2018年02月14日

バレンタインデー

義理チョコやめましょう、とどこかのチョコメーカーが主張したのが今年か。昨年は、ぼく以外全員女子の職場にいたが、チョコレートはもらえなかった。すでに義理チョコは廃止されていたらしい。

性別に付随する義務ごとは可能な限り無くなってほしいと思うが、義理チョコだけはとっといてくれというのも無理筋な話だ。義理という曖昧な領域の趣きと自発と見せかけた強制の醜悪さを天秤にかけたら重たい方に傾くに決まってるじゃないか。

そんな36歳のバレンタインデーは、諸々の事情により職場に人はない。頼みの綱の妻と娘(これぞ義理の本命である)もこの1週間は家を出てないので望み薄だろう。それが男の評価というわけでもないが、0というのはやはり悔しい。
(そういえば、かつてメールで恋心を仄めかしあっていた女子がいた。彼女はわざわざ「今年は誰にもあげなかったんだー。近くにいたら渡したかったな」というメールをぼくに送ってきたのだった。すばらしい。そしてその後ぼくは対面したところでレヴィナスの倫理論を語って「思っていたのと違う」という評価をいただいたのだった。ビターとは違う苦い過去だ。)

そんな折、ちょっと奮発しようとはいったランチの回転寿司屋でみかけたのがこれ。

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専門店で自分のために、でもちょっとバレンタインデーライクなものを食べたいオッサンのためにマーケティングされたであろうそれは、ぼくにワンコインの決断をさせるには十分だった。むかし、「いい?女の子を口説く時は言い訳を用意してあげるのよ」とぼくに教えてくれた先輩がいた気がするが、オッサンにだって言い訳が必要な時があるのだ。いや、オッサンこそ、言い訳を常に求めている生き物なのかもしれない。

味なんてどうでもいい。大切なのは、この「スイーツ」が、厨房でガッキー似のJKによって丁寧につくられたんだと思い込む脳のシナプスさえつながっていればいい。それでぼくはまた午後からもがんばれる。がんばれるんだ。

書いていて思ったが、「かわいいJK」でいまだにガッキーを想像するあたりに、加齢を感じるね。

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2018年01月24日

淫夢も歳をとる

まあ、もうタイトルだけだよね。
アラフォーになってもいやらしい夢を見るときは見るわけなんですけど、なんというか、「漫画サンデー(マンサン、少年サンデーじゃない方)」的な感じ。性欲ってよりも情欲的な。情欲ってすごい言葉だね。欲に情が絡む。ここまでくると、肉体的じゃなくて精神的なところに重きを置いている感じなのかな。

何だろうね、この感じは。

あいにくと官能小説を読む教養は持っていないのでこうした言葉遣いの細やかな機微を知らないけれど、ぼくはぼく自身が理解しているよりもはるかに加齢している気がする。
それは嫌なこと、避けたいことというよりは、どう付き合っていいかわからない、ってことに尽きるのかな。尽きないのかな。

精神と時の部屋みたいに真っ白な雪景色のなかで、なんてことを考えているんだろう。


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2018年01月17日

距離

ゼミ生との新年会があった。
なんというかこう、距離を感じた。

彼らが特別邪悪なわけじゃない。いいやつらなんだ。
でもそこには深くて暗い河が流れてる。

おっさんになると悲しいのは、こういう河がいつのまにかぼくのまわりを走っている事実に気づかされることだ。
そしてそれは、かつてのぼくが憎んだあの「訳知り顔の30代のおっさん」そのインスタンスである。

「周囲は醜い、自己も醜い。でもそれを目の当たりにして生きるのは苦しい。」

帝国以後の世界で、ぼくはぼくの生きる世界について再定義を迫られている。

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2017年12月25日

和解というより消失なクリスマス

久しぶりにこのカテゴリだ。

世の中(というかtwitter)は、「童貞」をめぐる論議で今日も焼けている。
童貞は良い意味で使ってる、とか言ってる女史もいれば、童貞は淘汰の対象、とか言い出す恋愛・経済強者も出てくる始末だ。

悲しいね。

そんなぼくも清々しいくらい童貞だった。
(精神的には今も童貞なのだが、これを言うとまた面倒っぽいのでポスト童貞とする。ちなみに非童貞ではない。ポストは便利な言葉なんだ。)
この頃はクリスマスというイベントを頑なに憎み、X-dayにはカスミで買った骨つきチキンを手に持っては上半身ネイキッドでいちゃついているであろうサークルの友人宅を襲撃したりしたものである。
あと独りで過ごしているであろう友人宅にはエロ本を差し入れに言ったりした。
それはペンギンクラブだったか、Be-jean(ビジーン、スペル合ってるか)だったかは忘れた。
あの頃は、まだエロ本が今よりも意味を持つ時代だったのだ。

とにかく童貞のぼくは、世間と同じことをするのがたまらなく嫌だったのだ。
しかし忘れてはならないのは、あえて童貞だったわけではない。
普通に童貞だったのだ。

「童貞も守れない男に、何が守れるというのか」

名もなき偉人はそんなことを言っていた気がするが、守ろうとして守っているものと、何気なくそこにあるものは、意志と遺址くらい同じようで異なる。

それから時は経ち、ぼくはあの頃心底憎んでいたおっさんになった。
妻もいるし娘もいる。
半裸で手に持っていた骨付きチキンは、自家製のローストチキンに替わった。

変わったんじゃない、替わったんだ。

そんな微細なニュアンスにすがるしかないほど、ぼくの生活は激変している。
変わっていないのは、月に自由に使えるお小遣いくらいのもんだ。

良いか悪いかはわからないけれど、ポスト童貞のぼくは、恋愛という競争社会から降りることを選択した。
ジル・スチュアートのリングも、バーニーなんとかのバッグも、あるいはポール・スミスの財布もスカーゲンの時計も必要なくなった。
そしてここに並べたカタカナたちが学生にとってのブランド名ばかりで笑えるね。
ぼくは、ブランドによって格付けされる消費社会のこれより上を知らないんだ。

その替わり ーでもないかもしれないけれどー ぼくは、びっくりするほど穏やかなクリスマスを手に入れた。
自らも焼く業火を動力にした所業も、劣等感から生成される誇示的消費ももう必要ない。
ぼくはつまらなくなったと同時に、一つの幸せに抱きしめられている。

「いるみねーしょん、たのしいね」

港のある街のLED電飾を見て、ムスメがはしゃいでいる。
illuminateは「灯をともす」とか「解明する」とか「啓蒙する」とかいう意味があるらしい。
もう少しブザマに生きていかないとなあ。



cohkohchan at 10:57|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr 和解 

2017年12月05日

ウルトラハッピーと分有

これから書くのは、学術的な何かに基づいたものではない。
(これまでもそうではないが。念のため。何の何に対する?)

「スマイルプリキュア」の美しさについては前の記事でも述べた。
(これを昨今は「尊い」というのかもしれないが、あいにく僕にその語用に関する知識はない。)
その中で触れきれなかったことについて追記しておく。
(しかし今更何年も前のアニメについて語るのは気がひける。これはなぜか?)

スマイルプリキュアの第31話では、はじめにクッキーをみんなで分ける、という場面が出てくる。
(妖精の名前はキャンディだが、ここではクッキーだ。そりゃそうか。)
「一人で食べるよりみんなで食べたほうがウルトラハッピーだよね」

というのが主人公。
そしてこの後、妖精キャンディは「なまけだま」の世界に閉じ込められる。
「なまけだま」の世界にごちそうは溢れている。お菓子のお家にジュースの川、そこでキャンディは「分けっこして食べよう」というが住人は「いくらでもあるんだから分ける必要はない」といって断る。
この「分けっこ」をめぐるやり取りが結果的に妖精を「現実」に引き戻すトリガーになるという話の流れだ。

僕は幼児アニメに思わず感心してしまった。
これはよくできている。
なぜならこれこそが、「なまけだま」の世界になくて「現実」にあるものだからだ。

人はしばしば無益と思われるやり取りをする。
それがどんな意味があるかというと、そこに交通=コミュニケーションが生まれることだ。
わざわざしなくてもいいことをすることで生まれるもの。
そして「分けっこ」は、自分の取り分を減らして相手に与えることを指す。

昨今、「シェア」という考えが盛んだ。
ソーシャルにネットワーキングな世界では、喜びを、怒りを、あるいは価値観をシェアし合う。
それは、「一つのものを分かち合う」という「分けっこ」の概念とは似て非なるものだ。
シェアは取り分が変わらずに増幅していくイメージだが、分有は己の取り分を減らして総量としてのハッピーを高める行為である?
シェアの本質は自分にあって、分有はそうではない?
答えの出ない疑問が、ぼくに考えるすきまを用意してくれる。

妖精が「分けっこ」の経験を思い出して世界の異常さに気づくというのは、ぼくにとってとても示唆的だ。
辛く難しい世界において必要なのは、シェアではなく分有なのではないか。
そんなことをふと思うと、大学院の時に読むのを諦めた、ジャン=リュック・ナンシーの本を改めて読もうという気になってくる。

そんな、そんなアニメの後である。

cohkohchan at 14:07|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr エッ・・・セイ! 

2017年12月03日

ウルトラハッピー

相変わらず日々に追い立てられて駄文を連ねる余裕がない。
父と夫とATMの鼎立は、なかなかに困難な道である。

さてムスメは、絶賛プリキュアである。
しかも毎週1回の放映では飽き足らず、毎週レンタルショップに行っては過去作を借りてみているのだ。
劇場版やら「魔法使い」やら「プリンセス」やら、とにかく無差別である。
その中でキラリと光る話がある。「スマイルプリキュア」である。

vol.11だから31話と32話だろうか。
終盤のたたかい。
「なまけだま」という辛いことも悲しいこともない世界」で現実を忘れて過ごす妖精とプリキュアたち。
学校も宿題も部活もない。いやなことは何一つない。毎日、遊び放題、好きなもの食べ放題。
それが「なまけだま」の中の世界だ。

だがそこで、彼女らは気づいてしまう。元の世界に戻らなければいけないことに。しかし、「なまけだま」の世界の住人はこう言って彼女らを引き止める。

「ここにいれば、辛い思いなんてしなくていいのに」
「楽な方が楽しいよ」

住人たちのこの言葉を聞いて、36歳のオッサンは不覚にも泣いてしまった。
そうだ、辛いことが何もない世界は楽なのだ。

ソーシャルネットワーキングで流れる、毎週のようにどこかに出かけ、夜中まで研究や仕事や飲み会や自分磨きに没頭する人たちのアーティクル。

正直、死ぬほど羨ましい。
悪役(ジョーカー)はこう叫ぶ。

「なぜこの世界を拒むんです?」

そう、その世界を選んでないのはぼくなのだ。
ぼくは自ら「こっちの世界」を選んだ。
答えが見つからない、しんどくて、苦しいこの世界を。

「ハッピーのその向こう」にある「ウルトラハッピー」のためには、自分で考え、自分の足で進まなければならないのだ。

今抱えてる不自由さをいつも嘆いていたけれど、プリキュアがそれは違うと教えてくれる。
これは予感でしかないが、長年追い求めているサルトルの実存とは違う仕方の存在の何かを、ぼくは身をもってフィールドワークしているのかもしれない。

つづく。

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2017年10月02日

秋が来た

秋きぬと 目にさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる

この句を初めて見たのは中学生の頃。
テストで「秋きぬ」とはどういう状態か、という問題がでた。
ローティーンのぼくは、テストで点数をとる指導要領の下僕みたいな機械だったので、先生が教えてくれた「秋が来た」をそのまま書いて○をもらったんだ。

だけど、その頃仲良くしていたマカベくんは「秋が来ている」と書いて×だった。
ぼくはそれを当然と思ったけれど、マカベくんは「『秋が来て、そこに居る』という意味なんだ」と言って食い下がっていた。
その様子を見てぼくは、その表現の感じはすごくいいなと思ったのを覚えている。
だけどマカベくんの×は覆らず、もちろんぼくの○もそのままだった。

30代は色々な場所に秋が来た。
北関東、トーキョー、南九州、そして北陸。
けしてぼくの方に秋を迎える準備ができていたわけではなく、気づいたらそこに秋は居た。

秋は、久しぶりに会う親戚のおじさんみたいに、そんなにフレンドリーではない。
こっちに準備ができてないのにふらっと来て、
「おう、どうだ、ちゃんとやってっかい?」
なんて感じでぼくにつきまとう。
そして気づいたらどっかに去ってしまっている。

秋といい付き合いができないのは、幾つになっても変わらない。
ただ、昔みたいに体の三分の一が感傷に浸って動けなくなるようなことはなくなった。それなりに落ち込んで、それなりにこなしている。
そんなことを書いてみると、もしかしたら昔のぼくは、ふらっとやって来た秋おじさんと膝を突き合わせてずっとぐっと話をして居たのかもしれない。

ぼくは、ぼくの中にある歴史修正主義にもっと自覚的でいよう。

スティーブ・ジョブスはconnect the dotsと言っていた。
過去はいつも今から、あるいは未来から参照され意味づけられる。
今が良いことで救われる過去もあるけれど、今が良いせいで忘れられる過去も大切にしたい。

秋が来た。
ハロウィンは来るな。
論文の着想は来てほしい。

けーこーく、くるくれこい

カ行変格活用だっけか。今グーグルIMEは稼業変革活用と出して来た。
やるじゃん、機械的ポエジー。


cohkohchan at 11:36|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr ニョッキ 

2017年09月29日

KKO問題について

KKOという言葉を少し前に聞いた。
「キモくて、カネのない、オッサン」を指す言葉らしい。
KKO問題とは、この「どうしようもない」オッサンが社会問題になるんじゃないのかって話だ。

友人のブログにも書いてあったけど、気づいたら僕らはオッサンだ。

「認めたくないものだな、若さゆえの過ちを」と三倍速の彗星は言ってたきがするけれど、ぼくもそろそろオッサンゆえの過ちを認めていかなければならないのだろう。

つい先ほども、学生がラブライブのカードを持っているところに出くわして、おうおうあれだろう、すわちゃんとかいう声優が出てるやつだろう、という聞きかじりの知識を向けて近づこうとしたら、「いや、それはミューズでこっちはサンシャインなんで」という話をされてそれが何を意味するところなのかもわからず(きっとシリーズのことなんだろう)、お、おうごめんな、って気まずい沈黙を流したところだった。

認めたくないものだな、オッサンゆえの過ちを。

ぼくは給与所得者と既婚者に同タイミングでなったので、サラリーマン以降配偶者であり信託銀行であるところのマイワイフにお金をお納めし、そこから配当額を得て毎日を過ごしている。
(つまりお小遣い生活というやつだ。)
なので、生まれてこのかた、10万円以上のお金を自由に運用したことはない。

その意味で言えば、僕も「カネのない」男なのだ。
キモいはいうにあらず。男女比で女の多い今の勤務先においては、JDたちがいつもあいつキモいよなあ、と言っているに違いないと内心を痛めている。

つまり、僕だってKKOなのだ。
もちろん、「お前は真のKKOを知らない。既婚者なだけで、正規職員なだけでダメだ」
という異議申立てもあろうと思う。
仮にぼく自身が「真の」KKOを見えづらくしてしまうのであれば、それは自覚的でなければならない。
権利に関する表明は、多くの場合本人の属性を透明にして語ることはできない。

でも、そのあたりの危険性を抱えながらもぼくは、自分を、KKOではなく「キモくなくてカネのあるオッサン」や「キモくてカネのあるオッサン」の立ち位置には居たくないなと思ってしまう。

KKOとして世を恨むのでもなく、KKOとして安住するのでもない、そんなKKOのway of lifeは可能なのだろうか。
今、way of lifeと打ってみてウェイ系と呼ばれるワカモノたちを想起する。
ウェイ系は、KKOにはならなそうだ。
この辺りにもしかしたらヒントがあるのかもしれない。

そんなどうでもよくそしてまとまらない文章を(だからこそ)論文の〆切日に書いている。


cohkohchan at 11:24|PermalinkComments(1)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

2017年09月13日

僕らは、毎日負け戦を勝ち抜いている

昨日、ブログのサブタイトルを変えた。
きっかけは、既婚男性の盟友「ムームー」とのやりとりの中だ。

30歳までのぼくは、おおよそ努力と成果が相関する世界に生きていたように思う。
頑張れば頑張るだけ、承認や金銭が手に入る。たとえワーカホリックと言われても、れで給料や地位に反映される世界は清々しい。

「オレは仕事にステータス全振りしてるんで」という仕事の先輩で人生の後輩であるニシさんの言葉がリフレインする。
ステータスの全振り。素敵な言葉だ。
100mで10秒を切るみたいな清々しさ。
一方で、今の自分は、世のよしなしごとに細々とステータスを刻んで、その一つずつに一期一憂している。
あちらを立てればこちらが立たぬ。そんな日々は負け戦の毎日だ。

一方で、毎日負けていても、なんだかんだで生きている。首はつながっているし、言ってしまえば頑張らなくたって一定の給料は入ってくる。

男で、正規雇用で、既婚で、子持ち。
そんな属性で「勝ち組」と言われる時代にすらなった。
かなしいけれどこれが戦争なのよね、と1stガンダムでスレッガー中尉は言った。
ぼくたちは日常という戦場の兵士だ。たとえいくら負け続けていたって、生きてさえいれば次がある。
河島英五が「生きてりゃいいさ」とうたったように、男道は続いていることに意味がある。

ぼくは、これからも負け続ける。
でもそれは、必敗を意味しない。あるいは、「試合に負けて勝負に勝つ」的な、意味をずらしていくこともあるだろう。
そんな抵抗を繰り返して、ぼくは負け戦を勝ち抜いていく。
それがどこに向かうかはわからない。その運動そのものに可能性を見出して、ぼくはこれからと生きていこうと思う。

汎骨SE時代の敗北はつくばエクスプレス。
歯牙ない今の敗北はサンダーバード。
下り路線には敗北の味が付きまとう。
この苦さを奥の歯で噛み締めながら、ぼくは隣県主張を日帰りで切り上げてムスメの風呂のために帰るのだ。

cohkohchan at 20:05|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr エッ・・・セイ! 

2017年09月12日

花に嵐の喩えもあるさ さよならだけが人生だ

ここ数年、変わらずにあったブログタイトルの下のサブスティテュート。
もちろん出典は著名な小説家のあれだ。

何をもってこのテキストにしたのか、今となってはその温度を確認する術がない。
ただ時に思い出すのは、「さよなら」という言葉に根づく可能態のようなものに、強烈に惹かれてしまう自分の中の心性だ。

ぼくは文化人類学を専攻している。
しかし、文化人類学的であるとはどんな状態を指すのか、今もよくわかっていない。
「これだ」と思うことがあっても、それはするりと指の間を抜け落ちてしまう。

中学生の頃、野球部の練習中にバッティングに開眼したことがある。
どんな球が来ても打てた瞬間があったのだが、翌日には綺麗さっぱり打てなくなっていた。
そしてぼくは、中三の最後まで補欠だった。

書いている間になんだかよくわからなくなった。
「さよなら」と聞いて思い出すのは「日曜日よりの使者」だ。
ぼくの音楽体験は30の頃で止まっている。
もしかしたら、死んでいないつもりでもう死んでいたのかもしれないな。



cohkohchan at 13:39|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr