Comfort Mart 店長ブログ

三重県桑名市でデンマークブランドを中心とした北欧家具、そして北欧照明を販売しているお店です。直接デンマークから買い付けたヴィンテージ家具のご紹介、そしてお持ち込み頂く家具の修理/修復も行っています。

残る者に残る記憶

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小さな頃のことを思い出します。その時に湧き上がる記憶は印象、そして経験や学びだけです。物資的な豊かさなどこれっぽちも印象にありません。例えば、あの時父に買ってもらった自転車、嬉しくて、感謝しながら誇らしげに運転している感覚です。どんな自転車でいくらだったか、そしてどんな機能が付いたのかなんて、記憶にありません。ただ、「嬉しくて、誇らしかった」という記憶です。私たち販売する者はこのこと、心しておかないといけないと思ってます。いつも、残るのは物資的な豊かさでなく、精神的な豊かさであり、もっと分かり易い言葉で書くと、愛と感謝です。私たちが提供するのは物質ではなく、物質を通じて記憶に残るであろう愛と感謝です。お店や、そしてインターネットからのお買い物もそうですが、家具/照明店に足を運ぶことになった経緯、「やり取り」の中で私たち、そしてお客様共に感じること、そしてお届けしたものをお使い頂き感じることなど、このものがあってよかったと感じるものへの愛を通して感じる、すべての存在に対する感謝。

柴犬の散歩は7年になります。朝早くにうちを出る時、「いつまでこうして散歩ができるだろか」と「お前が先か、俺が先か、先に逝くのはどっちだろうか」と話し掛けたりします。言葉の分からない柴犬はこちらに振り向きもせず、ぐっぐぐっと私をいつもの場所まで引っ張るだけです。こんな話をするのも、7年も散歩をしていると、いつも見ていたあのワンちゃんがいなくなり、理由は「そっか、やっぱりね」と納得することも多いから。それはワンちゃん本人も、そして高齢化が進む地方にありがちな理由だったりしますから。

先日、会えばお話をする同じ柴犬を連れている飼い主さんと「あれ、そこの毛、生えてないね」とその柴犬の身体にほんの一部だけ毛が不自然に生えていない部分を見ながら尋ねた時です。「注射したんですよね・・・」と。うちの柴犬が動物病院で注射した時も「そういえば、そうだったな」と思い出し、「何かあったんですか?」と尋ねたら、「この子、癌なんだよね」。うちと同じ7歳の柴犬。「あと、どれだけ生きてくれるかな〜」って、1人で呟くようにその柴犬に目をやってました。

おうちで飼われてる犬は老いても、それでも生き続けます。飼い主がお世話するから。これが自然にいる動物になると話しは別です。どの動物も老いた仲間の面倒はみない。老いて、動けなくなり、食べれなくなれば、死ぬだけです。あるネズミは老いる前の元気な状態で死んで行きます。仲間が老齢期に入った個体を助けることなんてないんです。動物中で人間だけです、仲間が助けてくれるの。僕なんか、もうその歳になって来ましたから、よく考えるんです「どうして、他の動物でなく、人だけが老人を助けるのか」って。おそらく、「生かしておいた方が見捨てるより、生物的に有利」だからなんだと結論付けてます。そして、「その有利なことってなんだろうか」と考えます。

私たち生物の生きる目的はより多くの強い子孫を残すことに他なりません。生の起源である受精において、減数分裂で有性生殖をするようなったのも、遺伝子の多様化を可能とし、より強く生き残れる個体を増やすために何億年もかけて私たち動物が獲得した生存戦略の最たるものです。だから、この目的に沿って、私たちは老人のお世話をしてるんだろうと思うんです。

でもこの現代において、老齢期に差し掛かった人を残すことって、ほんとに生物としての人の生存戦略に合っていることなんだろうかと考えてしまうことがあります。老人を残すことで得られるより強い子孫を残すための実利があるのかってことです。情報化が進んでいない以前の社会では、老人のお世話をし老人が若者に対して「教える」ってことが理になかっていたんだと思うんです。先人の知恵が生きる時代。そのためどうしても老人が必要だった。例えば「この雲行きでは嵐がくるぞ」と経験のある老人が言えば、ほんとに嵐がやってきて無駄に狩や漁に出かけずに済み、子孫の残すことに役に立った。人生に悩む若人に「こうしてみたらどうだろうか」とアドバイスすることで自殺を考える若者を救うことも出来た。これら、経験のある知恵のある老人だから出来ることのはずです。でも、特に先進国では核家族化が進み、また夫婦共働きとなり、地域にいるご老人と交わる機会なんかなく、老人から「知恵を頂く」ってこと、ほとんどないんじゃないでしょうか。また、そんな現代に生きている老人本人も「若者に迷惑をかけちゃいかん」と自ら交わることを避ける傾向にあるような雰囲気さえあるように思います。

地域によくある、老人と小学生が交わる機会を作るイベント。この地方なら、夏休みの「ラジオ体操」、そして「スポーツ交流会」など、大人がこうしてわざわざ機会を作らなければならないほど、老人と自然と交わる機会がなくなったってことだと思うんです。

ただ、世界には情報化が日本のように進んでいない地域もたくさんあります。むしろ、そちらの方が面積的には多いと思います。そういった地域に住む人々、今でも核家族化は進んでおらず、村単位で生活の基盤が成り立たせているようなコミュニティーに住み、その中で生きる老人の権限はびっくりするほど高く、あたかも老人が全て知っている、そして、未来の予言さえできるところまでの権限が許されていることもあるようです。例えば、老人が「この月夜に生まれた子供は不吉を村に及ぼす」と話し、生まれた子供をその場で殺してしまうようなコミュニティーはいまだに多く存在してるようです。ただ、こういったコミュニティーの存在も世界経済が進めば気薄となってくるんだと思う。

私の母が何年か前の脳出血で障害者となり、長い期間、老健と呼ばれる保険適用の医療行為が許されている老人介護施設で生活をしたことあります。また、叔父の何人かは長期入院が許される老人が多く入院している病院で亡くなっています。私の母はもう話せませんし、歩けません。もう、知恵を引き出すことなんて叶いませんし、病院でなくなった叔父達はもう何年も意思疎通が出来ないまま逝ってしまっています。母が暮らした老人介護施設、そして叔父が亡くなった病院に行くたび、そこにいらっしゃる多くの老人の背中を見ながら、「なぜ、我々はこの方々を生かすのか」と、すでに私たちが必要とする知恵のアウトプットの手段を持たない彼らを見ながら、自問自答が続くのです。

例えば、コンビニエンスストアの駐車場でアクセルとブレーキを踏み間違えた老人が起こした悲惨な交通事故や高速道路での逆走問題など、老人の「社会不適合」ぶりに憤りを感じる方々が多くいるのも事実です。また115兆円の国家予算のうち約10%も占める介護費用について不満を感じる方々が多いのも事実です。

何かの理由で老齢期を待たず他界してしまう人は大勢います。でも、寿命が分からない私たちはこれからの事象について「誰もが老い、そして誰もが同じ道を辿る訳だから仕方あるまい」と堪えているのではないかと思うでんす。その通り、私たちは必ず老い、そして私たちのほとんどは必ず今の老人たちと同じ道を辿ります。

ただ、何となく今私たちが堪えなければならない枠に私たち自身が必ず入って行き、堪えている人たちが大勢いる中でその枠で生活を続けることになる私たち自身の精神衛生は如何なものかと、心配でなりません。

情報化が逆戻りし、老人の知恵が必要となる時代となれば、こんな心配はしなくて済む訳です。ただ、情報化の勢いはいよいよ増し、AIが幅を利かし、老人だけじゃなく、人さえもいらない世界にさえなりそうな雰囲気のこの時代、老人の知恵が必要な時代は私たちが住む先進国ではまずやったことないことは間違いない。

老人からの知恵は必要のない時代になった、老人をお世話するための膨大な国家予算が必要、そして身体機能低下からの様々な社会不適合具合、これら全て老人が老人となり、物質的なものが提供が出来なくなったことばかりです。私が考えていること、これ全て物質主義の最たるもののような気がするんです。「物質的に利するものがないと、そこへの投資は意味がない」とする経済主義の考え方。ただ、国民一人当たりのGDPが増えるほど、その国の自殺率が上がるとされる、経済発展と自殺率上昇の高い相関関係は、物質主義の成れの果ての殺伐とした社会の未来図を映し出しているような気がして仕方なく、私も含め、誰もそんな世の中なんて望んでないのです。

年末ジャンボ宝くじがあたる確率は2000万分の1。私たちが生まれる確率を出すのは色々な見方があるので、一概には言えませんが、2億から3億分の1。これ、受精できる精子一つが勝ち残る確率です。また、これに加え卵子には異物を排除する強い働きがありますし、うまく受精が叶い受精卵となり着床し、そして卵割、胞胚、とうまく細胞分裂してくれ、そして胎児となり、あの命懸けの狭い産道を潜り抜け、この世に生まれ出てこれる確率なんて、もうほんと計算出来る以上の宇宙レベルの確率であること、誰もが分かると思います。この地球の人、全てが奇跡の確率で生まれた来た「勝者」なんです。この勝負に負けていく「敗者」の数、どれほどのものか分かりますよね。私たちはこの世に生まれただけで、すでに奇跡であり、勝者なんです。敗者だって、生きてる我々のように日々笑いたかったはず。そして日々悲しむことさえも、羨ましいと思うはずです。

だから、老人の姿を見て、生きてる意味を考える時思うんです。「生きているだけでいいんじゃないか」って。

私たちはいつから、生きることに努力をしなければならなくなったのでしょうか。生きている以上のことを期待するようになったのでしょうか。生きるとは「死なない」ということだけでいいはずなのに、生きてるだけで意味があるはずなのに、生きてる意味を見つけるための努力をいつからしなければならなくなったのでしょうか。特に、この経済が主導する社会、物質的に利がないと、その生命に意味がないとされる風潮、どこかにあるような気がしてますし、馬鹿げた考え方だと思ってます。

私たちは本来、生きていればそれだけでいいはずです。つまり、死ななければそれだけでいいはずなんです。これはどんな生命であってもです。生まれつき障害を持ち、喋ることも聞くことも見ることも歩くことも出来ない人、世界には沢山います。そして1人では生きていけない老人、この日本にも、そして世界中にたくさんいます。

そして、僕ら健常者であっても、生きていればそれだけでいいはずです。健常者であっても、1人では生きていけません。生まれてすぐ立ち上がる子供はいないし、生まれてすぐ自分の手で食べ物を手に入れることのできる人なんて1人もいません。今生きている人全て、誰か助けてくれる人が周りにいてくれるから生きていけるのです。

母が障害者となり、ただ生きているだけとなってます。この生命、物質的にはなんの利もありません。でも、それまで疎遠だった兄妹姉妹が母のために集まり、母が亡くなるまでのことについて協力し合うよう仕向けたのは、倒れても逝かなかった母の意図だったんじゃないかと思います。この協力から得られる様々な発見や学は他では得られることが出来なかった思ってます。亡くなった叔父にはもう何十年も音信不通の一人息子がいました。父が危篤だと知ったその息子は、何十年ぶりに帰郷し、枕元でもう話せない父親に「育ててくれてありがとう、お父さん」と何度も何度も伝え、話せなくなった父親の目からは涙が溢れていました。父と息子の間で確かめ合ったこの愛と感謝、老人になった父が息子に学んで欲しかったことなんじゃないかと思うんです。

先週亡くなった妻の父は約2年の闘病でした。死が近づく義父からも多くのことを学んだ気がします。

利がない「社会的には不適合」とされるような老人からも、私たちは多くを学び、そしてそれは次の世代に大切すべきものだと受け渡すべきことのような気がしてます。

これから全て、物資的なものとはまるで違う、私たちがこの世に奇跡的に生まれた本当の理由だったような気がしてるんです。これまで多くの大切な人を失ってきて、「人は生きたように死んでいくと」と分かるようになりました。死んだ時、この世で得た物質的なものは全て無と化します。残る者に残る亡くなった人の記憶、それはその人が持つ愛と感謝の強さだけなような気がします。強く愛と感謝に生きた人はその強さを残すように死んで行きますし、弱い方はその通り弱く残して死んでいくように思います。ただ、その強弱の差はあれ、共に愛と感謝のためにこの世に生まれ、そして生き続けた奇跡の人であったことは確かなのです。私たちは皆、奇跡を生き、そしてその奇跡を紡ぎ社会を築き上げる仲間。

老人に限らず、どんな生命にも、愛と感謝を紡ぐ使命があり、それは物資的なものを大きく超える最も優先されることだと思うのです。物質的に利に合わないと排除するべきは、生命ではなく、そうさせる社会の仕組みに他ならない。そして、誰も1人では生きていけない訳ですから、助け合い最後まで付き添い、存分に愛と感謝を学ばせて頂き、その生命が尽きたら、次の命に学びのバトンを渡していくことで、今日よりも明日、そして明日よりも明後日を期待出来る明るい社会を築いていけそうな気がするんです。

こんな高度なことが出来るのは霊長類のトップに立つ、ヒトだけです。ヒトがヒトとして最も尊い仕事は最後までお互いに関わり続け、最後の最後まで互いに愛と感謝を学び合い、そのバトンを次の世代に渡し続けることなんじゃないかと思います。

寿命が明らかになった7歳の柴ちゃん。もしかしたら、寿命を知らないだけで飼い主さんの方が先に逝ってしまうことさえもあります。いつ何時誰がどのような形で逝ってしまうなんて、誰も知らないのです。ただ、その逝ってしまう生命、この世に生まれたのは奇跡であり、助け合い、学び深い人生を歩み、愛と感謝を残る者の残していく大切な使命があると思ってます。あの柴ちゃん、そして飼い主さん、大いなる学びがこれから待っているはずです。どんなに老いても、喋れなくても、歩けなくても、残る者に学びを残してくれすはずです。決して物資的なものに依らず、私たちが持つ奇跡の生命がある意味、深く深く考えて生きていきたいと、私の心にある残された記憶を感じるたびに思います。

経済本位の社会が進む現代、ヒトがヒトとして次世代に残していくのは決して物質的なことでないこと、自らの過去の経験、そして多くの大切な人を亡くしてきて、間違いないと思ってます。私たちがお届けするのは家具や照明じゃないんです。間違っちゃいけないと、多くの先人が教えてくれました。この教えは何事にも代え難いかけがえのないもので、だから、私たちは老人に限らず、命あるものに対して、精一杯に関わり続けるべきなんだと今は考えています。

ただね、こうは言っても、いつもそう考えている訳でなく、そこがこの世に生まれた証だとさえ思ってます。つまり、私たちは完全でなく、不完全のまま生まれ、そして恐らく不完全のまま逝くんだと思います。この過程を繰り返し、完全に近い形となり、「あがり」となるんだと思います。こう考えると、不完全に感じる現在の社会も「そりゃそうだよね、過程だから」なんて思ったりしてます。

いなべ市と菰野市

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この地方にも年に何度か雪が降るんです。ただ、一昨年までとは違い、雪が残らない。降った翌日からの気温が雪が残る程の低温でなく、何日も解けないど雪が残ることがなくなりました。北側が山、そして南側が海となっている桑名市、北側と南側の積雪量の違いが体感的にはっきりしとして来たことにも少し驚いています。

桑名市の隣はいなべ市、そしていなべ市の隣は菰野市。どちらも、海に接しておらず、濃尾平野の山側の西端にあり桑名市と比べ地盤がしっかりしていて、濃尾平野の海側の端で海抜地帯が多く、河や海の氾濫が多く、また湿地帯が多く、歴史的な物理物が残りにくい桑名市と比べ、古い文化遺産が比較的多く残っている地域です。山里ですから、人の行き来は少なく、それに比べ神宮への宿があり人の行き来が多かった桑名市と比べ、「自然と生きる」感覚が今でも、桑名市と比べ濃い感じがします。大きな工場がいくつもでき、また高速道路も開通し、以前と比べ人の流入は多くはなっていますが、以前から大交通網がある桑名市と比べると、その度合いはそれほどではありません。また、人口減、特に地方での人口減の影響で、この人の流れが増えることも想像しずらく、現在あるいなべ市や菰野市の「自然と生きる」暮らし具合はこれから先もそれほど変わることはないだろうと勝手に想像しています。

「自然」とは言っても、森にある木のほとんどは皆伐された後に植林されたものがほとんどで、それが600m程の山の山頂にまで広がっている様は、日本のほとんどの森にある姿とあまり変わりありません。また、広がる畑、そして田んぼはもちろん天然のものでなく、私たち人が開墾したものです。

ただ、そこにある山はずっとずっと昔の地殻変動で出来たもので、そこにある山自体は超天然です。そこにある石や砂や土、そしてその土壌から発せられる空気感はずっとずっと昔から変わってないはずです。菰野市にある福王神社にある御神木は樹齢1000年以上なのだそうです。ただ、たった1000年です。山が出来たのはさらにさらにもっともっと昔で、現在の研究ではだいたい300万年前とされています。それが合っているとしたら、出来た山には今とは違う植物があり、そして今とは違う動物いて、まだ私たちホモ・サピエンスは生まれていない。樹齢1000年と聞くと、相当長生きだなとは思いますが、それは人目線でそうなだけで、地球目線でみると大したことありません。

こんなこと考えると、御神木から感じる神社のありがたみが霞んでしまうから、それはあまり気にせず、祀られている神様を考えることにしています。日本は八百万の神の国ですから、簡単に言うと「自然信仰」で、なんでも神様になりえます。ただどの自然の神なのか、或はその他のどんな神が祀られているのかの詳細について、忙しい現代を生きる私たちの多くは「神宮」(伊勢神宮)が一番が厳かなんだろう的なことくらいしか知らないのです。もちろん私もその範疇です。

記録が残せるようになったのは日本書紀が作られた頃からです。だから、西暦700年頃。誰もが知るこの時期に日本書紀が書かれたその理由、紙の発明です。多分、それまでもどこかに何かを何らかの文字で記録していたんだろうと思うんです。多分、その何かとは「税金」のことです。今も昔も争いごとの元は経済的な「不公平」であったことのはず。「おいおい、その証拠を見せろ!」というのも今も昔も変わらない思う。だから記録していたんだろうと思います。ただ、紙が作られる以前の記録媒体は保存が出来なかったんだと思う。紙が優れているのは「残せる」ということに他ならない。そして、嵩張らない。「残せる」「省スペース」、現代のIT化でもよく聞く企業商品の差別化要因。人が欲しがることはずっと前から同じなんです。マーケティングって言葉が今はありますが、ただ言葉が生まれただけで、考えてることはずっと同じです。

各神社に行くと見れる書かれているそれぞれの由緒、例えば奈良にある「大神神社」に祀られて神様は三輪山の山の神様。その書かれている由緒は紙という記録媒体が発明された以降に、それ以前に口伝えで聞いたことを紙に書いて残したもの。ちょっと微妙ですよね。つまり、その元は「こうお爺ちゃんが言ってたよ」って程度に違いないのです。だって、山の神様だとしたら、その山が出来た300万年前に神様が舞い降りたに違いなくその時には紙もなく、ましてや人(ホモ・サピエンス)が生まれるのはそのずっと後ですからね。日本に人が住み出したのはもっと後で4万年ほど前からですから、山が出来た時に神様が現れたとしたら、神様が山に宿ってから、私たちがその神様と遭遇するのに293万年もかかって、その間のことも含め、そしてその出会いから記録媒体が出来るまでの西暦700年の間の出来事なんて、正確に書ける訳がない。

こう考えると、全国にあるどの神社もその由緒は「適当」です。「いい加減」という意味の「テキトー」じゃなくて、「相応わしい」という意味の適当です。

私はよく神社に出掛けます。特に自然の神が祀られていると由緒の神社です。神社の役割は歴史の中で政治的に使われた時代も多く、その時代の権力者によっていいように改変されたり、由緒の追加が行われてたりしてます。

神様の存在は深く信じていますが、その神様の存在の捉え方の違いで世界に存在する様々な宗教については懐疑的です。ただ、それでも、それらを信じる人がいることは知っていますし、またそれはその方々の自由だと思っています。そして事実、それらの宗教を信仰する方々には「奇跡」が起こっているだと思います。信じられない奇跡が起こっているんだと思う。

「奇跡」を「奇跡」だと感じるか、それとも例えば「自らの努力」と感じるか、それはその人の主観的な感覚だから、だれもその感覚に立ち入ることは出来ないと思ってます。

私がよく神社に行く理由はこの「主観的な感覚」なんです。だから、私がよく神社に行く理由もある意味「宗教活動」かもしれない。また、神社の由緒が「適当」と言いたかった理由もここなんです。神様信仰なんて、もともとめちゃくちゃ個人的で主観的なんです。その時代の人が「この場所、いい感じがするぞ」って感じ、「何か作ろう」と思ったのが神社の始まりだったに違いないと思う。そう思い始めた人たちが後世に「だろ、いいだろ」って伝えたくて、そのいい感じの理由を由緒として記録媒体に残したのがそれぞれの神社の由緒なんじゃないかと思うんです。だから、その神社を最初に作ろうと思った人にとって、その場所は神社に「相応わしい」って感じだったんだと思う。神社の最初なんて、こんなもんだろと思う。

以前の人たちはこの「いい感じの場所」という道標を神社という名前で残してくれました。忙しい現代人はわざわざ「私が感じるいい場所」を探すことなく、その場所にさっと行ける訳です。手っ取り早く「いい感じの場所」を知りたい現代人の私にとって、神社はいつでも行ける「神」を感じられる「コンビニ」です。行く度に「いい感じ」自体に感謝すると同時に、こんな場所を感じ取ってくれた昔の方々に感謝しています。

地盤が安定していない桑名市に比べ、地盤がしっかりしてるお隣のいなべ市、そして菰野市には「いい感じ」を感じられる森のある山の近くの神社がたくさんあります。このいい感じの源は山の力なんだと勝手に思っていて、それは私が信じる神なんだろうなとも勝手に思ってます。そんな場所に1人でも行きますし、たまに柴犬と、たまに妻と、そして息子と一緒に出掛けます。隣にこんないい場所があるこの桑名市に生まれ、そして現在暮らすことに何か意味があるんだろうと思い、山の力を感じられる日々に感謝しています。

海外に何年も住みましたが、いつも思い出すのはこの感覚です。この国に生まれ、神様を身近に感じることが普通にある文化に育ち、海外に住んでる頃は近くにある教会に行っては日本で感じたこの感覚を感じてみたいと試みましたが、やっぱり違うのです。

日本と同じように国土の2/3が森に覆われるフィンランド。ただ、その森はひどく荒れており、天然の森はほとんど残っていなとされています。森は山にある日本ではこういった場合、森が荒れていると言わず、山が荒れていると言います。そして、日本ではフィンランドの森のように山が荒れていると言われ続けています。森、そして山と言い方は違いますが、そこに感じる感覚は同じなんだろうと思います。日本でもフィンランドでも、そんな山や森を本来の姿に戻そうとする多くの人たちがいます。失う理由を作ったのも私たち人、そしてそれを守ろうとするのも私たち。いつも行く神社から山の力を感じ、それがなくなると想像すると、フィンランドの人の気持ちがちょっと分かるような気にがします。失いたくないもんね、「いい感じがする場所」ね。

経済が優先する現代、兎角、何かを進める時は目的とその根拠を示す数字が求められます。そしてそれから失ったものを取り戻そうとすると社会からは「数字に基づく根拠は?」と詰め寄られます。根拠が「いい感じだね」に基づく神社、こんなにたくさんあるこの国です。それでも「そこは数字なんかい!」が多い毎日を過ごし、「不思議だな」と思い毎日をやり過ごしているのは皆さんだけじゃないですから。安心して下さい。

今年もありがとうございました。

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商品撮影、最近では撮影スタジオを貸して頂きおこなっています。いい環境で撮ると少し腕が上がった気分になったりで、それよりも、綺麗な照明でそれまで気付いていなかった商品の魅力に気付いたりと、勉強になることが多く、今後もこのやり方で進めて行こうかと思っています。

いつからか忘れてしまったのですが、お店の営業時間をお昼の12時から夕方の17時までに、そして加えて第一土曜日を定休日してます。この影響からなのか、驚く程電気代が安くなってます。時短に加え、動力を使うエアコン、そして工房での電気工具、そして塗装場のダクトの使用頻度が少なくなった影響も大ききと思います。電気使用料金の上昇分を相殺しても余る程の節電効果。でも複雑な思いがあるんです。

去年から11月になっても気温が下がらず暖房を使い始める時期が遅くなり、今年はさらに気温が下がる時期が遅れてます。

また、北欧ヴィンテージ家具の販売がめっきり減り、工房で四六時中作業することがなくなり、この分の電力使用の減少も節電効果となってます。

地球温暖化からの節電効果。そして、北欧ヴィンテージ家具の販売の減少からの節電効果。複雑な気分ですよね。

地球温暖化についてはもう話す必要のないくらい当たり前の事実。そして、北欧ヴィンテージ家具の売上減。ていうより、この原因は人口減であり、それからの人口構成の大きな変化による消費行動の変化が原因です。

私が通った中学校、私が入学した45年前、あったクラス数は10。そして1クラス40人程度。なんとなく、いち学年400人って記憶です。それが、現在では1クラス30人のクラスが学年2クラスだけになってます。そして、数年後にその中学校、廃校になることが決まってます。45年前の400人から現在の60人。85%減です。今の中学生が購買力を付ける20年後、この地方のマーケット規模はもちろん85%減です。これって、「対岸の火事」じゃないってこと、みなさんも身近に感じてると思うんです。

現在高校に通う女子の何人かと話す機会があり、「将来のこと」について聞いて見ると、専門職に就こうとしている人が多いことに気付きます。 私たちが高校生の頃、専門職に就くことを語る女性、ほんとに一握り。大学を卒業してから専門職に就き、「いい感じだぞ」となるのって、私も専門職でしたから、私の感覚だと30歳くらい。つまり就職してから10年くらいはキャリアとして仕事を続けないといけない感じになります。30歳以降で結婚、そして子を産むとなると、がんばっても2人が限界だろうと普通に思います。そして、2人では人口をキープするには足りないこと、皆さんもよくご存知だと思います。

世界どこでも結婚した人は以前と同じ様に子供を作ります(世界統計で分かります)。今、子供が少ないのは、「結婚しても子供を作りたくない」じゃなくて、「結婚自体をしない」、そして「結婚が遅くて子供が作れない」が統計的に分かってます。

でも、肌感覚的に「20代前半で結婚」って聞くと「早いね〜」って時代だと思うんです。この肌感覚になったの、なんとなくここ30年くらいです。また、専門職を目指す女性の数は減らないこと、現在の教育制度を眺めていると明らかです。

人口減の中で販売数が減る時、売上を守る方法の王道はなんらかの方法で商品単価を上げて切り抜けることです。でもね、現在のスタッグフレーション気味の実態経済を見てると「そんなこと出来るの〜?」ってやけに懐疑的になってしまうのは私だけじゃないと思います。

そもそも、「人口が減ってもいいじゃない」って思う方もいらっしゃる。ただ、何人だったらいいのって思っちゃう。結婚もしたい人がしたい時期にすればいいし、子供が2人しか産めないとなっても、それはそれでいいじゃないって思てる方も多いと思う。私も正直、こんなに人口いらないんじゃないかと思ってる派です。また、結婚も好きな時期にすればいいと思うし、また子供の人数も「それはこちらの勝手だろ」って考える派です。どれもこれも、人生80年くらいですから、大した問題じゃないとさえ思ってます。

大した80年間じゃないと思いますが、この80年は幸せに暮らしたいとは思ってます。幸せの根源は「必要とされている」と感じることだと思ってます。それが家族からなのか、知人からなのか、或いは全く知らない誰かさんからなのか分かりませんが。だから、「必要とされる人になりたと」いつも考えています。私は私自身のやり方で進めますし、ある人にとってはSNSに「私ってこんなに素敵!」と投稿することなのかもしれませんし、それぞれがそれぞれのやり方で進めているんだろと思ってます。これから私はさらに歳を取り、必要とされるための行動や言動が出来なくなるかもしれません。そうなった時の自分を想像すると、とっても怖い気がします。

ただ、人生を長く生きてると、「そうでもないかもな」って思うことも経験します。歳を取ったから出来なくなることもそうですし、不慮の事故や怪我や病気で、障害者となったり、寝たきりになってしまったり、突然あの世に行ってしまい若くして出来なくなることもあると経験上よく知ってます。病床にいる動けなく、そして喋れなくなった人を見て、決して「もう必要とされる行動が出来なくなったから消えてくれ」なんて思わないし、その逆で少しでもいいから長く「生きてくれ」と願います。自身では「何も出来ないし、必要とされないから、生きてる意味がない」と思ってるかもしれない。でも、そばにいる人はそうは感じてないんです。

経済が先行する世の中でずっと生きてると、物理的に何か見えないと、そして触れないと「意味がない」と思い込んじゃう時が多々ですし、私が歳取って貢献できなくなることへの恐れはここから来てるんじゃないかと思ったりしてます。もう何年も生まれてからずっと経済に塗れ生活していますから、ここからの脱却は相当困難だとも思ってます。ただ、この塗れた生活に相当疲れていることは確かなんです。

生物種に永遠はないですから、私たちホモ・サピエンスはいつかは滅びます。この種を許容できる地球環境もどんどん変わりますし。地球が生まれ48億年。ホモ・サピエンスが生まれてからたった30万年ほどです。彗星が地球にぶつかる可能性もありますし、地球のプレートが動いてますから大きな地震は必ずやって来ますし、現在の寒冷期の地球は地球の歴史上稀な時期で有るわけだし、食料はすでに足りてませんし、過去に1,280人程度までにホモ・サピエンスの世界人口が減ったことが原因での同一ウイルスへの脆弱性もある訳だし、私たちがこの地球上で永遠に生き続けられる可能性はゼロに極めて近いことは誰もが知る事実です。

経済優位の社会生活を送ることでその滅びるまでの期間を縮めているとほとんどの人が分かっているにもかかわらず、相変わらず経済優位で社会生活を送ることしか生きる術しかない事実に毎日困ってます。もしかしたら私以外の多くの方々は「滅びない」と思っているのか、或いは知ってはいるが「仕方ないじゃない」と思っているのか、或いは「知らない」のかと疑いたくなる時もあります。でも、「そんなことないはずだ」と言い聞かせ、また「なぜだろう?」って考え出す日が続きます。

ホモ・サピエンス自体が滅びると大きく考えなくても、「家族が死ぬ」、とか「友人が死ぬ」とか、もっと身近な死に直結していないからなのかとも考えたりします。滅びる時は一気に滅びるなんてありませんから、必ず徐々に周りの人が死んでいくんです。愛する人が息絶える姿を目の当たりにするんです。誰もこんなことに耐えれない。地球を何周してももう愛する人に会えない悲しみって、「悲しみ」の中では最上級です。こんなこと誰でも知ってますから「愛する人が死んでもいい」なんて考える人はいないと思うんです。

経済優位性が私たち自身の滅亡の時期を早めている事実については腐るほどの書籍が出版されてますし、化学や物理や生物を齧ったことのある方々からすると疑いのない事実です。例えば、食用植物の大量生産の救世主として現れた窒素肥料。現在でも大量に使われ続けており、吸収されなかった窒素から発生する一酸化二窒素は温暖化ガスですし、窒素肥料を作るための大量の化石燃料の消費は温暖化ガスの発生源ともなっています。窒素肥料のおかげで私たちは食物にありつけていますが、経済優位性を目的にした窒素肥料の大量散布は私たちの首を絞める結果となってますし、そして窒素肥料の製法から作られる硝酸は戦争で使われる爆弾の火薬に使われます。大量死を生む戦争なんて起こる理由は経済覇権の奪い合いですから。こんな事実は腐るほあって、こういった経済優位性を優先した政策を合わせると地球が持つ生態的制約をすでに大きく超えていて、もう地球の自浄力ではどうしようもない状態になってるってこと、簡単に分かるんです。

お正月だからと買いたくなる鮭も獲れなくなってます。そのほとんどは養殖のものに替わってます。養殖が与える環境へのネガティブなインパクトは列記し出せば尽きません。遠方の親戚が喜ぶからとお正月に買いたくなるイクラ、もう獲れませんから。イクラなんて送らなくても、電話で「元気?」との一声のがどれだけ嬉しいか。

人が減り、経済優位の社会が崩れ、物質的に恩恵を受けている科学技術の伸びも落ち、寿命も短くなるだろうと思ってます。そして、物質的なやり取りで成り立つ関係性や喜びは薄れ、少なくなった人で、そして短くなった寿命において精神的な繋がりがより重要視される世界になるんだろうと思ってます。物資的な喜びは大きく減るだろし、経済優位性に生きがいを感じていた人の精神的な疾患が増えるかもしれません。私みたいな生まれてからこれまで経済的な社会に塗れて生活して来た者はその範疇だろうと覚悟しています。仕方ありません。これまで相当な恩恵を受けて来たから、むしろ感謝しています。

このお店を必要と感じて頂けるお客様に囲まれ、ほんとに幸せなんです。私に幸せを与えてくれる皆様の幸せを毎日願っています。私の出来ることはお客様から頂けるお仕事が一つでもある限り、真面目に丁寧に、そして出来るだけ環境にインパクトを与えないやり方で進めることです。ずっと進めたいとは思っているところ残念ですが、そうとは信じたくないですが先述の通り、かなり近い将来、この地方の購買力はびっくりするほど落ち、それに伴いこんな小さなお店は早い段階で相当厳しい局面を迎えるんだろうと思ってます。でも近い将来「滅びる」と分かってますから、であるから、愛と感謝に満ちたやり方で進んで行きたいと思ってます。またそして、それが私がこの世に生まれ、そして生き続ける意味だと信じてます。「その方法はなんだろう?」って未熟な私はいつも悩んで、そして困ってます。来年も変わらずこの感じで進んで行くんだろうとは思います。でも精一杯がんばりますので、お付き合いの程何卒よろしくお願い致します。

今年のご愛顧ほんとにありがとうございました。また来年もよろしくお願い致します。

「移動美術館展」

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11月の初めに近くの中学校であった「移動美術館展」のお手伝いをしてきました。三重県在住の美術家の1人が中学生には少し敷居の高いというか、その他のことが忙しくて行けていないであろう「美術館」を中学の教室に持って行き、多角的な視野を中学生に養って欲しいと願って始めた活動です。

私と妻は教室で突っ立てるだけなんですけどね。

学ぶことが多くて、突っ立てるだけなんですが、また誘って頂いたらお手伝いしたいなと思ってます。

あの世へのカウントダウンが頭に響き始めた60代近くになった僕、その美術家は70代。元気ですが、寿命がありますから、順当に行けば私よりも早くにあの世行きです。一緒にお手伝いをした方の中にはもっとあの世が近い方がいらしゃいました。ステージ4のガン患者です。すでに60歳後半だったり、70代だったりです。この方々の他にも「あの世へはもう一歩」という方々と濃く接する機会が増えたり、そして大切な人があの世に行ってしまい悲しみに暮れる日が続いたりと、あの世とこの世の関係性について考えない日がありません。

細胞生理学からすると私たちを含め生物の死はその生物が持つ全ての細胞が分裂をすることを終えた時の状態です。私たちは60兆程と言われる細胞によって成り立っていて、心臓細胞と脳の神経細胞以外は常に細胞分裂を起こしています。2週間ほどで全ての細胞が入れ替わりますから、2週間ほどで私たちは新しい身体を手に入れていることになってます。ただ、そうは「感じて」ませんけどね。この「感じる」、「感じない」は脳からの指令です。細胞が更新されない脳は過去のものを積み上げて行くだけで、残念ながら過去のことも覚えています。その「覚えてる」って感覚も脳からの指令です。僕なんか、覚えてるって感覚が不思議で仕方ない。「どこに記憶が存在してんの?」ってことです。脳の中にある記憶中枢がありそこに全ての記憶が収納されているって印象ってないですか? でも答えはネットワークです。脳の神経細胞どうしの情報伝達物質の交換で記憶が保たれてると「適当」に言われています。なんで「適当」かというと、もっとミクロのところ、神経細胞の原子レベル、そして量子レベルになると、本当のところは記憶のメカニズムなんて分からないのす(分かっていたら、それは僕ら人が人工的に脳を作れることになりますから)。「記憶がどこにあるか全てが解明されている」との言葉があれば、それは嘘に違いないと僕は考えます。

僕らの記憶、科学では解き明かせないと思ってますし、どれだけ発達した計測機械が現れたとしても、記憶を目でとらえる日はやってことない思ってます。例えば「ふむふむ、これが2019年8月10日7時45分30秒の記憶だよ」なんてモニター見ながら科学的に示される日、やってくると思いますか?やってくる訳ない。

「意識」も同じ理由で、どこに意識があるのか分かっていません。「そりゃ、脳だろ」と言えそうですが、でもそのメカニズムを原子的/量子的に証明しようとしても、現段階ではその術はありません。その存在を証明できない意識や記憶は証明できるものを扱う科学や医学とは別の「哲学」という分野で語られることが多いのです。

目前に死を意識した人達と話していると「そうだよな〜」って思うことが多々あります。

一緒にお手伝いをしたステージ4の癌患者は僕に「癌はいいよ〜。特に僕が罹ってる大腸癌は死ぬには頂戴いいんだよ。死ぬなら大腸がんがおすすめ。」って笑顔で語ってくれます。いつかは死ぬと漠然と考えている寿命が癌告知で一気に現実味を帯びる瞬間、僕には想像が出来ない。こんなこと、悲壮感を漂わせながらその人に話したら「告知を聞いたときは、そりゃショックだよね。誰だってショックだよ。でも、そんなショック、告知前に想像できる訳ないじゃん。皆死ぬと思ってないから。でもね、人は必ず死ぬからさ。だから、死ぬ前に死ぬことなんて考えなくていいんだよ、考えてても考えなくても死ぬから。死ぬって決まってからでいいんだよ、死ぬを考えるの。そこが癌のいところなのよ。死ぬことを考える時間がめちゃあるから。癌告知されすぐ死ぬ人いないでしょ。告知されてからでも、ちょっと生きちゃうしさ。また最近では何だかよくわからない医療でステージ4でも無駄に長生きしちゃうから。」って話です。「たかが人生80年くらいだよ。80年なんて大したことないんだよ、ほんと」って笑顔で聞かせてくれました。何となく嬉しかったんです、この話し。

この会話をしてから何日か経って、「仕事をやめた後、何か考えてるの?」ってその人に尋ねられました。「何も考えてなくてね。ただ、人生振り返ってみると、僕はずっと何かに背中を押してもらってる感じがするんですよね。多分、また背中を押してもらえるんじゃないかと思ってるんです。今あること全ては『与えてもらっている』と考え、与えてもらっていることに丁寧に向き合うだけでいいんじゃないかと思ってるんです」と答えました。自分で話した言葉ですが、不思議と自分が答えた言葉と思えない感覚があり、不思議な気持ちがずっと今でも心に残ってるんです。

「背中を押されてる」感覚。この感覚、科学や医学で証明できますか。できないし、そしたら「誰がお前の背中を押してるんだよ」ってことまで証明しないといけない。

背中を押されてる感覚ってないですか?誰でもあるような気がします。人生たかがたまだ60年に満たないくらいですが、振り返ってみると、「あれもこれも、背中を押されてたわ」ってことばかりです。

記憶もそして意識も母親のお腹にいる時はゼロとします。すると、記憶もそして意識も生まれてからのものばかりのはずです。だとしたら、記憶、そして意識に記録されるものは現実的な経験からのものばかりだけのはずです。そして、その経験をベースにした新たな「考え」が生まれ、それによって行動を決めて動きます。つまり、「経験が私たちの行動/言動の原点」ってことになります。経験から導き出せること以外のこと、僕らは結構やってませんか。振り返ると「経験からの答え以外の行動だったな」ってこと、以外と多くないですか。僕はめちゃ多いのです。この感覚が「背中を押されてる」って感覚の源泉なんだと思う。

お腹にいる赤ちゃん、記憶、そして意識はないのでしょうか? 脳の神経細胞の活動からすると科学的に「恐らくあるだろう」とされています。だったら、それは「いつから?」ってなると科学的にはどうでもいいことで、調べる価値もありません。ただ、哲学的には様々な考えがあるよです。

中学生に美術館の体験をしてもらう活動、そのこと自体に対して是非の感覚はありません。ただ、僕の人生においてそこで出会った方々との会話からの学び、人生からの学びは僕がその活動に参加しなければ得られなかった訳で、本来の目的とは外れていますが、参加してよかったと思う理由です。

生まれてから獲得する「獲得形質」は科学的には次の世代には遺伝しないとされています。科学的にはね。人類全体を見渡せせば、人の知恵や技術は積み上がっていってることなんて誰でも分かります。その原動力は人口の多さに違いありません。我々ホモ・サピエンスが30万年ほど前にこの地球上に現れてから、何度も絶滅の危機にさらされています。研究では一時期世界中で1,000人程度まで減ったとされる論文もあります。過去のことなんて誰も知りませんからその信憑性は怪しいものですが、世界中の人が持つ遺伝子の共通点があまりにも多すぎ、この他に理由が見つからないといった感じです。記録媒体となる半導体や紙や文字の発明、1,000人のグループからでは生まれない。発明家が現れる確率は古来からすっと同じだとすれば、人が多くなればなるほど、発明家が出現する数は多くなり、その発明家が生き延びる数も高くなります。個人については「獲得形質は遺伝しない」ですが、人類全体を見渡せば、獲得した形質は次世代に残されていると考えてもいいのではないかと思ってます。個ではNOですが、集団になるとYESとなる不思議なパラドックスです。

中学校での移動美術館展で得た僕の経験は僕だけのものとして、僕が死んだら影も形もなくなり、次世代には残らないのでしょうか。

媒体に記録して残しておけば、もしかしたら残るかもしれない。日々の経験、事細かにその時の感情も含め、媒体に残すことなんてまーしない。発明家が増えたとしても、僕の経験は個人の記憶に残り、意識となり存在しているだけです。ほとんどの人の経験なて、こんなものです。でも、それでも社会全体を見渡すと、記憶媒体に残された経験だけで歴史が進んでいるとは思えない。なんとなく、それぞれ個人の経験が次世代にそれぞの形で受け渡されて行っているような気がするんです。不思議な感覚です。

「たかが人生80年くらいだよ。80年なんて大したことない」ってステージ4の方からの言葉。その本質は「他への感謝」だと思うんです。1人だけで出来ることなんて何もなく、全ての命(過去も現在も、そして未来も)の犠牲の上に全ては成り立っているという教えなんだと思うんです。そして死を意識した時、このことに心から謙虚になれるんだと思うんです。この言葉のあと、僕の過去のことをよく考えたんです。すると、あれもこれも「背中を押されていた」って感覚になったんです。僕の父は僕が30代前半の時に亡くなりました。彼の経験が残った記憶媒体なんて一つもありません。それでも、僕の知らない彼の経験が僕の中で生きている感覚があります。僕が生まれる前に亡くなっている祖父の経験も僕の中で生きている感覚、あるんです。この不思議な感覚って、歳を取れば取るほど色濃く感じるようになります。そして、僕は確かに「生かされている」。だから、次この人に会った時「また背中を押されるんじゃないかと思うんです」って言葉になったんですよね。

意識と記憶の発現はいつ頃からなのかについては議論はあります。その議論の中心は器質が意識、そして記憶を持つようになるのはいつなのかってことです。器質があり意識と記憶が生まれるのか。それとも、意識と記憶が存在し、器質にそれが宿るのか。科学的には前者であることは間違いない。でも身近な人の死を経験し、そしてまた死間近な人と接する中で生まれる感覚、それは明らかに意識と記憶が器質に宿る方です。宿った意識と記憶に個人の経験が積み重なり、次の命に受け渡される感覚。

僕がこのお仕事を始めるにことになったのは偶然の出会いの重なりです。そして続けられるのも偶然の出会いの重なりです。どれも、僕の経験の及ぶところじゃないところで起こった事象ばかり。僕は完全に背中を押されここまでやってきた。そう確信出来たいい出会いが「移動美術館展」での出会いでした。これまた僕が望んで飛び込んだことでなく呼ばれたことでした。これからも、今頂いていることを見過ごすことなく丁寧に向き合って行きたいと思えるいい機会でした。

ノーベル賞

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自然科学が大好きな僕にとってノーベル賞が発表される10月はその内容もそうですが、別の意味でもソワソワするんです。 自然科学が好きな理由って、科学に興味のある人なら多分誰でも同じだと思いますが、「なんでそうなってんの?」ってことが気になって気になって仕方なく、その理由を科学は謎解きをしてくれるからです。科学とは事象の証明に他らないと思ってます。例えば、なんで人はウイルスに感染しても治るのか、そのメカニズムって?とか。なんとなく、「発明」ではなく「発見」的な印象です。びっくりするほどの数の実験を重ね、わずかな違いも逃さず、記録して、事象の定理を導き出す作業なんだと思いますが、気の遠くなりそうな回数の実験の繰り返しのはずです。

ノーベル賞を取る人は天才じゃないと思ってます。でも天才だとしたら、努力の天才です。そしてその努力をする才を育ててくれた環境にたままた恵まれたんだと思います。

「別の意味でソワソワ」ってこと、それはその努力は本人の才であることは間違いないですが、その才を認める環境に本人が生まれ、そして育ったこの「偶然」をどのように僕らが捉えているかということ。

生まれ、そして育つ環境は大切だと僕らはよく知ってます。そして、本人のやる気/努力も大切だと知っています。ただ、このノーベル賞の時期になると、どこどの高校/大学出身だとか、本人のやる気と努力の方にお話が持っていかれることが多く、同じだけ大切な生まれる、そして育つ環境について語られない媒体の論調が気になって気になって仕方ないのです。

獲得形質(生まれてから獲得する能力、例えば、お勉強して頭がよくなったことなど)は遺伝しないと現在はされています(将来、もしかしたら、遺伝子科学の進歩で「ごめん、遺伝してたわ〜」ってなるかもしれませんが)。進化は基本的には突然変異と環境により自然淘汰で進むとされています。例えば、キリンは生存競争のために高い木に生る食べ物を獲るために徐々に首が伸びたとする考え、現在のところは間違っています。現在考えられている進化、それはある日突然、ちょっと首の長いキリンが突然変異で生まれ(ちょっと首が長くなる対立遺伝子を突然持つことになった)、首の短いキリンと比べ、誕生数は少ないですが、なんらかの環境(気候とか他の動物との生存競争とか)の影響で、高いところに生る食べ物を取りやすくなった方が有利になり、首の短いキリンよりも自然淘汰される数の割合が少なくなり、生き残る個体数が首の長い方が多くなり、短い首のキリンが絶えていなくなった。そして、またその首の少し長いキリンの中から、また突然変異でさらに首の長いキリンが生まれ、たまたま環境的にそちらの方が生存に適していて、首の短い方が絶えていなくなり、さらにまた突然変異で・・・と続き、現在の首の長いキリンだけが生き残ったって感じ。

一生のうちの努力によってたまたま首を長くする術を得たとしても、その術は獲得形質となりますから、次の世代には引き継がれません。

生物の進化は環境と密接に繋がっているということです。言ってしまえば、進化は完全に受動的です。能動的主体である環境もまたこの惑星の万物からの複雑な影響を受け成り立っている訳ですから、何一つとして独立し生存し続けることなんて不可能なんです。

先に言ったノーベル賞を受けた方々、もちろんその方々の努力レベルは世界トップレベルなんだとは思いますが、その努力ができる環境、そしてその努力が正しく評価される環境にたまたま生まれたということは確かなことで、ノーベル賞受賞者の努力と同じレベルで覚えておかないといけないと思っています。その反対もしかりです。環境が整っていても、努力をしなければ何も起こらない。

先のキリンと同じです。高いところに生る食べ物が有利とされる環境にたまたま突然変異で少し首の長い形質を持って生まれたとしても、低いところにある食べ物ばかり食べていては、首の短いキリンとの生存率は全く変わらない。むしろ、首が長くなったことで内臓への負担が増え、寿命は短くなるかもしれません。その環境があり、形質があるなら、使わないと先がないのです、むしろ短命で終わるかも。

環境、そして自分自身の生き方、進化においてこれ以上高い相関関係はありません。

先日、就職した長男が「人の世話になりながら生きたくない」と言ってました。障害を持つ彼だから余計にそのように思うのかもしれませんが、実はこれ、誰でも一度や二度は人生で考えることです。障害があってもなくても、誰一人として一人でこの世の中で生きていける人はいないのです。

「お前さ、生まれた時、誰からミルクもらったんだよ」って話です。そして、「そのミルクをお前にあげた人、誰からミルクもらって育ったか知ってるか?」ってこともにも続きます。

僕らはいろいろな命から影響を受けた環境で生まれ、生きている間その環境に影響を与え生絶え、そしてその影響を与えた環境の中でまた新しい命が生まれる。太古の昔からこの繰り返しがずっと続いています。

環境にある事象を証明していく作業、僕らにある果てしない好奇心がある限り続くと思います。そしてそれを讃えるノーベル賞も続くと思います。ただ、覚えておかなければならないのは、どれだけ証明し続けても僕らは僕らを取り囲む環境を全て完全に証明することできないし、むしろ僕らは環境の一部であり、大切な構成要素であり、人の誕生(いったら、生物誕生までも)も完全に証明しないといけない。僕の大好きなアメリカのノーベル賞(物理学)受賞者の一人、リチャード・P・ファインマンが言った言葉で好きな言葉があります「もし自分が作り出せないものであれば、それは真に理解していない」です。人をゼロから作ることなんて、何千年経っても無理だろうし、惑星をもう一つゼロから作ることも無理だろうし、地球上にある自然のもので、人がゼロから作り上げることなんてどれも出来っこない。僕らは生物の発生とされるアミノ酸を無機物から作り出すことさえも出来ないのです(生物がアミノ酸からできたとする完全な証明さえありません)。

どれだけノーベル賞が増えたとしても、そして僕ら自身の存在を完全に証明できない状況でも、僕らは環境のいち構成要素であることに変わりないし、ずっと生き続けることに変わりありません。

そして個人の人生に目を向けると、この世にいられるのは80年程です。たった80年なんです。僕らのこと命が尽きた後何年か何十年かは誰かの記憶には残りますが、それ以降は誰の記憶にも残りません。ノーベル賞を取った人も同じです。ノーベル賞を取った人ということでなんらかの記録には残るかもしれませんが、それ以上でもなければそれ以下でもありません。誰しも、繰り返される地球環境の営みの中で影響を受け、そして影響を与え、ほんの一部の一瞬を生きただけということです。

たった80年の人生ですが、多くの命に影響を及ぼし、そしてその多くの命から影響を受けます。その影響を受けた命、連鎖的にまた別の命に影響を与えます。環境とは命の連鎖だと思ってます。

つまり「他の命との関わり」が僕らが生きる環境の最も大きな影響要素なんです。とっても遠縁ですが、ノーベル賞を取った方々の育った環境もその一部であることは間違いありません。

僕ら個人のほとんどはノーベル賞を取りません。取りませんが、そのノーベル賞を取った人の環境になんらかの影響を与えたことは覚えておいた方がいいと思いますし、ノーベル賞を取った人だけがもてはやされるメディアの論調については客観的な目で見た方がいいと思ってます

ノーベル賞が「人類に対して大きな貢献」度で測られるとしたら、その内容はきっと、人の命、そしてその命に影響を与える人以外の他の命にも大きく寄与するものなんだと思います。ただ、それぞの命はそれぞの使命がありこの世に生を受けたわけで、ノーベル賞の内容とは関係のないところで命が続くかもしれない。ただ、とっても遠縁ですが、僕たちがノーベル賞を取った人の環境になんらかの影響を与えたように、僕らもノーベル賞の内容に影響を受けているはずです。

ノーベル賞の受賞者と僕ら、持ちつ持たれつの関係ってことです。

良好な持ちつ持たれつの関係の秘訣は愛と感謝であることは間違いない。ただ、愛と感謝を完璧にマスターするなんてこと、出来っこない。出来ないから、多分、僕らはこの世にいるんだと思います。愛と感謝を学ぶためにこの世に生を受けたんだと思う。

自然科学を好きでノーベル賞のこの時期になると研究者として生きればよかったかなと、「人生、間違った」って思う時があります。

でも、いつもこんな時、命が尽き、あの世に行く時、先に逝った迎えに来てくれる僕が愛する人達がなんて言うかなって考えるんです。

彼らが気になるのはこれだけだろうと思ってます。「愛し、そして愛されたのか」、そして「感謝し、感謝されたのか」。

彼らは僕がノーベル賞を取ったかどうかなんかどうでもいいに決まってます。それよりも、僕の場合、例えば「お店に入る時、後から来る人のためにドアを持っていたか」そして「どうぞ」と快く言葉をかけれたのかってことの方だったり、朝「おはよう」と毎日家族に伝えられたのかってことなんじゃないかと思うんです。ノーベル賞を取り、環境に感謝することももちろん大切なですが、邪な僕の場合はノーベル賞なんか取っちゃうと「俺ってすごいよね」ってことになり、この世に生まれた目的を達成しないままで人生を終えそうで、こんな人には絶対にノーベル賞はやってこないのです。恐らく、ノーベル賞を取れる人は環境への愛と感謝を、それを取ることで学べるいわゆる「人格者」と言われる人達なんだろうと思います。

大切な家族を持ち、大好きな家具を紹介する仕事を続けられ、素晴らしい従業員と一緒に仕事が出来、様々なインテリア好きの人たちと出会い、その人たちを育む環境、そしてその環境を構成する全ての命に対して敏感になるようになったこの人生、物理的なノーベル賞を取ったと人生とは違いますが、精神的には「ノーベル賞受賞同等だな」と日々感じてます。これからもよろしくお願いします。

夏休み

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長男が今年高校3年生で、多分来年の春から社会に出る予定でいるので、中学2年生の次男と一緒に家庭で長い夏休みを経験できるのは今年が最後なんじゃないかと思っています。妻の仕事が夏休みになると一時休業になるタイプのものなので、私を除き家庭は夏休みモードです。僕は普段と変わらずのお仕事で、また家事もそれほど変わるものでもないので、ただいつもの日が過ぎている感じに、プラスいつもならいない人たちがうちにいるって感で、平常運行です。ただ家族旅行は家族揃って長い休みを取ることは今後はないだろうと思うから、いつもより少し長めの日程で行ってみよかと思ってます。

夏休みになると、子供達は学校からもらって来たスケジュール表に日々のスケジュールを入れることになります。これって、僕が考える子供等が学校に行き続ける理由なのです。

「どうして学校に行かなければならないのか?」って長男に何度も尋ねられます。僕も小さなころいつも考えていました。「なんで学校に行くのか」って。勉強なんて、おうちで出来るしね。集団生活を学ぶって言っても、「それ、その方法で合ってんの?」って思っていたし、「友達を作るため」って言われても、「それ、学校に行かないとダメ?」って思っていたしね。学校って、将来、仕事をさせるためにしか存在してないんだろうというのが僕の見立。大学院までの全ての学校って意味です。

学校を運営するためにはものすごいお金がかかってるんです。文科省の予算が年間5.5兆円。ものすごい金額です。そして、僕ら親が子供にかける教育費の日本全国合計、7兆円/年。12.5兆円が学校教育にかかってる。国が使うお金は税金によって賄われています。その税金は私たちのお仕事から生まれたお金です。国民のからのお金を国が何のリターンも期待しないまま、使うと思いますか。ありえないのです。ただお金を与え、「好きな本を読みなさい」と言いますか。言わないのです。「将来、お金を返してね。しかも利子も合わせてね。」ってことです。

また、教育ほど率のいい投資はないと言われています。文科省の言う通りの教育方針で勉強に勉強を重ねれば文科省の評価の高い大学に入れます。国に指示に従順に従えば従う程、国がお金を出すいい大学と評価するところに入れるのは当たり前。だから、この国で文科省の評価の高い大学に入っている人はこの国の中の評価が高い(この国の中だけの話です)。文科省が高いと評価する大学、そして低いと評価する大学、学費はそれほど変わらない。でも、卒業してからの年収の差はびっくりです。勉強すればする程、この国では年収が上がるシステムになっているのです。そして、教育にかける費用は一人頭同じですから、これ以上いい投資はない。頭の良さで、国からの投資額に変動はない訳ですから、国にすればめちゃいい投資です。この国でお金持ちになる1番の方法は文科省が敷いてくれたレールに乗って、めちゃ勉強することです。お金持ちになりたい人がいれば、株式投資なんかより、勉強した方がいい。ほぼ100%の確率でお金持ちになれます。そのような国のシステムになってますから。でもこのようなシステムになっていな国も沢山あります。教育にお金を出さない国です。そんな国では、ドラッグディーラーになる方がお金持ちになる近道な訳です。この日本という国では教育は将来の国家予算を確保するための投資。そしてこの投資は長年うまく行ってます。だから、この国でこのシステムがそう簡単に崩れることはないと思って間違いない。

どこかの国のように、映画俳優が急に大統領(首相)になったりはこの国では絶対にない。文科省のレールのきっちりと乗った人しかこの国の最高責任者にはなれない。この国の最高責任者になりたいのであれば、文科省のレールにがっつり乗ることです。ノリノリで乗り続けることです。

ここまで書いたこと、とってもドライですが、その通りなのです。ただ、僕の記憶ではこう教えられた記憶はない。そもそも、僕が納得いく学校に行く理由を教えてくれた人は1人もいない。親、兄弟、友人、その他僕の人生に関わった人の中で誰1人としていない。

誰も教えてくれなかったことがよかったのか、或いは良くなかったのか、生き延びこの歳になるとどうでもいい。

経済を回し、税金を少しでも多く支払える人を作るシステムの根幹がこの国での教育です。ただ、「好きな本を読んでいて下さい」では許してくれないのがこの国の教育なのです。人が教育を重ねることで経済は成長し、経済が成長すれば、そこで住む人は幸せになるとのシステムが前提。

この前提って合ってますか?

39歳までの死亡原因の第一は自殺です。

学校で自殺はやめようと学びます。それでもこの国には死にたくなる人が大勢いるのです。私たちのDNAとほぼ同じの自然に中で生活するチンパンジーは自殺するのでしょうか。稀にあるかもしれませんが、まーないよね。学校教育が整っていない国ほど、例外はありますが自殺率はとっても低い。学校教育と自殺との相関関係は非常の高いし、また、学校教育と経済発展の相関関係もとっても高い。「高い学校教育=経済発展=高い自殺率」。怖い。「学校教育」と「経済発展」を切り離したらどうですか?っていうのが僕の勝手な考え方です。何度も書きますが、今この国でお金持ちになりたいなら、勉強をすること。これは間違いない。そういうシステムですから。毎週末上司とゴルフに行ってるより、勉強した方がお金持ちになる確率は高い。言っちゃえば、勉強し続ければこの国ではほぼ100%お金持ちになれる。これは決まっていることです。「お金持ちになりたい」という人には必ず、言うことにしてる「勉強したら」。でもね、僕はこのシステムにどっぷり浸かりながら生きていますが、僕はこのシステムが大嫌い。好きな本だけ読ませて欲しい。僕ね、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思ってるんです。でなきゃ、自殺しないでしょ、こんなに大勢の人が。

僕らホモ・サピエンスは他の人類にはなかった秀でた認知能力が脳に備わっていたからここまで繁栄が出来た。お互い協力し合いながら生きていくことはそのレベルの差はあれど僕らホモ・サピエンスの生きるための最大の術。僕らは必ず、生きてく上でいくつも小さいものから大きなものまで社会を作り上げて行ったり、或いは属したりしながら成長します。ホモ・サピエンスは1人では生きられない。何らかの属する社会がないと生きられない。

そして現代、その社会を国という単位がまとめ、その国単位が他の多数の国単位と協力しながら世界という社会を築き上げています。将来、地球以外からとある生命体がやって来て、私たちの社会性を見てびっくりすると思う。また、実は昆虫も草花もそして他の動物も、社会性があるものの方が生き延びている現実がある。この地球という惑星は社会性がある方が生き延びれる環境になっているんだと思う。地球外からやってくる僕たちや他の動植物の社会性を見てびっくりする生命体、彼ら/彼女(はたまた、どんな代名詞になるのか知りませんが)が生活をする惑星は社会性がなくても生き延びれる環境なのかもしれないし、もしかしたら、「生き延びる」ことが重要なことであるとDNAにインプットがされていない生命体かもしれない。つまり、私たちDNAに生きることの大切さが記憶され、そしてこの地球という惑星の環境において社会性がその実現のためには最も大切だと環境に対応して来た結果、僕らは生きてる。社会性を失うと、この地球という惑星では生き延びれないんだと思う。

社会性と教育ってすごく相性がいいのです。経済発展、それは1人では成し遂げれない。どれだけ、Meta社のマーク・ザッカーバーグが優れた経営者だと言われても1人ではあんな大きな組織は作れない。Appleのスティーブ・ジョブもそうです。もともと、生き延びるために社会性が必要だとDNAに刻み込まれている私たちホモ・サピエンス。経済発展には社会性が不可欠。そして、私たちのDNAの遡上に経済発展のための教育が加われば、爆発的は経済発展は約束されたと同じです。

社会性は必要だし、とっても重要だと思ってます。ただ、その社会性を経済発展のことばかりに仕向けるのがとっても心地悪い。夏休みのスケジュール管理はなぜするのか。経済が発展してる国々では必ずあるんだとろうと思う。会社に入った時、9時から18時までの限られた勤務時間の中で、社会性を発揮しながら、最大限の結果を出す方法が効率化です。効率化は標準化とほぼ同意義語。人の仕事を標準化するためにはその人の動きを管理し、出来るだけ標準化の規定に従わせることです。スケジュールとは管理されるためのツールです。この経済発展が凄まじい世界では私たちは管理される宿命にあるのです。息子がスケジュール管理をしている姿を見ると、彼自身望んでいないかもしれないけど、将来、社会に「管理されること」を盲目的に肯定しまっているボタンを押し続けてい姿に見えて、「それって、君の意思かい?」って尋ねたくなるのです。

無意識のうちの経済発展のための管理術を覚えさせられ、将来、経済発展のための一員として社会に出るであろう子供達。でも、彼らが大人社会に入り、頑張り続けるであろう経済発展は私たちたが住む地球に負のレガシーを残し続け、その結果、温暖化が進み、多くの人類が到底住めない環境になってきてる。「暑いから住めない」じゃなくて、温暖化の結果、食物連鎖の下層部の崩壊が急激な速度で進み、上層部の私達の生命がとっても危機的状態となってる。地球温暖化の影響を最も激しく受けている人々は経済発展が遅れている国々の人。その人々の教育レベルはとっても低いから、教育を施し経済発展すれば、影響を回避出来るという人もいる。ばかげた理論です。経済は需要と供給のバランスで成り立っていて、人類全体が経済発展すると爆発的に増える需要を満たせるだけの供給は限られた地球の資源からでは不可能なのです。

経済発展のためにの教育を受け、その結果の現状を眺めると、「学校教育とはなんなんだ」と長男から「なんで学校に行くのか」と尋ねられ、口籠る自分がいます。僕が高校生の時、悲観的な将来像しか描けず、担任の先生に「もし僕が結婚しても子供はいらない」と言った時、先生が「だから、子供を作るんだよ。お前が描く悲観的な未来をお前の子供達が変えてくれるかもしれない。子供は希望。そして、まだ子供であるお前は俺たち大人からすると大切な希望なんだよ」と言ってくれた言葉を思い出し、スケジュール管理をする息子達にかけようとする自分の言葉の重さの責任をどのように果たすのか考え続ける、そんな夏休みです。

「やめて頂きたい」こと

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画像は先日行った山梨県への配達の時に撮った写真です。自然に囲まれいいなとは思いますが、このお店の近くもこういった場所、まだ結構沢山あって、特別感はないのです。ただ、写真では見えませんが、奥に富士山があるんです。富士山があるだけで、風景は一変。この辺りの風景とは全く違う別ものになります。「絶景」へと早変わりです。

朝日新聞が定期的に掲載しているSDGsについての記事の中にあった映画「アニマル ぼくたちと動物のこと」のソフトを配給会社からレンタルしてお店で上映しようと思っていますが、上映したい日が僕のお休みと重なっていて、どうしようかと方法を考えています。ただ、そのうちAmazonプライムなどで見れる映画になり、見たくなればいつでも観れる映画になるだろうし、「どうしても上映しなければ」的な感じでもないから、やらないかもしれません。お店で上映となれば、お席も限られるので、「この期間中にお買い物をして頂いた方を優先に」的で、駐車場のスペースも考えながらクローズドな上映会になると思います。1日2回、無料的な感じです。

さて、お客様から聞いたお話しですが、どこかのお店で木製家具をご購入の際、「壊れた時はコンフォートマートさんで直してくれると思いますよ」と言われ購入したことがあると聞いて複雑な気持ちになりました。「それだけ信頼されてるんだ」や「認知度が上がったな」的なとてもポジティブな気持ち、それとは逆に「修理は販売したところやるべきだよね」「そこで付加価値をつけちゃダメでしょ」「修理できないものもあるけどね」など、とてもネガティブな気持ちが交錯して複雑です。ネガティブな気持ちの根源、それは「どうして、そしてどのような考えで家具の修理/修復を幅広く受けいれているのか」をご理解頂いていないまま、「コンフォートマートは家具修復をしている」とご紹介頂いていることへの悔しさ。

家具店、多くは自身で修理修復が出来ないというのは事実ですし、隠すことでもないことですし、だからといって修理修復しているお店の名前を出したとしても、壊れたら捨てると考えられている家具の修理修復がそのお店では進むとは到底思えない。

廃棄処分があるから回っている現在のマクロ経済、家具屋のミクロ経済もその通り。このお店も例外ではありません。例外ではありませんが、廃棄処分になるまでの期間が相当長いものだけをご案内してます。そして、僕らのおこなっている家具の修理修復は僕らの販売した家具の将来が心配だからではありません。ずっと以前にどこかで販売された家具、その家具の「延命処置」です。僕らの行なっている販売もそして家具の修理/修復は、決して経済に逆行していることではなく、経済原理に則り、製造から廃棄までの期間を出来るだけ長いもの、そして長くするためのサービスを提供し、これから先も同じであろう経済で回る社会を出来るだけ持続可能としたいとの硬い意志の上に成り立っています。

ライフサイクルの長い商品だけの販売では、この硬い意志を守るには弱く、家具の修理/修復を一体にして初めて守り続けられる自信が湧くものだと思ってます。

多分、壊れたらどこか他で修理/修復してくれますよと話しているお店、ライフサイクルの長い商品を販売することが社会にどのようなポジティブな影響をもたらすのか知らないじゃないかと思うんです。だから、このお店の名前を出して欲しくありません。このお店が実現したいことがブレて伝わってしまう可能性があるから。

ほとんどの家具は直して使われていると勘違いしてはいけません。壊れ使われなくなった家具のほとんどは捨てられています。この国の家具のリユース率はたった16%。これは新品で買った場合のリユース率。84%は遅かれ早かれ、捨てられています。また、このリユースされる16%、恐らく新品で買って壊れずに次に引き継がれる場合の数字で、壊れた家具は捨てられる84%の中に含まれていると考えて頂いて間違いないと思います。

売った家具のほとんどは次世代に受け継がれることなく捨てられている。

捨てられることで新しい家具の需要が生まれ、それを満たすための新しい家具の供給があって経済は回っています。これから先も経済を回すことは止まらない。どこかの過疎地域で自給自足で生活する方々がメディアで取り上げられそういった生活に羨望が集まることがありますが、彼ら/彼女らの生活はその他のところで経済を回している人達がいて税金が生まれ成り立っている社会基盤があるからありえるのだと心に留めた方がいい。

日本のような先進国で生活する以上、経済を回す社会から完全に逃げることは不可能。経済の回し方に問題があり地球環境の問題や社会環境そして衛生環境の問題が出てきている訳で、需要と供給で成り立つ市場経済、そしてその市場経済のやり取りを通貨と呼ばれるお金で決済するやり方である現在の経済方式が根本的に間違っている訳ではないと思ってます。

多くを欲しがらず、多くを作らず、そして多くを溜め込まない経済の回し方にシフトし、持続可能な天然資源の使い方の基礎研究を続け、そして応用していくエネルギー政策を合わされば、これほどまでに経済を回すことへのネガティブ感情は生まれないと思います。

家具の多くは買われ、そして捨てらますが、昨今の持続可能な流れからなのか、家具メーカーもそう簡単に壊れるものを出してこない。また、工業製品である家具、過去に作られたものより、新しく作られたものの方が質がいいとの性格もこの「壊れるものが減っている」を助長してます。そして、地球環境の悪化の懸念からこれから主流となる考え方、「皆が多くを欲しがらず、それに合わせて多くを作らず、そして多くを溜め込まない社会」が合わせて進めば、今私たちがお店でおこなっている持ち込みの修理/修復って、どうなると思いますか。減ります。壊れないし、物が増えない訳だから。肌感覚ですが、お店で修理させて頂く家具の傾向を見てるとこの感覚は間違いないと思う。修理に持ち込まれる家具、その多くはまだ工業製品として構造に難があったり、まだまだ質向上についての余地がある今よりずっと昔に作られた家具がほとんど。

私たちが受けている家具修理のほとんどはそのお客様がずっと昔に他店でご購入された家具に対して。上記の他店で家具をご購入頂いた方がもし修理修復でその家具をこのお店にお持ち込み頂く場合との違いは、その家具をご購入頂いた時点でこのお店があったかなかったかだけ。大した差じゃない。でもすっきりしない。

販売頂いた家具はもうすでに将来ほとんど修理が必要がなく、また将来修理する時期がやって来てもほとんどの場合は捨てられるという現実があり、「修理できますよ」と言うこと自体に付加価値はほとんどないという事実。また、先細る家具修理/修復の煽りを受け、将来、修理/修復が必要となった時、私たちの家具の修理/修復は閉業している可能性が高いという事実。でももっと真面目に考えなくてはならない事実、それはこれからの事実を知らず、「修理できるところがありますよ」と家具販売を続けてしまうと、市場分析の欠如の結果、多分、そのお店の将来が危ういということに気付いていない事実です。そのお店の将来のことは正直、僕には関係がない。だけど、「修理が出来る」と聞いて買った方々の中には稀だとは思いますが、何年か先にほんとに修理を依頼したいとこのお店に頼る場合があると思う。その買ったお店はもうないし、そして「修理出来ますよ」と紹介されたこのお店も修理/修復はもうやってない。

こうして困るの、大勢の中でほんの一部の人だけ。無視していいのでしょうか。

この小さな規模の「無視」、全国にそして全世界にごまんとありそうな気がするのは僕だけじゃないと思うんです。世界規模で見ると、相当な数になるはず。

これってね、今の環境問題の根源に直結してる。「少しだったらいいだろ」が世界中で重なり、ものすごい数になり動植物の危機を生んでいます。川の上流に住む人が少しだからいいだろと捨てた微量の化学物質、下流の人が同じように捨てる。その数は膨大となり、微生物が食べ、そして魚が食べ、そして私たちの口に戻る。化学物質が溜まり、微生物が適正でなくなった海では二酸化炭素吸収は妨げられ、温暖化が進む。こんなことと一緒です。

このそのお店が欠如してしまっている感覚をこのお店は最も大切にしていますから、こういった理由からも「欠如してるなら、名前を出さない下さい」と言いたい。このお店で大切にしたいことが間違って伝わってしまうことは、このお店の将来を危うくし、社会貢献が出来なくなる危険を孕んでいます。

もし、軽い気持ちで「コンフォートマートで直してくれると思いますよ」と言ってしまったとしたら、是非、ご連絡ください。どうして言ってしまったのか理由を聞きますし、その理由によっては、言ってほしくないこちらの意図をご説明致します。また、ご連絡頂く必要がないほど、このお店がものとサービスで伝えたいことを強く発信していくようにします。

とは書きましたが、「コンフォートマートで修理出来ますよ」と言われた家具をご購入頂いたお客様にとっては全く関係のない話。これまで通り、お持ち込みの家具修理のご依頼、どんなケースでも丁寧に御対応させて頂きますので、他店で「コンフォートマートで修理出来ますよ」と言われご購入に至った場合でもお気軽にご相談下さい。

「商品説明」

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GWは妻の実家のある新潟に帰省していました。空気が澄んでるこの時期のいつも行く海岸からの風景は最高です。

犬を可愛いと撫で撫でしながら、お夕飯の食卓には豚肉が並び美味しいと頬張る自分自身の姿に自分自身の中にあるアンビバレントを感じ、隠れたくなることがあります。「犬は可愛いけど、豚は殺してもいいんだ」って誰かに言われたら身も蓋もなく、「そうなんですよね、ほんと。すいません。」って謝るしか出来ない。犬はこれからも撫で続けるし、豚肉はこれからも食べ続けるから。

謝りつつも、「なんか違うぞ」って感じます。

ちょっとした「カテゴリー(分類)錯誤」なんじゃないかと思うんです。「動物」っていう分類で示すと、「犬を豚も同じ分類だから、犬を愛しているなら、豚も愛しているはずだ、その豚を食べるなんてどういうことだ」なんですが、分類を「一緒に暮らす動物」に少し範囲を狭めると、「一緒に暮らす犬は食べないが、一緒に暮らさない豚は食べれる」になり、「一緒に暮らす豚がいるなら、その豚は食べれない」になる。

愛犬家に対して「犬は可愛いけど、豚は殺してもいいんだ」という方は、犬を「動物」という分類でくくってお話したいし、愛犬家からすると「一緒に暮らす動物」っていう分類で話したいから、もう話が全く噛み合わない。こんなお互いの思い込みをコントにするコメディー番組がアメリカのNBCでやってる「サタデー・ナイト・ライブ」って番組です。ダウンタウンのコントもこれが多いと思ってますが、どうなんでしょうか。人の持つ勝手な思い込みをクスッと笑う感じのコント。

コントに出来るほど、人とは思い込みが激しい生き物なんだと思う。僕も例外ではありません。僕が書くHPの商品説明。完全に僕の思い込みです。メーカーから頂く商品説明とは別に勝手な思い込みがどこからともなく降りてくるんです。すごい思い込みなので、書いた後、メーカーから叱られんじゃないといつもヒヤヒヤしています。

メーカーから新作が発表されると、その商品説明が全国の取扱店に配られます。もらう商品説明は全国のどのお店でも同じです。その商品をネット販売する時の商品説明の多くは、お店毎に言い回しは変わるかもしれませんが、その土台はどのお店も同じ場合がほとんど。そして、お客様が受け取る印象も、ほぼ同じ。ネットショップであれこれ探す時、ある商品に使われている商品説明がどこも同じであることってよくあります。あれ、この業界にもあります。

このお店も例外ではありません。メーカーから頂く商品説明、とってもありがたく感じています。その商品のことを1番よく知ってるメーカーから頂く商品説明に優るものはないはずです。だから、このお店のHPにある商品説明の多くはメーカーから頂いた商品説明に少しだけ「おのお店らしさ」を付け加え、書いたものです。

ただ書きながら、「どこのお店でも商品説明が同じであれば、お客様がうちを選ぶ理由ってなんだろう」っていつも考えています。

この点、ヴィンテージ家具の場合は考えなくても大丈夫。ただ、その商品から感じたことを文章化するためにはそれなりの時間が必要です。独自の文章を書ける商品ではあるのですが、その時間を絞り出すことが出来ず、それなりの文章となってしまうことが多くあるが事実です。何年前だったかの忘れましたが、ヴィンテージ家具については特にそれなりの文章で終わるような商品説明はやめようと決めました。日頃から、自分の文章構成能力の低さに嫌気がさしていて訓練したいと思っていたし、買い付けの度に上がるヴィンテージ家具の価格に対してもっと責任を持った方がいいと思っていたし、買い付ける商品の理由を深く考えるようになるだろうと期待したし、ともかく一点一点、もっともっと丁寧にご案内すべきなんだろうと思ったから。ただ、その商品の歴史的/社会的背景を調べるために、膨大な時間がかかり、さらに文章を何回も書き直すので、年に数点しか商品説明が書けなくなってしまいました。HPに修理/修復したヴィンテージ家具の商品点数が少ない理由はここにもあります。

このヴィンテージ家具の商品説明への姿勢が新品商品にも波及しているのだと思います。いつもではないですが、メーカーからの商品説明とは別に、独自に商品やその社会的/歴史的背景を色々調べ、その商品の対する思いを熱く語ってしまうことがあります。

その商品を発表するメーカー側としてはある特定の意図や目的がありその商品を出すわけで、メーカー側は販売店にその意図や目的をきっちりとお客様に伝えて欲しいと思う気持ちは当然です。メーカーの中にはメーカーから出した商品説明以外のことをお客様に伝えるのは厳禁だとするところもあります。必死で守ろうとするメーカー側の商品への意図、でも、その商品を受け取る側がその商品を見て、どう感じるかは自由で勝手です。メーカー側が、「当社が考える商品イメージとは別のイメージをあなた様は持っているから、あなた様には商品を販売出来ません」なんてことありえない。でも、家具業界ではあまり聞いたことありませんが、他業界ではこれに近いことを実施しているメーカー、実は世界にたくさんあります。メーカー側が持つ商品意図に従って商品を理解すること、そしてその意図を理解した人達だけで作られる商品コミュニティーがあったりもします。そのコミュニティーに属することに憧れる多くの人がいたり。

メーカーから頂く商品説明はそれなりに完成度が高く、それ自体に懐疑心を持ってで立ち向かうことは販売店が想像できないような大きなリソースを使い、そしてリスクをかけながらその商品を作っているメーカーに対して失礼だと思ってます。ただ、一方、その商品を見た消費者がその商品から感じるものはその商品を作るメーカーからコントロールされたものでなく、その感覚は自己判断で、とっても個人的でよしとされるべきだろと思っています。自分自身の感情や感覚をコントロール出来るのは、決して他人ではなく、自分自身です。決して、他人に自分自身の感情や感覚をコントロールさせてはダメ。

メーカーへのレスペクト、そして人の主体性の形成との間で揺れ動く自分がいます。

メーカーから示された商品説明について反対の意見をすることは決してありません。ただ、その商品を違った角度で見た時、その商品説明では物足りないと感じることがあって、そんな時、「俺に言わせてくれ!」っていう強い衝動が生まれ、その衝動の根源が何なのか考える時間があり、そして何となくその根源に辿り付いた時にメーカーから示された商品説明とは全く別のやり方で商品を説明する時があります。主体性が溢れ出てしまった感じです。

主体性が溢れる時はメーカーが考えるその商品を買う人の分類がなんとなく、僕の考える分類とは違う感じの時。

最近の例だと「未来のデザイン愛好家のための椅子」とカールハンセン&サンか発売開始になったCH24の子供用の椅子。「未来のデザイン愛好家のための椅子」はとは言われますが、「デザイン愛好家」にと子供を育てたいと思う人がこの椅子を買うのかな。なんとなく、その前提条件の説明が抜けてるんじゃないのかなと考えました。例えば、テレビを買う人はテレビが欲しいんじゃなく、テレビに映る番組を見たいからテレビを買う的な感じです。「デザイン愛好家に子供を育てたい理由は何ですか?」。そこんとこは、「各自考えて下さい」なんだろう思いますが、この椅子を手に入れたいと思う人って、そこんとこめちゃ重要視している人なんじゃないかと強く感じ、だって、10万円もする子供椅子、そう簡単に「子供をデザイン愛好家したいから」って理由では普通買わない。もっと言っちゃうと、この椅子を手入れることで子供がデザイン愛好家になると信じている層であればあるほど、この椅子は買えない。

メーカーが設定する購買層の分類に違和感があり、こんなことを考えている人にこの椅子を買って欲しいと、こんな人ならこの椅子は大きな役目を果たすはずだと考え 商品ページの説明を書きました。

いつもではありませんが、商品によってメーカーが考える分類、そして僕が考える分類に違いがある時があります。そんな時、メーカーの考え方をレスペクトしつつも、僕自身の考えで商品について述べる事があり、こういったことに寛容であるメーカーとお付き合いをしたいと思っていますが、許してくれない時もあります。「ダメだ、ダメだ、勝手なことしちゃ」とは反省しますが、その商品を買って頂いたあとお客様からたまに言われる「あの説明でこの商品を買うことにしました」と聞くと、勝手なことが止められない。ただ、勝手なこをしてなきゃ、もっと売れたりしてね。

幸せになるための寛容度

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この前、家族で花見に出掛けました。この地方での桜の見頃も終わりに近づき、これからは去年同様、灼熱な季節が始まりそうな予感です。寒暖化差が身体に堪える歳になり、その身体的苦痛が精神的苦痛へと様変わりし、この季節の心地よさがいつも感じられる場所に年中旅したいと思うようになっています。ともかく、寒い冬が終わり、とりあえずよかった。

ディズニープラスで配信してる「SHOGUN 将軍」を観ていた妻、久しぶりに一緒に観ました。その時、妻が僕に「楽しめないやつは観るな!」と睨まれた時の話。

とっても面白い内容、最高のエンターテーメント。さすがハリウッド映画。ただ、いつも思うのですが、同じハリウッド映画の「アイアンマン」はロバート・ダウニー・ジュニアじゃないといけないんです。絶対にジェイミー・フォックスにはらない。ワイルドスピードに出ていた韓国系アメリカ人のサン・カンにも絶対ならない。正義のヒーローはいつも肌が白い。もちろん例外はありますが、やっぱりそれは例外です。ヒーローの場数を踏めるので、経験値も肌の白い俳優の方が上がるから、演技の上手さの上でも肌の白い人なんだろと思います。今回の「SHOGUN 将軍」に出演している英国国籍のコスモ・ジャーヴィスも肌が白い。ドラマの設定がまだまだ奴隷制が世界で普通の時代の1500年代だから、日本にやってき欧米人が白人があることは当たり前。だから、キャスティングもその通りで問題はないんだろうけど、でも、何となく恣意臭さを感じるのは、彼が演じる肌の白い人が西洋の正義を象徴しいるかのような演出が気になるから。

映画の中で家庭内暴力を起こした日本の武士(男性)に対して、このイギリス人が怒るシーンがあります。また、その他のシーンでも、女性に対して紳士な態度に対して、日本武士は無骨な態度。イギリス人は個の考え方を大切に、でも一方、日本武士は和を大切に、そのためなら家族も殺す。

日本の既婚カップルの中に占める家庭内暴力を経験したことのある20%に比べ、その数は10%程と減りますが、イギリスにも家庭内暴力はあります(そのほとんどの犠牲者は女性です)。日本には「和」の心があったからこそ、震災などで助かった命が沢山あっただろうと思う。アメリカに住んでる時、日本人女性と付き合っているイギリス人男性がその女性に3歩下がって歩くことを強制している姿見たことあります。

ある一定のカテゴーに属する人々のグループに存在する他のグループには存在していない行動や言動の規範があります。その規範はもっぱら無意識なものの場合が多い。その無意識の規範が、意識的な規範として他のグループを区別する理由として使われる多くの場合、「差別」と言われるものになります。

先日の長年日本に住むアメリカ人の編集者が消滅危機が叫ばれる人口減の激しい限界集落を取材した時の報告書を読んでいました。その地域のご老人にアメリカ人編集者が「だったら、僕が住んでもいいかもしれないね」と言った時の返答が「君はこの地域に合わせることができるのかい?」って尋ねて来たという一文がありました。「合わない人と暮らすより消滅を望む」なんだろうと思う。ある一定のカテゴリーグループに属する人々が持つ無意識の規範はそのグループの外からやってくるグループが交わる時、初めて一気に意識的な規範になるといういい例です。

「SHOGUN 将軍」などの映画にある私が感じる違和感は、その無意識な規範を、そのグループに属さない人達が、「そのグループの規範はこうです」と顕在化し、そしてそのまた別のカテゴリーグループに刷り込ませているような気持ち悪さです。それぞれのグループとは全く関係のない、第三者のグループが、当事者グループの意識を操作している感じがする気持ち悪さです。そして、その源泉にあるのが経済的な理由ってことが気持ち悪さを助長しています。

現在行われている戦争で1番多く使われるロシアで開発されたライフル型機関銃「AK47」。このライフルは世界各国で製造され、戦争が起これば起こるほど、その製造会社は経済的に豊かになります。経済的に豊かになった会社からの税収はその国を潤します。このライフルのビジネルモデルも他の現代のビジネスモデルと同じで「大量生産、安価、そして大量販売」、数を売って儲けるビジネスモデル。現在、この機関銃は4万円ほどで買えます。弾丸は一発100円しません。戦争をしている、両国とはまったく関係のない武器の販売という経済的な理由なだけで繋がっている豊かなある国が、その両国に武器を流し続けている気持ち悪さと「ヒーローはいつも肌の白い人」とがなんとなく繋がってしまって、そこを切り離して配信を楽しみたいけど、切り離せないので、つい愚痴が出ちゃうのです。

限界集落の老人がアメリカ人編集者に言った言葉、それ自体には何ら問題ないと思っています。老人はそういった規範で生きてきたから、それが当たり前だから。それに対して、その規範を知らないアメリカ人にその規範を伝えるのは、必要なことだろうと思う。伝えても、それから先、それをアメリカ人が守るか守らないか、そしてその規範を老人等とアメリカ人編集者が共に変えて行くかどうか、或いは変えていかないかは、その2者のことであり、それ2者が行えばいいことです。

経済的な理由で、その当事者の間に入り、情報を操作る行為は実に気持ち悪い。世間でいう「媒体」がこの役割です。先の僕が書いた「合わない人と暮らすより消滅を望む」は印象操作であり、よく媒体が使う方法です。これをやめて欲しいのです。

脳の柔軟性が高い年齢が低ければ低いほど、媒体からの印象操作は事実として刷り込まれる。その刷り込まれた情報は具体的に更新されなければ、ずっとそのまま。僕もこの餌食になった1人です。アメリカに住む前、国内で一般的に見聞きする情報で勝手に「アメリカ人は」って作ってて、実際に住んでみると、全くその情報間違ってた。住んだ韓国の場合もそう。それは、いい意味でも悪い意味でもです。そして、その間違った情報を更新するのにもう何年もかかってしまった。ある意味、いまだに更新できていないかもしれない。

デンマークについては、その経済的な恩恵が薄いのか、第三者から流れる「印象操作」がなく、僕の場合自ら探した歴史の書籍から始まり、幾度となく行くデンマーク現地での人との繋がりからの感覚で、自らの自主的な体験でデンマーク像を作り上げることが出来ていて、デンマークの人とのお付き合いに、勝手な思い込みのために苦労することがあまりない。今でも、アメリカの人、そして韓国の人については苦労します。こんなに長く、そして多くのアメリカ人、そして韓国人と付き合ってますが、僕の中での「アメリカ人像」、そして「韓国人像」が抜けないから、初めて会うアメリカ人、そして韓国人に対して個としてのお付き合いにめちゃ時間がかかっちゃう。時間がかかっちゃうから、苦労します。だから、苦労を避けるため、それらの人を遠ざける傾向さえあります。媒体で型取られるアメリカ人像、そして韓国人像とはまるで違う人、いっぱい知ってるにもかかわらずです。

3月20日に「世界幸福度調査」が発表になりました。知っての通り、日本の順位は毎回下の方。上位を占めるのはいつも北欧の国々。で、先日この話を次男にしました、「世界幸福度調査ってのがあってさ、日本って何位だと思う?」って。「ぶっちぎりに1位だよ」って言ってました。僕も実は同感なんです。この調査はアメリカの有名調査統計会社であるギャラップ社が毎年行う幸福度調査を元に156カ国に行うものです。そのそれぞれの国の人にその国で暮らすことで得られる満足度を0から10までに評価してもらい、その結果を国連が考える、その答えの理由となった6つの事柄から説明しようとするものです。

つまり、順位はその国に暮らす人の幸福満足度の平均値。「日本最高!」って言ってる人もいれば「日本最低!」って言ってる人もいるってこと。そして、恐らく「日本最高!」って言ってる人の数が「日本最低!」って言ってる人の割合が北欧の国々の人よりも少ないってこと。この国にも「日本最高!」って言ってる人がいるってことを忘れないで。「この国に住む全ての人の幸福度が低い」ではないのです。

国連が考える幸福度に影響を与える事柄の中、経済的な豊かさ(GDP)の高低差はそれほどラインキングには大きく寄与しないし、またその国の長寿もそれほどランキングの高低には関係ない。つまり、高いランキングの国々は経済的に比較的豊かであり、長生きしている国であるということ。

その説明理由のうちの一つ「他者への寛容さ」。これは幸福度の尺度としては有効とされていますが、日本では幸福上位国よりもこの数字が低く、恐らくこの結果がこの国の幸福度が他の国の人よりも低い理由につながっているだろうと推測されています。

「他者への寛容さ」です。僕、完全にこれです。苦労してもどうしても消し去ることが出来ないある国の人の対する「典型」があり、それに対する寛容が完全に欠けてます。これって、実はこの国の媒体に小さい頃から触れる人、全てに当てはまるものなんじゃないのかって、「SHOGUN 将軍」を見て思った訳です。「色々な考え方/見方があるけどね、決めるのは君だよ」って媒体姿勢じゃないし、政治体制がずっと自民党で、政治体制が政権毎にかわる他の国々とは違い「それはそうだから」ってなりやすい事実はあるんだと思う。

幸福度トップの国々のうち、フィンランドとデンマークしか知りませんが、政治体制はよく変わるし、「決めるのは君だ」との姿勢は一貫してる感じがします。

「SHOGUN 将軍」を観て、こう思った僕が妻に理由を話し出そうと思ったら睨まれ「楽しめないやつは観るな!」って言われ、「お前、寛容が足りないなー」って言いかけた夫婦喧嘩の話です。

「戦場」の女性

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3月8日は「国際女性デー」でした。僕が気にしすぎているのか、ネットニュースで僕のiPhoneにフィードされるニュースは「ジェンダーギャップ」のことがとても多い。多いからよく読んでしまうし、そうすると「こいつはこのニュースが好きだぞ」とAlが判断して、さらに好きそうなこのトピックに関するニュースや記事が紹介されてしまう。それに影響されてか、手に取った本は2015年にノーベル文学賞を受賞したロシア出身のスヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチが書いた「戦争は女の顔をしていない」。他の書籍も並走で、また内容が濃いので全然読み進めない。

先日、長男が「プリンを作りたい」と言い出し、作ったのがこのプリン。見た目は置いといて、味はまーまー、いけました。昨日は次男がホワイデーのお返しにとチョコとオレオで、カップチョコを作ってました。私も普通に家事をしますし、家族全員、役割的にはジェンダーギャップはないんだろうと思ってます。役割的なことについては、あまり疑問を持つことはなく、僕がいつも気に掛けてるのは、「どうして、こうも女性と男性は考え方が違うのか」です。

同じ結果を得るための目的意識だったり、方法だったり、そこに至る考え方だったり、まー違う。読んでる本は第二次世界大戦において出兵した多くの女性兵(ロシア側)についてのドキュメンタリーです。衛生兵などの後方支援ではなく、最前線で直接敵と対峙する役割を果たした女性の話が半分以上。戦場での銃撃戦の最中でも、女性はお花を摘み、ポッケに入れて微笑む。男性はまーないと思う、戦場でお花を摘むことはまずない。ポッケにしたためるのは家族の写真や恋人との写真。戦死した女性兵の鞄から可愛いお人形が出てくる場面も多い。戦地で何日も食べものがなく、そして悲惨な戦場を歩き続ける時、出来るだけ軽くしたい鞄、男性、そこにはお人形は入れない。

韓国の少子化がひどいことになってます。OECD内で最低です。2023年、女性の生涯出生人数が0.72人(日本でも1.3人程度です)。そして、今の人口を保持するために必要な数字は2.1人。この国もそうですが、韓国はすごい勢いで人口が減っています。�日本よりも相当近い将来、人口減のため、社会/経済が破綻すると言われています。多分、その通り破綻するんだろうと思う。この国もそうですが、家父長制度が根本にあるあの国、僕が女性ならとっくの昔に海外逃亡してるだろうと思います。学生時代の交換留学、そして語学を学ぶため、1年ちょっと住んだことがあり、その時の印象です。この印象の起源は多分戦争です。あの国、朝鮮民主主義人民共和国と停戦中というだけで、今でも戦争中です。男性、30歳になるまでに相当な理由がなければ戦争に行かなければいけません(徴兵制)。基本、女性は免除です。なんとなくですが、多くの韓国の男性から受ける印象、「女性は役立たず」です。「戦争で命を掛けてる男性に比べ、女性は何もしない」です。この議論、韓国でなくてもよく聞く男女の諍いの原因です。

そもそも、この「諍い」のストーリー自体が男性目線なんじゃないかと思っています。そもそも、女性はこいったこと自体に興味がない。男性/女性、どちらがより社会/経済に貢献しているとか興味なんじゃないかと思うんです。貢献すべき社会/経済って、男性が作り上げたもの。そのものに貢献しているかどうかって、そもそも男性目線じゃないのかってことです。

家庭でたまに、この国の人口減の話をします。その時の妻からの印象の薄さにはびっくりです。「仕方ないじゃん。少なくなるんだったら、それはそれで普通に生活しますけど」って感じです。

たまに経済的に成功した女性の記事を読んだりしますが、その記事読んで、「そんな女性になりたい」と思う女性ってかなり少数なんじゃないかと思うんです。その証拠に男性誌の中には「経済的成功とは」が中心的記事になってる雑誌、ごまんとありますが、女性誌でこれに匹敵する雑誌ってまずない。読む人が少数派で売れないからです。売れたら、ありますから。

こんな話を家庭でしたら、妻が「戦場で犬に出会ったら撫でる?」っ尋ねてきました。「その時の状況だろ。分からんよ。」って答えました。「えー、あなたは撫でるわよ。この家庭で1番女性ぽいの、あなただから」って言ってました。そんな目で見られていると初めて知って、「そんなことどうでもいいわ」って思うのもちょっと女性っぽい証拠かもしれないなと鏡に映る超男性っぽい自分を見て自身の中にあるジェンダーギャップがすごいなって感心してたりしてね。
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