2017年07月17日

人間犬

こないだ人間ドッグに行ってきた。
対象年齢は35歳以上。
おっさんの登竜門とも言えるのが人間ドッグだ。
あるいはこう言い換えてよければ、男児の大人へのイニシエーションがセクロスにあるのだとすれば、人間ドッグの経験はまたひとつ大人のイニシエーションとも言える。

そんなこんなで人間ドッグ童貞のぼくは行ってきた。
健診センターというやつは、女の花園だ。
受付、保健師、栄養士、みんな女。例外は医師だけ。

「あら、ぼく、初めてなの?お姉さんが教えて、あ、げ、る」

なんてことにはならない。
AVのお姉さんがお姉さんでなくなってしばらくの時が過ぎた。
基本的に年少であろう女性の皆さんは、割れ物のようにぼくを含めておっさんたちを扱う。
ただ、丁寧な過度になり過ぎて、
「尿を取らせていただく」
と言う若干誤用に近い敬語表現が、少しだけぼくの何かを盛り上がらせた。

検診は初めてのことばかりだった。
サイダーを飲んで血を取られるのはともかく、腹部エコーについて、「ローションのようなものを腹部に塗りたくった後に電マのようなものをグリグリ押し付けられた」と表現するあたりにぼくの想像力がどういう環境で構成されてきたかがわかって哀しい。

それでも、電マのようなものを押しつける人が男性だからいい。
逆なら痛さを紛らわすために別の想像をしてしまうのかもしれない。

そしてやってきた泌尿器科。
ドアを開けると、そこにいたのは女医だった。

「女医という語は、性別という有徴性を有しているのだよ」

前の週の記号論の講義で、ぼくはそんな説明を学生にしたことを思い出す。
武井咲に似た女子は、丁寧に名乗りを上げ、ぼくを診察台に促す。

ズボンを下げて触診。そして、

「それじゃ、膝を抱えるようにしてお尻を上げてください」

との発声。
ぼくは正直混乱していたが、ここで躊躇うことは女医に失礼にあたる。
ぼくは考えがまとまらないまま、自分の膝を抱えた。

つぷ。

ローティーン以来にエロ擬音語としてマイディクショナリに登録された単語が頭に浮かんだ。

「この辺り、痛くはありませんか?」

「あ…はい」

「少し張っているような気がします。排尿xxにxxxはxxせんか?」

「あ…はい」

後半、女医は何かをぼくに質問した気がする。
だがぼくの脳は「あ…はい」を出力するのが精一杯であった。
そんなぼくを見越したように、女医は、

「何かあればウチの泌尿器科にきてくださいね」

と優しい声でぼくに告げた。
ぼくは彼女の顔を見ることができなかった。

たしか大学4年生の夏休みだったか。
ゴミ捨て場で拾ったスーパーファミコンとバハムートラグーン。
その中でヒロインが言った、

「大人になるってかなしいことなの」

という言葉が十余年の時を経て36歳の胸に去来する。
おっさんとは哀しみを携えて撤退戦を生きる存在だ。

ぼくは、違和感の残るお尻をさすりながらそんなことを思う。
外は33度炎天下。
また夏が来る。


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2017年07月04日

逆・精神と時の部屋

「精神と時の部屋」というものがある。
ぼくらの世代には広く膾炙している場所だ。

seisintotokinoheya

c︎鳥山明

博士論文が間に合いそうにない時、バージョンアップの納期が差し迫っている時、ただただ逃避したい時、ぼくらはしばしば「精神と時の部屋があったらなあ(だが、ない)」と言ってみる。
まるで、時間させあれば、今の問題が解決するかのように。

さて、ぼくにはもうすぐ3歳になろうかというムスメがいる。
ぼくが故郷喪失者(ディアスポラ)的なライフを満喫しているために、ムスメの面倒はツッマかぼくが看るしかない。
20代の自由は、この30代の時間を掛け金にしていたのか、と思うくらい、今の生活はかつてのそれと掛け離れている。

そんな中、今度の出張はどうしても家の都合が合わず、ムスメを連れての仕事となることが決まった。
わたしは、出張の時の仕事を移動時の乗り物の中で作成するくらいギリギリchopな仕事の仕方をしているダメリーマンである。

今回は移動距離が長い。ざっと1日くらいある。
その中で仕事をしようと思っていたが娘と一緒となるとそうはゆかない。
てことは、一日前倒しで仕事を進めなければならないのだ。
もちろん、帰る時間は一緒の状態で。

さて精神と時の部屋の話に戻ろう。
幼い頃のぼくは、時間さえたんまりとあれば仕事が終わる、あるいは「成長」できると考えていた。
しかしこの歳になって思うのは、こと「成長」に関しては逆である。
時間がなければないほど、どうやってその時間内にミッションを終えられるか考えて行動することにより「成長」は達成される。

有り余る時間の中で、人は「成長」できないのだ。
いや少なくとも、ぼくは。

子育てをしながら仕事をしていくこと。
ワークライフバランスなんて言葉があるが、ワークはライフの一つである。
ぼくにとってワークを減らすことは、ライフそのものを縮小させることに等しい。

「子供を持つと成長できる」なんて言葉を先輩リーマンがぼくに言ったことがあった。
その言葉の意味は、もしかしたらこういうことなのかもしれない。
子育て期間とは、逆・精神と時の部屋、なんだと。

そんなことをぼやぼや考えていると、ベルクソンなんかが読みたくなってきた。
精神と時の部屋があれば、哲学書も読み耽りたいなあ。



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2017年06月25日

落涙のアンパンマンのマーチ

『ゲンロン0』を読んだ。




この本では「誤配」がキーワードになっている。
このブログで学術的な検討をする気は無いけれど、言うなれば「受け取るつもりがないものを受け取ってしまう」ことだと思う。

ところでぼくは今日、住宅展示フェアに来ている。
床の材質はどうだ、とかエコな壁紙が、とか関連企業がしのぎを削っている。

もちろんそんな場所だからキッズも多い。
2時間おきにはとってつけたようなステージで楽器が演奏されたりする。

昨日、ふと思い出したことがある。
ガールフレンドへの1000円のプレゼントにすら困窮していた大学院生時代。
いまはまあ平均値くらいの給料をもらった妻帯者だ。
裕福とは言えないけど、殊更に困ることはない。
明後日のご飯の心配くらいはしなくて済むくらいは好きなものを食べて、思いついた本を買うくらいはできるものだ。

ぼくは平凡を享受している。

「オレは、幸せだ」

『ソラニン』の種田みたいなことを呟いてみたりする。
そう、ぼくは幸せなんだ。

なにがきみのしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないまま終わる
そんなのはいやだ

とってつけたようなステージから不意に聞こえるミュージック。

いまを生きることで
あついこころもえる
だからぼくは行くんだ
ほほえんで

そうか、アンパンマンは自分のために生きてない。
ぼくの幸せなんかどうでもいい、なにがきみのしあわせかを問うこと、それが実存なんだ。
(アンパンマンはアンガジュマンだ、なんて言葉もあったりする)

ときは早くすぎる
光る星はきえる
だからきみは行くんだ
ほほえんで

世界は誤配に開かれている。
ぼくのために奏でられていないソングからぼくはまた生きる意味を受け取る。

愛と勇気だけが、36歳の落涙の意味を理解してくれているのだ。



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2017年06月02日

「内破」するということ

ぼくは、このブログでも長らく「私大文系」を批判し、なんなら否定して来た。
(試しに「私大文系」でブログ検索してみた。結果はこんなんだった。)

「私大文系」は「敵」だ。
それは空気みたいにぼくの横にいて、ぼくを苦しめる。
そんなような主張を繰り返して来たように思える。

そんなぼくは今、いろんな偶然が重なって私立大学の文系で仕事をしている。
当たり前だが、「私大文系」の人間が多く集うところだ。
もちろん。青なんとか、とか、立なんとか、とかではない大学だし、大学は人口数万人の地方にある大学だ。
…とか言い訳をしてみても「私大文系」だ。

ぼくは今、「私大文系」の支配するセカイに、いる

それぞれの環境には特有の「ノリ」がある。
(この言葉遣いは、千葉雅也の『勉強の哲学』から引いたものだ。)
今いる場所で思うのは、とにかくこのセカイでは「ノリ」が重視される。
「ノリ」に異議を唱えてはいけない。
それは半ば反射とも言えるくらいの瞬発力で応答しなければならないようにすら感じる。

このセカイでは「異議あり」が成立しない

極端な話だけと、そんな風に感じることがある。
そんな中でぼくは「立ち止まって考えよう」という話をよくする。
それは「ノリが悪くなる」ことを意味する。

ウダウダ考えるより、行動しようぜ。
そんなことを言いたげな空気に向かって、ウダウダ考えようぜという話をする。
(でもそうした気持ちの徹底できなさがぼくの臆病さを物語っている。)

とあるセカイに属しながら、そこを否定することなくそのセカイを食い破る。
そんなことをできないものかと考えてみたりする。

そんな態度と具体的な行動を、さしあたり「内破」と読んでみたい。
「内破」という言葉は、確か大学院生の時に読んだ論文にあったような気がするが思い出せない。
ギアツの「インボリューション(内旋)」の流れだったかな。いや違う気もする。

学術的に裏付けられた言葉であるかどうか、自信はないけれども、否定ではなく改変みたいな生き方を模索してみたい。
絶望的にしかみえない局面で、細々とした可能性の糸口を見つけ出すような、そんな仕事をしていきたい。

そんな(自分的には)格好つけた言葉遣いをしながら思い出すのは、SE時代の敗北の味だ。
あの時も「内破」なんて言葉を使ってなかったけれど、同じような可能性を追求していた気がする。

しかし現実はリアルだった。

「anthrockさんはいつでも言葉だけは立派すよね〜。逆に尊敬しますわ」

そんなセリフが、幽霊の正体見たり枯れ尾花的な想像力で持って、ニシさんで再生される。

「負けたことがある」というのがいつか大きな財産になる。
常敗のぼくにも、それは当てはまるだろうか。
わかっているのは、ぼくはもう少し戦い続けなければならないということだ。


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2017年05月23日

「研究」を仕事にするということ2、あるいは業界研究について

この記事の続きの記事。

前回、大学教員という仕事は常勤と非常勤という区分と、更に常勤には有期と無期があるという話をした。
より正確には、有期の中には「テニュアトラック」なるものがあるのだが、まあこちらも期が向いたら描いてみようと思う。

ぼくは博士号を取った後、現実の様々な要因から会社員になり、その後再び高等教育業界への「転職」を考えた人間である。
その際に、上記の区分までは知っていたし、確か博士も後期になって拗らせてから、「大学教員とはどんな仕事か」みたいなエクストラ講義を聞いて知っていたのだと思う。

そこまでは承知で、ぼくは前の赴任先で「常勤・有期」を込みで就職した。
なお有期は1年更新で、着任時点で2回の更新しかない、つまり最長3年間というものだ。

3年というのは何かを為すには短い。
そう言い訳するのは簡単だが、それを承知で請けたのだからそこに文句は言わない。
とにかく、与えられた期間で「成果」を出して、次の就職への糧にするんだ。
当時のぼくはそんなことを考えていたと思う。

※括弧した「成果」については、また改めて論じようと思う。

着任して初めての打合せ。
新しいBOSSはぼくに向かってこんな趣旨のことを言った。

「この職は研究エフォートはないけど、まあなんとか時間を見つけてがんばってね」

ん?
研究エフォート?
ていうか、エフォートってなんだ?

エフォートはeffort。
努力のことである。
研究努力?努力目標、というのはなんだか中等教育まで聞いた気がする。
ちなみにSE時代には努力目標なんてものはなかった。
「やるかやらないか。その中間なんてないでしょ。死ぬの?」
なぜかニシさんの声で再生される。ニシさんはぼくの人格を慮って決してそんなことは言ってなかったと思うが、あれから3年の月日はニシさんを「恐キャラ」に変換してしまっている。
ニシさん、ごめん。

ちなみに、ぼくが困った時に頼るのはサイトウ先輩だ。
サイトウ先輩は、ぼくの一個上の大学院の人で、だいたいぼくがぶつかった問題に一歩早くぶつかっていて、ぼくの悩みをだいたい解決してくれる。

「サイトウさん、エフォートってなんすか?」

「オマエさ、そんなことも知らないで研究者なろうと思ったの。死ぬの?」

死ぬの?はサイトウ先輩の用語だった。ニシさん、重ねてごめん。
サイトウ先輩は続ける。

「エフォートってのはさ、自分の持ち時間をどの業務にどれだけ割けるのかを示す概念のこと。エフォートの合計が100%を超えては原則いけない。なぜなら研究者のリソースには限界があるから。だから、研究費の申請とか、そういう場面ではエフォート記入する欄があるだろ?」

「研究費、申請したことないっす」

「オマエ、なんで生きてんの?」

なんで生きてんの?もサイトウ先輩の口癖である。
ぼくはそれに対してヘラヘラ笑うだけだ。

「つまり、研究エフォートがない、ってことはオマエには仕事として研究する資格がないってこと。教育と大学運営業務だけが仕事ってことだね。応募要項見なかったの?」

「応募要項にエフォートなんて書いてなかったですよ」

「あーよくあるよね。そういうの書いちゃうと応募者減るからってやつ。御愁傷様」


なんてこった。
憧れの大学教員になったのに、研究できないなんて。


…と、こんな感じで有期雇用時代を時たま振り返っていこうと思う。


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2017年05月22日

「素パンク」であるということ

素パンクについて

記事を書く、と言いつつまた間が空いてしまった。
リズム感が重要である。
ぼくの生活には、まだリズムが、ない。

歯牙ないエンジニア時代の同僚とやりとりをしていて、思い出したことを書いてみる。
大学時代、ぼくは演劇サークルに所属していた。
演劇に入った1年生の時、4年生の先輩たちは所属するサークル(大学には4つのサークルがあった)をまたいで、「素パンク団(すぱんくだん)」という団体を設立していた。
その後、いついつかまでは忘れたけど、卒業してからも結構長いこと先輩たちはこの素パンク団をつづけてきた気がする。

その素パンク団の旗揚げ公演では、素パンクの定義として、主役の一人が、
「オレは素がパンクなので、学ランも校則通りにかっちり切る。見た目を奇抜にするのは素がパンクじゃないからだ」
みたいな主旨のセリフを言っていたことを覚えています。

※より正確にいうと、ぼくはこの公演を生では見ていなくて、もらった台本を読んだだけだ。

素がパンクなら、別に外見で表現しなくてもいいんだ、と。
19-20の頃のぼくは、この言葉にすごく衝撃を受けたのを覚えています。

ぼくは1年生の冬に、そんな先輩方と一緒に公演する機会があった。
講義後から22時くらいまで練習して、その後先輩の家に移動して夜中まで演劇や音楽や文学の談義をしていた。
その頃のぼくは、J-POPのヒットチャートとゆずと19が好きな「どうでもいい感じの」学生で、そんなぼくに先輩は、velvet undergroundとかあがた森魚とかを聞かせて「お前の知っている世界はこんなにも狭いよね」ということをまざまざと見せつけれくれました。

外見の従順さと裏腹の内心のパンク。
これは、その後のぼくを決定づける一つの「ベクトル」になっていたきがする。

でも、そんな大学時代のことを今ふと思い出すのは、いつしかぼくはオッサンになって外見の従順さに引きづられるようにして、内心のパンクさをどこかに置き忘れてしまっていないのか、ということだ。
30を超えてぼくは、結婚をし、リーマンスーツを着用し、ムスメの面倒を見ながら、正規の職で働いている。
「まとも」すぎるほどの属性をまとう中で、ぼくの内面はいつしか重みに妥協してしまっているようなきがするのだ。
いやもっときちんと言えば、僕らはいつもこの外圧の重みといい感じで妥協していかなければならない。
妥協即悪といえるほどピュアであるには、ぼくは年をとりすぎている。
大切なことはミスマッチである。

そして無理やり時事問題に引きつけるけど、巷で話題にされてる「共謀罪」というやつは、こうした「内心と外見の一致」を強要するようなものになりゃしないか、ということでもある。

ぼくたちは時たま、うらぶれたリーマンの形をした人の中に狂気をみる。
ぼくはその狂気の当事者でありたい。
なおかつ、家庭という社会システムを健康的に運営したい。
愛のままにわがままにぼくは君だけを傷つけたりはしないのだ。

cohkohchan at 11:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr エッ・・・セイ! 

2017年05月02日

「研究」を仕事にするということ

記事の題名を思いついた後、何を書くかを考えながら書いてみる。
(ブログの記事なんてそんなもんだという留保に甘えつつ。)
きっとググれば同じようなことを書いている人はいるだろうけど、まあこれも一つの「世界」と思えば、anthrockこと文化人類学徒の記事として意味はあるだろうと思って書いてみる。



4月から環境が変わって、大っぴらに研究ができるようになった。

そもそも、「高等教育」ギョーカイになじみのない人は、この一文がピンとこないかもしれない。
「大学のセンセイでしょ?じゃあ研究者じゃないの?」
は、ある種当然の認識だからだ。

まず、大学の雇用形態には大きく2つの区分がある。
「常勤」と「非常勤」だ。
これは文字の通りで、「勤務先の大学に大体いる」と「大学に行くのは講義のある時だけ」という区分である。
現行の事実をもとに有り体に言ってしまうと、非常勤は時間給のことが多いので、「アルバイト」に近い。
なお、非常勤はそれ以外に仕事をやっている人も他の大学で常勤の人もなることが可能だ。

上の区分の後に常勤はさらに2つに区分される。
それは「任期無」と「任期有」である。
雇用に任期(期限)があるかどうか、の違いだ。
任期は1~5年であることが多い。
もう一つ、任期有にも「テニュアトラック」なるジャンルがあるのだが、一旦話を進める。

「任期有」の区分は、大学の通常収入とは別の予算によって雇われることが多い。
たとえば文科省からの大型の補助金とかそういうものだが、こうしたものは大体プロジェクト形式なので時限がある。よって任期が有期、というわけだ。
ちょっと分けてみる。

┏━━━━━┳━━━━━┓
┃ 常 勤 ┃ 非常勤 ┃
┃無期 有期┃     ┃
┗━━━━━┻━━━━━┛

2017年になり、Webデザインもこれほど発達しまたコンシューマ化した現代で、「けいせん」と入力して上の表をタカタカ作成した自分を愚かしくも愛しく思う。
たぶん、こういう「無駄への愛しさ」が「手書き大事」みたいな価値観を生んでいるのだと思う。

そしてこんな票を作っていたら時間になってしまった。
本題に入る前に記事が終わる。
これもまたこのブログらしい。

というわけで、続きはまた次回。

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2017年04月28日

地方美人に関する一考察

ぼくは、ひょんなことから今北陸の某県で仕事をしている。
つい最近までは九州にいたのだというのに落ち着かない。

この「落ち着かなさ」を何か可能性に読み替えていけないだろうか、なんてことを最近東浩紀や千葉雅也の本を読みながら考えたりしている。
考えるのは楽しい。
可処分時間さえあれば。

この県に来て感じるのは、なんか「美人」が多いことだ。
だいたいの人が美人だと思う。
ぼくの所属する女子大生なんて、9割くらいそうなんじゃないかとさえ思う。

でも思い起こせば、ぼくは九州に赴任した時にもそう感じた気がするし、
あるいはトーキョーシティでサラリィマンをやっていた時にも「は〜トーキョーの女子はべっぴんさんやなあ」と思っていたような気がする。
(そういえば、前前職には「アドミン」という、ありていにいえば「顔採用だろ」としか思えないキラキラした女子たちの職種があったのだ。それに対する畏怖は今もぼくに根づいている。)

ということは、何か美人には「新鮮さ」、もっといえば「鮮度」みたいなものがあって、それがなくなってくると美人には見えなくなってくるのかな、とかそんなことを考えてみる。

そこまで考えて、世の中にはすでに「美人は3日で飽きる」という言葉があるのを思い出す。
こうして自分で考えた結果、世の中にすでに出回っている言葉に会うというのは珍しいことではない。
(この間も、「忖度」が流行った時に「スーザン・忖度」という人名ダジャレが思いついたが、すでに何人もツイートしていた。)

美人には鮮度がある。
ではこの言葉の続きである「ブスは3日で慣れる」はどうだろうか。
ぼくはここで、「ブス性と結婚の持続」というテーマを思いついた。
これを続けて書くかどうかは、わからない。
何しろぼくは今ブログのリハビリ中なのだ。


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2017年04月18日

復活、というか転移

塩漬け、という言葉がある。
その名のとおり塩に漬けて保存しておく技術だ。

このブログを更新しない期間、というのは何だったのか考えてみる。
目標としていた大学教員になったが、なんだかかみ合わぬ日々。
いや、そんなことは南九州で過ごしていた間に感じていたものではない。

少なくとも、歯牙ないリーマンだった時よりは、はるかに《社会》に必要とされ、はるかに《やりがい》を持って生きていたからだ。

では、なぜ、ぼくは学生の時分から続けていたブログをこんなにも放置していたのだろうか。
記事を読み返してみる。
塩に漬けていたわけではないのに、記事たちは無事に生き長らえ、(いくつかは賞味期限が切れているだろうが)、ぼくを刺すように見つめている。

anthropology & Rock'n roll

そう宣言したおまえはどこにいったのだ、と。
新橋の敗北者のおまえの方が、よっぽど《社会》を読み解こうとしていたのではないか、と。

もちろん、ぼくの側にも言い分はある。
ブログ、という古臭い文章作成の形式にも問題がある。

なんせ、承認欲求を満たすだけなら「それ」があるし、たんなるつぶやきならば「あれ」があるこの世の中だ。

そんな中で、何をここに書くべきか。

定まっていないままぼくはまたここに文を書き連ねようとしている。

ビジネス啓発本には、大前研一を引いてよくこう書いてある。

人が変わるには、3つの方法しかない。
場所を変える。
時間の使い方を変える。
付き合う人を変える。
一番最悪なのは意識を変えることだ

と。

ぼくは、「裏日本」と呼ばれるこの場所で何を考えられるのか。
もう一度考えていることにしたい。

cohkohchan at 11:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr ニョッキ 

2016年05月16日

マンモグラフィー

書きたい記事が下書きで積まれていく。
書かなければならない論文が、3kbくらいのWordファイルで増えてゆかない。

そんな、割れかかったiPhoneのヒビが増えていく日々であります。

気分転換に妻と市内のショッピングモールに行くと、1階の催事場では「全国看護の日」だかなんだかで、看護師さんたちがティッシュを配ったり風船製の県とかを配っていました。
そんななか、

「ちょっと、旦那さんも触っていってください」

という声で目を向けると、そこには乳房の模型が。

「乳がんは、触診で初期発見できるんです」

といいながら微笑む推定40代のナース。
ツッマは乳がん検診の説明を聞いてみる。

「いや、恥ずかしいんで、いいです」

とぼくは言いたかった。しかし、「医療的に正しいはずの行為をはずかしがるお前の心性がはずかしい」と言われたような気がして、ぼくはその提案を断れなかった。
いや、一回は通り過ぎたんだよね。

というわけで、両の手で造り物の乳房を触ってみる。
下から、持ち上げるように。
ふに、ふに、ふに。
うーむー。

「えっとー、しこりは乳房の上の方にあるんですよ〜。」

しまった!罠に嵌まった!

仕事を始めるときに「どうすればいいですか?」から始めないぼくの悪い癖だ。
前職の時も年下のリーダーに散々ぶっ殺された、あの苦い味が口内に甦る。

はからずも、己が性癖を露呈してしまったぼくは、

「パートナーの方が気づくこともあるんですよ〜」
「旦那さんも意識して触ってみてくださいね。フフ」

などというナース(推定40代)の言葉責めを受け続けるしか選択肢が残されていなかった。


いやわかってる。
毎回、わかってるんだ。いいトシ(35歳)したおっさんが、こんなことでシャイイングになってどうするんだって。
でも、ダメなんだよ。
ぼくの中で、かつて「エロ認定」された部位や語彙をLED照明で眩むような場所に引きずり出されるのはさ。

ていうか、「マンモグラフィー」という単語で、正直もう危ないんだから。

cohkohchan at 08:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr ニョッキ