柴山文科相、教育勅語「アレンジし道徳に使える分野も」

右翼的な見地から見ると、この大臣の発言は問題である。全国の右翼諸君は全力を挙げてこの大臣を批判しつくさなければならないだろう。

なぜなら、「勅語」とは右翼(小川栄太郎流に伝統保守主義者と言ってもいいが)にとっては「畏れ多くも天皇陛下のお言葉」に他ならない。それをあろうことか「アレンジ」しようというのである。不敬もここに極まれりだろう。これに怒らないようでは右翼ではあるまい。

右翼思想の持ち主にとっては「勅語」を「アレンジ」するなどもってのほかで、陛下のお言葉は文字通りに受け取らなければならない、神聖なる「玉音」なのである。

「勅語」の性格をそのように認識した場合にやらねばならないことは、勅語を文字通りに受け取るためにも、これが出された当時の時代状況、時代の文脈を正しく踏まえることが求められる。

例えば勅語には「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ」とある。ここで踏まえるべき時代状況は、1890年時点での女性の社会的立場である。この時代、女性は結婚したら男性の所有物であり、今でいうところの「基本的人権」など一切認められていない存在である。法的には「無能力者」だったのである。

そういう無能力者=女という前提があっての、「父母」の関係性であり、「夫婦」の関係性だったのである。圧倒的な男性優位社会であることは、「兄弟ニ友ニ」という表現からもうかがえるだろう。断じて「姉妹ニ友ニ」ではないのである。

現在の日本国憲法第24条にあるような、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」という価値観とは、全く重なるところのない社会構造があったのである。

勅語を「畏れ多くも天皇陛下のお言葉」として尊重するならば、勅語が前提とした社会構造を踏まえてお言葉を受け止めなければならない。そうすると、「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚」することが求められている現代社会に、ただ単純に言葉だけ横滑りさせて持ってきて、「ホラ、現代にも通用する」などと胸を張るというのは、事実上のアレンジであって不敬な振る舞いと言わざるを得ない。

現代日本にはいわゆる「ネトウヨ」が跋扈して、右翼思想も相当劣化が進んでいる。そのせいだろうか、明治神宮のHP(http://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.html)においても教育勅語をあの時代の文脈の中に位置付けるという基本的な所作が守られていない。

ご丁寧に明治神宮のHPでは、わざわざ表まで作って「教育勅語の十二の徳目」が並べられている。例えば、「夫婦 ふうふ ノ の 和 わ」は「夫婦はいつも仲むつまじくしましょう」だし、「博愛 はくあい」は「広く全ての人に愛の手をさしのべましょう」である。

もう一度言うが、当時の女性は「無能力者」扱いであって、それを前提としての夫婦の和、博愛なのである。そこを踏まえずに明治神宮のごとき無邪気な「言い換え」をするのは、右翼の立場からすると思想的背任である。

そもそも明治神宮のHPにしてからが、「戦後に教育勅語が排除された結果、我が国の倫理道徳観は著しく低下し、極端な個人主義が横溢し、教育現場はもとより、地域社会、家庭においても深刻な問題が多発しています」という問題意識なのである。

そうであるならば、なおさら「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚」した現代日本に、教育勅語を安易に横滑りさせてはならないはずである。むしろ、明治神宮の立場からは、現代日本には教育勅語が成立する前提基盤がない。よって女性の権利を全否定するなどの社会変革が先であり、それがなされなければ教育勅語も意味が変えられてしまう。と主張すべきだろう。

日本の右翼諸君。教育勅語をアレンジしようなどという不敬な振る舞いを画策する文科大臣を許しておいていいのか。明治神宮の世迷言を正さなくていいのか。教育勅語の復活を本気で臨むなら、「女性に基本的人権など一切認めるな」と主張しなければ嘘である。

なお、私は右翼ではないので、そのような社会変革には断固反対だし、アレンジしようとすまいと教育勅語を持ち出して「道徳などに使う」など一片の価値も見出さない。女性の基本的人権が尊重されている現代社会に生まれたことを率直に喜んでいる。

正直、私も現代右翼に上記に述べたような意味で教育勅語の復活を望み、女性の権利を全否定したがる人間はほとんどいないと思っている。だがそうであるならば、教育勅語はあくまでも歴史文書として扱い、アレンジや安易な現代への横滑りを企むべきではないだろう。そうでないと上述したような思想的背任という問題を惹起せざるを得ないのだから。