2017年10月02日

秋が来た

秋きぬと 目にさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる

この句を初めて見たのは中学生の頃。
テストで「秋きぬ」とはどういう状態か、という問題がでた。
ローティーンのぼくは、テストで点数をとる指導要領の下僕みたいな機械だったので、先生が教えてくれた「秋が来た」をそのまま書いて○をもらったんだ。

だけど、その頃仲良くしていたマカベくんは「秋が来ている」と書いて×だった。
ぼくはそれを当然と思ったけれど、マカベくんは「『秋が来て、そこに居る』という意味なんだ」と言って食い下がっていた。
その様子を見てぼくは、その表現の感じはすごくいいなと思ったのを覚えている。
だけどマカベくんの×は覆らず、もちろんぼくの○もそのままだった。

30代は色々な場所に秋が来た。
北関東、トーキョー、南九州、そして北陸。
けしてぼくの方に秋を迎える準備ができていたわけではなく、気づいたらそこに秋は居た。

秋は、久しぶりに会う親戚のおじさんみたいに、そんなにフレンドリーではない。
こっちに準備ができてないのにふらっと来て、
「おう、どうだ、ちゃんとやってっかい?」
なんて感じでぼくにつきまとう。
そして気づいたらどっかに去ってしまっている。

秋といい付き合いができないのは、幾つになっても変わらない。
ただ、昔みたいに体の三分の一が感傷に浸って動けなくなるようなことはなくなった。それなりに落ち込んで、それなりにこなしている。
そんなことを書いてみると、もしかしたら昔のぼくは、ふらっとやって来た秋おじさんと膝を突き合わせてずっとぐっと話をして居たのかもしれない。

ぼくは、ぼくの中にある歴史修正主義にもっと自覚的でいよう。

スティーブ・ジョブスはconnect the dotsと言っていた。
過去はいつも今から、あるいは未来から参照され意味づけられる。
今が良いことで救われる過去もあるけれど、今が良いせいで忘れられる過去も大切にしたい。

秋が来た。
ハロウィンは来るな。
論文の着想は来てほしい。

けーこーく、くるくれこい

カ行変格活用だっけか。今グーグルIMEは稼業変革活用と出して来た。
やるじゃん、機械的ポエジー。


cohkohchan at 11:36|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr ニョッキ 

2017年09月29日

KKO問題について

KKOという言葉を少し前に聞いた。
「キモくて、カネのない、オッサン」を指す言葉らしい。
KKO問題とは、この「どうしようもない」オッサンが社会問題になるんじゃないのかって話だ。

友人のブログにも書いてあったけど、気づいたら僕らはオッサンだ。

「認めたくないものだな、若さゆえの過ちを」と三倍速の彗星は言ってたきがするけれど、ぼくもそろそろオッサンゆえの過ちを認めていかなければならないのだろう。

つい先ほども、学生がラブライブのカードを持っているところに出くわして、おうおうあれだろう、すわちゃんとかいう声優が出てるやつだろう、という聞きかじりの知識を向けて近づこうとしたら、「いや、それはミューズでこっちはサンシャインなんで」という話をされてそれが何を意味するところなのかもわからず(きっとシリーズのことなんだろう)、お、おうごめんな、って気まずい沈黙を流したところだった。

認めたくないものだな、オッサンゆえの過ちを。

ぼくは給与所得者と既婚者に同タイミングでなったので、サラリーマン以降配偶者であり信託銀行であるところのマイワイフにお金をお納めし、そこから配当額を得て毎日を過ごしている。
(つまりお小遣い生活というやつだ。)
なので、生まれてこのかた、10万円以上のお金を自由に運用したことはない。

その意味で言えば、僕も「カネのない」男なのだ。
キモいはいうにあらず。男女比で女の多い今の勤務先においては、JDたちがいつもあいつキモいよなあ、と言っているに違いないと内心を痛めている。

つまり、僕だってKKOなのだ。
もちろん、「お前は真のKKOを知らない。既婚者なだけで、正規職員なだけでダメだ」
という異議申立てもあろうと思う。
仮にぼく自身が「真の」KKOを見えづらくしてしまうのであれば、それは自覚的でなければならない。
権利に関する表明は、多くの場合本人の属性を透明にして語ることはできない。

でも、そのあたりの危険性を抱えながらもぼくは、自分を、KKOではなく「キモくなくてカネのあるオッサン」や「キモくてカネのあるオッサン」の立ち位置には居たくないなと思ってしまう。

KKOとして世を恨むのでもなく、KKOとして安住するのでもない、そんなKKOのway of lifeは可能なのだろうか。
今、way of lifeと打ってみてウェイ系と呼ばれるワカモノたちを想起する。
ウェイ系は、KKOにはならなそうだ。
この辺りにもしかしたらヒントがあるのかもしれない。

そんなどうでもよくそしてまとまらない文章を(だからこそ)論文の〆切日に書いている。


cohkohchan at 11:24|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

2017年09月13日

僕らは、毎日負け戦を勝ち抜いている

昨日、ブログのサブタイトルを変えた。
きっかけは、既婚男性の盟友「ムームー」とのやりとりの中だ。

30歳までのぼくは、おおよそ努力と成果が相関する世界に生きていたように思う。
頑張れば頑張るだけ、承認や金銭が手に入る。たとえワーカホリックと言われても、れで給料や地位に反映される世界は清々しい。

「オレは仕事にステータス全振りしてるんで」という仕事の先輩で人生の後輩であるニシさんの言葉がリフレインする。
ステータスの全振り。素敵な言葉だ。
100mで10秒を切るみたいな清々しさ。
一方で、今の自分は、世のよしなしごとに細々とステータスを刻んで、その一つずつに一期一憂している。
あちらを立てればこちらが立たぬ。そんな日々は負け戦の毎日だ。

一方で、毎日負けていても、なんだかんだで生きている。首はつながっているし、言ってしまえば頑張らなくたって一定の給料は入ってくる。

男で、正規雇用で、既婚で、子持ち。
そんな属性で「勝ち組」と言われる時代にすらなった。
かなしいけれどこれが戦争なのよね、と1stガンダムでスレッガー中尉は言った。
ぼくたちは日常という戦場の兵士だ。たとえいくら負け続けていたって、生きてさえいれば次がある。
河島英五が「生きてりゃいいさ」とうたったように、男道は続いていることに意味がある。

ぼくは、これからも負け続ける。
でもそれは、必敗を意味しない。あるいは、「試合に負けて勝負に勝つ」的な、意味をずらしていくこともあるだろう。
そんな抵抗を繰り返して、ぼくは負け戦を勝ち抜いていく。
それがどこに向かうかはわからない。その運動そのものに可能性を見出して、ぼくはこれからと生きていこうと思う。

汎骨SE時代の敗北はつくばエクスプレス。
歯牙ない今の敗北はサンダーバード。
下り路線には敗北の味が付きまとう。
この苦さを奥の歯で噛み締めながら、ぼくは隣県主張を日帰りで切り上げてムスメの風呂のために帰るのだ。

cohkohchan at 20:05|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr エッ・・・セイ! 

2017年09月12日

花に嵐の喩えもあるさ さよならだけが人生だ

ここ数年、変わらずにあったブログタイトルの下のサブスティテュート。
もちろん出典は著名な小説家のあれだ。

何をもってこのテキストにしたのか、今となってはその温度を確認する術がない。
ただ時に思い出すのは、「さよなら」という言葉に根づく可能態のようなものに、強烈に惹かれてしまう自分の中の心性だ。

ぼくは文化人類学を専攻している。
しかし、文化人類学的であるとはどんな状態を指すのか、今もよくわかっていない。
「これだ」と思うことがあっても、それはするりと指の間を抜け落ちてしまう。

中学生の頃、野球部の練習中にバッティングに開眼したことがある。
どんな球が来ても打てた瞬間があったのだが、翌日には綺麗さっぱり打てなくなっていた。
そしてぼくは、中三の最後まで補欠だった。

書いている間になんだかよくわからなくなった。
「さよなら」と聞いて思い出すのは「日曜日よりの使者」だ。
ぼくの音楽体験は30の頃で止まっている。
もしかしたら、死んでいないつもりでもう死んでいたのかもしれないな。



cohkohchan at 13:39|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

2017年08月23日

ムトゥの気持ちがわかった

こないだ「お湯をかけてはしゃぐ祭り」に行ってきたんですよ。
お祭りのクライマックスは何十トンもの水を蓄えた水槽から、参加者がバケツやら水鉄砲やらでお湯を掬ってかけるだけのお祭り。
櫓の上からかかるミュージックは90年代メイン。
ジュディマリの「ハローオレンジサンシャイン」。

老若男女、みんなお湯まみれ。
JDもJKも、巨乳も貧乳も、美人もブスも、みんな水びたし。

水も滴(したた)るいい女、ならぬ、水が滴るいい女。
みんな滴っちゃえばいいんだと思うよ。

というわけで、ぼくの中で「萌える」の次に来た褒め言葉は「滴る」に決まりました。
萌えるは内在的、滴るは外在的か。

内在的なら、迸(ほとばし)る、って言葉もあるね。
でもそんな激情じゃないんだ。
静かなんだ。

静かな湖畔の森の陰から
起きてはいかがとカッコウが鳴く

滴る水はカッコウの如し。
起こされたぼくのナニカはなんだろうか。

ハイデッガーは存在とはドーナツの穴のようだと言っていた気がする。
ドーナツがなければ穴は存在しない。
それ自体では存在しない、存在する何か。

さ、オレンジをかじって旅にでも出ようか。


cohkohchan at 10:48|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

2017年07月17日

人間犬

こないだ人間ドッグに行ってきた。
対象年齢は35歳以上。
おっさんの登竜門とも言えるのが人間ドッグだ。
あるいはこう言い換えてよければ、男児の大人へのイニシエーションがセクロスにあるのだとすれば、人間ドッグの経験はまたひとつ大人のイニシエーションとも言える。

そんなこんなで人間ドッグ童貞のぼくは行ってきた。
健診センターというやつは、女の花園だ。
受付、保健師、栄養士、みんな女。例外は医師だけ。

「あら、ぼく、初めてなの?お姉さんが教えて、あ、げ、る」

なんてことにはならない。
AVのお姉さんがお姉さんでなくなってしばらくの時が過ぎた。
基本的に年少であろう女性の皆さんは、割れ物のようにぼくを含めておっさんたちを扱う。
ただ、丁寧な過度になり過ぎて、
「尿を取らせていただく」
と言う若干誤用に近い敬語表現が、少しだけぼくの何かを盛り上がらせた。

検診は初めてのことばかりだった。
サイダーを飲んで血を取られるのはともかく、腹部エコーについて、「ローションのようなものを腹部に塗りたくった後に電マのようなものをグリグリ押し付けられた」と表現するあたりにぼくの想像力がどういう環境で構成されてきたかがわかって哀しい。

それでも、電マのようなものを押しつける人が男性だからいい。
逆なら痛さを紛らわすために別の想像をしてしまうのかもしれない。

そしてやってきた泌尿器科。
ドアを開けると、そこにいたのは女医だった。

「女医という語は、性別という有徴性を有しているのだよ」

前の週の記号論の講義で、ぼくはそんな説明を学生にしたことを思い出す。
武井咲に似た女子は、丁寧に名乗りを上げ、ぼくを診察台に促す。

ズボンを下げて触診。そして、

「それじゃ、膝を抱えるようにしてお尻を上げてください」

との発声。
ぼくは正直混乱していたが、ここで躊躇うことは女医に失礼にあたる。
ぼくは考えがまとまらないまま、自分の膝を抱えた。

つぷ。

ローティーン以来にエロ擬音語としてマイディクショナリに登録された単語が頭に浮かんだ。

「この辺り、痛くはありませんか?」

「あ…はい」

「少し張っているような気がします。排尿xxにxxxはxxせんか?」

「あ…はい」

後半、女医は何かをぼくに質問した気がする。
だがぼくの脳は「あ…はい」を出力するのが精一杯であった。
そんなぼくを見越したように、女医は、

「何かあればウチの泌尿器科にきてくださいね」

と優しい声でぼくに告げた。
ぼくは彼女の顔を見ることができなかった。

たしか大学4年生の夏休みだったか。
ゴミ捨て場で拾ったスーパーファミコンとバハムートラグーン。
その中でヒロインが言った、

「大人になるってかなしいことなの」

という言葉が十余年の時を経て36歳の胸に去来する。
おっさんとは哀しみを携えて撤退戦を生きる存在だ。

ぼくは、違和感の残るお尻をさすりながらそんなことを思う。
外は33度炎天下。
また夏が来る。


cohkohchan at 10:04|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr エッ・・・セイ! 

2017年07月04日

逆・精神と時の部屋

「精神と時の部屋」というものがある。
ぼくらの世代には広く膾炙している場所だ。

seisintotokinoheya

c︎鳥山明

博士論文が間に合いそうにない時、バージョンアップの納期が差し迫っている時、ただただ逃避したい時、ぼくらはしばしば「精神と時の部屋があったらなあ(だが、ない)」と言ってみる。
まるで、時間させあれば、今の問題が解決するかのように。

さて、ぼくにはもうすぐ3歳になろうかというムスメがいる。
ぼくが故郷喪失者(ディアスポラ)的なライフを満喫しているために、ムスメの面倒はツッマかぼくが看るしかない。
20代の自由は、この30代の時間を掛け金にしていたのか、と思うくらい、今の生活はかつてのそれと掛け離れている。

そんな中、今度の出張はどうしても家の都合が合わず、ムスメを連れての仕事となることが決まった。
わたしは、出張の時の仕事を移動時の乗り物の中で作成するくらいギリギリchopな仕事の仕方をしているダメリーマンである。

今回は移動距離が長い。ざっと1日くらいある。
その中で仕事をしようと思っていたが娘と一緒となるとそうはゆかない。
てことは、一日前倒しで仕事を進めなければならないのだ。
もちろん、帰る時間は一緒の状態で。

さて精神と時の部屋の話に戻ろう。
幼い頃のぼくは、時間さえたんまりとあれば仕事が終わる、あるいは「成長」できると考えていた。
しかしこの歳になって思うのは、こと「成長」に関しては逆である。
時間がなければないほど、どうやってその時間内にミッションを終えられるか考えて行動することにより「成長」は達成される。

有り余る時間の中で、人は「成長」できないのだ。
いや少なくとも、ぼくは。

子育てをしながら仕事をしていくこと。
ワークライフバランスなんて言葉があるが、ワークはライフの一つである。
ぼくにとってワークを減らすことは、ライフそのものを縮小させることに等しい。

「子供を持つと成長できる」なんて言葉を先輩リーマンがぼくに言ったことがあった。
その言葉の意味は、もしかしたらこういうことなのかもしれない。
子育て期間とは、逆・精神と時の部屋、なんだと。

そんなことをぼやぼや考えていると、ベルクソンなんかが読みたくなってきた。
精神と時の部屋があれば、哲学書も読み耽りたいなあ。



cohkohchan at 10:28|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

2017年06月25日

落涙のアンパンマンのマーチ

『ゲンロン0』を読んだ。




この本では「誤配」がキーワードになっている。
このブログで学術的な検討をする気は無いけれど、言うなれば「受け取るつもりがないものを受け取ってしまう」ことだと思う。

ところでぼくは今日、住宅展示フェアに来ている。
床の材質はどうだ、とかエコな壁紙が、とか関連企業がしのぎを削っている。

もちろんそんな場所だからキッズも多い。
2時間おきにはとってつけたようなステージで楽器が演奏されたりする。

昨日、ふと思い出したことがある。
ガールフレンドへの1000円のプレゼントにすら困窮していた大学院生時代。
いまはまあ平均値くらいの給料をもらった妻帯者だ。
裕福とは言えないけど、殊更に困ることはない。
明後日のご飯の心配くらいはしなくて済むくらいは好きなものを食べて、思いついた本を買うくらいはできるものだ。

ぼくは平凡を享受している。

「オレは、幸せだ」

『ソラニン』の種田みたいなことを呟いてみたりする。
そう、ぼくは幸せなんだ。

なにがきみのしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないまま終わる
そんなのはいやだ

とってつけたようなステージから不意に聞こえるミュージック。

いまを生きることで
あついこころもえる
だからぼくは行くんだ
ほほえんで

そうか、アンパンマンは自分のために生きてない。
ぼくの幸せなんかどうでもいい、なにがきみのしあわせかを問うこと、それが実存なんだ。
(アンパンマンはアンガジュマンだ、なんて言葉もあったりする)

ときは早くすぎる
光る星はきえる
だからきみは行くんだ
ほほえんで

世界は誤配に開かれている。
ぼくのために奏でられていないソングからぼくはまた生きる意味を受け取る。

愛と勇気だけが、36歳の落涙の意味を理解してくれているのだ。



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2017年06月02日

「内破」するということ

ぼくは、このブログでも長らく「私大文系」を批判し、なんなら否定して来た。
(試しに「私大文系」でブログ検索してみた。結果はこんなんだった。)

「私大文系」は「敵」だ。
それは空気みたいにぼくの横にいて、ぼくを苦しめる。
そんなような主張を繰り返して来たように思える。

そんなぼくは今、いろんな偶然が重なって私立大学の文系で仕事をしている。
当たり前だが、「私大文系」の人間が多く集うところだ。
もちろん。青なんとか、とか、立なんとか、とかではない大学だし、大学は人口数万人の地方にある大学だ。
…とか言い訳をしてみても「私大文系」だ。

ぼくは今、「私大文系」の支配するセカイに、いる

それぞれの環境には特有の「ノリ」がある。
(この言葉遣いは、千葉雅也の『勉強の哲学』から引いたものだ。)
今いる場所で思うのは、とにかくこのセカイでは「ノリ」が重視される。
「ノリ」に異議を唱えてはいけない。
それは半ば反射とも言えるくらいの瞬発力で応答しなければならないようにすら感じる。

このセカイでは「異議あり」が成立しない

極端な話だけと、そんな風に感じることがある。
そんな中でぼくは「立ち止まって考えよう」という話をよくする。
それは「ノリが悪くなる」ことを意味する。

ウダウダ考えるより、行動しようぜ。
そんなことを言いたげな空気に向かって、ウダウダ考えようぜという話をする。
(でもそうした気持ちの徹底できなさがぼくの臆病さを物語っている。)

とあるセカイに属しながら、そこを否定することなくそのセカイを食い破る。
そんなことをできないものかと考えてみたりする。

そんな態度と具体的な行動を、さしあたり「内破」と読んでみたい。
「内破」という言葉は、確か大学院生の時に読んだ論文にあったような気がするが思い出せない。
ギアツの「インボリューション(内旋)」の流れだったかな。いや違う気もする。

学術的に裏付けられた言葉であるかどうか、自信はないけれども、否定ではなく改変みたいな生き方を模索してみたい。
絶望的にしかみえない局面で、細々とした可能性の糸口を見つけ出すような、そんな仕事をしていきたい。

そんな(自分的には)格好つけた言葉遣いをしながら思い出すのは、SE時代の敗北の味だ。
あの時も「内破」なんて言葉を使ってなかったけれど、同じような可能性を追求していた気がする。

しかし現実はリアルだった。

「anthrockさんはいつでも言葉だけは立派すよね〜。逆に尊敬しますわ」

そんなセリフが、幽霊の正体見たり枯れ尾花的な想像力で持って、ニシさんで再生される。

「負けたことがある」というのがいつか大きな財産になる。
常敗のぼくにも、それは当てはまるだろうか。
わかっているのは、ぼくはもう少し戦い続けなければならないということだ。


cohkohchan at 16:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr エッ・・・セイ! 

2017年05月23日

「研究」を仕事にするということ2、あるいは業界研究について

この記事の続きの記事。

前回、大学教員という仕事は常勤と非常勤という区分と、更に常勤には有期と無期があるという話をした。
より正確には、有期の中には「テニュアトラック」なるものがあるのだが、まあこちらも期が向いたら描いてみようと思う。

ぼくは博士号を取った後、現実の様々な要因から会社員になり、その後再び高等教育業界への「転職」を考えた人間である。
その際に、上記の区分までは知っていたし、確か博士も後期になって拗らせてから、「大学教員とはどんな仕事か」みたいなエクストラ講義を聞いて知っていたのだと思う。

そこまでは承知で、ぼくは前の赴任先で「常勤・有期」を込みで就職した。
なお有期は1年更新で、着任時点で2回の更新しかない、つまり最長3年間というものだ。

3年というのは何かを為すには短い。
そう言い訳するのは簡単だが、それを承知で請けたのだからそこに文句は言わない。
とにかく、与えられた期間で「成果」を出して、次の就職への糧にするんだ。
当時のぼくはそんなことを考えていたと思う。

※括弧した「成果」については、また改めて論じようと思う。

着任して初めての打合せ。
新しいBOSSはぼくに向かってこんな趣旨のことを言った。

「この職は研究エフォートはないけど、まあなんとか時間を見つけてがんばってね」

ん?
研究エフォート?
ていうか、エフォートってなんだ?

エフォートはeffort。
努力のことである。
研究努力?努力目標、というのはなんだか中等教育まで聞いた気がする。
ちなみにSE時代には努力目標なんてものはなかった。
「やるかやらないか。その中間なんてないでしょ。死ぬの?」
なぜかニシさんの声で再生される。ニシさんはぼくの人格を慮って決してそんなことは言ってなかったと思うが、あれから3年の月日はニシさんを「恐キャラ」に変換してしまっている。
ニシさん、ごめん。

ちなみに、ぼくが困った時に頼るのはサイトウ先輩だ。
サイトウ先輩は、ぼくの一個上の大学院の人で、だいたいぼくがぶつかった問題に一歩早くぶつかっていて、ぼくの悩みをだいたい解決してくれる。

「サイトウさん、エフォートってなんすか?」

「オマエさ、そんなことも知らないで研究者なろうと思ったの。死ぬの?」

死ぬの?はサイトウ先輩の用語だった。ニシさん、重ねてごめん。
サイトウ先輩は続ける。

「エフォートってのはさ、自分の持ち時間をどの業務にどれだけ割けるのかを示す概念のこと。エフォートの合計が100%を超えては原則いけない。なぜなら研究者のリソースには限界があるから。だから、研究費の申請とか、そういう場面ではエフォート記入する欄があるだろ?」

「研究費、申請したことないっす」

「オマエ、なんで生きてんの?」

なんで生きてんの?もサイトウ先輩の口癖である。
ぼくはそれに対してヘラヘラ笑うだけだ。

「つまり、研究エフォートがない、ってことはオマエには仕事として研究する資格がないってこと。教育と大学運営業務だけが仕事ってことだね。応募要項見なかったの?」

「応募要項にエフォートなんて書いてなかったですよ」

「あーよくあるよね。そういうの書いちゃうと応募者減るからってやつ。御愁傷様」


なんてこった。
憧れの大学教員になったのに、研究できないなんて。


…と、こんな感じで有期雇用時代を時たま振り返っていこうと思う。


cohkohchan at 09:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr エッ・・・セイ!