鑑真和上の伝記を最初に記述したのは和上と生涯を共にした高弟の思託(したく)でした。しかし思託の著した「広伝」は難解で長文だったため、 淡海三船に依頼して『唐大和上東征伝(東征伝)』ができました。
これは日本人が書いた最初の漢文学とされています。この「東征伝」は
鎌倉時代の忍性が絵巻にして唐招提寺に納めたものが現存しています。
淡海三船とは・・・・・・壬申の乱の敗者である天智天皇の皇子、大友皇子(弘文天皇)の曾孫になります。祖母は天武天皇と額田王の間の娘、十市皇女(大友皇子の妻)です。漢学に大変優れ大学頭文章博士でした。《この頃大学寮で漢学を学ぶものを文章生(もんじょうせい)とよび優れたものには文章博士(もんじょうはかせ)の称号が与えられました。有名なところでは菅原道真が18歳(最年少)で文章生になり後に博士になっています。》

鑑真生存中に建立された唐招提寺は近年の研究から講堂のみだったことがわかってきました。金堂などは弟子の一人、如宝が鑑真の願いを果たそうと、並みな鑑真和上らぬ努力の末に建立されたということです。

御影堂に安置されている鑑真和上像は我が国最古の肖像彫刻です。
彫刻家の高村光太郎このつつましい、寂しい、しかも深い、そしてあたたかい高僧の魂がそのまま姿になってあらわれたような美しさがあると記しています。
また北原白秋は 
み眼は閉じて おはししかなや 面もちの なにか堪へて 匂へる笑みを    
          唐14     と歌っています。 
金堂には誰もが触りたくなるという
みごとな円柱があります。
会津八一の次の歌が歌碑になっています。

おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ  

鑑真和上は天平宝字7年(763)5月6日机に寄りかかり坐して亡くなったと記されています。(76歳)