2 問題の矮小化(社会問題を両親からの理解の問題に矮小化)
3 問題のすり替え(差別解消の議論を税金投入の費用対効果の議論にすり替え)
4 普通・常識に頼った正当化

さて、こういう反動話法を擁護しようとした今回の特集では、応援団諸君はどのように立論したのだろうか。

◆藤岡信勝氏

まず藤岡信勝氏は、「生産性」を杉田氏がいかなる意味で用いたかを指摘し、世間の批判は的外れだと主張する。氏によれば、杉田氏が言わんとしたことは、LGBTは「次の世代の子どもを再生産しない」という事実の指摘であって、LGBTが社会的に無価値だというがごとき含みはないという。

実は私もこの点では同意見である。杉田氏の生産性という言葉は、確かにそのような意味で用いられており、このくだりを取り上げた世間の批判の多くは的を外している。

(追記:ただし、LGBTの人々は生殖能力を欠いているわけではないので、「子どもを再生産しない」と言い切るのは間違いだ。だからそういう角度からの杉田批判は正当だ。)

が、だったらどうだというのか、というのが私の意見だ。

生産性という言葉をどう使ったにせよ、LGBの人々を「不幸な人」と決めつけ、現に差別を実感している人々の声を無視して「差別などない」と、自分の差別に気づきもせず言い放ち、差別解消の問題を少子化対策として有効かどうかという別の尺度を持ち込むことで切って捨てる。このような国会議員は批判されて当然である。

藤岡氏にはそういう問題意識がない。氏は杉田論文を読んで「全く何の違和感も持たなかった」というのだ。

しかし藤岡氏は今回の寄稿の中で、「同性愛カップルが部屋を借りることが困難だとか、病院で家族として認定されない、などのことはお気の毒で改善する必要があろう」とか、「同性愛者などに対する差別や不利益で、社会の側が改善すべきことがあれば取り組むことは否定すべきではない」と、正論も主張する。

こういう認識を本心から持っている人間が、「全く何の違和感も持たなかった」というのだから驚きである。杉田氏は「差別などない」と、薄弱極まりない根拠に基づいて断定したのだから、「改善すべきことがあれば取り組むことは否定すべきではない」とする藤岡氏はそこに違和感をもってしかるべきだろう。

藤岡氏の杉田擁護論はこの程度の内容であり、あとは婚姻制度に手を付けるのは反対だとか、あまり杉田擁護論とは関係のない自身の主義主張である。

◆小川栄太郎氏

続いて小川栄太郎氏の擁護論であるが、こちらは支離滅裂の一言である。こんな駄文で援護射撃されたのでは杉田氏も迷惑だろう。

何しろこの人はのっけから「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」と言い切ってしまうのだ。勉強して出直しなさいと言うほかない。

しかし「知らない」にしては、矛盾する記述も頻出する。

氏は論考の中で「トランスジェンダーは、現代心理学が量産する様々な心的変容同様、曖昧な概念だ」とか、「ましてレズ、ゲイに至っては!全くの性的嗜好ではないか」とか、「LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば十分ふざけた概念だからである」とか、「知らない」はずの概念を「こういう概念だ」と決めつけて、言い切っている。

そしてその知らないはずの概念についてこうも言う。

「無論LGBTという概念の本音のゴールは、性的嗜好への白眼視を取り除く事にはないのだろう。結婚という社会的合意と権利の獲得なのであって・・・」

知らない概念の「本音のゴール」を断定できる「文芸評論家」には恐れ入るほかない。

◆八幡和郎氏

他には八幡和郎氏が次のように述べているのが印象的だった。

「杉田氏自身もLGBTに偏見を持っていないと明言しているのだから、差別主義者だと批判する余地などない」

驚いたことに八幡氏においては、本人が明言していれば批判する余地などなくなってしまうのだ。杉田氏は少なくともLGBの人々に対して「不幸な人」と決めつけるという、決定的な差別を行っているのであるから、本人がどう自己言及しようと批判する余地は大いにある。

八幡氏は次のようにも言う。

「LGBTに対して侮蔑的な言葉もなく、抑圧的な政策をとるように提案したわけでもなく、予算配分など政策的な優先順位を論じただけ。」

客観事実として、「だけ」ではない。「不幸な人」という決めつけは、侮蔑的ではないかもしれないが差別的である。そもそも杉田氏は差別体験についての当事者たちの多くの証言を無視して「差別などない」と、満足な根拠も示さずに断定したのだ。差別の存在を否定することもまた、一つの差別である。

また「予算配分など政策的な優先順位」について言及したのはその通りだが、以前批判した通り差別解消の問題を「予算配分など政策的な優先順位」にすり替えるという論法もまた、差別解消への取り組みを阻む「反動話法」なのである。

八幡氏が杉田論文に言及したのは、冒頭のこのあたりだけである。あとはメディアによる批判を「メディア・リンチ」と非難したり、杉田氏がどういう人物でどんな個性を持っていて、八幡氏が彼女を高く評価しているという、今回の杉田氏の主張からは離れた議論である。どちらも杉田氏の主張自体を補強する擁護論にはなっていない。

他にも擁護論者はいるが、一番マシなのは自らもゲイであるという松浦大吾氏の「特権ではなくフェアな社会を求む」だろうか。この論考くらいは読む価値があるかもしれない。

いずれにせよ、本企画における擁護論は、杉田氏の立論を何ら補強しない。「差別などない」と主張したのだから、差別の不存在について証明すればいいものを、誰もそれを試みない。

矮小化とすり替えの問題については、それが「問題」であることにすら認識が及んでおらず、「予算配分など政策的な優先順位を論じた」ことは正当だと誰もが考えているようだ。

今回の新潮45は日本言論史に残る珍論愚論のオンパレードだった。