安倍政権からの長い自民党政権を経て、私が常々マジックワードと呼ぶところの「野党がだらしないか」という呪文は、裏金問題においても今もって強力な呪縛として作用している。基本的には野党よりであろうサンデーモーニングでも「野党がだらしない」というフレーズ(表現は違ってもほぼ同義のコメントも含む)は飛び出してくる。

自民党政権が公文書を大改ざんすると、「野党がだらしないから」。
自民党政権が統計不正をすると、「野党がだらしないから」。
自民党政権が日報隠しをすると、「野党がだらしないから」。
自民党政権が買収選挙をすると、「野党がだらしないから」。
自民党政権がカルト教団と結託すると、「野党がだらしないから」。
自民党政権が裏金作りをすると、「野党がだらしないから」。

まことにもって、頭おかしいのではないかと思うような思考回路である。いや、もちろんそこに思考などないのだ。これはもはや「鳴き声」である。鳥のようなもので、そういう鳴き声を習得したのだ。

これは完全な循環論法なのである。「野党がだらしないから」と罵られる結果、野党の支持が伸びず、野党の支持が伸びないのは「野党がだらしないから」とされる。無限に循環するようになっているのだ。

自民党政権が悪政を働いたなら、代わりは野党からしか出ないのだから、「だらしがない」などという鳴き声に逃げるのではなく、野党がどのような政策を持ち、どんな未来像を描き、どんな人材を擁して、どんなロードマップを描いているのか、どんどん報道したらいいのである。

それを受けて批判すべきところがあると思うなら、筋道立てて批判すればいいのだ。「野党がだらしないから」などという鳴き声よりもはるかに有意義だ。

日本で政権交代が起きにくい一つの要因は、政権与党の動静は何かと報道されるのに対し、野党側は「鳴き声」しか発してもらえないという、物量の点での著しい不均衡にある。それが結果的に与党の悪政を育み、国を誤らせるのだ。

もちろん現在の野党が政権を握ったなら、積極的に野党自民党のことを取り上げたらいい。どちらかに与せよというのではないのだ。国全体の可能性を開くという意味で、常に与野党両方に足を置き、踏ん張るべきなのである。どこの政党が野党であっても、野党の存在は常にその国の可能性を宿しているのである。それはロシアや中国、北朝鮮を見れば明らかだろう。

その可能性の本丸たる野党に、「野党がだらしないから」という鳴き声しか発せられないというのでは、あまりに貧弱な見識である。道を誤らせる「鳴き声」はいい加減にしてもらいたいものだ。