2006年09月10日

花鳥風月の科学―日本のソフトウェア 松岡正剛 (後編)

花鳥風月の科学―日本のソフトウェア
松岡 正剛
淡交社 (1994/03)
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おすすめ度の平均: 4.5
5 日本文化に対しての切り口がかわる一冊
5 文化と科学の融合
4 イメージへの遡及

花が咲くの「咲く」はサキという言葉から出ている。
サキは「先」「崎」「柵」「裂く」「割く」「咲く」「坂」「酒」といろいろな言葉を作っている。
エネルギーがいっぱいになり、これ以上は先に進めない状態がサキ。

サキという日本語の概念は、インドのサンスクリット語の「スポータ」という言葉に似ている。
スポータもつぼみという意味で、エネルギーが充満している状態をあらわしている。
スポータから「スポーツ」という英語が派生する。
スポーツという言葉にはもともと「エネルギーが裂ける」というイメージがある。

サキの観念はムスビの観念に連結する。
咲くことによって実を結ぶ。
ムスビは「ムス・ヒ」のことで、ムスは「産す」という意味、何かを産出すること。
ヒは「霊」のことでスピリットのこと。
ムスビ(産霊)は霊力を生むものという意味になる。
京都の比叡山のヒエも、ヒの力がこもるところという意味を持っている。

ムスビから「結び」という言葉が生まれ、さらに「結ぶもの」あれこれ一般が重視される。
息子は「ムス・ヒコ(彦)」であり、娘は「ムス・ヒメ(姫)」。
その二人が一緒になることも結ばれるということであり、縁が結ばれることを結縁とか結婚といって、結び目を大事にした。

こうした形態共鳴をふくむ連鎖反応を呪術的観念共鳴といい、日本は「ムスビの観念共鳴」の国になっていった。

日本人は植物の「変化」というものを心に入れることに夢中になっていた。
花を「過ぎたるもの」といて過大に評価していた。
『華道全書』では「立花はもと天地自然の気をうつすものなり」
『池坊専応口伝』では「この道を翫(もてあそ)ぶ人、草木を見て、こころをのべ、春秋のあはれを思ひ、一旦の興を催すのみにあらず。飛花落葉の風のまへに、かかるさとりの種を、うることもや侍らん」

能楽における「花」は最初に観阿弥が追求した概念。
観阿弥においては「花」は珍しさから生ずるという結論でおわり、演者が場数を増やすということが「花」に近づく方法だと考えた。
世阿弥は観阿弥の見方をさらに深め、その「花」はいつでも咲かせうるはずだと考える。
そして、そのような芸域を「正花風」と呼ぶ。
そこでいったん世阿弥は満足するが、さらに上の芸域があることを提唱する。

その第一段階が「閑花風」というもの。
表面的な美しさが消えたあとでも冷え冷えとした美が香ってくるというもので、そこには、連歌師の心敬がとなえた「冷えさび」にやや共通する感覚がある。

第二段階の境地は、「寵深花風」という。
これはどんなに変則的で異端じみた芸をしても品がくずれず、それがなんとも美しく見えるという微妙なもので、またの名を「らんい(闌位)」という。
「闌」というのは「たけた」という意味。
たいへんきわどいが、抜けきった芸域。

世阿弥はさらにこの上に、第三段階の芸域である「妙花風」をおく。
美醜や良し悪しはまったく超越されていて、どこがよいとすら指摘できない最高の境地。
すべてのものが溶けあってたがいの境をなくしあっている状態。
理念上の境地とでもいうもので、とんでもない境地。

世阿弥の晩年は足利将軍の寵愛から突き放され、佐渡に流されて、理念の舞台化の仕上げには挫折するが、世阿弥のめざした理念は生きていた。
この理念をどのように継承し、また変革していくかということが、その後の「花鳥風月に遊ぶ」というコンセプトの決め手になった。

このような世阿弥の前にこの流れを作ったのは、おそらく西行だった。
西行こそは「花鳥風月に遊ぶ」という精神の端緒をひらき、そこに生きる方法を示唆した張本人だった。
西行こそが日本における「花」がなんであるのか、その象徴的な意味を追求できた最初の歌人だった。
その西行を起点に、まず藤原俊成や定家や鴨長明や慈円がつづき、ついで道元と一遍の思索と行動があり、さらに吉田兼好をへて良基、観阿弥、世阿弥、心敬とつらなる系譜がある。

歌というものは「虚」から出ている言葉のつながりであり、そこには何の実体がないもの。
歌とは有為転変ということ。
「実」は求めない。
その有為転変にうたかたの表現を託していく。
そんな「虚」を引き受けるのは自分の心だけ。
しかし、いざ歌ってみると、そこには文字がつらなり、言葉が見えてくる。
その三十一文字の言葉があらためて自分に返ってくる。
それをくりかえしていくと、歌と心はしだいに透けてくる。
そして歌ったときに見えていた景気だけが響くようになる。
花鳥風月とはその「景気の響き」
それが西行の歌だった。
自分をからっぽにすることによって、その隙間から漏れてくる何かをつかむ。
つかんだところでしょうがないけれど、もうそれ以上の何もない。
それが西行の歌の持つ響きだった。
それは執着のはてに出てくる「数奇」をおもう心でもあった。

西行の登場によって、日本の花の感覚は心の問題になる。
万葉期では花の咲くことの不思議や花の生命力が人々の関心をひき、花は霊的な開花として認識された。
それは古代特有の「まこと」の花。
やがてそれが、「小町の花」のように“私化”され、うつろいゆくもの、はかないものの代名詞になっていく。
貴族文化にかわって武家文化がおこってくると、花は短命だった義経のようにあえて散っていった者に添えられるようになる。
花は男性的なものになる。
花は「あはれ」の対象から「あっぱれ」の対象になっていく。
そこに西行が登場してきた。
西行の「花」は小町の花でもなく、義経の花でもない。
西行の花は漂泊の花であり、物狂いの花であり、数寄の花であり、無常の花であって、悩みぬいた心の花だった。

吉野山こずえの花を見し日より 心は身にもそわずなりにき

花を見てしまった自分の感動と、普段はその感動にいたれない自分をくらべている。
花と自分との夢うつつの状態が一体化してくれない。
その一体化を求めて西行は漂泊したが、最後まで実現できなかった。
どこかに境目があり、それが西行には最後まで不満だった。

連歌師の心敬の『ひとりごと』に驚くべき指摘がある。

氷ばかり艶なるはなし。苅田の原などの朝のうすこほり、古りたるひはだの軒のつらら、枯野の草木など、露霜のとぢたる風情、おもしろく、艶にもはべらずや。

氷のようなものの方が艶がある。
「冷えさび」とよばれた独自の視点。
世阿弥にはそこまで冷えたものはない。
冷ええの憧れはあったけれど、氷結したわけではない。
そこを心敬は突破した。
『ささめごと』では次のようになる。

昔の歌仙にある人の、歌をばいかように詠むべきものとぞ尋ねはべれば、枯野のすすき、有明の月と答えはべり。これは言わぬところに心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり。さかひに入りはてたる人の句は、この風情のみなるべし。

心敬は「言わぬところ」を心にかけること、「冷え寂びたるかた」に心を投げかけること、そして「さかひに入りはてること」を薦めている。
西行はついに境い目を消しきれなかった。
長明は歴史観をもっていたが、それは境い目を気にしつづけたからで、境い目に入ってはてたわけではない。
世阿弥はそれこそ貴賎の境い目にこだわって佐渡に流された。

そこを心敬は一挙に凍てついた美にまでもっていった。
応仁の乱を境い目に、そのあとに出た東山文化をへて、やっと枯山水が世に出まわること、日本人がつかんだ貴重な花鳥風月だった。

ブッダの思想を一言でいえば、「縁起の自覚」であった。
ブッダは菩提樹の下で悟りをひらき、梵天(ブラフマン)から「おまえのその自覚は人に伝えるべきものではないか」といわれ、偉大なる「仏陀」としての道を歩きはじめた。
このとき自分の個人的な体験としての悟りや思想が、外側の「縁」というべきものに触れるような感覚が芽生えた。
その縁は外側の縁が内側にめくれ、内側の縁が外側にめくれていくような縁。
ブッダはそのことに気がついていった、そこにブッダの思想の核心がある。

たとえば、水の入ったコップがあるとする。
一見、氷はコップの中に入ったままのように見えるが、実は物理的には蒸発などのさまざまな現象がおこっていて、水はコップから出たり入ったりしているともいえる。
コップの中が液体ヘリウムなら、コップの縁を伝って外側に流れ出してしまう。

「縁起」というのはそういうもので、あるものとあるものが完全に離れていながらも、それらがあるメディアの力、ある不思議な流動力をもって、次々にその縁を越えあい、めくれあがって反応していく。
外の縁であるとおもっていたことが内の縁であり、内の縁であると思っていることが外の縁であるような、そういう感覚が「縁起」である。
この「縁起」の中にこそ、ブッダの思想の原型がある。

一方、ブッダの体験の核は「ぜんじょう(禅定)」あるいは「ざんまい(三昧)」である。
ブッダが瞑想状態に入って悟りをえたという理想的な心境をさす。
比較すれば、「禅定」は自分自身で気持ちよくなっていくことで、それにたいして「縁起」は自分の気持ちよさとはちがって、おもわず何かと一緒くたになってしまうような気持ちよさ、気がつかないうちに共感してしまうような共鳴原理のこと。
この二つがブッダの思想と体験の両極にある。

ブッダの死後、仏教教団は分裂し、小乗仏教となる。
小乗仏教とは部派に分かれた仏教という意味。
小乗仏教から大乗仏教があらわれてくる途中に、『般若経』というお経が成立する。
この『般若経』が小乗と大乗を区分けした。
それが東洋の歴史にとってたいへん重要なエポックになる。
そこで説かれていることは、第一に「般若」ということ、第二に「空」ということ。

般若とは一般に「智慧」と訳されている。
ブッダが縁起を自覚したときの知のありかた、それがとりあえずの般若。
転じて、仏教の無常の道理を洞察する深い知識力の意味を持ち、やがてそのようにえた知識力をあらためて問題にしにくいような、それを言葉にすること自体を超えているような知のことを般若とよんでいく。
では般若は、カール・ポランニーのいわゆる「暗黙知」のような外に取り出せない深層の知のことかというと、そうではない。
「暗黙知」はいかにもヨーロッパ的な奥行きによる深層の知だが、般若としての智慧は、原型のある知がその原型を越えたもの。
だから静かに伝播する。

一方、「空」というのは、あらゆるものを越えていっさいのこだわりから離れてしまうような、ギリシアのエピクロスならば「アタラクシア」とよんだような自由の観念。
しかし、「アタラクシア」は「何事にもわずらわされない自由」ということで、『般若経』の時代の「空」はもっと見方と見え方を強調する。
たとえば、この庭には牛がいない。
いない牛は「空」だが、その「空」を見た自分はいる。
そこで、いない牛の「空」とその「空」を見た自分とを、もう一度、「空」とみなす視点を導入する。
そういう「空」。

この「般若」と「空」を説く大乗派の僧たち自身が「菩薩」とよばれていくようになる。
菩薩の考え方が菩薩観。
菩薩観は、自分のためだけの自覚ではなく、自分の自覚過程が他者のための救援活動や教化活動と一致している。
ハイパー・ボランティア。
それは教理を説くというような行為ともややちがう。
そういう行為自体を捨てている。
菩薩の教えを受けるためには、実際に“菩薩”とよばれる僧のもとに行き、かれらとともにあろうとするほかはない。

こうした覚醒者たちはどの時代のどの民族にもいる。
そして、多くの人の噂にのぼる。
そのため人々はそうした“精神のスーパースター”に会いたいと願うような気持ちで、菩薩へのおもいをつのらせ、それがまた菩薩の人気をどんどん高めさせた。
最初はビートルズがいる。
そのビートルズに憧れて、次々にビートルズをめざすロックミュージシャンが出る。
ある程度出揃ったところで、かれらが菩薩として原型化される。
つづく世代は、そのロックミュージシャンのレコードを買い、コンサートにふれて練習をする。
そのうち一気にロックが広まっていくというような事情。

『般若経』成立後、『法華経』『華厳経』『涅槃経』『維摩経』という本格的な仏典ができる。
それぞれの菩薩の性格によって変わるが、ひとつひとつの仏典がスペース・オペラともいえるような壮大な物語になっている。
それは共通して菩薩がもっている不思議な包容力を伝えようとしている。
こうして伝承的実在の菩薩をモデルにして、やがて多くのイデアとしての菩薩が生まれた。

ナーガールジュナ(龍樹)は、テトラレンマ(三句否定)という思考を説いている。
たとえばジレンマというのは二つを否定することによって成立している論理のメソッドである。
ジレンマは世の中で考えられているほど悪いものではない。
二つのもののどちらにもはまらずに、両者を否定することによって先に進むという、むしろ積極的な方法。
ところがナーガールジュナはジレンマでは足りないと言い出した。
テトラ、3つにわたる否定をかさねて、論理自体を完璧になくしていった。
論理を透明にしていくような理論体系をつくった。
たとえば、「私であることはない。私でないこともない。その両者であることもその両者でないこともない。」と言明することによって、きれいさっぱりすべての言語的対象が最後のバニシング・ポイントに向かってなくなっていく。
論理がバニシング・ポイントに向かって消失していくこと自体が「空」であり、そのような立場をとれることが「中」なのだと考えた。
これが中論とか中観というもの。

さらに中国では天台智(ちぎ)は、ナーガールジュナの「空」と「中」に、「仮」という思想を加え、この「空」「中」「仮」を論理の蜃気楼のようにふわっと空間にまいて、そこにいろいろなイメージが自由に飛び交うようなみごとな理論をつくった。
『摩訶止観』という本に書かれている。詳細不明

ボーディ・ダルマがインドから中国にやってきた。
少林寺に入り、面壁九年、壁に向かってただ座り続ける。
これは当時の人々にとって相当なショックだった。
仏教は輪廻からの解脱をめざして、縁起を自覚し、涅槃の到来を待つための有効な手段だとおもわれていたのに、この碧い眼の大男は、ただ少林寺に来て座ってばかりいる。
これは何だということになった。
しかし、ダルマの坐法は「壁観」といわれ、座禅の原理になる。

壁観は普通は「壁を観ること」といわれているが、そうではない。
「壁が観ること」だった。
壁に観られていく、あるいは壁が観ること自体を知っていく、その行をやっていた。
ここに「禅定」というものが発達する力があった。

仏教が日本に入ったのは、個人的な雑密、国家仏教としての華厳、そして密教だったが、日本化するのには時間がかかった。
しかし、その特徴は日本人の「時」の感覚とともにしだいにはっきりしてくる。
仏教によって「無常」や「はかなさ」を強化するようになった。

1955年、シュトックハウゼンが始めて電子音楽によってすばらしい曲、『少年の歌』を作る。
シュトックハウゼンは「音楽は空間の芸術である」と語った。
この言葉は「音楽は時間芸術である」という常識をくつがえすものだった。
現代音楽の多くは空間的な概念を組み合わせることで発展してきた。

ジョン・ケージの時代になると、音楽というものは空間そのものであり、さらに音は空間のもっている奥行きの一つ一つに転がり込んでいるものだと考えられるようになった。
そういう音楽のことを「チャンス・オペレーション」とよんだ。

長きにわたってまるでお題目のようにくりかえされてきた「音楽は時間芸術だ」という主張はいったいどこで成り立っていたのか、時間というものを音楽から導きだそうというその魂胆はいったいなんだったのかという疑問がわいてくる。

古代エジプトではナイル川が時間の概念をはぐくんだといわれる。
ナイル川の氾濫が周期的におこるため、それによって肥えた土地ができて、いろいろの作物が豊かに収穫できた。
しかしエジプト人たちはナイル川の氾濫を見て、時間があることを知ったのではなかった。
ナイル川が氾濫する周期と、シリウスという星が東の空に現れるというもうひとつの周期とが一致することがもっと重要だった。
それがエジプトにおける時間の発生だった。

ある周期性だけでは時間を認識できないのではないか。
もうひとつの周期性がそれにぶつかりあい、そして同じ周期になったときに、初めてそこに「時」というものが生まれてくる。
「対」ということが、「時」の裏側にひそんでいる重大な観念。
「時」が生まれるためには、最低1対の現象、1対の周期というものが必要であって、その1対になっているものがそれぞれ出会うことによって、時間という考え方が生まれる。

別の巨視的な見方では、宇宙の全体の動向が母なる時間をつくっているのではないか、というものもある。
宇宙が変化すると、物質の動きに予定のつかない混乱がおこる。
熱力学やエントロピー現象といった面倒な動きを相手にしている科学者たちは、「時間のわずかな狂い」を発見するために躍起になっている。

アーウィン・パノフスキーという美術史の研究家によれば、古代ギリシア以来のヨーロッパの時間の考え方で、かつて時間には「カイロス」と「アイオーン」という二つがあった。
「カイオス」は機会、「アイオーン」は永遠。
ルネッサンスになるとこの二つの両立が崩れ、それ以来、ヨーロッパでは本当の時間は失われてしまった。
ヨーロッパで崩れたカイオスとアイオーンは東洋では生きている。
二つの周期が一致しなければ時間が取り出せないといった考え方すらもがヨーロッパ的考え方であって、東洋では妥当しないようなところもある。

中村元というインド哲学の研究者によれば、インドでは時間は動的ではなくあくまで静的である。
「同じ川の流れに足を入れることはない」という見方をしない。
川そのものを変化しない普遍的な存在というふうに見る。
そこにはヘラクレイトスの流れ(パンタレイ)はない。
インドの言語体系には「なる」にあたる言葉がなく、仮に「なる」を表現する場合にも、「ある」の一側面にしてしまう。
時間の流れを「出現」と「持続」と「消滅」と、たった三つの状態でとらえる。
しかもそれぞれ静的な状態としてとらえられている。
時間概念を空間的な配置におくことにからっきし興味がわかないようだ。
その証拠に、インドには正確な日付のある歴史書が登場しなかった。

テヘラン大学の比較言語学者のダリュシュ・シェエガン教授は、ペルシア語、アラビア語、サンスクリット語のいずれにも「主観」にあたる言葉すらない、と指摘した。
これらの言語を使う思想では、内部と外部を分けたり、化学的分析性と主観的瞑想性を分けるという思想は通用しない。
普遍的なものと個別的なものを分けるだけ。

日本ではどうか。
日本の時間はヨーロッパともインドとも違い、その根底に「ウツロヒ」という概念をおいている。
ウツロヒは移行。
春夏秋冬の季節の移行であり、光から闇へ、闇から光への移行であり、一日のウツロヒであって、人生のウツロヒ。

ウツロヒはウツという言葉から派生した言葉。
ウツは「空」とも「虚」とも、ときには「全」とも綴るが、まったくのからっぽの状態ということ。
中空があいている状態、それがウツ。
ウツからいろいろの言葉が派生する。
ウツロ、ウツホ(空穂)、ウツル=ウツス(移る、写る、映る)、ウツセミ(空蝉)、ウツワ(器)、ウツシミ(うつし身)。

「移る」「写る」「映る」が同じ言葉であるということは、何かが移っていくと、そこに心に写されるものがあり、また、その心に写ったものが心の外の何かに映し出されているのだということ。
これらがひとつながりに連動する。
花鳥風月の心が、実は連続的に映し出されていくイメージの切れ目ない移行性だった。

祖先たちはからっぽの鐸(サナギ)や鈴をタマフリの道具に使ってきた。
内側に何もないサナギ状の容器は、そこに何かがはぐくまれるという想像をもたらす。
「うつなるもの」はそこから「何かが生成してくるところ」でもあった。
ウツロ舟とかウツボ舟という丸太をくりぬいた舟があり、海からやってきた海人族が駆使した。
これが、なんらかのスピリットが運ばれる空の舟、宝船になった。
樹木のホコラも中ががらんどうで「ウツなるもの」であり、そこに何かが生成されるというイメージがあり、『竹取物語』はこのイメージで作られた。
『宇津保物語』では、北山のホコラで母が息子に琴を教えるというプロローグではじまる。
ホコラで才能を習得するというイメージは、ホコラやウツロ舟に乗れば特殊な才能を発揮するものがのちに生まれるのだというイメージに連結する。
それがお椀に乗った一寸法師や桃の中の桃太郎のイメージにつらなっていく。

「ウツなるもの」と「ウツなるところ」は一対の観念となる。
ウツという空虚はイメージを生成する原基。
そしてウツなるものが実は「時間を生む容器」でもあったことが判明してくる。
ウツロヒとは、もともと「ウツなるところ」から生まれてきた「ウツなるもの」が移動していくことだった。

日本語の「時」という言葉は時刻のことではない。
時の移行、時の幅、ウツロヒをさしている。
「時となく」は「いつともしれない」という意味だし、『源氏物語』の「時にあたりて」は「その時期のころにのぞんで」という意味になっている。
総じて、古代中世の人は「時」を広げてつかおうとしていた。
広げてというのは、時の領域を広めにとったり、時そのものを伸び縮みさせているということ。

古語では「時なし」という言葉があったが、いろいろな意味になる。
『万葉集』の天武天皇と大伴の坂上郎女の歌では「たえまない」という意味で「時なし」が使われている。

み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける
うち渡す竹田の原に鳴く鶴の間なく時なし吾が恋ふらくは

「時」と「間」とがまったく同じ意味で使われている。
われわれは「時間」という言葉を使って暮らしているが、ふつうは「時」と「間」が同じ用法にあるとは思わない。
しかし、古代では日本人は「まもなく」という意味のままに「時なく」という言葉を使っていた。

日本の時間は持ち運びできるような感覚の中にあった。
その持ち運びできるような時間は、時間そのものとして実在していたのではなく、何か別のものの付随性として生々流転しているように見える。
そのことを暗示するのは日本における「器」の力だ。

ホカイというものがあり、「外居」とか「行器」と綴る。
遠出のときに食べ物などを入れておく木製の曲げ物のことで、蒸し饅頭や温泉饅頭をふかすような丸い用具があるが、あのような道具。
このホカイはもともとは神器であり、ホカイの上にサカキや御幣を立てれば、この内側に何かの来臨が感じられるというものだった。
ホカイの原型はごく単純な土器を焼いたカワラケ。

ホカイは何かを入れるための容器ではなく、何かが入ってくるための容器。
何が入ってくるかというと、告げられるべきものや心を向けるべきものが入ってくる。
なにか威力のある情報が入ってくる。
逆に言えば、このホカイに刺激を与えれば、そこから威力をもらえるということ。
ホカヒに大事な食料を入れるようになり一般化するが、何も入れておかなくてもよかった。
その中に「聖なる時間」が入っていた。

ホカイは持ち運びができ、持ってさえいれば、観念的にはどこへでも行ける。
それは玉手箱(魂箱)のようなもので、そこからいくらでもエネルギーをもらうことができた。
動く神社のようなものだった。

ホカイは実は「ほかう」(祝う)という行為が容器化したり儀礼化したりしていたのであって、もともとは「ほか」を意識するための行為を原型としていた。
「ほか」とはよそであり、別の場所、ちがう場所ということ。
漢字をあてれば「外」「他」になり、古典ではほとんど「外」をあてる。
なぜ「ほか」というディレクション(方向)が出てきたか。

ホカヒビトという名称をもつ示唆的な人々が古代中世近世までいた。
ホカヒビトは「乞児」「乞食」で、折口信夫によれば、日本の巡遊伶人の原型であり、なにかしら流離の日々を送った人々であり、日本の芸能の原型をかたちづくった人々。
しかも、行く先々で何かの貰い物をする格別の能力をもっていた一群でもある。
各地を巡遊して人々からなにがしかの貰い物をするという行為は、実はなんらかの神聖な行為を象徴していたはずだ、あるいは代行していたはずだということになる。
村里の人々にとっても、春の時間(ハレの時間)を告げられる大事な契機になったいた。

われわれは「外部」としかいいようのないどこかに何かのディレクションを感じている。
その「外部」はわれわれの知らないところ。
「ほか」をもつことによって、なにかホッとする。
なぜホッとするかというと、そこはわれわれの日々の責任が届かない非実在の空間であり、別の時間が流れていると想像できるところであるから。
仏教ではそれを浄土とよんだが、たいてい香ばしい香りや妙なる音楽が流れている。
どの民族もどの国の人々もこのような「ほか」があることを盛んに想定してきた。

日本の民俗学では、その「ほか」からやってくる人をマレビト(稀人・客人)とよぶ。
異人であり、ストレンジャー。
ストレンジャーは人々が想定した安寧の国である「ほか」からやってきたがゆえに神でもあった。
客なる神、客神だった。
これがホカヒビトの原型。

われわれはこの客神をもてなす。
「ほか」からやってきたのだから、「ここ」の産物を用意し、「ここ」に伝わってきた歌をもてなし、「ここ」の踊りをふるまう。
いつしか専門にもてなす者が生まれる。
これが芸能の発生。
一定の段取りやしくみも生まれる。
飾り方や着方や遊び方も決まってくる。
これが祭の発生。
客神がやってくるためのしるしを用意する。
これがヒモロギやヤシロの発生。

このように日本の時間の源流は「ほか」に属していた。
「時」は最初から「ここ」にあるのではなく、「むこう」から流れ来たって、また「むこう」に流れ出していく。
それはおうおうにして四季のウツロヒと重なっていく。
それが日本の時間。
けれども、何も用意しなければ時間はただ過ぎ去っていくばかり。
そこで「ここ」と「むこう」のあいだに、ウツなるものでできた何かの容器を、時間の獲得のためのインターフェースとして、また情報の獲得のインターフェースとして、さまざまに用意した。
これが利休の茶碗にまでつながっていく負の時空のインターフェースとしての容器、「ウツワ」だった。

存在の太初も太終は、誰も覗くことはできない。
われわれは太初と太終のあいだにいる。
「あいだ(間)」に力を投入するしかないのだが、その生と死の「あいだ」が何かをいわれると、「あいだ」は無数にある。
きりがない。
なんであれ「あいだ」で、「あいだ」にならないものはない。
なににつけ、あいだがら(間柄)を重視するのが日本人。

日本文化史では、「あいだ」を「ま(間)」とよぶことで、もうひとつの「あいだ」の考え方を提示した。
「ま(間)」は、柱と柱の隔たりのことをさしていた。
区切られた「間」が「次の間」「床の間」に発展する。

「間」は最初から時間的なイメージをもっていた。
ある動作が継続している時間のことを「間」とよんでいる。

雅楽や舞楽の音楽に使われる「間」もある。
拍子に近い言葉だが、拍子と拍子の微妙な隙間にもつかわれた。

『徒然草』では「間をくばる」という言葉もあった。
目配りではなく間配りもあった。

「間」はたんなるAとBの間隔のことではなくて、A、Bそれぞれ二つの動向が含まれている。
上代および古代初期には「間」は最初は「あいだ」をさす言葉ではなかった。
「ま」という言葉には「真」という字があてられていた。
「真」という言葉は、真剣とか真理とか真相とか、究極の真なるものをさしていた。
真事あるいは真言は「まこと」であって、上代人のよるべをあらわす最も基本的なコンセプト。
「真」というコンセプトは、「二」を意味していた。
その二は、一の次の序数としての二ではなく、一と一が両側から寄ってきてつくりあげる合一としての「二」を象徴していた。

二である「真」を成り立たせているもともとの「一」をなんとよぶかというと、「かた(片)」とよがれていた。
「真」はその両側に2つの片方を含んでいた。
その片方と片方を取り出して、暫定的においた状態、それが「間」
別々の2つの片方のもののあいだに生まれるなんともいえない隔たり、それが一と一とをふくんだ「間」というもの。

偶数と奇数というが、「奇」とは何かの片方だけが突出した状態、「片」のこと。

古代社会は、律令が制定され、宮殿も堂々としていて、左右対称のシンメトリカルな構造をもっている。
それが律令制が崩れることになると、シンメトリーを破った表現が愛されるようになる。
林屋辰三郎は「左右対称から左右競合への移行だ」と指摘した。
アワセ(合わせ)という方法が流行した。
歌合わせ、花合わせ、貝合わせなど、左右に分かれて優劣を競うゲーム。
アワセはキソヒでもあった。

武士の世になるにつれ、勇ましくなっていく。
アワセにも動物合わせが増えてきて、犬合わせは闘犬に、鶏合わせは闘鶏になっていく。
過激なものが出現し、奇をてらうものや奇を争うものがふえてきた。
「奇」という感覚が日本文化に転換点を与えた。
これを「奇にかたむく」といって、「カブキ(傾奇)」とよんだ。
カブキの感覚の本質は「偶の文化」にたいする「奇の文化」の突出。
「真の文化」にたいする「片の文化」
「間」を破るエネルギーによってつくられた文化感覚だった。

江戸時代の祗園南海は「正」はまた「恒」であり、「奇」はこのどちらからも外れた立場にあると説明しながら、しかし、その「正」や「恒」を実行してみたところでそこには「趣」はでてこないとする。

日本文化の「時」の背後にはいくつかのきわめて重要なコンセプトがある。
「ほか」という永遠の外部性がわれわれにイメージの激流を送り込んでいる源。
「間」というコンセプトもその背後に「真」や「片」という不思議な動向が控えている。

わが思ひを人に知るれや 玉匣(たまくしげ) 開きあけつと夢にし見ゆる

万葉集の読み人知らずの歌。
匣は櫛を入れるための箱のこと。
尖った先っぽを持つ櫛(串)はもともと髪にさす神威を伝えるアンテナで、その櫛を入れておく箱もスピリチュアルなもの。
そのスピリチュアルな箱をあける夢を見たが、そんなに簡単に玉匣があくようでは、きっと自分の心の秘密が他人に知られてしまったのではないかと怖れているのが歌の意味。
箱には櫛が入っているとともに、実は「語れぬ夢」も入っていた。
ゆめの持つ時空間が箱に入っていた。
玉手箱のイメージが夢のイメージとつながっている。
箱の中に神仙の香気があふれる蓬莱山や常世がある。
その神仙世界を万葉人はひそかに胸に秘めていた。
万葉人の夢に「恋の市場」ともいうべき幻想の巷がかぶさっていた。
「夢の市場」が万葉人の意識の交換の場で、そこに恋の出来事が重なっていた。

月に狂うということがある。
ルナティック(lunatic)とは「月的である」と「狂気的である」と2つの意味を持っている。
日本中世の「狂う」はたいてい踊りまくっていることで、英語のルナティックは月のせいで気が変になっているという意味。
なぜ月狂いの人は、昼の太陽ではなくて夜の月を好んだか。
いったい月になにを託したか。

われわれには「どこへ行ってきたの?」と聞かれて、「いや、ちょっとね」と答えられる場所が必要。
隠れ家や、映画館やパチンコ屋だっていい。
しかし、そこは「ほか」そのものでなくてはならない。
地球にだって「ほか」が必要。
地球にも近所の隠れ家がほしい。
その「ほか」の最大の対象が月。
月にはなにもない。
だからこそ、おもしろい。
だから月は通り越すべきもの。
あんなところに足を留めて基地をつくり、そこでなんとかサバイバルをしようなんてことを考え出すようでは地球の精神も廃れたものだ。

本書を通じて景気の消息をめぐってきたものとは「対と境の誕生」のことだった。
片割れが片割れをさがす歴史をかいま見ようとしたことだった。
日本全体も片割れを求めている。
日本だけがよければそれでいいなどということはありえない。
日本にはもっと多くの片割れが必要。
いや、日本がどうであれ、われわれにはつねに花鳥風月的なる相手が必要。



colorful123 at 14:34コメント(2)トラックバック(0) 

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1. Posted by www.higree.com/froumbbp/ubbindex.aspx   2013年12月07日 20:35
我?一朋友: 假如?和一个?暗恋的姑娘去玩,突然???个内急都?不住了,如果不?上入??上就会拉?子,???先去,?是?先去? 朋友大?凛然道: ?姑娘先去! 我?: 那?怎??? 朋友道: 我直接在外?解决。 我?道: ??什?不?男?所??子正在跟我??
2. Posted by club.bz169.com/blog/ubbindex.aspx   2013年12月07日 20:35
?走到?口,哥?机一?,打了一??桶水。 ?着?全都倒下去,然后听到下面嗷嗷的。 1楼、2楼、3楼的都上来了。 再然后,哥就??他?一起去把5楼那家??了一? 不怕人?就怕有人??着 老板,不要天天???多好看的衣服,好不好? ?什?? 男人?声靠近道: 有句?叫做, 不怕人?就怕有人??着! 老板一听,?: ?,???着俺的衣服? ?知不知道? 男人道: 自从?来之后, 我老婆天天都在琢磨着,什??候能穿得?去? 有人?便便 以前住一个大院,院里有一个公共?所, ?了防止外面的人?去方便就上了一把?, ?供院里的人用,一次上?所,?居一女孩?一女同学也来, 那同学好奇的?: ???所?上?,?道怕有人?便便??!!!! 拿下??猴 ??包拯包大人一日在公堂上??一位犯人,?得案件十分??,就文公?策道: ?策,?事?怎?看? 公?策一听大怒,拍案而起,??旁?展昭的水火棍便朝包拯打去,?打?喊: ?妹?,老子姓公?,不姓?,吃俺老?一棒。 包拯一听,大笑道: ??不?是姓??。 ?完??大笑。 公?策更是怒火欲?,仍是一棒打来,包大人一拍?堂木喝道: 展昭,拿下??猴。那?粗?看不?

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