この問題が国会で厳しく追及されていた今年の2月19日、TV番組「ひるおび!」において、弁護士の八代英輝氏は次のように安倍総理大臣を擁護していた。

「ここまで言うんだったらホテル側に見積もりの控え、請求書の控え、それから領収書の控え、これ全部残ってるはずなんで、それを取り寄せてむしろ野党側から突きつけたらどうでしょうかね。安倍事務所側は“これはない”って言っているわけですから、“ある”って言ってる側が入手して突きつければいいだけの話じゃないでしょうかね」

強制捜査権もない野党に何を求めているのかという、見当違いな暴論だった上に、結局安倍総理大臣が嘘をついていたことが明らかになり、裁判官経験者としての不見識を満天下にさらした格好である。まるでこの発言がなかったかのように、八代氏は今でも同番組でコメンテーターを続けている。

安倍政権を支持していたのは、つまるところこういう人々なのである。安倍氏のもつ権力に迎合し、どんな白々しい嘘も擁護する。「正しさ」よりも「損得」を優先させるのだ。自殺者まで出した森友問題における公文書大改ざんも同じである。公文書を直接改ざんした近畿財務局の役人たちは、「正しさ」には目をつむり、政権の言うことを聞いておけば自分の「得」になると判断し改ざんに走ったのである。

そしてその「正しさ」から目を背けることができない程度に良識的だった赤木氏は、自殺に追いやられたわけだ。

こういう損得勘定を正しさよりも優先させる思考は、安倍政権後も顕著に存在している。例えばコメンテーター業もやっている芸人のカンニング竹山氏は、12月2日のAERA.dotのインタビューで次のように言う。

「いま、菅政権でしっかりやっていこうとしているさなか、政権が変わってしまうようなことになるのは、国民にとっては得なんだろうか、どうなんだろうか? それが個人的な心配というか、そこまで考えてしまいますね。」

ここには「正しさ」よりも損得を優先する思考がものの見事に表現されている。一応、竹山氏の名誉のために言っておくと、氏は「「桜を見る会」の問題を突くようないらんことするなって言っているわけではないんですよ」ともコメントしている。要は損得と正しさのはざまで揺れている、という訳だ。

竹山氏はまだしも揺れているからいいが、微動だにせず損得を優先させる八代弁護士のような人間が安倍政権を支え続けたこと、この事実に私は戦慄する。

安倍政権や菅政権がやってきたことは、しばしば圧倒的な「悪」だった。国会での嘘(今回の件)、明白な憲法違反(臨時国会の不招集、安保法制)、明白な法律違反(公文書大改ざん、学術会議任命拒否)などなど。それを「国民にとっては得なんだろうか」という尺度で、なんとなく景気もいいしまあいいかと見逃してきたのが安倍政権以降の日本社会である。

言うまでもなく、こうして自身の「得」のために「悪」を見逃す社会に未来はない。こういう態度は、権力者において、国民に配分可能な「得」を調達しようという動機を生み出す。歴史上、しばしばこうした動機が戦争を引き起こしてきたのである。

また、こういう社会では人々は権力者に対して「得」の配分を期待するようになり、配分を実現してくれる権力者は、正しさ抜きに支持するに至る。当然、権力者は卑劣で不当な方法であっても、社会のどこかからか「得」を調達し、支持者に配ろうとする。森友・加計問題とはその典型だったわけだ。

そういう社会で損をするのは、権力者から距離を置き、正しくまじめに社会と向き合おうとする善人である(自殺した赤木氏のタイプだ)。そういう状況下では「正しくあろう」とする動機が社会の構成員から失われる。正しいほど損をするのだから、当然の帰結である。かくて世の中から正義は失われ、陰惨無道な社会が生み出されるのだ。

私には今3歳の子どもがいるが、自分の子どもをこのような腐敗した世の中に送り出したいとは思わない。