ナチス

相対的貧困はなぜいけないのか

貧困女子高生騒動 「相対的貧困」への無理解も原因


今回の一件で思うのは、「相対的貧困」への無理解という問題以上に、なにゆえ相対的貧困がいけないのかというそもそも論について一般の理解が追いついていないのではないか、という問題だ。これは一時期の格差をめぐる是非論にも通ずる話である。

例えば、前回の投稿の元記事に出てきた慶応大学特任講師氏は言う。

「相対的貧困は相対的な問題なので、先進国でも必ず一定数起こりうる」

もちろんその通りなのだが、こういう物言いだと「必ず起こるんだから、防ぎようもないし、問題にする必要はないのではないか」という認識を招きやすい。「格差の何がいけないの」という素朴な疑問にも通ずる議論である。実際この人自身、「精神的に自分の状況をどう捉えていくかということの方が大事」として、話を本人の心の持ちように帰してしまい、相対的貧困がなぜ問題なのかについて認識がないように思われた。

前回の投稿でも指摘したことだが、「相対的」な貧困であったとしても、それが特定の人々に「固定」してしまう状態が良くないのである。相対的である以上、日本がどんなに豊かになっても、一定数の人は相対的に貧困になりうる。だが、その相対的に貧困な人々が常に流動し、みんな一時的な貧困におさまっていて、やがては標準的水準に復帰できるようなら、問題は小さいのである。

では相対的貧困の固定化はなぜ良くないことなのか。

それは社会を不安定化させる要因だからである。その社会の標準的生活を営めない層があまりに増えて、しかも固定されてくると、それはしばしば差別主義を生み出す。こいつらは常に社会に寄生して、努力もせずに飯を食っている。社会のお荷物だ、というわけだ。しかも、こたびの貧困叩きに見られたように、一見してそう悪くない生活をして見えることが余計に憤懣を高めてしまう。

この「社会のお荷物」という感覚が最も悪い形で噴出したのが、先日の障害者大量殺人である。障害者は役に立たない、社会に不幸をもたらすだけだ、よって死ななければならない。こういう理屈で本人は障害者を殺害しているのである。

注意すべきは、全く逆の論理展開もありうるということである。つまり、一部の人間だけが裕福な生活をしている、あいつらは悪徳な集団だ、という論法である。ナチスのユダヤ人迫害などは、論理としてはこちらに近い。

だからどちらの形態をとるにせよ、経済的分断が固定化するとおおむね不幸な結果になるというのが歴史が教えるところなのだ。

貧困が親から子へと受け継がれてしまうという問題は、「固定化」の最たるものだ。これが続けば、そこに悪質な「血統主義」や「優勢学説」が忍び込む。優秀な遺伝子を残して、劣った遺伝子を剪除しようという欲求は、ナショナリズムと大変仲が良い。その最悪の結末は誰もが知るとおりである。

相対的貧困への理解ができたら、その次はこうした「固定化と差別主義」という問題も射程に収めていただきたいと切に願う。

障害者抹殺論の本質

尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授

障害者抹殺論というのは、いつの世も一定の支持者がいる。大抵の場合、それはごく一部の屈折した価値観の持ち主たちに限られる。しかし、ナチスの例にもあるように、時として激烈な悲劇を引き起こす。だから、こういう議論の危うさを指摘しておくことには価値があるだろう。

いろんな批判は可能だが、私なりの問題意識から障害者抹殺論の危うさを指摘すると、こういう論者は自分が抹殺される可能性を考慮していない、という問題があると思う。

障害者自身が障害者抹殺論を説くことはほぼないだろう。論者は基本的に健常者と見ていい。抹殺対象が他人であるから、気軽に「殺せ」と言えてしまう。健常者である論者自身が、なぜ抹殺される可能性を持つかというと、人間の生命の価値や人生の価値を本人以外の人間が判定し、「こいつは生きていてよし、こいつは殺すべし」と決定することを許すような社会システムを、論者が肯定しているからである。

こういうシステムは、たとえ最初に障害者から始まったとしても、必ず拡張が始まり、次々と抹殺対象を見つけ出す。それはなぜ障害者を抹殺する必要があるのかを問うと分かる。障害者抹殺論というのは、煎じ詰めれば障害者が社会の負担であり、実益が何もない存在だという評価に根ざしている。したがって、同じ評価が可能な存在を見つければ、障害者でなくともターゲットになりうる。

歴史的には、障害者のほか、黒人、犯罪者(政治犯含む)、ユダヤ人、〇〇民族、などがターゲットになってきた。現代日本で考えるなら、在日や朝鮮人、中国人、殺人犯などがターゲットになりやすいだろう。そして次第に〇〇主義者や〇〇党の党員、支持者へも拡張していくだろう。

リンクの記事の中でも新自由主義への言及があるが、経済合理性だけで人間の価値を判定すると、障害者抹殺論のような議論を導きやすい。貧しい人間=生産性が低い人間=公的扶助に頼る人間=社会のお荷物、というわけだ。

「社会のお荷物」を発見し、その排除を推進する発想は、裏返しとして「自分は排除されない人間だ」という自己肯定が隠れている。ナチスの場合で言えば、それはアーリア人種の優越という選民意識だった。最近の日本ではこういう優越意識よりもむしろ、「自分が不遇なのはこいつらが社会に負担をかけているからだ」といった自己憐憫が排除の思想を生み出していると言えるのではないか。

もちろんよって来たるところは様々あるだろうから、一つに断定する必要はない。全てが選民意識か自己憐憫とは言えまい。しかし、他人を攻撃することによって自分の安堵を手に入れるという行動様式は共通する。

生活保護受給者への冷たい視線や、滞留する死刑囚への執行圧力、刑罰の厳罰化を望む声、在日へのヘイトスピーチ、麻薬に手を染めた芸能人への視線、不倫した者への攻撃性。私には今回の大量殺人とこれらのトピックへの世間の反応は、深いところで根を同じくしているように見える。

この手の攻撃性は、自分より弱いものに向けられている点で共通する。自分より立場の強いもの、攻撃を受け止める力と余裕のあるものには向けられない。こういう怒りが例えば権力者への批判や、極端な富裕層へ向けられると、概ね社会は健全に保たれる。

攻撃しやすい対象を見つけて、インチキな社会正義をふりかざして、排除の論理を展開する。こういうことが社会に広まると、いつの日か自分自身が排除の対象として発見され、最悪の場合、抹殺される。

障害者抹殺論とは、要するに誰かを抹殺し続けることによって社会を支えようとする理論なのである。対象は障害者でなくても成り立つのだ。自分が抹殺されたくなければ、こういう愚論には付き合わないことである。

書評 アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦』上巻

アントニー・ビーヴァーの『第二次世界大戦』上巻を読み終えた。これとほぼ同じ厚さで中・下巻と続く、恐ろしく浩瀚な著作である。果たして下巻まで読み終えるかどうかは分からないが、ともかく上巻をクリア。

私は割と戦前・戦中の歴史本を読む方なのだが、日中戦争や太平洋戦争が中心で、ヨーロッパ戦域で具体的にどのような推移があったのかは、ごくざっくりとした認識しか持っていなかった。『第二次世界大戦』は、著者がそもそもイギリスの歴史家で、ヨーロッパの戦史の大家なので記述もヨーロッパが中心である。

改めて読んでみると、当初のナチス・ドイツの進撃ぶりとフランスの体たらくには驚かされる。現代の感覚だと、フランスが事実上占領され、パリにドイツ兵が溢れるなんてなかなか想像しにくいことだが、それが現実に起こったのだからすごい時代である。

ちょうどこのフランス失陥のタイミングを捉えて日本はフランス領インドシナへの進駐をしている。本書を読むと、この時期フランスがいかにズタボロだったかがよく分かる。構図としては終戦間際に火事場泥棒的に参戦して北方領土をとっていったソ連を思わせるような行動である。これをしてアジアの解放とは、よく恥ずかしくないものだと思う。

その後、ナチス・ドイツはソ連に侵攻するバルバロッサ作戦を展開するのだが、そこで起きたおびただしい残虐行為の数々は、戦慄の一言だ。この時点ではユダヤ人のガス室処分(いわゆる「最終的解決」)はまだ始まっていないが、その萌芽は見て取れる。

残虐行為はナチスがソ連人に対して行う場合もあれば、逆もあった。いずれにせよ、よく人間ここまで無慈悲になれるものだと思うほど凄惨である。全体的に気色の悪いエピソードなのであえてここで紹介はしないが、こういう事実を忘却することを「平和ボケ」と呼ぶのだろうから、目を逸らすべきではない。

こういう残虐性の発露を支えているものの一つに、双方の人間認識があるように感じる。平たく言えば相手のことを人間と思っていないのである。例えば、本書の言及を引くと、

「ゲッベルスは、悪魔のごとき天賦の宣伝屋だった。兵たちを思うまま刺戟する最も効果的な方法、それは憎悪に恐怖を掛け合わせることだった。強いイメージを喚起するため彼が頻繁にもちいた「凶暴な」、「面従腹背の」、「ユダヤ・ボリシェビキの」、「獣のような」、「人間以下の」といった形容語句は、すべてこの目的を達成するための巧みな手段であり、彼はそれらを様々に組み合わせて、個々のもつ刺戟効果を増幅させていった」

ヒトラーに言わせるとソビエトのボリシェビキなんて「ウンターメンシェン(人間以下のもの)」であって、いかなる境遇にあろうと憐憫や慈悲の対象ではなかったのである。もちろん、ソ連から見たナチスだって同じように認識されていたのだろう。相手をこのように認識しているからこそ、極端に非道な行為にも走れたのだ。

似たような現象は日本でもあった。日本軍は捕虜になることを認めておらず、それを極めて不名誉なこととして兵士を教育していた。そしてまた「死は鴻毛よりも軽い」として、兵士の命に重い価値をおいていなかった。

戦場で発生した日本兵による残虐行為や捕虜の虐待は、彼ら自身が尊重されていなかったという事実に遠因がある、とよく指摘される。このあたりの議論は、本書よりも『BC級裁判を読む』という本で詳しく検証されているので、気が向いたら読んでみるといいかもしれない。

こういう歴史を見聞すると、さて現代日本では大丈夫だろうかと思わずにはおれない。よほど油断しなければ、こういった歴史悲劇の再現は避けられそうだが、危うい萌芽はちらほらある。

例えば先日の記事で批判した武藤という国会議員は、自身のブログで「基本的人権の尊重」という考え方が、滅私奉公を良しとしてきた日本精神を破壊した主犯だと断じている。彼に言わせると、「基本的人権の尊重」によって日本人が個人主義的になり、結果、衆愚政治を招いているのだという。

流石にネット上でもこうした認識はトンデモ扱いされているようであるが、私の感覚だと「基本的人権の尊重」こそ、第二次世界大戦で人類史的に学び取られた教訓ではなかったかと思われる。人間を人間と思わなくなったとき、どれほどの悲劇が引き起こされるかを世界的スケールで経験したがゆえに、人としての基本的な権利があるという考え方が共通認識となったのである。

本書に限らず、第二次大戦の歴史を紐解くと、割と容易に「基本的人権」という概念の淵源のようなものが理解できる。武藤くんの言うとおりに「基本的人権の尊重」を否定したならば、そのとき「基本的人権」を否定され、残虐行為の犠牲になるのは自分自身なのだと知るべきであろう。

安保法制はナチス以下

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どうもよく分からないのは、安倍政権支持者たちが安保法制の必要性の問題と法の適正手続の問題を履き違えていることである。仮に安保法制が必要だとしても、その必要性が違憲立法を許すことには全くならない。必要があるなら、それを正しい手続きにのっとって実現しなければならない。これは立憲主義がどうのというより、法治国家として最低限満たさなくてはならない前提である。

安倍政権は要するに憲法改正を面倒くさがっているのである。怠惰な政治集団もあったものである。こうなってくるとますます麻生副総理が述べた「ナチスの手口に学んだら」という発言が迫真性を増してくる。

しかし、ナチスといえど一応法的手続きという意味では、ワイマール憲法の手続きにのっとって全権委任法を定めたのであって、今の安倍政権ほどいい加減な振る舞いはしていない。安倍一党はもはやナチス以下に成り果てている。

必要性は法的手続きを超越するという発想は、二・二六事件の青年将校に通ずるものがある。保阪正康の『昭和陸軍の研究』では、青年将校の論理が次のように解説されている。

「天皇の周辺にいる側近が赤子である国民の思いを曲げて天皇に伝えているからだと考えた。・・・自分たちの行動は、大きな意味で大御心に沿っているのだから、天皇の大権に叛く行為も許されるはずと考えたわけである」

当時の明治憲法に照らしても、天皇大権を侵犯する青年将校たちの行動は違憲中の違憲だった。しかし、彼らは自分勝手な合理化の果てに「大御心」を捏造し、斉藤実、渡辺錠太郎、高橋是清を惨殺したのである。

ついでに言えば、自分勝手な正義感で頼まれてもいない行動に走る心理は、現代の自衛官にもあるらしい。ヒゲの隊長として有名な佐藤正久自民党参議院議員は、イラク派兵時に、いわゆる「駆けつけ警護」について、「(オランダ軍が攻撃されたら)情報収集の名目で現場に駆けつけ、あえて巻き込まれ・・・日本の法律で裁かれるのであれば、あえて裁かれてやろう」と考えていたことを、TV番組で明かしている。

このような自己陶酔の結果、日本国民が本格的に戦争に巻き込まれようと、知ったことではないのである。職業軍人としてはあまりにもお粗末な責任意識という他ない。ちなみにこういった駆けつけ警護の是非を定めるのは各国の交戦規則なのだが、オーストラリアの中将はこの交戦規則について次のように言う。

「私はオーストラリアの法律の下に説明責任がある。オーストラリアの交戦規則は、我が国の法律家、司法長官および国民が軍に課した制御装置の類のものなのである」

この発言からは、この中将が自国の法律家、司法長官そして国民を尊重しており、自分の主観的判断よりも上位に法律や規則を置いているであろうことが伺える。比べ読むと佐藤議員の国民軽視ぶりが際立っており、軍人としての未熟さは国民として赤面してしまうほどだ。

ともあれ、こうしたお粗末極まりない遵法意識しか持たない安倍政権と自民党が、言うに事欠いて安全保障を議論するのだから恐れ入る。そして同じ政党があろうことか「道徳教育」の重要性を説いているのだから、まるっきりブラックジョークである。

遵法とはある面で自己抑制である。「日本の法律で裁かれるのであれば、あえて裁かれてやろう」という心理は、抑制する気をはなから持たない幼児か、あるいは確信犯の心理である。

こういうナチス以下の政権を、安保法制の必要性に共感するからというだけの理由で支持している連中は、少し道徳というものを学び直したほうがいいのではないだろうか。

秘密保護法、治安維持法、ナチス、自民党

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秘密保護法:10日施行 「知る権利」侵害の恐れ


個別の欠陥もさることながら、大局的な観点から見てもこの法律は極めて危ういものだ。この法律を推進する自民党という政党がいかなるベクトルを持つ政党かを理解すれば、その危うさは簡単に理解できる。

一番簡単に自民党という政党を理解する方法は、彼らが掲げる改憲草案を参考にすることだ。これこそが自民党の理想とする国家像のグランドデザインなのである。驚くべきことに、自民党の改憲草案にはかの悪法、治安維持法とほぼ同じ条文が入っている。第21条にはこうある。

「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」

治安維持法の第1条はこうだ。

「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑」

何が同じかというと、どちらも具体的な行為ではなく、「目的」を問題にしている点である。ある「目的」を持って活動したら、それが合法デモやビラ配り、出版、論文発表など平和的な活動であったとしても、自民党の改憲草案には違反する。こういう憲法下では、治安維持法のような法律が制定されることは大いにありうる。

合法デモについて思い出されるべきは、当時幹事長だった石破の発言だ。まさにこの特定秘密保護法に反対する合法なデモに対して、この男は「テロと変わらない」と断じたのである。特定秘密保護法反対をテロと同一視する人間ならば、首尾よく改憲がなった暁には、当時国会周辺でデモをした人々を「「公益及び公の秩序を害する」と決めつけて取り締まることだろう。

さらに石破は自衛隊員についても、出撃拒否をする自衛隊員を死刑にできる法律が必要だと主張している。合法なデモをテロと考える石破であるから、当然、国内のテロ分子を弾圧するための治安出動もためらわずに命ずるだろう。その時、同胞に銃を向けたくないと出撃拒否をしたら、その自衛隊員は死刑になる可能性があるわけだ。

第二次大戦末期、ナチスは兵士や民間人の投降を防止する目的で督戦隊を組織し、逃亡をはかる者を銃殺する仕組みを導入したという。発想は基本的に同じである。そして思い出されるべきは、麻生副総理の「ナチスの手口に学んだらどうか」という発言である。

この発言は改憲手続きについてのものだが、ナチスの歴史的評価について標準的な認識を持つ人間なら絶対に言わない類の発言である。本質的に彼はナチスを問題視していないのである。

ナチスはよく知られている通り、全権委任法などによってワイマール憲法を死文化させた。言うなれば、ナチスドイツというのは無憲法国家だったわけだ。

安倍晋三は集団的自衛権の解釈変更によって、現行憲法はおろか、憲法秩序そのものを否定した。これまでの自民党は改憲草案を掲げていることからも分かるとおり一応憲法は必要とする立場だった。ところが、安倍は立憲主義とは王権時代の発想であるとしてこれを退け、憲法にどう書かれていようと解釈は自分がする、責任は自分が負うと豪語した。

これがまかり通るならもはや「自主憲法」すら無用である。どんな憲法を作るかなどどうでもよくなるのだから。

つまり安倍は自主憲法路線すら捨て去り、まさにナチスよろしく無憲法国家を志向しているということだ。「ナチスの手口に学んだらどうか」とは、実に暗示的な失言だったと言わざるを得ない。

特定秘密保護法を自民党が目指す社会との文脈で理解する上で、もう一つ注目すべきは、改憲草案に現れている「機密」の決め方についてである。

改憲草案の第9条ではこうなっている。

「国防軍は・・・法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する(2項)」
「国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める(4項)」

まず国防軍が「その他の統制」に服することになっている。つまり法律の定め方次第で、国会のコントロールを受けない統制のありようが可能になっている。そういう国防軍の機密については、法律で決めれば良いとされている。

つまり改憲草案では、何を機密にするかについて憲法は法律に委ねてしまっている。したがって、どのような「機密」の決め方をしても憲法違反になる恐れはない。最終的に自民党が望んでいる秘密保護のありようが透けて見える。特定秘密保護とは軍事力と密接不可分なのである。

その軍事力は上述したとおり、国民弾圧のために用いられうるものであり、それを拒否する隊員を死刑にするような存在なのだ。

自民党が最終的に望んでいる国家とは、自分たちが絶対権力を握るナチスやスターリン体制や北朝鮮のような国家なのである。そういう道のりへの一道標として特定秘密保護法は理解されねばならない。

自民党とネオナチの親和性

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高市総務相と稲田政調会長「ネオナチ」とツーショット


思い出されるのは麻生太郎の「ナチスの手口に学んだら」発言である。ワイマール憲法を誰にも気づかれることなく“ナチス憲法”に変えたあのやり口を学んだらいいという、常軌を逸した発言をする議員が副総理を務める政党で、女性の社会進出政策の目玉として登用された議員が、ネオナチの代表と仲良く写真に収まるのだ。

以前の記事で安倍晋三について次のように書いたことがある。

「安倍晋三は立憲主義を「王権の時代の考え方」というまるで見当違いな認識を持っている(言うまでもなく王権の時代に近代憲法はない)。彼は憲法が国家権力を縛るという考え方が嫌で嫌でたまらないのである。だから何とかしてそれを時代遅れと位置づけ捨て去りたいのである。この発想は全権委任法で憲法を機能させなくしたナチスの発想により近い。」

誰にも気づかれずにとはいかなかったものの、法的手続きを踏まないという意味ではナチスよりも悪質な解釈変更という形で安倍政権は日本国憲法を換骨奪胎した。

これも以前の記事で指摘したことだが、自民党が最終的に目指す社会の姿は、自民党が掲げる改憲草案にちゃんと書かれている。草案の第21条は次のようになっている。

「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」

一見なんのことはない条文に見えるが、よく読むとこれは特定の目的を持ったら、ただちにその活動や結社が違法にされてしまう内容である。

近代法においては「法は思想を罰してはならず、行為を罰するのみ」というのが常識である。例えばネオナチであっても、その活動が適法な枠内にとどまる限り、集会もできるし、出版もできる。演説ももちろんできる。特定の政党や議員に働きかけても構わない。実際の行動が一般刑法に触れない限り法はそれを罰することはできない。

先の条文はこの原則を犯している。その集団が掲げる目的が「公益及び公の秩序を害すること」だと評価されたら、それは違法であり、取り締まりの対象になってしまうのだ。

実は日本人は現実にこれとよく似た条文を持ったことがある。治安維持法がそれである。治安維持法の第1条は次のような条文だ。

「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑」

この条文も実際の行動・活動が問題なのではなく、ある目的を持った結社・組織は即座に取り締まり対象になり、その役員や指導者は「死刑」である。もし改憲草案にあるような憲法を導入したならば、その規定を根拠に取締法規が制定され、それが死刑法に発展する可能性は大いにある。

そういう社会像を思い描く政党が権力を握るこの国で、ヘイトスピーチが横行し、スポーツの試合ではJapanese Onlyの横断幕が掲げられ、「アイヌ民族なんてもういない」と公言してはばからない市議が現れるというのは実に示唆的だ。

この写真騒動一つをもって、自民党をネオナチと評するつもりはないが、自民党という政党がどういう集団から支持を受ける政党であるかは読み取れるというものだ。一連の発言や、政策を見る限り、自民党がネオナチから受けが良くても不思議はない。

9条批判への反論として

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護憲論を中心にブログを書いていると、しばしば意見を異にする人間から反論コメントをもらう。箸にも棒にもかからない反論が多いものの、こういう反論に再反論を用意していないと、説得力がそがれるなと思う場面はある。

例えば、過去の歴史事実の中から軍隊が国を守った例や、逆に国土を侵略された事例を指摘して、こういう場合に9条の論理では国を守れないじゃないか、と指摘する批判の仕方がある。最近のコメント例で言えば、李承晩ラインを引き合いに出して、漁船が銃撃を受け日本人が殺された事件を指摘し、この当時は9条が存在していたのだから、9条では国を守れないことが証明されていると主張する者がいた。

大体コメント者というのは一言二言のコメントを一方的に残すだけで、ろくな論拠も論証も示さない。だからこういう粗雑なコメントにいちいち真面目な反論はしない。とはいえ、こういった論法への一般的反論を準備しておくことは重要だと思う。

反論はそう難しいものではない。いわゆる9条護憲論というのは、あくまでも現代日本における現実の政治選択として、今現に存在している9条をなくすよりも、維持存続させるほうが日本の平和安定に寄与するという立場である。

例えば帝国主義が世界を席巻していた時代や、封建時代において9条の理想を掲げても、有効な政治選択にはなり得なかったろう。むしろ9条の理想というのは、封建制や帝国主義の失敗を経た時代状況の中でなければ成立の余地がないとすら言える。そういう人類史的な失敗体験の共有があって初めて9条にも有効性が生まれるのである。

だから例えば第二次大戦においてイギリスがドイツとの宥和政策を試みて失敗し、結果的にドイツと開戦することで国を守ったからといって、それが9条の無効性を論証するかといえばそんなことはないのである。

むしろ9条の精神はイギリスではなくドイツの失敗を糧にしているのである。行き過ぎた軍事力が生み出すおびただしい不幸と、その果てにある国家の破綻。そのような不幸から国民を守るための制度的担保として9条は生み出されたのである。

李承晩ラインにしても同じことである。時代状況的には第二次対戦の余燼さめやらぬ頃の話であり、これから冷戦が本格化しようかという局面でのことだ。先にも述べたとおり、9条は歴史上のどの時点でも等しく有効な政治選択とは限らない。当時にあっては9条の有効性は限定的だったとしてもおかしくはない。

忘れてはならないことは、9条の精神はまさに李承晩時代の韓国の如き抑圧政治への反省から生まれたという歴史的経緯である。当時の韓国社会は極端な抑圧社会であって、自国の軍隊は自国民を弾圧するために用いられている。そういう国家社会のありようが国民に幸福をもたらさないという認識が9条を生み出したのである。

つまりナチスであったり李承晩政権であったりという歴史の事例は、9条の無効性を証明する事例というよりも、それがあったからこそ9条は生まれたという、9条の出自を表す事例なのである。

9条は李承晩政権のような国家が世界に存在することを想定していないのではなく、むしろその想定のもとで、同じ理屈を互いにぶつけ合って国際紛争を解決しようとしても有害無益、あるいはせいぜい一利を得るために百害を被らねばならない選択だという認識に立っている。それが「国際紛争を解決する手段として戦争を放棄する」という条文につながっているのである。

9条はこれさえ守れば国家の平和は守れますよと言っている条文ではない。読めばわかるとおり、国際紛争を戦争で解決しない、軍隊を持たないと書いているだけであり、平和の保証などどこにもない。元々そういう条文なのである。

よく改憲論者(とくにネット上の匿名のそれ)は、9条があれば大丈夫なんて奴は頭がおかしいと言わんばかりの言辞を弄するが、それは9条を誤読しているがゆえの妄想である。9条嫌いの9条知らずなのである。

別の記事でも書いたが9条にも限界はもちろんある。9条が完璧に機能している軍事力なき国家は、本当にナチスの如き国家が攻め込んできたとき、軍事的に対抗する手段がないという意味では無力だろう。

しかし、現代日本は9条が完璧に機能している国ではない。自衛隊もあれば在日米軍もいる。また現代世界にナチスの如き国が今後存在しうるかといえば、可能性は相当低い。そういう時代状況の中で、あえて9条を手放すことが有効な政治選択とは到底思えない。

護憲論にも様々あるが、少なくとも私の護憲論はそういう認識によって立つものだ。

アメリカを戦争に巻き込みたい安倍政権

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「戦争に巻き込まれる恐れ、なくなる」首相、会見で強調
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140701-00000030-asahi-pol 


多くの論者が指摘するところだが、今回の集団的自衛権をめぐる解釈変更で本当に「戦争に巻き込まれる」ことを恐れているのは、実はアメリカである。

アメリカこそが日本が引き起こす対中戦争に巻き込まれることを恐れている。しかも、そうなった時に日韓関係が破綻しているとますます不都合である。日米韓の共同戦線で中国に対抗することこそ、アメリカの負担を減らす道なのに、安倍は嬉々として靖国を詣で、日中・日韓の関係を同時に悪化させている。

そのさなかの集団的自衛権の解釈変更など、アメリカからすれば迷惑の一言だろう。

「アメリカの戦争に巻き込まれる」というのが安倍批判者の常套句になっている節もあるが、より警戒すべきなのはアメリカをアテにした「日本の戦争」が始まる可能性の方である。

特定秘密保護法による情報の操作と管理。解釈変更という手法を使った立憲主義からの離脱。麻生副首相は言った。「ナチスの手口に学ぶべき」と。石破自民党幹事長は言った。「出撃拒否する自衛隊員を死刑にできる法律が必要だ」と。

自民党の改憲草案にある治安維持法と同内容の不気味な条文は次のようなものだ。「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」

特定の目的をもった結社は、実際にどんな活動をしているかを問われることなく違憲になるのである。これは行為を罰するのではなく、目的を罰する規定になる。治安維持法も目的を罰するという点では同様で、第1条で次のように定めている。

「国体を変革すること目的として結社を組織した者・・・は死刑又は無期又は五年以上の懲役若くは禁錮に処し・・・」

特定秘密保護法の強行採決や、立憲主義を無視した解釈変更、閣僚や党の責任者による発言、改憲草案ににじみ出る国民統制への本音。彼らはアメリカの戦争に加担したいとは思っていないのだ。話はもっと悪く、日本が始める戦争にアメリカを巻き込みたいのである。

集団的自衛権の解釈変更とは、日本が己の戦争を始める口実を増やすための仕掛けと理解すべきである。「アメリカの艦艇が攻撃された。同盟国として反撃しよう」というわけだ。それをもって日米安保の片務性を解消し、日本が始める戦争へのアメリカの協力を担保しようというわけだ。(どうして安倍はそんなに戦争をしたいのか?私に聞かないで欲しい)

国内世論は特定秘密保護法で情報操作し、「ナチスの手口」で憲法を踏み倒し、治安維持法まがいの手法で国民統合を図る。こういう権力者が操る軍隊は、遠からずその銃口を自分に従わない国民に向けることになる。ただし、その最初の銃口は石破が言うような「出撃拒否をした自衛官」に向けられるのだろうが。

立憲主義の死んだ日

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今日7月1日は立憲主義の死んだ日である。

ある意味これは9条が改憲されるよりも遥かに悪い事態である。行政権力が立憲主義に正面切って反抗し、それがまかり通らんとしているのだ。それは集団的自衛権の行使の是非とは次元の違う問題である。

このあたりを履き違えている安倍支持者は多いことだろう。集団的自衛権の行使が認められるなど当たり前、それが国益にかなう、だからいいのだと。

しかし、ことはそういう問題では留まらないのである。行政権力が憲法の制約を無視できるとなれば、権力を縛るものは存在しなくなる。ナチスの全権委任法よりなお悪い。全権委任法という法的根拠すらないのだから。

本来、時の政権が解釈を変えても所詮それはそれだけのことであって、違憲なものが合憲に変わるわけではない。しかし、司法権が行政権力におもねり、政権の都合の悪い憲法判断を回避するこの国においては、行政権力の解釈変更は既成事実と司法の追認を招く重要な一歩になってしまう。

思い出されるのは、昨年麻生副総理が述べた「ナチスの手口に学んだらどうか」というあの発言である。ナチスの手口とは、憲法改正という手法を取らずに全権委任法により憲法を殺すやり方である。おそらく安倍はナチスの手口に学んだのではないだろう。そうではなく、いつの時代もナチス的性質の持ち主である権力者は同じことを考えるということなのだ。

最終的にこういう状況を許すのは国民である。国民が事の重大さに気づかなければ、安倍の如き典型的な僭主はどこまでも突っ走る。そして安倍支持者が愚かにも気づいていないことは、安倍とは対極にあるような政治勢力が権力を握ったとき、これが重要な先例となって、憲法無視の得手勝手な解釈をしてのける可能性があるということだ。

立憲主義の死んだ社会では、行政権力が変わるたびに粛清と圧政が繰り返される。安倍支持者たちも、自分たちの支持しない政権が命ずるままに、自分たちが敵と思わない相手を敵として戦うことを義務付けられる。反抗しようものなら「非国民」である。

この時安倍支持者に時の政権を批判する資格は既にない。なぜなら己のとった行動がそのまま跳ね返っているだけであり、それを批判することは天に唾するに等しいことだからだ。

こういう経験を民主党政権時代に思い知ったはずなのだが、過去を記憶し、反省を糧とする行為を自虐としか思えない人間というのは、本質的に学習能力がない。

自分たちが主観的に国益にかなうと判断すれば、憲法秩序などいくら踏み倒してもいい。なぜなら国益にかなうのだから。これこそまさにキリスト教世界が世界中で多くの人命を奪った時に用いた独善そのものだ。自分たちの主観的価値判断こそが絶対で、主観的に「良い」ならなんでも合理化できる。

こうした独善が莫大な数の人命損失を生み出したことへの反省に立脚して近代社会は構築されてきた。その一つの成果が立憲主義でもあるわけだが、「反省」は自虐で恥ずべき行為と考えている連中にとって、反省から生まれた制度など無意味無価値らしい。

いつの時代にも、どんな社会にもバカはいる。現代日本の国民がそこまでのバカでないことを願うのみである。

安倍晋三のナチス体質

安倍首相、アンネの家を訪問
http://www.asahi.com/articles/ASG3R4QR7G3RUTFK002.html

■安倍首相、アンネの家を訪問「二度と起こらないように」

(朝日新聞デジタル - 03月23日 19:19)

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=2813644

ナチスと同盟を結んでいた時代の日本を積極的に肯定する歴史観の持ち主である安倍晋三が、アンネの家を訪問などと、悪い冗談である。彼は戦前・戦中の日本の過ちを振り返ることを自虐と呼んではばからず、そうした反省の姿勢を「戦後レジーム」として放棄すべきとの意見の持ち主なのである。

そういう人物がなぜ平然とアンネの家を訪問できるかと言えば、彼にとって都合の悪い歴史事実は忘却の対象だからである。ナチスの同盟者としての歴史を忘却し、ユダヤ人迫害についての当事者意識など微塵もないから、何ら自分の思想的立場との矛盾を感じることもなくアンネの家を訪問できるのだ。

安倍晋三にあるのは、せいぜい杉原千畝という「日本人」がユダヤ人の救出に貢献したという、都合のいい歴史事実だけである。日本がホロコーストに関与したのは、反ホロコーストの文脈においてだけとでも思っているのだろう。

おそらく安倍は知るまい。自分が礼賛している時代の日本人が、ナチスから「名誉アーリア人」として遇されていたことを。

忘れるべきでないことは、この首相は「ナチスの手口に学ぶべき」という見解の持ち主を副首相に据えて、特定秘密保護法を強行採決する人物なのである。さらに彼を支える自民党の幹事長は、その秘密保護法反対のデモを指して「テロと変わらない。世論の共感を呼ぶことはない」と放言したのである。

しかも、安倍晋三は立憲主義を「王権の時代の考え方」というまるで見当違いな認識を持っている(言うまでもなく王権の時代に近代憲法はない)。彼は憲法が国家権力を縛るという考え方が嫌で嫌でたまらないのである。だから何とかしてそれを時代遅れと位置づけ捨て去りたいのである。この発想は全権委任法で憲法を機能させなくしたナチスの発想により近い。

安倍晋三という人間は、歴史を振り返って過ちを過ちと認め、その原因を究明し、未来への教訓とする、そういうごく当たり前な営みを「自虐」と罵って切って捨てるような人間なのである。こういう人間が首相を務めている日本において、Japanese Onlyの横断幕が掲げられ、ヘイトスピーチが横行するのはあながち偶然でもあるまい。

こういう攘夷主義的狂態が社会に充満すると何が起こるか。歴史にはその実例がいくつもあるが、日本で起きたことで言えば関東大震災における朝鮮人虐殺が挙げられるだろう。犠牲者数は諸説あるが、少なめの見積もりをとっても2000人を超える朝鮮人が虐殺されている。

これは極端な事例としても、こういった民族的人種的偏見を放置すると、きっかけ一つで社会は崩壊する。現代の実例を挙げるとするなら、ロス暴動がそれだ。元々存在していた黒人・白人・在米韓国人の緊張と対立が、ロドニー・キングの集団暴行事件とその判決をきっかけに空前の大暴動を招くことになった。

歴史を学ぶ価値とは、こういった失敗の歴史から教訓を汲み取り、次代に活かすことにある。しかし安倍晋三にはそのような能力が致命的に欠けている。

都合の悪いことは全て「なかった」と言い募り、自分が信じたい事実だけを取り出して物語を紡ぐ。そして我が国は優秀だ、すばらしい国だ、誇りに思う、と陶酔に浸る。これこそまさにナチスドイツで起きたことにほかならない。

安倍晋三がしゃあしゃあとアンネの家を訪問できるのは、彼の忘却を是とし、自分の都合のいいこところだけをつまみ食いする悪癖の表れにほかならない。

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