森喜朗氏の発言が物議をかもしている。伊藤詩織さんレイプ犯の逮捕状執行停止、東京医大入試女性差別問題と並ぶ、現代日本の女性差別事案として記念碑的な事件になりそうだ。

私はこの問題が報じられた当初、Facebookで次のように書いた。

「問題にすべきは80歳オーバーで今更価値観を転換することも出来なくなった森氏個人ではなく、こういう不見識な人物に役職の壟断を許していた組織集団のガバナンスだろうと思う。」

今でもこの認識は変わっていない。事実、森氏は一度辞任を決意したものの、武藤敏郎事務総長らが慰留して思いとどまったという話である。つまり森氏の地位は彼の意思とともに、組織の意思でもあるわけだ。

 言うまでもなくこうした態度はオリンピック憲章に反している。オリンピック憲章には、オリンピズムの根本原則として次のようにある。

「スポーツをすることは人権の 1 つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。」

そしてIOCの役割としてこうある。

「オリンピック・ムーブメントに影響を及ぼす、いかなる形態の差別にも反対し、行動する。」
 
こうした規範に照らすなら森氏の辞任は不可避と思われるが、自民党の世耕参院幹事長は「余人をもって代えがたい」と述べたという話である。つまりオリンピズムの理念よりも「余人をもって代えがたい」という利益を優先させたということだ。

こうやって「利益になるからいいんだ」として、正しさよりも損得を優先する態度をとると、自動的に差別は温存される。なぜなら差別構造の下では被差別者は「利益を生み出す」主体になれないからだ。

結果的に、差別する側が利益を生み出す存在(今回で言えば森氏)となり、「余人をもって代えがたい」とされて社会的に高い地位に留まり続ける。 

もちろんこれは循環論法である。

逆の立場から言えば、被差別者は被差別者ゆえに結果を出す機会を与えられず、結果を出さないことが評価を下げ、実績評価が低いゆえに差別されるのだ。

この被差別者には女性が入ることもあれば、黒人が入ることもあり、障害者が入ることもあり、特定の政治信条の持ち主が入ることもある。要するに歴史上存在したあらゆる差別は、こうした循環論法によって温存されてきたのである。

森氏が「余人をもって代えがたい」存在かどうかは知らないが、そうであったとしてもその事実自体が差別構造の帰結なのだから、森氏を擁護する理由にはなりえない。差別の是非のような倫理問題を議論するときに、利害や功績を持ち出して「損得」の座標軸を設けるのはご法度である。どんなに功績があっても「ダメなものはダメ」なのが倫理なのだから。

なかんずく差別を論じるときには、差別主義者の功績を考慮してはならない。なぜなら差別される側は功績を残すことに高いハードルがあるせいで、功績で評価されたら常に不利な立場に立たされる。出発点におけるこの非対称性こそが差別の本質なのだ。もし功績の多寡によって差別主義者の言い分が合理化されてしまったら、どんな差別も解消できなくなってしまうだろう。

差別主義者の「功績」を認めながら、差別には反対するなどというのは、ほとんど撞着語法である。

そもそも森氏のような差別主義者がその政治力だけを買われてトップに着くというのは、「まず理念から出発し、その実現のためいかに大会を設計するか」というアプローチが採られてなかったことの証左と言える。

森氏への擁護論が利害の観点からのみ行われるというのも、それを裏付けている。誰も「いやオリンピック憲章に照らしても非難されるような発言ではなかった」という線で論陣を張ることはないのだ。

噴飯ものなのはIOC自身も森氏の「謝罪会見」をもって「問題は終了した」との見解を示したことである。先に引用した通り、IOCには明文で「 いかなる形態の差別にも反対し、 行動する」義務が課されている。それが何と「問題は終了」という宣言一つで済まされてしまうのである。

オリンピックがいかにその理念から遠くかけ離れたところに来ているか如実に表している。

今回の報道の中で、「日本がこんな国だと世界から思われてしまう」といった感想が、TVなどでは紹介されていた。思われてしまう、ではないのだ。事実として日本はこんな国なのである。思われようと思われまいと。

日本は、安倍総理大臣と懇意だったレイプ犯の逮捕状が執行停止になるような国なのである。

それを直視することが出来ないと日本国憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という国家的願望は果たされることもないだろう。