Comfort Mart 店長ブログ

三重県桑名市で北欧で直接買い付けたヴィンテージ家具、カリモク60、Yチェアなどのカールハンセン&サン、PPモブラー、ハーマンミラー、宮崎椅子製作所などを扱うお店の店長です。日々の出来事や考えていることを綴っています。そして時々、入荷情報などもお伝えしています。

前に進むこと

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忙しい毎日を感謝しながら、その反対に「いつになったら落ち着けるんだろうか」と考えたりします。勝手に僕の頭の中で昔から「65歳でリタイア」と思っていた節があります。でも、なんとなく頭のどこかで「そうじゃないよね」なんて思っていたところもあります。現在、男性の平均寿命は80歳を超えています。また女性においては85歳を超えています。平均寿命の延びはまったく衰えていないらしく、どんどん延びています。誰も予想はできませんが、近い将来平均寿命が100歳となることもまんざら嘘ではないらしいのです。

多くの一般企業では55歳とかで「役職定年」になり、60歳でリタイア。そして年金が貰える歳まで嘱託社員として働くのが一般的なようです。100歳まで生きるとなると、リタイアしてからまだ35年もあるのです。現実的な話、蓄えた貯金と年金で35年もちゃんと生活できるかどうか。僕も含めて、多くの方々が「結構難しいかも」と思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。僕個人を見て見た場合完全に65歳リタイアなんて、ほぼ無理なんです。これです、なんとなく心のなかでもやもやしていたこと。「やっぱりだめ無理だよね、ハァハァハァ」です。で、最近僕は恐らく「85歳まで仕事をする」と考え方を改めました。ただ、身体も精神も頭の回転も、びっくりするほど弱ってくると思うんです。今のままのペースでは確実に仕事は無理です。恐らく55歳くらいで、頭の回転的なことは、相当衰えてくるんじゃないかと思っています。ちょっと、実は相当びくついています。

先日、友人から「君の会社の将来どうなるの?」と尋ねられ、答えられませんでした。正確にいうと、ここ5年くらいはものすごく正確に答えることができます。でも、それ以降は全然分からないのです。ものすごい勢いでAI化が進み、多くの仕事はAIがこなしていく時代になると思います。もしかしたら、例えばうちの近くのスーパーでレジ打ちのお仕事をしている方々、AIがその仕事をすることになるかもしれません。また、会社の中で「あれ注文しておいて〜」とかの、御用聞き的な方々の仕事もなくなるかもしれません。システマチックに整理整頓されたAIでもできそうな仕事をされている方々にとっては暗黒の社会になっていくかもしれません。その反対で柔軟性にとみ、創造性にとみ、そして思いやりがないとできない仕事はAIにはちょっと難しいんじゃないかと思います。そんな仕事は多分ずっと人間がし続けることになるんだろうと思います。

日本の貧困率はどんどん上がっていってます。現在6人に1人が貧困層に属すと言われています。以前からずっと言われている 2極分化(お金持ちと貧困の両極端)の影響もあると思います。貧困層は増えていますが日本の総生産はそれほど悪くなっていません。身体や精神に困難を抱えている方々の多くはこの貧困層に属していると言います。でも、そうでもない人も沢山、貧困層に属しています。

どれだけ多くの人が「このままでは65歳の「定年後」に貧困層に属することになるかもしれない」と危機感をお持ちなのでしょうか。

現実はほんとそうなんです。ただ、なんででしょうか、まだ心のどこかで「大丈夫だよ」って抜け切れていない自分がいます。個人的にまだまだ向学心がスパークし続けています。20代の頃から全然衰えていません。頭が「もっと学びたい、もっと学びたい」と叫び続けています。人とお話しするの大好きですし、本を読むのも大好きです。知らない場所に行くのも大好きです。こうしてもう40年近く経ちました。なんとなく、心のどこかで「年取ってもこの感じは同じだよ」って甘えっちゃてるところがあるんだと思います。

写真の椅子が製造された1950年代には決して想像できなかった社会構造になっています。古くからずっとあるものを販売する仕事をしています。そしてその販売したもののほとんどはその人の人生が終わったあとでも残り、別の人との生活を始めると思います。僕らの人生は社会的には使い尽くされ捨てられるものなのかもしれません。でも、「だから、使うものもそんな感じのものでいいじゃん」って思えないんです。使い続けることのできるものって、残念ながら価格的にはそうでないものと比べ高いんです。「私の給料では買えない」。だから買わないのかな。でも諦めてないんです、僕、全然。定年を過ぎ、財政的に保守的にならざるおえない時期のために備えて、その場しのぎの物では満足できない人達がたくさんいると思っています。そのために、「もっとよくなろうよ」と日々前向きにがんばっている人達がたくさんいると思っています。そういう人達とお仕事をする仕事をしていると僕の中には自負があります。だから、この会社で働く人達もそうであるべきです。そうでないとしたら、僕達やっていることは茶番です。茶番というより、嘘つきです。茶番をしている人は心を改めるか、出て行くしかないと思います。厳しいですが、それくらの覚悟で僕達は仕事をしているとまずはここで働く者が覚悟をしないといけないと思います。そうでないとダメだと思います、普通。

デンマークへの旅でした。

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先日、デンマークへ出張に行っていました。ところ変われば考え方も変わるものだと海外に行くとそう思います。

歳をとると、知らない人とよく喋るようになるんですね。昔、お年寄りが知らない人同士話している姿を見て「知らない人同士、よくあんなに話せるな」なんて思っていました。でも、今この歳になって、知らない人に話しかけたり、お店の店員に話しかけたりすることが多くなりました。歳取ったんだと思います。海外でもそうで、隣の人に話しかけたりするようになりました。「天気悪いよね。明日どうなるんだろう」とか。無視されても平気になりました。20代に留学していた頃、今のようにもっと誰にでも話しかけれる感じだったら海外生活がもっと楽しかったんじゃないかと思います。ここ数年で身の回りで色々なことが起き、隣の人ともっと話したくなりました。知らない人と話すこと、もともと好きだったんだと思います。「今度でいいや」って思っていたんだと思います。でも人生、次の瞬間何が起こるか分かりません。今日の新聞にも載っていましたが、後ろで自転車に乗っていた娘さんが左折したトラックに轢かれて亡くなったって。息が詰まる思いがします。それまで無意識に「ずっとあるんだろうな」と思っていたものがなくることってあるんです。お年寄りが老衰でなくなるってニュースとか、どうなんでしょう、僕、あんまりピンと来ません。僕の父親が亡くなった時、そりゃ悲しいですけど、どこか「そりゃ、順番だしね」と客観的に見ている節がありました。脳梗塞で亡くなりましたが、最初にかかったお医者さんがもっと適切に処置をしていれば助かったと思います。でもね「ま〜、それも含めて運命だろう」って思っています。これは順番だからです。でも、順番の逆さまで例えば僕の息子が先に亡くなったとなれば、これはどうでしょう、すぐには「運命だから」って受け流せない。もがき苦しみ、「何でだ、何でだ」と何ども何度も繰り返し悩み、そして答えがでないまま人生を終えるんだと思います。でも、この世界にはそのようにもがき苦しんでいるいろ人が沢山います。子供が不治の病だとか、「なんでこの子なんだろ」そして、夢に子供の元気の姿が現れたり、答えがないんですね。

書いていいことか、悪いことか分かりませんが、以前に販売したご家庭の息子さんが不治の病でした。はっきり言うと、おそらく成人するまでにはそのお子さん亡くなる可能性の高い病気です。「どうしてこの子なの」って心から思います。そういう家庭のご両親は違います、いろんなこと知ってます。排他的になる方もいらっしゃるかもしれません、でも大体のご両親は排他的になっていません。僕の経験ですが、こういった状況の時、いい人が周りにいることに気づきます。お医者様だったり、ケアマネの人だったり、近所の人だったり、パートナーだったり、僕達の子供「皆に生かされてるんだ」と感謝の気持ちでいっぱいになるのです。その感謝の気持ちが嬉しくて、嬉しくて。でもその感謝の気持ちとは裏腹に「でもうちの子供、死ぬんです」っていう感謝の気持ちを感じられない程の枯れた感情が同居します。その気持ちが重くて、軽く付き合いのあったほとんどの人は実は離れていってしまいます。ほんとに離れていきます。重い気持ちを受け止められないんですね。

先日までの北欧の旅で先方と夜食事をしている時等、こんな話をよくしていました。 共にインテリア関係の仕事に付いて者同士ですが、変な会話内容です。多分彼の娘さんが先天性の糖尿病だからかもしれません。大変に違いありません。気持ちの柔らかい部分を分かり合える人が海の向こういると思うととても嬉しくなります。仕事を続けていてよかったなと思います。

10代の後半からだと思いますが、将来やりたいことを3つ掲げていました。毎日呪文のように唱えていました。1つ目はコンピューターが使える様になること、2つ目は海外との取り引きをの仕事に就くこと、3つ目は英語に堪能になること。不思議と叶えられています。「将来やりたいことがあれば自己暗示のように毎日唱えろ。必ず叶うから」と誰かに言われました。合ってるかもしれません。これから先、もう50年も生きるかもしれないので、仕事に関して新しく唱えることを持たないいけないかもしれませんが、不思議と唱えていることは「息子たちよりも長生きすること」です。ありえない。でも、毎日唱えています。努力では達成できない目標です。その他ではなんとなくデンマークで今付き合っている人達とずっと死ぬまで付き合えれたらいいなと思っています。いい人達と出会えたと思っています。でも仕事が途絶えたらもう付き合ってくれなくなるのかな〜。よくわかりません。

雪の日

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すごい雪でどうしましょうか。先日、朝から期待していた雪が降らず、おうちで「なんだよ〜 、雪ないじゃん」とぷんぷんしていた次男が夕方から降り出した雪を見て「雪だるま作ろ〜」って外に出かけました。危ないでしょ、車が。後を追いかけて、一緒に少しだけ雪遊びをしました。歳とって、雪の経験が高くなっている私、お父さんは次男に「知ってるか、雪ってさー・・・」とか講釈をしちゃうのです。うざい父親です。不思議です。僕の父親はぜんぜん僕に講釈なんてしなかった。どこでこんな感じになったのか良くわかりません。つららを持ってきて次男が「これ何?」って。知らないんだね。ないもんね、今。地球温暖化の影響か、それとも軒が低いお家がないのかな。私の小さい頃は「飴だ」ってぺろぺろ舐めていました。

ドナルドトランプ大統領が気になって気になって仕方ありません。相当なご高齢ですよ、あの方。歴代アメリカ大統領の中で一番ご高齢です。ドナルドレーガン氏、俳優が大統領になるアメリカですから、全然問題ありません。今って、地球温暖化、食料問題、移民問題、等、国の将来を左右する問題が1国だけで解決できる問題でなくなってしまってます。だけど問題がものすごく複雑で、「これすれば、ああなって全て解決」なんて簡単な解決方法がありません。多国籍間で最大公約数的な1国からするとマイナスがおおいにありえる解決策を受け入れながら、自国民を守っていかないといけない時代になりました。もととも、国の長の一番のお仕事は自国民の生命と財産の保護です。他国の国民の財産や生命を守ることは、はっきりいうとお仕事のうちに入ってない。だけど、他国民を守ることで自国民を守れるなら、他国民を助けるのはいか仕方ない的な考え方が国の長のもともとのあり方です。その他、経済的、そして軍事的にアメリカ国民は全世界に散らばっているので、その自国民を守る上でも外交は非常に重要になります。もともと、国の長は自国民のために仕事をしている。この大前提を忘れちゃいけません。隣近所との境目が国境なら、隣近所で強盗があれば、「国境」に壁や有刺鉄線をつくり強盗犯をこちら側に入れないようにするというのが国の長の仕事であるべきです。ただ、いつかどこかでその強盗犯が壁を有刺鉄線を乗り越えこちら側にやってくる可能性もあるわけです。だから、強盗犯が現れないよりより社会システムとか仕組みを隣人と考えたり、あるいは隣人と強盗犯が現れた時の対処策を考えたりするわけです。あれもこれも全て自国民を守るためです。「相手を助けるために」って考えちゃいけなんです。あくまでも、自国民を守る為です。

それぞの国の長は自国民のために仕事をしています。隣国を助けるなんてこと考えちゃいません。抱えている問題が越境しているから、相手国と外交をします。本来、外交は話し合いで決まるべきだと思います。様ざまな「手持ちカード」をチラ見させながら、「こうしないと、こうするぞ」と駆け引きをするわけです。アメリカの手持カードは「軍事力」と「経済力」です。特に経済力は巨大です。アメリカが世界一の経済大国である限りはこの手持カードの威力は甚大です。「経済力」という圧倒的なカードを全面に出して、「アメリカ自国民のために言うことを聞きなさい」、そして「アメリカ自国民のために仕事をしなさい」と大声で言っている姿がちょっと下品に見える感じが、ちょっと僕的には「下品だな」と思ってしまいます。また各国の経済界が「いやいや、君の国の経済を支えているのはアメリカ国民だけでなく我々もだよ」って言ってる姿にちょっと、どうしようかなと戸惑っています。この大人の姿って子供に見せていいのかな?って思います。

学校で「実利ではない精神的な隣人との思いやり」を教えているにもかからず、大人たちは利害関係を全面に押し出して、押し問答している感じ。僕が小学生だったら、多分現実にゲンナリです。これからの子供は大変だ。その子供を教える大人も大変だ。

今、猫ブームですよね。大人も子供も利害関係と精神的繋がりの間でみんな疲れてる。だから利害と精神的つながりがはっきり見える猫の生き方に安心するし、近くにいたくなるんだと思います。犬はダメ。利害関係より精神的繋がりを重視するタイプだから。

言ってること下品ですが、ドナルドトランプ大統領には期待しています。期待しているというか、「おっ、何かが変わるぞ」って感じで。仕事的にはどうなるんでしょうか。影響あるかな〜。今よりアメリカが強くなれば、円安になるし、そうすると輸出は増えるし、収益はよくなりますね。アメリカが弱くなると円高になるから、輸出は減るから、収益はよくならない。多分日本企業的にはドナルドトランプ大統領に頑張ってもらってアメリカをさらに元気よくしてもらい、円安に導いてもらえると一番助かりますよね。数年後、どうなっているんでしょうか。アメリカから目が離せなくなりました。世界的にアメリカがトップニュースになり続けるって、ここ数年以来久々です。さすが経営者ドナルドトランプ。広報の天才です。

今年もありがとうございました。

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今年も残るところ1週間程となりました。今年も皆様に生かされた一年でした。本当に本当にありがとうございました。

どの会社も同じですが、この会社も人手不足で、「早朝から休みなしに一年働いた」ってそんな印象です。北欧の家具を取り扱うお店ではありえない、クリスマスの飾り付けができないほど(やらなかったのではなく、完全に忘れていました)、動きまくってやりました。それでも、行けてないお客様が沢山いたりして、ほんと申し訳ない気持ちでいっぱいです。フルスロットルで動いても、人には限界があり、それ以上はダメなんですね。距離の問題だったり、収益の問題だったり、優先順位が大きく毎日変わってしまってほんとにダメです。でも、来年もこの調子でダラっと同じ感じなんだと思います。

デンマークの人と沢山話した1年でした。違う土地に住みながら、信頼し合う方法をずっと探っていたような気がします。デンマークの歴史もよく勉強しました。相手の国の歴史を知っている事ってなんとなく重要なんだろうなという気になりました。以前、アメリカの歴史の勉強をしました、それ以来なんとなく「なんでアメリカ人はああいった考え方をするんだろうな」という答えが出たような感じがしました。それと同じでデンマークともかなり近くなったような気がします。生まれた土地も違うし、言語も違うし、食べ物も違うし、教育も違うし、違うことばかりです。不思議ですが、共通項を探すんですね、うまくやりたいと思った時って。その共通項が普遍的な考え方であればあるほどうまくコミュニケーションが取れます。くだらないことなんですが、「ナイフはよく切れた方がいい」って世界共通の普遍的な考え方です。多分世界のどの場所にいっても、「ナイフはよく切れた方いい」のです。でも違う文化の人とお話しをする時、この普遍的な考え方も「もしかして、違うかも」と不安になってしまう時があります。何気なく確認するのです。その次のレイヤーは、「どんなナイフが切れるのか」というレイヤーだと思います。これは多分、国によって地域によって違うと思うんです。「切れるのがいい」ということを確認しながら、「僕はこの刃の方がいいと思う」と言い合えばいいと思うんです。普遍的な共通項がないまま違いだけでコミュニケーションをとると、分かり得ない。20代の後半からずっと海外の人とお付き合いをしていますが、最近なんとなくコツがつかめてきました、この年齢になってようやく。

年末に旧知の友人とお酒を飲みました。彼が死んだあと、彼の子供が彼について人に伝える時どんな伝え方だったら嬉しいか的なことを話しました。彼が「お父さんはさ、とてもフェアな人だった」と自分の息子に言われたら嬉しいなと言ってました。「そうだよね、そうそう」って思いました。どの人に対しても、事柄に対しても、フェアな目で見れる力ってどうやって養うんでしょうかね。歳を取ると偏りが増えます。その偏りも「これでいいじゃん、もう」って投げやりになったりして、変える事をしなくなります。ダメだな〜と思います。

写真の様に今年は息子たちと何度か一緒に仕事をしました。彼たちは僕を見て何を思うんだろうと思います。仕事の関係でおうちを留守にすることが多いのですが、妻のおかげで僕の存在は子供の中ではまだ大きいようです。来年はもっと忙しくなりそうです。会える時間ももっと少なくなるんじゃないかと思っています。どうなんでしょうか。来年も今年と同じくまずは生き続けることを考えることと決めています。決めているというか、当たり前ですよね。生きてりゃなんとかなりますって。

デンマーク人との一週間

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デンマーク人と一緒にいたと言うと、どのデンマーク人でも同じみたいになるのでちょっと語弊があるのでダメなんですけど、ちょっとだけ許して下さい。

今月の頭、1週間ほどDanish Art Weavingの東京でのイベントのための代表のKurt B Johansenさんが日本に来ていました。来日は初めてだそうです。私も彼も多くのことを学んだ1週間だったと思います。全然「The 社長」って感じじゃないんです。彼は自分のライフスタイルを見直すためにそれまで支社長として働いていたフランスの建材メーカーを退職し、13年前にDanish Art Weavingの全株式を買い取りました。そしてDanish Art Weavingのオーナー兼経営者として、以来毎日事務所で仕事をしています。もともと彼の地元がデニッシュアートウィーヴィングがある街と近いこともあり、海外出張(ほとんどが北欧諸国)で留守にすることが多かった地元に戻り、もっと自然体で生活をしたいとの思いが募り、たまたまあったデニッシュアートウィーヴィングの身売り話に乗ったということでした。「彼は頭がいい」。これが僕の彼への印象です。これは終始一緒で、これからも変わらないと思います。環境の変化への対応力、想像力、そして状況から様々なことを察する力を兼ね備えた頭のいい人です。多分、彼がいなかったらデニッシュアートウィーヴィングは潰れていたかもしれません。「デニッシュアートウィーヴィングの身売り」、そして「それを買った人」と聞いて悪い印象を持たれる方もいるかもしれませんが、デニッシュアートウィーヴィングをよく知っている僕の印象は真逆です。彼に買ってもらってデニッシュアートウィーヴィングは命拾いしたとの感想です。椅子生地だけを取り扱っている会社です、この会社は。カーテンやラグなども取り扱うデンマークのあのブランドとは違い、デニッシュアートウィーヴィングが取り扱う商品ラインナップは椅子生地だけです。会社には返せる見込みのない借金がたくさんありました。数十年も経営を担って来た当時のオーナーの経営手腕にも限界がありました。多分、もう会社としては限界だったんだと思います。

デンマークには昔、椅子織りの会社が沢山ありました。でも2社を残こし全部廃業してしまいました。残ったのは、このデニッシュアートウィーヴィングとケアロップヴァヴェリだけです。デニッシュアートウィーヴィングは生地織り職人の高齢化による人材不足で2年前には完全に生産を他の国へ移行しました。国内家具生産が盛んだったデンマーク家具業界、それも現在ではほとんど海外生産になり、国内で椅子織りの仕事をして生活を成り立たせていた会社は全滅です。ケアロップヴァヴェリが今でも国内で椅子生地を織り、供給できているのは、その売り上げのほとんどを椅子生地からではなく、その他の製品に頼っているいるからです。椅子生地の売り上げは会社全体のおそらく5%にも満たないです。病院や施設のシーツやカーテンを織って納品するのがほとんどの仕事です。そしていち早くコンピューター制御の織り機を導入したことも商品の多角化と平行して重要な要因だったと思います。

難しいところなんですが、手織りから機械織りへと移行して、完全に工業製品となった椅子生地の製造なので、相当な付加価値を付けて小規模でやっていくという経営にするか、或いは大きな規模の経営かどちらかに舵を切らないとたぶん会社は立ちいかなくなります。それまで納品していた家具会社が海外移転を決めた、そして生地の供給も海外からにすることにした、こんなことが国内のあちこちで起こりました。また、デンマークの人達、はっきり言うと働かなくても社会保障だけで生活が成り立ちます。高い税金を長年払い続け、「無理して仕事しなくていいか」と思っちゃうところがあると思います。だから、生地生産が海外に移り、仕事が少なくなって来たら「だったら辞めよう」って意外と簡単に決めちゃんだと思います。環境の変化で固定顧客だけとのおつきあいから、規模の経営なのか、或いは高付加価値で小規模にいくか、どちからに舵を切らないいけない時期が来ていたにもかかわらず、その環境の変化に当時のデニッシュアートウィーヴィングのオーナーは全然着いていけてなかったんだと思います。縁があって、以前のデニッシュアートウィーヴィングのオーナーとも仕事上でお付き合いがあります。「仕事の進め方が1世代遅れてる」。こんな印象です。「いいものを作れば売れる」、ただそれだけ思っている感じ。僕からすると相当遅れた考え方です。

今、世の中にはいいものが溢れてる。以前は手作業からでないとできなかったあの製品もこの製品も機械化が進み、どんどんもっといいものになり、さらに値段が安くなってる。安いものがいいって訳じゃないことなんて誰もが分かっています。いいけど安いあの商品とどう戦うかなんですね、デニッシュアートウィーヴィングが考えないといけないのは。天然素材にこだわって生地を作っているデニッシュアートウィーヴィングの商品は鉱物原料から作られた繊維から作られた商品と比べ、必ず原価が高いから、もともと安い商品との競争は無理なんですね。以前は国内で売っているだけで生活ができていたデンマーク国内家具産業も海外に目を向け始め、今ではデンマーク国内だけで経営がやっていける家具製造会社ってないと思います。そんな「海外目線の家具メーカーとお付き合いする方法って、なんなのか?」ってちゃんと考えないといけない時期はとうに過ぎてて、それでも回答がなく、ふらふら借金だけが膨らんでいったんだと思います。「廃業しよう」、そう思ったに違いありません。

それまで異業種で仕事をしていたKurt氏がデニッシュアートウィーヴィングを見た時「宝の山」だと思ったそうです。歴史があり、そして素材にこだわり、伝統的な柄をそのまま織り続けている。彼が小さい頃に見たあの生地もそしてこの生地もまだまだそこにあった訳です。「高品質で安い」そんなものが巷にたくさんあふれているこの時代、「いいからそれなりの値段」って立派な差別化だと思ったと言ってました。デニッシュアートウィーヴィングよりも少しお高い皆さんご存知のデンマーク生地ブランド、品質的には全く同じです。同じウール糸を使ってますから。ただ、色の数だったりとか、生地の種類の違いだったりとか、デザイナーの起用だったりだとか、マーケティングへの投資金額とか、デニッシュアートウィーヴィングとは桁違いです。

僕がデニッシュアートウィーヴィングとお付き合いを始めるずっと前からデニッシュアートウィーヴィングの生地は日本の商社経由で日本の家具メーカーへと販売されていました。今でも、その名残りがあって、日本のメーカーではデニッシュアートウィーヴィングと名前も知らず、デンマークのあの有名生地ブランドと同じ品質、でも少しお安いデンマーク生地ということで使い続けてる家具製造メーカーもあります。「ほんとはあのブランド使いたいんだけど、高いしさ」っていう理由でセカンドチョイスとして選ばれる生地がデニッシュアートウィーヴィングであり、この選択理由が続くようであれば、デニッシュアートウィーヴィングは日本から消えます。間違いなく、消えます。だって、もしそこにデニッシュアートウィーヴィングよりも少し安い同程度の生地がやってきたら、そっちのチョイスになりませんか。機械化が進み、いいものでも安く作れるんだから。

「デニッシュアートウィーヴィングブランドだからこの生地使いたい」と言ってもらわないといけないのです。だったら、そのデニッシュアートウィーヴィングを使うことでユーザーにどんな気持ちになって欲しいのか。「歴史」、「伝統」、「品質」、「普遍的」です。特に「歴史」と「普遍性」については、どのブランドよりも強く感じて頂くことができると思います。品質については、まー申し分ないです。実際、この商品をずっと取り扱っていて、ともていい。実にいい。特にウール生地の品質は最高です。また、環境問題に対応するための規格もちゃんと通ってる。1949年創業、それ以来供給し続けている柄がいくつもある。こんな生地ブランド、デンマークに1つもありません。そしてこの会社、椅子生地だけです。専門なんです。

問題はこの日本における、椅子生地の地位の低さです。今の時代のように生地が張られた椅子やソファにちゃんと座る生活になったのって、実はここ30年とか40年の話です。それまでは床での生活、座布団です。デンマークといえば、椅子生地の歴史の深さって、もう日本の比じゃないほど古い訳です。生地製造会社がない時代には各個人のおうちに織り機があって、その織り機で個人で使う椅子やソファに張る生地を作っていたと言います。「椅子やソファって、生地と合間って初めて作品となる」となる感覚って、デンマークの人の方が進んでいます。例えば、日本で作られる数十万円の木製ソファに張られる生地、デンマークブランドの椅子生地に比べ相当に格安なものが使われてる。高いソファや椅子に対して木の質や杢理や加工にはものすごくこだわりがあるにもかかわらず、どうして生地にこだわりがないのか。残念で仕方がありません。生地はどちらかというと、価格を抑えるためのコストセイバーの役割なんじゃないかと思わせるほどです。

この感覚もある層では変わりつつあります。じわじわですが、変わって行ってます。僕らがヴィンテージの家具に対して生地を紹介する時、「生地もいいものでいきたい」と思ってくれる方々、そしてその仕上がりの違いを何度も見ているデザイナーの方々、「生地って大切だね」って思って頂ける方々の数、増えています。

こんな話をKurt氏とずっとしていました。「いい生地を使いたいな」と思った時に「あのブランドとあのブランドしかないね」って寂しくないですか。品質は横並び。その家具にピッタリの生地、そしてその家具から感じたいメッセージってなんだろうって深く考えた時に、「あっ、デニッシュアートウィーヴィングがあってよかった〜」って言ってもらえるブランドにならないと。その時まで絶対に廃業しちゃダメだし、今のまま50年以上も同じ生地を供給できる会社でいないと。「あのブランドの代わりに使ってください」なんて言うつもりは全くありません、これまでもこれからも。ただ、「このブランドが、そしてこの生地があってよかった」って、普通に選ばれるブランドになれれば素敵です。こんな感覚を普通に理解できる人が今の社長のKurt氏です。何度も何度も夜遅くまで仕事をしてくれ、何度も何度もデンマーク家具の過去未来の話だったり、椅子生地の過去未来を夜遅くまで熱く話してくれる彼は素敵です。そして世界が平和でそして安全な場所であり、環境保全が上手く行ってこそ会社の利益があると普通に話せる彼は相当なスマートさんです。僕の中にある「これこれ、デンマーク人って、これだよこれだよ」って感じ。なんか長く険しい道のりが前にドカンとある感じですが、彼と一緒ならなんとか楽しめそうな予感がしています。上野で楽しみながら写真を無邪気に撮る彼の後ろ姿を見ながらそう思いました。

東京での展示会

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お子さんがおみえのご家庭なら、昔か、そして今か、子供達の運動会で一喜一憂した経験があると思います。うちの家庭もその通りで、下の息子が幼稚園最後の運動会でした。多分、僕もそうだったんだろーなと思いますが、表現が下手。もじもじしてさ。妻に、「イギリスの全寮制の学校に小学校に行かせようよ」とまたに言ったりして、息子にも「小学校からイギリスに言ったら?」とか言っています。妻は「ダメ、離さないから」とか言ってしかめっ面をしてぷんぷんしています。ハリーポッターみたいな小学生、素敵でしょう。あんなに、勇気、優しさ、そして強さある小学生って、でも、いないけどね。大人でもいないのにね。

来週からちょっと忙しいです。Danish Art WeavingのマネージングダイレクターのKurt Johansenが日本にやってきます。僕が呼びました「日本の市場を見ておいた方がいいよ」って。11月5日(土)は東京銀座の北欧ヴィンテージのお店の「ルカスカンジナビア」( www.luca-inc.com)さんで「デニッシュアートウィーヴィング東京展示会」を開催し、そして11月7日(月)はお得意様だけのご招待となりますが、東京渋谷にあるデンマーク大使館でワークショップを開催します。11月5日(土)は私もずっとKurtと一緒に展示会にいます。デニッシュアートウィーヴィングで張り替えたヴィンテージのソファや椅子、そして販売用のソファなどに加えて、展示会場をデニッシュアートウィーヴィングの世界観にしてお客様をお迎えしたいと思っています。Kurtさんね、カジュアルな人なので、是非お話しに来てください。

「デニッシュアートウィーヴィング」ですが、普通の会社です。特段「これがすごいぜ!」っていう感じの会社でもありません。普通のデンマークにある会社です。そんな普通の会社が1950年代から持っている柄生地を普通に今使えることの意味ってどうお感じになりますか?世の中は情報化社会です。化学や技術も日進月歩です。こんな中で普通が生き残るのは大変なんです。「差別化は?」「優位性は?」と日々、追い立てられます。僕もそうです。 疲れるんですよね、毎日こんなだと。でも多分、人って「あの人と僕は違う」って本能的に思う動物なんだと思うんです。種の保存の考え方って、多分、「より優位に自分の種を将来に残す方法ってなんだろう」と常に無意識に考えていることなんだろうと思います。花だとしたら、隣の同じ花よりも大きく、そして美しく、またいい蜜を生産してよりたくさんのそして強い虫に来てもらい、種を拡散するための努力をしているんだと思います。人も、そして人が作っている会社も、そして社会もそうなんじゃないかと思っています。ただ、それが「目立ちたい!」との表現にかわっちゃうと、見ている方が興ざめ。だからその辺りを隠して、関係ないですが「目立たないように目立つ」これが広告の巧みの技だったりします。

デニッシュアートウィーヴィングって、もちろん他の会社の生地会社よりも、「目立ちたい」と思っているに違いない。でも、そんな感じが全くしない。広告もしてないし、営業マンもいない、販促部もない。やる気あんのかって思えて来ます。営業って言えば、来週に来るKurtが唯一の営業マンなのかもしれない。普通に環境にいい素材を使い、普通に様々なラインナップの生地の揃え、普通にお使い頂ける生地を普通にご提供している感じの椅子生地メーカーです。「ファッショナブル」なんて言葉や「トレンド」なんて言葉がちょっと似合わない感じの生地メーカーです。デンマークに昔からある普通の椅子生地メーカーです。でもこういった普通の会社ってどんどんなくなって行ってます。

もちろんトレンドを取り入れた最高のデザインのものもあってしかるべきです。ただ、そうじゃない選択を探した時に、「あれっ、他にないの、これしか?」ってなることって、いいのかな。そう思っています。お買い物の時にいつも大きなショッピンセンターでお買い物をして、ふとそのショッピングセンターがその土地に愛想を尽かせ、出て行った時に「あれ、お買い物するところないぞ」困る感じ。ショッピングセンターでお買い物をすれば、その周りの八百屋や魚屋は無くなります。市場経済で回っている日本なので、当たり前のことです。市場経済の中で潰れそうな八百屋や魚屋は先の「差別化」でショッピングセンターとは違うやり方で生き残りをかけようとします。この競争の原理はもすごく大切です。競争の原理に勝てない会社もたくさんあります。

「共存」ってできないのかなと、真面目に考えています。あまっちょろい「共存」じゃないです。皆が精一杯がんばる市場です。大きなショッピングセンターができたから「売れなくなった〜」とできない理由ばかり言ってんじゃなくて、だったらどうしようかと、次の提案を考える、そしてそれが市場に認められ大手と「共存」する力になっていくそんな市場が理想だと思っています。がんばったものがともに輝き合える、そんな市場に憧れてます。

デニッシュアートウィーヴィングはどうなんでしょうか。僕の目からすると、デンマーク国内ではまあまあいいんじゃないかと思っています。でも世界に目を向けるとその意識は低いと言わざるおえない。デンマーク国内の感覚を「多分これでいけるよね〜、他の市場も」と思っている感じ。甘いって、デンマークと同じ感覚で日本で仕事してちゃ、ダメだと思います。日本の市場を見てもらおうと、デンマークから来てもらいます。どんどんいろんな人と話をしてもらいます。デンマークからの生地が日本でどのように使われ、そしてどんなことを期待されているのか、肌感覚で覚えて帰って欲しいと思っています。厳しい共存に勝ち残って欲しいと思ってます。なくなっちゃいかんよ、デンマークの生地だと「あれとこれしかない」なんて、選択の幅が狭まること、したくありません。僕たちの選ぶ楽しみを無くさないで下さい。

関東地区にお住まいで、もし11月5日に東京都内に来る用事とかあれば、是非「ルカスカンジナビア」にお立ち寄り頂き、意見を言ってあげて下さい。その意見を聞くためにKurtはやって来ます。

生き抜く喜び

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来年はどうなろうとか、どうなりたいとか、いつの頃からか忘れましたが考えるのやめました。だって、そうならないんだもん、ほんとに。僕はただ好きなことを好きなだけ好きな人達としたいだけなんです。その好きなことや、やる量だったり、一緒にする人達だったり、いつも違います。去年好きだったものは今日はもうすきじゃない、そんなことも多々有ります。「来年はこうしたい」と思うと、言霊が発生し、それに縛られてしまう気がするのです。近年はもっぱら「生きてりゃいいよ」って結果思います。

今知り合いで67歳の加藤さんにお家の再塗装をお願いしています。おうちの周りに足場あるのですが、その足場から下の5歳の息子が落ちて全治1ヶ月の骨折です。よくあるケガだと思うんです。「だから言ったろ、登るなってさ」って言う前に「おー、生きててよかった」です。こんなこと言うと叱られますが、昨日まで元気だったあいつが今日はもういないってこと、よくあることです。悲しみの中で一番最大の悲しみは何を隠そう、どんなに世界中を走り回っても愛する人ともう会えないことです。つまり死別です。それは親かもしれませんし、友人かもしれませんし、パートナーかもしれませんし、そして子供かもしれません。

前にもずっと言ってますが、死が軽く扱われている感じがたまらなく嫌です。ゲームで「あ〜、死んじゃった〜」とか葬式の形式化とか、宗教への嫌悪感とか、お盆のお彼岸の形式化とか、昔はほんと望まぬ死が多かった。医療の発達とか、行政の丁寧さとかで、助かるケースが増えてる。家族の者が簡単に死ぬ世の中でゲームしながら「あ〜、死んじゃった」って言えるか。そう簡単に死なないと思っているから言える言葉だと思う。そう簡単に死なないと思ってるから命をいただく行為つまり「食事」についても軽く見られる傾向があります。死はもっと「近くて遠い存在」であるべきだと思っています。

下の息子が足場から落ちました。打ち所が悪かったら死んでいました。骨折で助かった。毎年毎年、多くの子供が不慮の事故で亡くなっています。大切で大切で仕方ない子供がある日いなくなっている家庭がこの日本には何千、そして何万といます。そして、海外に目を向けると、日本国内の数とは比べものにならない程の尊い命が何らかの理由で絶たれています。なんとかならないものかとそんなニュースを見るたびに目頭が熱くなります。

できることがあると思っています。まずは死なないこと。生にしがみつことだと思っています。生活の大変さは多くの人が感じているところではあるかもしれません。例えば、給料が上がらないとか、素敵な人が見つからないとか、生活がつらいと思うことは日々多々有ります。それと生にしがみつくことは別のことです。おもいっきり死を感じながら、「そうならないぞ」と毎日を生き抜くことです。ちょっと武士道的ですが、1日が終わり「今日は死ななかった」と安心する的なことです。

ものが売れない時代と言われ随分経っています。「ものからことへ」とか「ものを手にいれるのではなくスタイルを手にいれる」とか「仕事から生活へ」とか、「見るものから見えないものへ」とか世の中はより抽象的な表現がフィットするような流れにあります。関係ないのですが、この前80年代に放送されていた「ゲゲゲの鬼太郎」を見てびっくり。今なら完全に政治的にNGだろなと思う「中国から来たよくない妖怪」との戦いエピソードでした。今なら、「そこは中国って言っちゃうとまずいよね。せめてアジアから来たとかにしないと」と言われそうな内容です。世の中は情報化でめちゃ複雑です。この複雑さの関係で具体的なことがより抽象的に表現される世の中になってるんじゃないかと思っています。こうなんだろうか、そこに問題があるのに見てみないふりをする感じ。

僕は家具を販売しています。手に取れる、座れ、収納もできます。全然安くない。むしろ高い。でもいいと誰もがわかる品です。抽象的でもなんでもない、めちゃ具体的です。家具ってめちゃ具体的だからもう売れないんだと思います。土日の広告であれだけ「本革3人掛けソファ20,000円!」って言ってるくらいなので、売れてないんだと思います。もっと売れなくなり、もっと値引きが激しくなるかもしれません。変な言い方かもしれませんが、僕が販売する時、特に小さなお子さんがおみえになるご家庭の方によく「お子さんの代、多分その次の代まで使って欲しい家具になると思います」と言います。「あなた死にますよ」と言っているようなものです。それでいいと思っています。いい家具を買って頂き、お部屋のコーディネートもたまにします。でも、基本は「次の世代まで使って欲しい家具を使ってください」って言ってます。死ぬことを意識して欲しいと思っています。明日死ぬかもしれないと思った時、「だったら安い今日だけ使える家具でいいわ」と思うか「だったら、残せるこのいい家具がいい」と思うか。死ぬことは怖い、怖くて仕方がない。でも必ず誰もが迎えます。これほど太古の昔から普遍的な価値観で考えれることって「死」以外にあるのかしら。「次の世代まで」という言葉に僕らは死ぬんだということを感じ、めちゃ真面目に次世代のことを考えて家具選びをすることは、死を感じそして毎日を正しく生きようということに繋がると信じています。良くわかりませんが、このことはきっと地球のどこかで今日も悲しく命が絶たれる子供の数を減らすことに通じていると僕は信じています。めちゃ具体的な普遍的な価値観を持つ「死」を感じながら、僕らの命は次の世代へのかけ橋で大切しながら生活しないと、と生きていくと、今世の中で起こっている沢山の問題って以外と簡単に解決されたりして。のんきにヘリコプターの模擬運転をしている長男です。彼は僕のヒーローです。死とはどれだけ悲しいことか、そして生きることの尊さを僕と僕の家族に教えてくれました。

成長の愉しみ

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仕事の効率を上げてできるだけおうちに早く帰ろうと毎日努力しています。もうすぐ50歳なので体力は落ちてきます、でも効率とか集中力はまだまだ大丈夫だと思っています。皆んなそうなんじゃないのかなと思います。「効率を上げて早く帰りたい」と思っていると思います。インテリアや家具、自分でどれほど好きか正直分かりませんが、誰かから「君あんまり家具とかインテリア詳しくないね」と言われたら、怒りくるうと思います。自分では意識していませんが、相当好きなんだと思います。でも、それが仕事となる全く別です。会社なので、目標っていうのを持たないといけません。うちの会社も同じで、毎月の目標が設定されています。それだけ儲けないと会社が潰れちゃうっていうラインです。

こういった目標が前にあってそれを越すためだけに努力するってことほど面白くないことはない。目標は自分の中にあるべきで、それを続けていたら結果会社の目標を超えていたというやり方の方が正解だと皆知っているはずです。どんどん仕事の効率を上げていいき、その結果の目標達成であるべきです。

目標を設定するのはだいたい中小企業の場合、私のような経営者になるわけです。目標ってのはほんとは各人に自分の目標を持ってもらってそれを集めて、「結果今月はこうなるはずです」となるべきです。目標達成って毎日の積み重ねだから、結局目の前の仕事をどれだけ一生懸命にそして、明日はもっとうまくなってやると、今の自分を常に超えていくことで達成させるものです。今日と同じことを明日して、それで達成される目標をたてることの無意味さ、時間の無駄さ、向上心のなささ、無気力さ、そんな目標を立てることで「がんばろう!」って思っちゃう人との仕事は大嫌い。「がんばらなくてもできるでしょ」って思ってしまいます。

ただ、世の中には今日できたことを同じように明日もできるようにすることに大きな意味がある人達もいます。例えば、障害のある人達。今日できたことが明日はできない可能性があるのです。健常者の「今日と明日同じことをする」と障害のある人の「今日と明日同じことをする」には大きな開きがあるのはわかりますよね。障害には精神、知的、身体の3種類があります。パラリンピックに出場している人のほとんどは身体に障害がある人達です。残された身体能力を鍛え上げ、「今日より明日」と必死で競技に参加する姿勢は感動に値します。精神、そして知的の障害がある人、脳に障害があるので、パラリンピックに参加する選手のように「今日より明日」という感情さえも湧かない人達が大勢います。「今日できたことに感謝」そんなことを周りの人達は感じながら生活をしています。「明日は今日より落ちるかもしれない」という危機感の中で周りは生活をしています。「落ちるところを落ちないようにする」と健常者の「今日より明日」の努力の幅はあまりかわらないと思います。

ただ見え方が違うだけです。でね、僕たちのような健常者が作る目標が今日できることの積み上げで成り立つとしたら、それができない人たちを馬鹿にしとるよ。

社会は、そして人は補完し合いながら生きています。できない人がいたら出来る人が頑張るの。今の能力、技術、気力だけで毎月のお給料がもらえるなんて考えている人とは仕事はしたくない。それができない人を馬鹿にしてる。会社の一員としてでなく、社会の一員としてがんばることができない人とは仕事をしたくない。稼いだ給料から支払われる税金の一部が、社会にどれだけ貢献するのかへの想像ができない人とは仕事をしたくない。どんな小さな目の前の仕事でもこつこつと最高の効率でこなし、それが自分自身のためだけでなく社会に貢献していると意識できる人とだけ仕事をしたいと思います。

疲れる仕事とは、今日と同じことの繰り返しで達成できるへんてこな目標が立てられ、それのために毎日する仕事です。そんな目標、僕の会社では許さない。社会の一員として仕事しないと。

5歳の息子は成長盛りで自然に今日より、明日できることがどんどん増えていきます。昨日はカニを素手で捕まえれなかったのに、今日は捕まえることできるとか。できることが増える様は彼自身の生きる源になっているように思います。子供だけがこの感覚を謳歌するなんてもったいない。僕たち大人も「おっ、前より早くできるようになった」とか「前より同じ時間でもっと丁寧にできるようになった」とか、毎日の成長を生きる源にできるはずです。5歳の息子を見て50歳近くの僕が「俺もまだ負けてないよ」って意地になっちゃうのは、そんなところから来ているのかもしれません。

皆さんのチョイスを増やすこと

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Sibast Furniture(シバスト・ファニチャー http://sibast.comfort-mart.com )というブランドのお取り扱いを8月から開始ました。いつまで続くか分かりませんが一応、日本での総代理店になっています。びっくりするほど、時間をかけて準備しました。これから少しづつでいいので他の販売店さんでお取り扱い頂けるようにお話しをさせて頂きたいと思っています。ほんと少しづつでいいのです。出来ることがほんと限られているので、両手が届く販売店さんと仲良くよく話ながらこれからこのブランドの理解を深めていきたいと思います。
コンフォートマートを運営しているのは大桑商店株式会社という会社でして、この会社は今のところ、「コンフォートマート」「雑貨屋イリケ」の運営、「Danish Art Weaving」、そして「Kjellerup Vaveri」というデンマークの椅子生地ブランド、そして最後に「シバスト・ファニチャー」の代理店として輸入卸をしています。輸入卸とお店の運営は別々の仕事であるべきなので、現在は別の者が別の事務所で専属でやってくれいます。別の事務所は4月から始めたばかりなので、全然落ち着いていないですが、少しづつなんとなく形になっていくんじゃないかと思います。

なんか「別の事務所で輸入卸ってすごいな」って思わないでください。全然儲かっていないです。赤字、そして借金まみれです。大変です。「どうして止められないんだろ〜」っていつも思います。だいたい、やっちゃいたくなるのです。「人生一度だし」とか思っちゃう。「このブランドって、もっと良くなるのに」って本気で企画書を書いてしまうのです。

このものが溢れてる世の中、新しいものなんていらないのです。「椅子」とか「椅子生地」とか検索してみてく下さい。腐るほど、そしてほんと素敵なものが検索でひっかかります。でも、各社、各メーカー、どんどん新しいものを「これでもか、これでもか」と出してきます。はっきり言いますが、僕たち疲れています、新しいものに。関係ないのですが、この前に息子たちと一緒にコンビニにアイスを買いに行きました。息子たちはアイスを買い、私は何だか分かりませんがレジのPOPにあったストロベリー味のなんとかっていうやつを買いました。息子たちが買ったのは、僕が高校生の時からあったアイス。僕達が買ったのはたった3つの商品です。3つです。でも、アイスケースの中には30種類以上のアイス、そしてPOPには僕が買った以外の新商品が10種類以上。3人のお客のためにコンビニが用意してくれたのは40種類以上ものチョイスです。この数、冷静に考えると疲れませんか。

僕が小さいころ、近くの駄菓子屋で売っていたアイスはせいぜい5種類。いまだに全てのアイスの種類を覚えてる。「パピコ」が出て画期的だった記憶があります。不思議ですね。5種類でよかったです、ほんと。種類が増えたのは色々な理由があます。だから、一方の理由だけで「だからね」と言っちゃうと大間違だから危険なのですが、ちょっとだけ考えたいと思います。

「多様化」ってよく言われる話です。「個人の個性」とも言いますよね。5種類のアイスしか売っていなかった時代でも「この味ちょっと違う」と思い、お家で別のアイスを自作していた人もいたと思います。「コンピューター化」もよく言われます。コンピューターの性能が驚異的に上がったので、それまでコストがかかりすぎていた小ロットでの製造が可能なりました。「情報化」、インターネットの普及がそれにあたると思います。これもよく言われる話です。それまで隣の人が何を使っているのか知らなくて、でもインターネットの普及で「えっ、隣の人って違うもの使っていたの!」とか「えっ、なんだ世界にはもっと別のものがあるの!」とか自分の生活圏以外のものを、見たことのないものの情報がすぐに手にはいるようになりました。

もともと人はそれぞれ違う考え方や環境で生まれ育つので、隣の人とは趣味趣向は違うの当た前。それがインターネット普及で「やっぱりそうだよね。違うよね」となり。その趣味趣向が違うものをコンピューター管理で小ロットで低コストで作れるようになりました。この傾向は止まることはありません。好きなものを好きな時にそして好きな場所で手に入れられる世の中にもっとなっていきます。

でも残念ながらものが増えても、チョイスが増えても、僕たちが買えるものって決まってる。だって、お給料ってものが増えるだけ、そしてチョイス増えるだけのペースでは上がっていかないから。でも、回りにはものが溢れてる。決まったお給料の中でできるだけ多くのものを買っちゃうんだね。そうすると、どうしても払える1個あたりの単価は下がる。以前は100円出していたものに80円しか出せなくなります。企業は80円でも利益を取れるように製造コストを下げたり、もっとコンピューター化を進めたり、必死です。ものが溢れている回りを見渡して僕が疲れる原因はこれです。華やかに見える商品群の裏にある複雑そして怪奇な経済の仕組が見えてしまうからです。「色々ある〜」と両手を上げて喜べないのです。「色々ある〜」の裏側で今日も職がない、あるいは退職を余儀なくされる人が世界でごまんといるのが見えるからです。

家具や生地もそうです。輸入卸をしていること、皆さんのチョイスを増やしていることに変わりはありません。疲れさせているかもしれません。給料はそれほど上がらないのはもう大前提です。僕の給料もそうですから。僕も含め、限られた資金しかないのです。その限られた資金の中にできるだけ安いものを詰め込むということをやめ、数ヶ月お金を貯めて、「これぞ」という1個を買うようなそんな生活にそして経済になればいいなと思っています。前から言い続けていますが、できるだけ人を減らし熟練を減らし、そして安価で提供できるものを作るんじゃなくて、できるだけ多くの人で熟練を使い時間をかけ、高単価のものを販売していく経済になればいいなと思っています。長い目で見たら結果得られる利益は同じです。

安価なものを作り続け経済を回し続けることは必ず必要です。ただ、それが本流となっちゃいかんと思っています。僕が海外から輸入するものは安価なものではありません。確かな技術と質、そして絶妙なデザイン。多くの人の手を介し、そして熟練の手を介し作られるものばかりです。そして、そのものには共感できるストーリーがひっついている。

ニーズが多様化した世の中で、でも賃金がそれほど劇的に増えない世の中、寿司詰めで安いもの買い続けるのではなく、貯金して「これだ」と思える逸品を買って欲しいと願う人たちが作っているものを輸入しています。こう考えるお客さんのニーズはさらに多様です。すごく繊細で丁寧にもの選びをします。今ある家具、そして生地ではその繊細で丁寧なもの選びすべてをカバーしきれなてないと思っています。少しでも、貢献できればいいなと思って、真面目に輸入卸をしています。

言葉

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昨日車でラジオを聞いていました。サミットのあった志摩市、そしてその通過点である鳥羽市が観光資源のアピールをがんばっているというお話でそれぞれの市の担当者がお話をしていました。その話しの中で「どんどん広告/宣伝活動をしていってアピールしいくことは大切なのですが、日本人には昔から『奥ゆかしさ』を重んじる文化があり、煌びやかにアピールしていくことがいつもいいことでないと思っています」というようなことを言ってました。普段もよく流れるラジオのコンテンツです。でもこの時は「奥ゆかしさ」っていう言葉が頭から全然離れませんでした。「ゆかし」って昔なんか古典で習ったような記憶で多分「行きたい」という意味だと思うんです。「奥ゆかしさ」って「その奥を見てみたい」と思わせる様のことを言い表しているんだと思うんです。「ちらイズム」です。「あとは想像して下さい」と強く思わせること。そして、その人がそう思いたいと思わせる言葉であったり、絵だったり、画像であったり。そして、そう思わせる対象物やサービスにはそれに価する深いストーリーがないと意味がない。

今の世の中にはストーリーなんてないくせに「思わせぶり」にしたり、あるいは「全部見せ」だったり、僕たちがそのものやサービスにその「奥行き」を感じない、或は感じたとしても「あれっ、騙された」って思うことがちょっと多いかもしれません。

媒体がこれほど発達していなかった江戸時代(たぶん今と違った広告媒体はあったと思いますが)って、ものやサービスの「奥ゆかしさ」って半端なかったんじゃないかと思います。今でも「隠れた名店」ってだいたい僕たちが持っているこの奥ゆかしさの感覚が触発されて生まれているんだろうと思います。この感覚は多分日本独特で英語でも「modest」とか「humble」とか「graceful」とかなんか近いのがありますが、たぶん感覚が違うと思います。そして日本独自の「侘」「寂」がこの「奥ゆかしさ」の感覚の底辺に流れているような気がします。歳を取ったせいなのか、こう言った言葉に惹かれます。

写真はこのまえ息子とおたまじゃくしを取りに行った多度峡です。僕が小学校の時からずっと変わらない形でそこにあります。なんか分かりませんけど、自然はスゲーなと思います。僕たちは毎日右往左往しながら毎日を過ごしていますが、自然もそうだと思いますよ、だけど凛としてるその姿は40年経っても何にも変わっていない。草木の葉は毎年入れ替わり成長をしていきます。でも、その全体像は自然のバランスの中でいつも決まった形となってる。勉強になります。そんな風になりたいな〜、と「奥ゆかしさ」という言葉をラジオで聞いて思っていました。
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