Comfort Mart 店長ブログ

三重県桑名市で北欧で直接買い付けたヴィンテージ家具、カリモク60、Yチェアなどのカールハンセン&サン、PPモブラー、ハーマンミラー、宮崎椅子製作所などを扱うお店の店長です。日々の出来事や考えていることを綴っています。そして時々、入荷情報などもお伝えしています。

夏休み

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長男が今年高校3年生で、多分来年の春から社会に出る予定でいるので、中学2年生の次男と一緒に家庭で長い夏休みを経験できるのは今年が最後なんじゃないかと思っています。妻の仕事が夏休みになると一時休業になるタイプのものなので、私を除き家庭は夏休みモードです。僕は普段と変わらずのお仕事で、また家事もそれほど変わるものでもないので、ただいつもの日が過ぎている感じに、プラスいつもならいない人たちがうちにいるって感で、平常運行です。ただ家族旅行は家族揃って長い休みを取ることは今後はないだろうと思うから、いつもより少し長めの日程で行ってみよかと思ってます。

夏休みになると、子供達は学校からもらって来たスケジュール表に日々のスケジュールを入れることになります。これって、僕が考える子供等が学校に行き続ける理由なのです。

「どうして学校に行かなければならないのか?」って長男に何度も尋ねられます。僕も小さなころいつも考えていました。「なんで学校に行くのか」って。勉強なんて、おうちで出来るしね。集団生活を学ぶって言っても、「それ、その方法で合ってんの?」って思っていたし、「友達を作るため」って言われても、「それ、学校に行かないとダメ?」って思っていたしね。学校って、将来、仕事をさせるためにしか存在してないんだろうというのが僕の見立。大学院までの全ての学校って意味です。

学校を運営するためにはものすごいお金がかかってるんです。文科省の予算が年間5.5兆円。ものすごい金額です。そして、僕ら親が子供にかける教育費の日本全国合計、7兆円/年。12.5兆円が学校教育にかかってる。国が使うお金は税金によって賄われています。その税金は私たちのお仕事から生まれたお金です。国民のからのお金を国が何のリターンも期待しないまま、使うと思いますか。ありえないのです。ただお金を与え、「好きな本を読みなさい」と言いますか。言わないのです。「将来、お金を返してね。しかも利子も合わせてね。」ってことです。

また、教育ほど率のいい投資はないと言われています。文科省の言う通りの教育方針で勉強に勉強を重ねれば文科省の評価の高い大学に入れます。国に指示に従順に従えば従う程、国がお金を出すいい大学と評価するところに入れるのは当たり前。だから、この国で文科省の評価の高い大学に入っている人はこの国の中の評価が高い(この国の中だけの話です)。文科省が高いと評価する大学、そして低いと評価する大学、学費はそれほど変わらない。でも、卒業してからの年収の差はびっくりです。勉強すればする程、この国では年収が上がるシステムになっているのです。そして、教育にかける費用は一人頭同じですから、これ以上いい投資はない。頭の良さで、国からの投資額に変動はない訳ですから、国にすればめちゃいい投資です。この国でお金持ちになる1番の方法は文科省が敷いてくれたレールに乗って、めちゃ勉強することです。お金持ちになりたい人がいれば、株式投資なんかより、勉強した方がいい。ほぼ100%の確率でお金持ちになれます。そのような国のシステムになってますから。でもこのようなシステムになっていな国も沢山あります。教育にお金を出さない国です。そんな国では、ドラッグディーラーになる方がお金持ちになる近道な訳です。この日本という国では教育は将来の国家予算を確保するための投資。そしてこの投資は長年うまく行ってます。だから、この国でこのシステムがそう簡単に崩れることはないと思って間違いない。

どこかの国のように、映画俳優が急に大統領(首相)になったりはこの国では絶対にない。文科省のレールのきっちりと乗った人しかこの国の最高責任者にはなれない。この国の最高責任者になりたいのであれば、文科省のレールにがっつり乗ることです。ノリノリで乗り続けることです。

ここまで書いたこと、とってもドライですが、その通りなのです。ただ、僕の記憶ではこう教えられた記憶はない。そもそも、僕が納得いく学校に行く理由を教えてくれた人は1人もいない。親、兄弟、友人、その他僕の人生に関わった人の中で誰1人としていない。

誰も教えてくれなかったことがよかったのか、或いは良くなかったのか、生き延びこの歳になるとどうでもいい。

経済を回し、税金を少しでも多く支払える人を作るシステムの根幹がこの国での教育です。ただ、「好きな本を読んでいて下さい」では許してくれないのがこの国の教育なのです。人が教育を重ねることで経済は成長し、経済が成長すれば、そこで住む人は幸せになるとのシステムが前提。

この前提って合ってますか?

39歳までの死亡原因の第一は自殺です。

学校で自殺はやめようと学びます。それでもこの国には死にたくなる人が大勢いるのです。私たちのDNAとほぼ同じの自然に中で生活するチンパンジーは自殺するのでしょうか。稀にあるかもしれませんが、まーないよね。学校教育が整っていない国ほど、例外はありますが自殺率はとっても低い。学校教育と自殺との相関関係は非常の高いし、また、学校教育と経済発展の相関関係もとっても高い。「高い学校教育=経済発展=高い自殺率」。怖い。「学校教育」と「経済発展」を切り離したらどうですか?っていうのが僕の勝手な考え方です。何度も書きますが、今この国でお金持ちになりたいなら、勉強をすること。これは間違いない。そういうシステムですから。毎週末上司とゴルフに行ってるより、勉強した方がお金持ちになる確率は高い。言っちゃえば、勉強し続ければこの国ではほぼ100%お金持ちになれる。これは決まっていることです。「お金持ちになりたい」という人には必ず、言うことにしてる「勉強したら」。でもね、僕はこのシステムにどっぷり浸かりながら生きていますが、僕はこのシステムが大嫌い。好きな本だけ読ませて欲しい。僕ね、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思ってるんです。でなきゃ、自殺しないでしょ、こんなに大勢の人が。

僕らホモ・サピエンスは他の人類にはなかった秀でた認知能力が脳に備わっていたからここまで繁栄が出来た。お互い協力し合いながら生きていくことはそのレベルの差はあれど僕らホモ・サピエンスの生きるための最大の術。僕らは必ず、生きてく上でいくつも小さいものから大きなものまで社会を作り上げて行ったり、或いは属したりしながら成長します。ホモ・サピエンスは1人では生きられない。何らかの属する社会がないと生きられない。

そして現代、その社会を国という単位がまとめ、その国単位が他の多数の国単位と協力しながら世界という社会を築き上げています。将来、地球以外からとある生命体がやって来て、私たちの社会性を見てびっくりすると思う。また、実は昆虫も草花もそして他の動物も、社会性があるものの方が生き延びている現実がある。この地球という惑星は社会性がある方が生き延びれる環境になっているんだと思う。地球外からやってくる僕たちや他の動植物の社会性を見てびっくりする生命体、彼ら/彼女(はたまた、どんな代名詞になるのか知りませんが)が生活をする惑星は社会性がなくても生き延びれる環境なのかもしれないし、もしかしたら、「生き延びる」ことが重要なことであるとDNAにインプットがされていない生命体かもしれない。つまり、私たちDNAに生きることの大切さが記憶され、そしてこの地球という惑星の環境において社会性がその実現のためには最も大切だと環境に対応して来た結果、僕らは生きてる。社会性を失うと、この地球という惑星では生き延びれないんだと思う。

社会性と教育ってすごく相性がいいのです。経済発展、それは1人では成し遂げれない。どれだけ、Meta社のマーク・ザッカーバーグが優れた経営者だと言われても1人ではあんな大きな組織は作れない。Appleのスティーブ・ジョブもそうです。もともと、生き延びるために社会性が必要だとDNAに刻み込まれている私たちホモ・サピエンス。経済発展には社会性が不可欠。そして、私たちのDNAの遡上に経済発展のための教育が加われば、爆発的は経済発展は約束されたと同じです。

社会性は必要だし、とっても重要だと思ってます。ただ、その社会性を経済発展のことばかりに仕向けるのがとっても心地悪い。夏休みのスケジュール管理はなぜするのか。経済が発展してる国々では必ずあるんだとろうと思う。会社に入った時、9時から18時までの限られた勤務時間の中で、社会性を発揮しながら、最大限の結果を出す方法が効率化です。効率化は標準化とほぼ同意義語。人の仕事を標準化するためにはその人の動きを管理し、出来るだけ標準化の規定に従わせることです。スケジュールとは管理されるためのツールです。この経済発展が凄まじい世界では私たちは管理される宿命にあるのです。息子がスケジュール管理をしている姿を見ると、彼自身望んでいないかもしれないけど、将来、社会に「管理されること」を盲目的に肯定しまっているボタンを押し続けてい姿に見えて、「それって、君の意思かい?」って尋ねたくなるのです。

無意識のうちの経済発展のための管理術を覚えさせられ、将来、経済発展のための一員として社会に出るであろう子供達。でも、彼らが大人社会に入り、頑張り続けるであろう経済発展は私たちたが住む地球に負のレガシーを残し続け、その結果、温暖化が進み、多くの人類が到底住めない環境になってきてる。「暑いから住めない」じゃなくて、温暖化の結果、食物連鎖の下層部の崩壊が急激な速度で進み、上層部の私達の生命がとっても危機的状態となってる。地球温暖化の影響を最も激しく受けている人々は経済発展が遅れている国々の人。その人々の教育レベルはとっても低いから、教育を施し経済発展すれば、影響を回避出来るという人もいる。ばかげた理論です。経済は需要と供給のバランスで成り立っていて、人類全体が経済発展すると爆発的に増える需要を満たせるだけの供給は限られた地球の資源からでは不可能なのです。

経済発展のためにの教育を受け、その結果の現状を眺めると、「学校教育とはなんなんだ」と長男から「なんで学校に行くのか」と尋ねられ、口籠る自分がいます。僕が高校生の時、悲観的な将来像しか描けず、担任の先生に「もし僕が結婚しても子供はいらない」と言った時、先生が「だから、子供を作るんだよ。お前が描く悲観的な未来をお前の子供達が変えてくれるかもしれない。子供は希望。そして、まだ子供であるお前は俺たち大人からすると大切な希望なんだよ」と言ってくれた言葉を思い出し、スケジュール管理をする息子達にかけようとする自分の言葉の重さの責任をどのように果たすのか考え続ける、そんな夏休みです。

「やめて頂きたい」こと

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画像は先日行った山梨県への配達の時に撮った写真です。自然に囲まれいいなとは思いますが、このお店の近くもこういった場所、まだ結構沢山あって、特別感はないのです。ただ、写真では見えませんが、奥に富士山があるんです。富士山があるだけで、風景は一変。この辺りの風景とは全く違う別ものになります。「絶景」へと早変わりです。

朝日新聞が定期的に掲載しているSDGsについての記事の中にあった映画「アニマル ぼくたちと動物のこと」のソフトを配給会社からレンタルしてお店で上映しようと思っていますが、上映したい日が僕のお休みと重なっていて、どうしようかと方法を考えています。ただ、そのうちAmazonプライムなどで見れる映画になり、見たくなればいつでも観れる映画になるだろうし、「どうしても上映しなければ」的な感じでもないから、やらないかもしれません。お店で上映となれば、お席も限られるので、「この期間中にお買い物をして頂いた方を優先に」的で、駐車場のスペースも考えながらクローズドな上映会になると思います。1日2回、無料的な感じです。

さて、お客様から聞いたお話しですが、どこかのお店で木製家具をご購入の際、「壊れた時はコンフォートマートさんで直してくれると思いますよ」と言われ購入したことがあると聞いて複雑な気持ちになりました。「それだけ信頼されてるんだ」や「認知度が上がったな」的なとてもポジティブな気持ち、それとは逆に「修理は販売したところやるべきだよね」「そこで付加価値をつけちゃダメでしょ」「修理できないものもあるけどね」など、とてもネガティブな気持ちが交錯して複雑です。ネガティブな気持ちの根源、それは「どうして、そしてどのような考えで家具の修理/修復を幅広く受けいれているのか」をご理解頂いていないまま、「コンフォートマートは家具修復をしている」とご紹介頂いていることへの悔しさ。

家具店、多くは自身で修理修復が出来ないというのは事実ですし、隠すことでもないことですし、だからといって修理修復しているお店の名前を出したとしても、壊れたら捨てると考えられている家具の修理修復がそのお店では進むとは到底思えない。

廃棄処分があるから回っている現在のマクロ経済、家具屋のミクロ経済もその通り。このお店も例外ではありません。例外ではありませんが、廃棄処分になるまでの期間が相当長いものだけをご案内してます。そして、僕らのおこなっている家具の修理修復は僕らの販売した家具の将来が心配だからではありません。ずっと以前にどこかで販売された家具、その家具の「延命処置」です。僕らの行なっている販売もそして家具の修理/修復は、決して経済に逆行していることではなく、経済原理に則り、製造から廃棄までの期間を出来るだけ長いもの、そして長くするためのサービスを提供し、これから先も同じであろう経済で回る社会を出来るだけ持続可能としたいとの硬い意志の上に成り立っています。

ライフサイクルの長い商品だけの販売では、この硬い意志を守るには弱く、家具の修理/修復を一体にして初めて守り続けられる自信が湧くものだと思ってます。

多分、壊れたらどこか他で修理/修復してくれますよと話しているお店、ライフサイクルの長い商品を販売することが社会にどのようなポジティブな影響をもたらすのか知らないじゃないかと思うんです。だから、このお店の名前を出して欲しくありません。このお店が実現したいことがブレて伝わってしまう可能性があるから。

ほとんどの家具は直して使われていると勘違いしてはいけません。壊れ使われなくなった家具のほとんどは捨てられています。この国の家具のリユース率はたった16%。これは新品で買った場合のリユース率。84%は遅かれ早かれ、捨てられています。また、このリユースされる16%、恐らく新品で買って壊れずに次に引き継がれる場合の数字で、壊れた家具は捨てられる84%の中に含まれていると考えて頂いて間違いないと思います。

売った家具のほとんどは次世代に受け継がれることなく捨てられている。

捨てられることで新しい家具の需要が生まれ、それを満たすための新しい家具の供給があって経済は回っています。これから先も経済を回すことは止まらない。どこかの過疎地域で自給自足で生活する方々がメディアで取り上げられそういった生活に羨望が集まることがありますが、彼ら/彼女らの生活はその他のところで経済を回している人達がいて税金が生まれ成り立っている社会基盤があるからありえるのだと心に留めた方がいい。

日本のような先進国で生活する以上、経済を回す社会から完全に逃げることは不可能。経済の回し方に問題があり地球環境の問題や社会環境そして衛生環境の問題が出てきている訳で、需要と供給で成り立つ市場経済、そしてその市場経済のやり取りを通貨と呼ばれるお金で決済するやり方である現在の経済方式が根本的に間違っている訳ではないと思ってます。

多くを欲しがらず、多くを作らず、そして多くを溜め込まない経済の回し方にシフトし、持続可能な天然資源の使い方の基礎研究を続け、そして応用していくエネルギー政策を合わされば、これほどまでに経済を回すことへのネガティブ感情は生まれないと思います。

家具の多くは買われ、そして捨てらますが、昨今の持続可能な流れからなのか、家具メーカーもそう簡単に壊れるものを出してこない。また、工業製品である家具、過去に作られたものより、新しく作られたものの方が質がいいとの性格もこの「壊れるものが減っている」を助長してます。そして、地球環境の悪化の懸念からこれから主流となる考え方、「皆が多くを欲しがらず、それに合わせて多くを作らず、そして多くを溜め込まない社会」が合わせて進めば、今私たちがお店でおこなっている持ち込みの修理/修復って、どうなると思いますか。減ります。壊れないし、物が増えない訳だから。肌感覚ですが、お店で修理させて頂く家具の傾向を見てるとこの感覚は間違いないと思う。修理に持ち込まれる家具、その多くはまだ工業製品として構造に難があったり、まだまだ質向上についての余地がある今よりずっと昔に作られた家具がほとんど。

私たちが受けている家具修理のほとんどはそのお客様がずっと昔に他店でご購入された家具に対して。上記の他店で家具をご購入頂いた方がもし修理修復でその家具をこのお店にお持ち込み頂く場合との違いは、その家具をご購入頂いた時点でこのお店があったかなかったかだけ。大した差じゃない。でもすっきりしない。

販売頂いた家具はもうすでに将来ほとんど修理が必要がなく、また将来修理する時期がやって来てもほとんどの場合は捨てられるという現実があり、「修理できますよ」と言うこと自体に付加価値はほとんどないという事実。また、先細る家具修理/修復の煽りを受け、将来、修理/修復が必要となった時、私たちの家具の修理/修復は閉業している可能性が高いという事実。でももっと真面目に考えなくてはならない事実、それはこれからの事実を知らず、「修理できるところがありますよ」と家具販売を続けてしまうと、市場分析の欠如の結果、多分、そのお店の将来が危ういということに気付いていない事実です。そのお店の将来のことは正直、僕には関係がない。だけど、「修理が出来る」と聞いて買った方々の中には稀だとは思いますが、何年か先にほんとに修理を依頼したいとこのお店に頼る場合があると思う。その買ったお店はもうないし、そして「修理出来ますよ」と紹介されたこのお店も修理/修復はもうやってない。

こうして困るの、大勢の中でほんの一部の人だけ。無視していいのでしょうか。

この小さな規模の「無視」、全国にそして全世界にごまんとありそうな気がするのは僕だけじゃないと思うんです。世界規模で見ると、相当な数になるはず。

これってね、今の環境問題の根源に直結してる。「少しだったらいいだろ」が世界中で重なり、ものすごい数になり動植物の危機を生んでいます。川の上流に住む人が少しだからいいだろと捨てた微量の化学物質、下流の人が同じように捨てる。その数は膨大となり、微生物が食べ、そして魚が食べ、そして私たちの口に戻る。化学物質が溜まり、微生物が適正でなくなった海では二酸化炭素吸収は妨げられ、温暖化が進む。こんなことと一緒です。

このそのお店が欠如してしまっている感覚をこのお店は最も大切にしていますから、こういった理由からも「欠如してるなら、名前を出さない下さい」と言いたい。このお店で大切にしたいことが間違って伝わってしまうことは、このお店の将来を危うくし、社会貢献が出来なくなる危険を孕んでいます。

もし、軽い気持ちで「コンフォートマートで直してくれると思いますよ」と言ってしまったとしたら、是非、ご連絡ください。どうして言ってしまったのか理由を聞きますし、その理由によっては、言ってほしくないこちらの意図をご説明致します。また、ご連絡頂く必要がないほど、このお店がものとサービスで伝えたいことを強く発信していくようにします。

とは書きましたが、「コンフォートマートで修理出来ますよ」と言われた家具をご購入頂いたお客様にとっては全く関係のない話。これまで通り、お持ち込みの家具修理のご依頼、どんなケースでも丁寧に御対応させて頂きますので、他店で「コンフォートマートで修理出来ますよ」と言われご購入に至った場合でもお気軽にご相談下さい。

「商品説明」

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GWは妻の実家のある新潟に帰省していました。空気が澄んでるこの時期のいつも行く海岸からの風景は最高です。

犬を可愛いと撫で撫でしながら、お夕飯の食卓には豚肉が並び美味しいと頬張る自分自身の姿に自分自身の中にあるアンビバレントを感じ、隠れたくなることがあります。「犬は可愛いけど、豚は殺してもいいんだ」って誰かに言われたら身も蓋もなく、「そうなんですよね、ほんと。すいません。」って謝るしか出来ない。犬はこれからも撫で続けるし、豚肉はこれからも食べ続けるから。

謝りつつも、「なんか違うぞ」って感じます。

ちょっとした「カテゴリー(分類)錯誤」なんじゃないかと思うんです。「動物」っていう分類で示すと、「犬を豚も同じ分類だから、犬を愛しているなら、豚も愛しているはずだ、その豚を食べるなんてどういうことだ」なんですが、分類を「一緒に暮らす動物」に少し範囲を狭めると、「一緒に暮らす犬は食べないが、一緒に暮らさない豚は食べれる」になり、「一緒に暮らす豚がいるなら、その豚は食べれない」になる。

愛犬家に対して「犬は可愛いけど、豚は殺してもいいんだ」という方は、犬を「動物」という分類でくくってお話したいし、愛犬家からすると「一緒に暮らす動物」っていう分類で話したいから、もう話が全く噛み合わない。こんなお互いの思い込みをコントにするコメディー番組がアメリカのNBCでやってる「サタデー・ナイト・ライブ」って番組です。ダウンタウンのコントもこれが多いと思ってますが、どうなんでしょうか。人の持つ勝手な思い込みをクスッと笑う感じのコント。

コントに出来るほど、人とは思い込みが激しい生き物なんだと思う。僕も例外ではありません。僕が書くHPの商品説明。完全に僕の思い込みです。メーカーから頂く商品説明とは別に勝手な思い込みがどこからともなく降りてくるんです。すごい思い込みなので、書いた後、メーカーから叱られんじゃないといつもヒヤヒヤしています。

メーカーから新作が発表されると、その商品説明が全国の取扱店に配られます。もらう商品説明は全国のどのお店でも同じです。その商品をネット販売する時の商品説明の多くは、お店毎に言い回しは変わるかもしれませんが、その土台はどのお店も同じ場合がほとんど。そして、お客様が受け取る印象も、ほぼ同じ。ネットショップであれこれ探す時、ある商品に使われている商品説明がどこも同じであることってよくあります。あれ、この業界にもあります。

このお店も例外ではありません。メーカーから頂く商品説明、とってもありがたく感じています。その商品のことを1番よく知ってるメーカーから頂く商品説明に優るものはないはずです。だから、このお店のHPにある商品説明の多くはメーカーから頂いた商品説明に少しだけ「おのお店らしさ」を付け加え、書いたものです。

ただ書きながら、「どこのお店でも商品説明が同じであれば、お客様がうちを選ぶ理由ってなんだろう」っていつも考えています。

この点、ヴィンテージ家具の場合は考えなくても大丈夫。ただ、その商品から感じたことを文章化するためにはそれなりの時間が必要です。独自の文章を書ける商品ではあるのですが、その時間を絞り出すことが出来ず、それなりの文章となってしまうことが多くあるが事実です。何年前だったかの忘れましたが、ヴィンテージ家具については特にそれなりの文章で終わるような商品説明はやめようと決めました。日頃から、自分の文章構成能力の低さに嫌気がさしていて訓練したいと思っていたし、買い付けの度に上がるヴィンテージ家具の価格に対してもっと責任を持った方がいいと思っていたし、買い付ける商品の理由を深く考えるようになるだろうと期待したし、ともかく一点一点、もっともっと丁寧にご案内すべきなんだろうと思ったから。ただ、その商品の歴史的/社会的背景を調べるために、膨大な時間がかかり、さらに文章を何回も書き直すので、年に数点しか商品説明が書けなくなってしまいました。HPに修理/修復したヴィンテージ家具の商品点数が少ない理由はここにもあります。

このヴィンテージ家具の商品説明への姿勢が新品商品にも波及しているのだと思います。いつもではないですが、メーカーからの商品説明とは別に、独自に商品やその社会的/歴史的背景を色々調べ、その商品の対する思いを熱く語ってしまうことがあります。

その商品を発表するメーカー側としてはある特定の意図や目的がありその商品を出すわけで、メーカー側は販売店にその意図や目的をきっちりとお客様に伝えて欲しいと思う気持ちは当然です。メーカーの中にはメーカーから出した商品説明以外のことをお客様に伝えるのは厳禁だとするところもあります。必死で守ろうとするメーカー側の商品への意図、でも、その商品を受け取る側がその商品を見て、どう感じるかは自由で勝手です。メーカー側が、「当社が考える商品イメージとは別のイメージをあなた様は持っているから、あなた様には商品を販売出来ません」なんてことありえない。でも、家具業界ではあまり聞いたことありませんが、他業界ではこれに近いことを実施しているメーカー、実は世界にたくさんあります。メーカー側が持つ商品意図に従って商品を理解すること、そしてその意図を理解した人達だけで作られる商品コミュニティーがあったりもします。そのコミュニティーに属することに憧れる多くの人がいたり。

メーカーから頂く商品説明はそれなりに完成度が高く、それ自体に懐疑心を持ってで立ち向かうことは販売店が想像できないような大きなリソースを使い、そしてリスクをかけながらその商品を作っているメーカーに対して失礼だと思ってます。ただ、一方、その商品を見た消費者がその商品から感じるものはその商品を作るメーカーからコントロールされたものでなく、その感覚は自己判断で、とっても個人的でよしとされるべきだろと思っています。自分自身の感情や感覚をコントロール出来るのは、決して他人ではなく、自分自身です。決して、他人に自分自身の感情や感覚をコントロールさせてはダメ。

メーカーへのレスペクト、そして人の主体性の形成との間で揺れ動く自分がいます。

メーカーから示された商品説明について反対の意見をすることは決してありません。ただ、その商品を違った角度で見た時、その商品説明では物足りないと感じることがあって、そんな時、「俺に言わせてくれ!」っていう強い衝動が生まれ、その衝動の根源が何なのか考える時間があり、そして何となくその根源に辿り付いた時にメーカーから示された商品説明とは全く別のやり方で商品を説明する時があります。主体性が溢れ出てしまった感じです。

主体性が溢れる時はメーカーが考えるその商品を買う人の分類がなんとなく、僕の考える分類とは違う感じの時。

最近の例だと「未来のデザイン愛好家のための椅子」とカールハンセン&サンか発売開始になったCH24の子供用の椅子。「未来のデザイン愛好家のための椅子」はとは言われますが、「デザイン愛好家」にと子供を育てたいと思う人がこの椅子を買うのかな。なんとなく、その前提条件の説明が抜けてるんじゃないのかなと考えました。例えば、テレビを買う人はテレビが欲しいんじゃなく、テレビに映る番組を見たいからテレビを買う的な感じです。「デザイン愛好家に子供を育てたい理由は何ですか?」。そこんとこは、「各自考えて下さい」なんだろう思いますが、この椅子を手に入れたいと思う人って、そこんとこめちゃ重要視している人なんじゃないかと強く感じ、だって、10万円もする子供椅子、そう簡単に「子供をデザイン愛好家したいから」って理由では普通買わない。もっと言っちゃうと、この椅子を手入れることで子供がデザイン愛好家になると信じている層であればあるほど、この椅子は買えない。

メーカーが設定する購買層の分類に違和感があり、こんなことを考えている人にこの椅子を買って欲しいと、こんな人ならこの椅子は大きな役目を果たすはずだと考え 商品ページの説明を書きました。

いつもではありませんが、商品によってメーカーが考える分類、そして僕が考える分類に違いがある時があります。そんな時、メーカーの考え方をレスペクトしつつも、僕自身の考えで商品について述べる事があり、こういったことに寛容であるメーカーとお付き合いをしたいと思っていますが、許してくれない時もあります。「ダメだ、ダメだ、勝手なことしちゃ」とは反省しますが、その商品を買って頂いたあとお客様からたまに言われる「あの説明でこの商品を買うことにしました」と聞くと、勝手なことが止められない。ただ、勝手なこをしてなきゃ、もっと売れたりしてね。

幸せになるための寛容度

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この前、家族で花見に出掛けました。この地方での桜の見頃も終わりに近づき、これからは去年同様、灼熱な季節が始まりそうな予感です。寒暖化差が身体に堪える歳になり、その身体的苦痛が精神的苦痛へと様変わりし、この季節の心地よさがいつも感じられる場所に年中旅したいと思うようになっています。ともかく、寒い冬が終わり、とりあえずよかった。

ディズニープラスで配信してる「SHOGUN 将軍」を観ていた妻、久しぶりに一緒に観ました。その時、妻が僕に「楽しめないやつは観るな!」と睨まれた時の話。

とっても面白い内容、最高のエンターテーメント。さすがハリウッド映画。ただ、いつも思うのですが、同じハリウッド映画の「アイアンマン」はロバート・ダウニー・ジュニアじゃないといけないんです。絶対にジェイミー・フォックスにはらない。ワイルドスピードに出ていた韓国系アメリカ人のサン・カンにも絶対ならない。正義のヒーローはいつも肌が白い。もちろん例外はありますが、やっぱりそれは例外です。ヒーローの場数を踏めるので、経験値も肌の白い俳優の方が上がるから、演技の上手さの上でも肌の白い人なんだろと思います。今回の「SHOGUN 将軍」に出演している英国国籍のコスモ・ジャーヴィスも肌が白い。ドラマの設定がまだまだ奴隷制が世界で普通の時代の1500年代だから、日本にやってき欧米人が白人があることは当たり前。だから、キャスティングもその通りで問題はないんだろうけど、でも、何となく恣意臭さを感じるのは、彼が演じる肌の白い人が西洋の正義を象徴しいるかのような演出が気になるから。

映画の中で家庭内暴力を起こした日本の武士(男性)に対して、このイギリス人が怒るシーンがあります。また、その他のシーンでも、女性に対して紳士な態度に対して、日本武士は無骨な態度。イギリス人は個の考え方を大切に、でも一方、日本武士は和を大切に、そのためなら家族も殺す。

日本の既婚カップルの中に占める家庭内暴力を経験したことのある20%に比べ、その数は10%程と減りますが、イギリスにも家庭内暴力はあります(そのほとんどの犠牲者は女性です)。日本には「和」の心があったからこそ、震災などで助かった命が沢山あっただろうと思う。アメリカに住んでる時、日本人女性と付き合っているイギリス人男性がその女性に3歩下がって歩くことを強制している姿見たことあります。

ある一定のカテゴーに属する人々のグループに存在する他のグループには存在していない行動や言動の規範があります。その規範はもっぱら無意識なものの場合が多い。その無意識の規範が、意識的な規範として他のグループを区別する理由として使われる多くの場合、「差別」と言われるものになります。

先日の長年日本に住むアメリカ人の編集者が消滅危機が叫ばれる人口減の激しい限界集落を取材した時の報告書を読んでいました。その地域のご老人にアメリカ人編集者が「だったら、僕が住んでもいいかもしれないね」と言った時の返答が「君はこの地域に合わせることができるのかい?」って尋ねて来たという一文がありました。「合わない人と暮らすより消滅を望む」なんだろうと思う。ある一定のカテゴリーグループに属する人々が持つ無意識の規範はそのグループの外からやってくるグループが交わる時、初めて一気に意識的な規範になるといういい例です。

「SHOGUN 将軍」などの映画にある私が感じる違和感は、その無意識な規範を、そのグループに属さない人達が、「そのグループの規範はこうです」と顕在化し、そしてそのまた別のカテゴリーグループに刷り込ませているような気持ち悪さです。それぞれのグループとは全く関係のない、第三者のグループが、当事者グループの意識を操作している感じがする気持ち悪さです。そして、その源泉にあるのが経済的な理由ってことが気持ち悪さを助長しています。

現在行われている戦争で1番多く使われるロシアで開発されたライフル型機関銃「AK47」。このライフルは世界各国で製造され、戦争が起これば起こるほど、その製造会社は経済的に豊かになります。経済的に豊かになった会社からの税収はその国を潤します。このライフルのビジネルモデルも他の現代のビジネスモデルと同じで「大量生産、安価、そして大量販売」、数を売って儲けるビジネスモデル。現在、この機関銃は4万円ほどで買えます。弾丸は一発100円しません。戦争をしている、両国とはまったく関係のない武器の販売という経済的な理由なだけで繋がっている豊かなある国が、その両国に武器を流し続けている気持ち悪さと「ヒーローはいつも肌の白い人」とがなんとなく繋がってしまって、そこを切り離して配信を楽しみたいけど、切り離せないので、つい愚痴が出ちゃうのです。

限界集落の老人がアメリカ人編集者に言った言葉、それ自体には何ら問題ないと思っています。老人はそういった規範で生きてきたから、それが当たり前だから。それに対して、その規範を知らないアメリカ人にその規範を伝えるのは、必要なことだろうと思う。伝えても、それから先、それをアメリカ人が守るか守らないか、そしてその規範を老人等とアメリカ人編集者が共に変えて行くかどうか、或いは変えていかないかは、その2者のことであり、それ2者が行えばいいことです。

経済的な理由で、その当事者の間に入り、情報を操作る行為は実に気持ち悪い。世間でいう「媒体」がこの役割です。先の僕が書いた「合わない人と暮らすより消滅を望む」は印象操作であり、よく媒体が使う方法です。これをやめて欲しいのです。

脳の柔軟性が高い年齢が低ければ低いほど、媒体からの印象操作は事実として刷り込まれる。その刷り込まれた情報は具体的に更新されなければ、ずっとそのまま。僕もこの餌食になった1人です。アメリカに住む前、国内で一般的に見聞きする情報で勝手に「アメリカ人は」って作ってて、実際に住んでみると、全くその情報間違ってた。住んだ韓国の場合もそう。それは、いい意味でも悪い意味でもです。そして、その間違った情報を更新するのにもう何年もかかってしまった。ある意味、いまだに更新できていないかもしれない。

デンマークについては、その経済的な恩恵が薄いのか、第三者から流れる「印象操作」がなく、僕の場合自ら探した歴史の書籍から始まり、幾度となく行くデンマーク現地での人との繋がりからの感覚で、自らの自主的な体験でデンマーク像を作り上げることが出来ていて、デンマークの人とのお付き合いに、勝手な思い込みのために苦労することがあまりない。今でも、アメリカの人、そして韓国の人については苦労します。こんなに長く、そして多くのアメリカ人、そして韓国人と付き合ってますが、僕の中での「アメリカ人像」、そして「韓国人像」が抜けないから、初めて会うアメリカ人、そして韓国人に対して個としてのお付き合いにめちゃ時間がかかっちゃう。時間がかかっちゃうから、苦労します。だから、苦労を避けるため、それらの人を遠ざける傾向さえあります。媒体で型取られるアメリカ人像、そして韓国人像とはまるで違う人、いっぱい知ってるにもかかわらずです。

3月20日に「世界幸福度調査」が発表になりました。知っての通り、日本の順位は毎回下の方。上位を占めるのはいつも北欧の国々。で、先日この話を次男にしました、「世界幸福度調査ってのがあってさ、日本って何位だと思う?」って。「ぶっちぎりに1位だよ」って言ってました。僕も実は同感なんです。この調査はアメリカの有名調査統計会社であるギャラップ社が毎年行う幸福度調査を元に156カ国に行うものです。そのそれぞれの国の人にその国で暮らすことで得られる満足度を0から10までに評価してもらい、その結果を国連が考える、その答えの理由となった6つの事柄から説明しようとするものです。

つまり、順位はその国に暮らす人の幸福満足度の平均値。「日本最高!」って言ってる人もいれば「日本最低!」って言ってる人もいるってこと。そして、恐らく「日本最高!」って言ってる人の数が「日本最低!」って言ってる人の割合が北欧の国々の人よりも少ないってこと。この国にも「日本最高!」って言ってる人がいるってことを忘れないで。「この国に住む全ての人の幸福度が低い」ではないのです。

国連が考える幸福度に影響を与える事柄の中、経済的な豊かさ(GDP)の高低差はそれほどラインキングには大きく寄与しないし、またその国の長寿もそれほどランキングの高低には関係ない。つまり、高いランキングの国々は経済的に比較的豊かであり、長生きしている国であるということ。

その説明理由のうちの一つ「他者への寛容さ」。これは幸福度の尺度としては有効とされていますが、日本では幸福上位国よりもこの数字が低く、恐らくこの結果がこの国の幸福度が他の国の人よりも低い理由につながっているだろうと推測されています。

「他者への寛容さ」です。僕、完全にこれです。苦労してもどうしても消し去ることが出来ないある国の人の対する「典型」があり、それに対する寛容が完全に欠けてます。これって、実はこの国の媒体に小さい頃から触れる人、全てに当てはまるものなんじゃないのかって、「SHOGUN 将軍」を見て思った訳です。「色々な考え方/見方があるけどね、決めるのは君だよ」って媒体姿勢じゃないし、政治体制がずっと自民党で、政治体制が政権毎にかわる他の国々とは違い「それはそうだから」ってなりやすい事実はあるんだと思う。

幸福度トップの国々のうち、フィンランドとデンマークしか知りませんが、政治体制はよく変わるし、「決めるのは君だ」との姿勢は一貫してる感じがします。

「SHOGUN 将軍」を観て、こう思った僕が妻に理由を話し出そうと思ったら睨まれ「楽しめないやつは観るな!」って言われ、「お前、寛容が足りないなー」って言いかけた夫婦喧嘩の話です。

「戦場」の女性

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3月8日は「国際女性デー」でした。僕が気にしすぎているのか、ネットニュースで僕のiPhoneにフィードされるニュースは「ジェンダーギャップ」のことがとても多い。多いからよく読んでしまうし、そうすると「こいつはこのニュースが好きだぞ」とAlが判断して、さらに好きそうなこのトピックに関するニュースや記事が紹介されてしまう。それに影響されてか、手に取った本は2015年にノーベル文学賞を受賞したロシア出身のスヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチが書いた「戦争は女の顔をしていない」。他の書籍も並走で、また内容が濃いので全然読み進めない。

先日、長男が「プリンを作りたい」と言い出し、作ったのがこのプリン。見た目は置いといて、味はまーまー、いけました。昨日は次男がホワイデーのお返しにとチョコとオレオで、カップチョコを作ってました。私も普通に家事をしますし、家族全員、役割的にはジェンダーギャップはないんだろうと思ってます。役割的なことについては、あまり疑問を持つことはなく、僕がいつも気に掛けてるのは、「どうして、こうも女性と男性は考え方が違うのか」です。

同じ結果を得るための目的意識だったり、方法だったり、そこに至る考え方だったり、まー違う。読んでる本は第二次世界大戦において出兵した多くの女性兵(ロシア側)についてのドキュメンタリーです。衛生兵などの後方支援ではなく、最前線で直接敵と対峙する役割を果たした女性の話が半分以上。戦場での銃撃戦の最中でも、女性はお花を摘み、ポッケに入れて微笑む。男性はまーないと思う、戦場でお花を摘むことはまずない。ポッケにしたためるのは家族の写真や恋人との写真。戦死した女性兵の鞄から可愛いお人形が出てくる場面も多い。戦地で何日も食べものがなく、そして悲惨な戦場を歩き続ける時、出来るだけ軽くしたい鞄、男性、そこにはお人形は入れない。

韓国の少子化がひどいことになってます。OECD内で最低です。2023年、女性の生涯出生人数が0.72人(日本でも1.3人程度です)。そして、今の人口を保持するために必要な数字は2.1人。この国もそうですが、韓国はすごい勢いで人口が減っています。�日本よりも相当近い将来、人口減のため、社会/経済が破綻すると言われています。多分、その通り破綻するんだろうと思う。この国もそうですが、家父長制度が根本にあるあの国、僕が女性ならとっくの昔に海外逃亡してるだろうと思います。学生時代の交換留学、そして語学を学ぶため、1年ちょっと住んだことがあり、その時の印象です。この印象の起源は多分戦争です。あの国、朝鮮民主主義人民共和国と停戦中というだけで、今でも戦争中です。男性、30歳になるまでに相当な理由がなければ戦争に行かなければいけません(徴兵制)。基本、女性は免除です。なんとなくですが、多くの韓国の男性から受ける印象、「女性は役立たず」です。「戦争で命を掛けてる男性に比べ、女性は何もしない」です。この議論、韓国でなくてもよく聞く男女の諍いの原因です。

そもそも、この「諍い」のストーリー自体が男性目線なんじゃないかと思っています。そもそも、女性はこいったこと自体に興味がない。男性/女性、どちらがより社会/経済に貢献しているとか興味なんじゃないかと思うんです。貢献すべき社会/経済って、男性が作り上げたもの。そのものに貢献しているかどうかって、そもそも男性目線じゃないのかってことです。

家庭でたまに、この国の人口減の話をします。その時の妻からの印象の薄さにはびっくりです。「仕方ないじゃん。少なくなるんだったら、それはそれで普通に生活しますけど」って感じです。

たまに経済的に成功した女性の記事を読んだりしますが、その記事読んで、「そんな女性になりたい」と思う女性ってかなり少数なんじゃないかと思うんです。その証拠に男性誌の中には「経済的成功とは」が中心的記事になってる雑誌、ごまんとありますが、女性誌でこれに匹敵する雑誌ってまずない。読む人が少数派で売れないからです。売れたら、ありますから。

こんな話を家庭でしたら、妻が「戦場で犬に出会ったら撫でる?」っ尋ねてきました。「その時の状況だろ。分からんよ。」って答えました。「えー、あなたは撫でるわよ。この家庭で1番女性ぽいの、あなただから」って言ってました。そんな目で見られていると初めて知って、「そんなことどうでもいいわ」って思うのもちょっと女性っぽい証拠かもしれないなと鏡に映る超男性っぽい自分を見て自身の中にあるジェンダーギャップがすごいなって感心してたりしてね。

食べるものから

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六本木にある森美術館で開催中の「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」を急ぎ脚で観てきました。次回時間があれば東京都美術館でやってる印象派の絵画の展覧会を観に行きたいと思ってます。

行った美術館の横にあるレストランには宮崎椅子の「DC9」が採用されているのですが、いつも行く時間帯が食事時じゃなく一度も行けていませんでした。今回はちょうど昼食時だったのでランチを頂きに一緒に行った長男と入ることにしました。ランチメニューは数種類しかなく、長男はステーキ、そして私はハンバーガー。お皿には山盛りのフレンチフライ(「フリット」)。大勢のお客様で賑わうそのお店をあとに、新幹線でお家に帰りました。

行きと帰りの新幹線で読んでた本に「Eat your food as your medicine. Otherwise you have to eat medicine as your food」(薬と同じようにしっかり考えながら食事を摂らないと、将来、薬が主食になるぞ)っていうSteve Jobsが残した言葉があり、歳を取り久しぶりに思い出したこの言葉に超納得。

このお仕事をさせて頂いていいなと思うこと、数え切れないほど沢山ありますが、その中の一つに「食」があります。飲食関係のお店に家具を納品する機会が沢山あること、そしてどういう訳だか知りませんがこのお店が取り扱っている家具をお使い頂く方の多くは食にもこだわりのある方が多くて、これらの影響もあってかなんとなく「食べるならいいものを食べたい」と思うようになってきました。また歳を取ると、食べたものの質や量がそのまま身体に影響を及ぼすようになって来ていると感じ、さらに食に敏感になって来ています。

この歳になっても出来る範囲での運動は続けていますが、その運動のパフォーマンスも食事と直結していて面白くなる時があります。植物性のタンパク質を中心に1日50グラムは摂取するようにしていますが、忙しくて摂れない日が何日かが続くと、運動をした時の踏ん張り時と回復時の体力消耗の体感が全然違います。生物の元はアミノ酸だから、それに変わるタンパク質はとっても大事だと感じることがここ数年は増えてきました。40代の前半まではタンパク質なんて摂らなくても、疲れたら「甘いもの食べれば平気だよ」って考えるくらい。タンパク質ブームだから、量販店にはタンパク質系の食品がずらっと並んでいます。でも、量販店で買えるタンパク質系の食べ物は合成甘味料や着色剤などの化学添加物が使われているものが多く、簡単には買えない。納豆や合成甘味料が入っていないヨーグルトや鶏肉、また全く味がないプロティングパウダーも頂きます。

忙しく、経済的に苦しい毎日、簡単にそして、安価で食せる食べ物がこの世の中には必要とされています。ただ手間暇かけずに安くて美味しいと思う食べ物にはカラクリがあると思って間違いありません。またそのカラクリのツケは将来私たちの身体に返ってくることは間違いない。買う食べ物の裏に書いてある添加物の種類とその「毒性」については書店で買える本に普通に載っているので、分かって承知の上で口に入れた方がいいと思っています。

こんな会話がよく出る家庭で育った子供たちはその手の食べ物を食べる時には「化学を頂きまーす」って言って食べるようになってます。「結局食べるんかい!」って思いますが、そこんとこは自主性です。

以前は掲載義務がなかった含まれる添加物のリストをラベルに表示しなければならなくなったり、私たちの選択の方に責任が移って来てる世の中になって来てるんだと思います。債務が大きくまた人手が足りない政府、もう以前のように「全部私たちがしてあげるから」ってことも出来なくなるし、また私たちも情報化で欲しい情報は相当簡単に手に入るようになり、これまで政府任せだったことがどんどん私たち任せになってくるんだろう思います。

この流れ、以前の家具メーカーがよく言っていた「いいものを作り、長く使って頂くことが1番のエコ」ってこと、ちょっと古い感じになって来てることと同じなんじゃないかと思ってます。家具を作っている人、そしてメーカー共に私の知っている限り(特に国内)「黙って俺が作ったものを使えばいいんだよ!」って感じの人が多い。そして質問なんかすると「俺のことが信じられないのか!だったら他で買ってくれ。」って叱られる感じ。「あんたがちゃんと作ってるって言っても、それを客観的に証明して欲しいいんですけど」っていうことが言えない感じ。超昭和の男性っぽい感じ。使っている材は持続可能な森から採れたんですか?とか使っている接着剤は何系ですか?とか使う電気は再生可能エネルギーからですか?とか、客観的に捉えられる感じが求められるんじゃないかと思う。以前なら、「対荷重何キロ」だったりとかが重要でしたが、それと並列にそれがどれだけ持続可能なものなのかってこともとっても重要になるんだろうと思う。

アパレルもお家もその流れなんだろうと思う。私たちがお付き合いするお客様は特にその傾向が強くなるんだろと思ってます。

ブルーサイン認証の洋服が欲しくても、国内アパレルメーカーではほとんどない状況は多分今後変わっていくんだろうと思う。

どのようにやって行くのかはよく分かっていませんが、この世の中の流れに乗り切れない商品はあまり推して行かないお店になると思います。ヴィンテージ品などリユース品ならいいのかってのも一概にも言えないと思います。

「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」って展示会が六本木の真ん中で開催され、大勢の人で賑わう時代です。20年前だったら、「このトピックでは商売にならないよね」ってことでボツ企画だったはずです。世の中はすごく大きく変わって来ていると感じたいい旅となりました。

改装をします。

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「この照明はこんな感じ、そしてあの照明はこんな感じにお部屋を照らします」ってことをお店で気軽に出来るようにしたいと思い、少しだけですが店舗改装をします。地味な改装なのですが結構な費用がかかりますから、出来ることは自らしたいと従業員と年末から少しづつ進めています。何度も改装をしてますが、その度に重労働でこの歳になると寿命を縮めている感がすごい。2月末までには終わっていればいいなと思います。

この改装が終わり、少し展示を変えたり増やしたり、そのあと、月の日曜日の1回、あるいは2回は完全アポイント制へとシフトして行きます。近年、お店でお取り扱いさせて頂いている商品の価格帯と見ると、「全ての人に見て欲しい」って価格帯じゃないものが多くて、誰もが気軽にご来店頂ける感じでもないし、そもそもご来店はほんとに少ない。日曜日でもご来店が5組以下の場合、普通です。また、誰もいないお店で響くエアコンの音、誰もいないのに冷やしたり、温めたり。また、照明器具の照明、誰もいないのに照らしたり。もうこうことが許される時代じゃないと思うんです。

これから住宅の着工数は劇的に減っていきます。どれだけ国が税制優遇や利率優遇策を出しても、これだけ空家が余る時代なり、住宅の需要と供給のアンバランス感はすごくなってます。大工さんもいないしね。並行して家具の市場規模もどんどん縮小して行きます。一時の大きな需要はあるかもしれませんが、長期的な市場規模をグラフ化したら右肩下がりであることはまず間違いないんだろうと思う。

出来るだけ多くの人にご来店頂くための投資はやめ、出来るだけ小さな範囲で深く繋がれるための投資に集中させて頂くことになると思います

さて、先日長男とスポーツジムに行く途中の車の中で彼が「同じ仕事をしていても、500円の人と1000円の人がいるんでしょ?」って尋ねてきました。彼の言いたいことは全く同じ労働生産性の持つ人であっても時給が500円の人と1000円の人がいるのか?って質問です。皆さんご存知の通り、います。席が隣の人、全く同じことしてます、でも彼(彼女)のお給料の方が上ってこと、よくある話です。年齢が上ということだけでお給料が高い場合もあるし、性別の違いで高低差が出る時もある。

同一ジョブ、同一賃金の議論が政府内で進んでいるようですが、どうなんでしょうか。

現在の市場経済は需要と供給のバランスによって成り立ってます。同じ仕事をする、そしてその仕事に対して同じ労働生産性の隣の席の人の方がお給料が高い場合、どこかの点でその人の方が会社からより必要とされているということです。労働生産性という供給は同じですが、その人を欲しいと思う会社側の事情という需要が時給が高い方の人の方が高いということになります。

息子が話しているのは「点」での労働生産性の比較だと思いますが、では「線」としての労働生産性はどうでしょうか。つまり、短期間での労働生産性と長期間での労働生産性です。例えば、1年前に働き始めた男性と、もう同じ仕事をして10年経つ人、この2名共、1日の生産性は全く同じだとします。どちらの方が時給が高くなりますか? 10年前から同じ仕事をする人です。でも、1年前に同じ仕事を始めた人は「おいおい、同じ仕事、そして結果も同じなのに、どうして年齢が上だというだけで時給が上なんだ」と不満を言いたくなる場面です。会社は「10年同じ仕事を続けたのだからこの人は10年先も、同じだけの生産性で仕事をしてくれるだろう」と思うのが普通です。仕事を始めて1年しか経っていない人に比べ、会社からのこの思いは10年仕事をしてくれた人への方が重いのが普通です。将来に対する生産性のリスク軽減は過去からの実績に基づくとされる考え方です。同じ労働生産性でもより長く同じ生産性を約束してくれる人に対して会社はより高い賃金を出します。これが、労働市場での信用です。信用はより多くの賃金を約束します。

勤務歴を例に取りましたが、例えば他の性別や住む地域やその他もろもろ、長期的に同じ生産性を約束してくれる方が賃金が上がります。「点」で見るとアンフェアな賃金ですが、「線」で見るとそうでもない場合がほとんどなんじゃないかと思います。

これがよしとされる労働市場を作り出している現在の資本主義。そもそも生産性によって何かが決められるってことさえもおかしくないのかってのが息子の質問だったのかもしれない。生産性至上主義である資本主義。失ったものはとてつもなく多いし大きい。生態系へのインパクトや私たちの精神衛生の悪化など、生産性を追いかけて行くにはもう天然資源は足りない、そして私たちの精神衛生面でも限界が来ているように思う。EVを進めるために爆発的に進める天然資源の採掘は森林を刻み、動植物を追いやり、原住民の生活や健康を脅かしています。資本主義で失くしたものを資本主義で回復させることなんて出来るのでしょうか。今日のこの地方の大雪。雪かきで使われるショベルの素材はプラスチック。舗装された道路で削れるプラスチックショベル。その削れたカスは雪と一緒に川にそして海に流れ込み、マイクロプラスチックとなり魚の口に入り、それを私たちが食する。また、マイクロプラスチックは微生物の生態系を脅かす。そもそも、雪かきをする理由、豪雪地域など、雪の重さでおうちが潰れないようになど直接命にかかわる場合もありますが、ほとんどの場合は車を走らせたり、お買い物に出たりなど、行く着くところ経済活動を進めるためです。この地方のホームセンターにずらっと並んでいるプラスチック製ショベル、あの殆どが粉々になり海に流されてる。そしてその理由は行き着くところ経済を拡大させるため。

経済活動の中にいる私が使うのもプラスチックショベル。何を持ち何をしたらいいのか全く分からなくなります。

息子には、労働生産性の話をしたあと、「とは話したけど、君が30歳になる頃にはお父さんから今聞いたことなんて全く意味がなかったなと思う社会になってればいいと思うけどね」で終わりました。

今年最後のブログです。

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次男が今年から中学生となり、なんとなく夫婦間の会話でお勉強の話が出てくることが多くなりました。私は両親から勉強の強制を受けたことが全くなく、勝手に勉強することの楽しみを覚えていったタイプですが、妻の家庭はその反対であったようです。僕は小学校の時は全く勉強をせず、また中学は中間期末テストの期間1週間だけ勉強したタイプですが、妻は毎日欠かさず勉強をしていたらしいです。次男の成績が「超普通」で、その成績表を見た妻が「お父さん、何か一言次男にお願いします。」ときたので、「本でも読んだら。よく分からんけどね。」って言いました。そしたら、妻に「でも、お父さん、小さい頃は本なんて全く読まなかったでしょ」って言われ、それってほんとのことで、「何で分かるのそれ? 今、こんなに本読んでるのに?」って尋ねました。「お父さんの読んでる本、小さい頃から本に親しんでいる人が読む本じゃないから」ってことでした。

僕は「物語」が苦手で、僕の読む本は自然科学とか生態経済とか国際関係とか物理とか、新聞の延長のような本ばかり。こんな本はほんとの本好きの人は読まないというのです。僕のお勉強の源は「知りたい」です。それは小さい頃からお勉強をしていた人達からするとちょっと「お下品」なのかもしれない。小さい頃からそれが強制でもお勉強している人は「知りたい」が起源じゃなくて、「躾」としてお勉強してる感じなんです。僕の場合、目指すのは「知識」、でも小さい頃からお勉強をしていた人にあるのは「知性」です。「知識」と「知性」って言葉はなんとなく似てますが、似て非なるものです。僕のような「知識」を目指す者が増え、そして「知性」が「知識」に埋もれてしまう時代なのかもなって、ちょっと趣のない生活を送っている自らを省みたり。

知識は目指しますが、知性のある人間になりたいと思ってますから、次男には「お下品」な知識優先でない、知性の養える環境を整えてあげたいとは思いますが、なんせ僕には知性がないから無理かもしれません。

今日のニュースで日本の人口一人当たりのGDPが相当低くなってしまたとか、或いは労働生産性がさらに低くなってしまったなど、ちょっとネガティブなニュースがありました。1985年のプラザ合意以降、ドルに対して割安感があった円がどんどん買われ、あの頃と比べ、今は円安と言われていますが、あの頃と比べればそれでも相当な円高です。GDPも労働生産性も米ドル換算なので、計算する時の為替レートが大きな要因として影響します。円が弱い時は数字は悪くなるし、強いと数字は良くなります。だから、円が少し弱くなっている今は実際よりも数字は下振れしますから、数字通りに受け取らなくていいかと思います。ただ、円が弱くなっている原因、欧米との金利差だと言われてますが、短期的にはそうですが、長期的には実態経済に則してきますから、過去10年くらいのスパンで見ると、これから先、短期的には円高になることはあるかもしれませんが、円はもっと弱くなるだろうと思います。つまり、現時点でのGDPや労働生産性に一喜一憂する必要はありませんが、もっと考えなくてはならないのは長期的に見て、日本の経済が世界を圧倒することは今後ないだろうと、世界が日本に見立を立てているということです。つまり、世界の中での日本への期待値が落ちているという現状です。

ただ、こういった経済指標、学生時代に経済や経営のことをずっと勉強しておいて、あの時一緒に勉強してた同期の人たちに「こらっ、お前!」て怒られそうですが、今、興味は相当薄れてしまってます。

今朝、車の中で長男とお話をしてる時にラジオから「本年最後の蟹の大安売り!」って言葉が流れました。ロシアへの経済制裁があり、アメリカがロシア産の蟹を買わなくなったので供給過多になり、余ってしまって安くなってるのです。さて、長男が「蟹の値段て、船代とかその船の燃料代とかだよね」って言ってくれました。その通り。養殖のものもあるとは思いますが、ほとんどは天然もの。素材である「カニ」には0円です。カニを育んだ自然に誰もお金を払ってない。誰も支払う気はないんです。カニもそうですが、天然からの資源、すべて0円です。誰も自然に対して、お金を支払っていない。自然のものは全てタダって決まっているのが今の経済の原理原則です。カニを取るなら、そのカニを取るためにかかった費用、そして利益がカニの価格として値札に乗っているだけです。あれはカニという素材価格ではありません、カニを取るために使った費用と利益です。

重油や石炭などの化石燃料もその通りです。素材としての重油や石炭は0円です。僕らがガソリンスタンドで支払っているガス代は、手間代、税金、そして利益です。天然資源、原料代は全て0円です。これって、当たり前なのですが、このことにあまりにも無頓着すぎた期間が長過ぎてると思いませんか。こんな「搾取」をベースに我々人類が作った資本主義経済に興味を持ちなさいということの方がおかしいと思いますし、このことを時間かけて、そしてお金をかけて学んだ自分が可哀想になります。

この前ドバイで終了した「COP28」。僕の中で画期的だったのが、「化石燃料は廃止の方向で行きます」となったこと。今後のCOPでは、「君の国ではどれほど化石燃料廃止に努力してんだい」ってことが評価されていくということです。世界の足並み的には何年か先かわかりませんが、僕らの回りから化石燃料が消えるということを示唆しています。石油が消えるという意味って、人類にとっては爆発的に一大事。「出来こっこない」や「カーボンオフセットをすればいい」とか「新技術でなんとかなる」って声、沢山あります。さて、どうでしょうか。今のCOP28、以前COPに世界のトップが集まり演説をすることなんてなかった。数年前とは大違い。世界中では地球温暖化に対する大企業に対する訴訟が頻発しているし、勝てる見込みが見えてきてます。以前なら相手にもされない訴訟です。それが、勝てる見込みが出てきてる。ものすごいスピードで変わってきますし、環境に対する費用支出が経済上、もう無視できないレベルになってきている事実があります。

ものすごく暑かった今年。来年は冷えるかも知れませんが、傾向としては長期間的には暑くなることに変わりはないと思う。「それでも人は生きていくさ」と言う人が沢山います。その通りです。でもね、暑過ぎ今年ほとんど孵化出来なかったこの地方のトンボ、この責任は誰にあるのでしょうか。それでも天然資源の搾取からなる経済を進めないと僕らは生活できない。その通りです。父として子に明る将来を語る事が出来なくなった今、「勉強は大事だよ」っていう意味をいつも考えています。僕らが生きてきた50年とこれから子供達が生きてく50年は全く別のものとなるはずで、僕が勉強してきて得た知識なんてなんの意味もないと思うんです。「知性」だと思うんです、必要なのは、時代とともに陳腐化する知識じゃなくて、普遍的にどの時代にも通用する知性。そのためには、小さい頃からの勉強が必要なんだろと思ってます。お勉強の話になる時、この話がしたいのですが、内容が面倒くさい。でも、努力はしています。ただ、そんなこと言ってる両親がUSJでこの様です。考えている事とやってる事の差がある来年になるんだと思います。今年もこのことで悩み苦しみました、来年も同じだと思います。

ただ、事実として私、家族、従業員、従業員の家族の生活が成り立つのは日頃からの皆様からの経済的なご愛顧があるからです。感謝しても尽くしきれません。ご愛顧頂いている皆様の将来、そして地球の他の動植物の将来、すべてが過ごしやすい場所にこの地球にするために、この小さな会社が現在の経済の中で何ができるのかを必死で考えていきます。今年のご愛顧誠にありがとうございました、またそして来年も何卒よろしくお願い致します。

クリスマスです。

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いつ「もうらないよ」と言われるのか冷や冷やしながら、毎年次男に「うちのパティシエは今年もケーキを作ってくれるのかな?」と何気に頼みます。で、今年も「やるよ」って快諾。毎年上手くなる彼が作るケーキはこの時期の我が家の風物詩となりました。

この前、イギリスBBCのニュースでここ30年、イギリスでこの時期に雪が降る確率は増えていると聞いて、「そうだよね、地球の気候って人類が何もしなくても変わっていくものだよね」ってふと考え、80万年前に最後に地球に衝突した巨大隕石のことを考えたりしながら、人類に関する本を読んでいました。46億歳の地球はこれから先も何億年かは続くだろうし、でもその何億年先には多分人類はいないんじゃないと思うんです。もっと前に80万年前に衝突したのと同じレベルの隕石が地球に衝突するかもしれないし。どらちらにしろ僕ら人類はどこかの時点で息絶えると思うんです。そう考えると、今出会う人とか、ものとか、動物とか、まー何でもそうですが、出会いは奇跡です。そして、とっても大切にしたいと思います。歳を取るにつれ、この気持ちがこの時期になると募って仕方ありません。ただ、歳を取ると、その数がめちゃ増えて、どうにもこうにも整理がつかなくなってきます。だから結果、この時期はいつも感謝とそれを伝えられないもどかしさが同居して、ちょっと苦しくなります。

今朝、通勤途中で見たコンビニの前にクリスマスケーキを売る着ぐるみサンタを見てちょっと気持ちが落ちるのは「そう喜んでもいられないんだよね、この歳になると」って気持ちからなんだと思います。

古典落語の「仕事」

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たまに観に行く落語が面白く面白くて古典落語ってどんなのがあるのかなって興味を持ち始め、古典落語集的な本を一冊買って、待合で待っている時なんかに開いて1人でくすくす笑っています。中に「金明竹」っていう骨董屋での話の古典落語があり、めちゃ面白いのですが、気になったのは落語の内容じゃなくて、「よくそんな人を雇ってんな」ってことに感心しています。話の内容は要領を得ない骨董屋で働く与太郎が店主から頼まれお店にやってきた上方訛りの仲買人の言ってることが分からず、反対にその分からないことを面白がり、結果その大切な仲買人を返してしまうという内容です。今の時代なら、この与太郎は職を得てない。この噺が出来たのが江戸末期。

その他、要領を得てない使用人を住まわして世話している庄屋の噺があったり、今の経済情勢ではちょっと考えられない。小話は全て作り話であるとは思いますが、ベースにその時代の風情が反映されていたとは思いますから、今の経済なら「ちょっと出来ない子」でもあの時代は普通に仕事に就いていたのだろうと思う。今なら、知的に障害、或いは発達支援が必要な人ということで、普通の人とは違うルートでの生活となっているんだろうと思う。

「仕事」っていつの頃からかお金が発生するものだけに使われる言葉になってるような気がしてます。僕らが使う「仕事」って言葉、いつもその裏からお金の姿が見え隠れしてる。仕事って本来、そう言った意味じゃないはずです。

古典落語に出てくる今ならアウトな「仕事をしてる人」って、今の「仕事」っていう言葉の意味に当てはめて考えるから違和感があるんじゃないだろうかと思い始めた。以前の「仕事」って、お金が発生していても、発生していなくても「仕事」であったんじゃないかって、そしてその仕事って、お金が発生しても、そして発生していなくて、その重みは同じだったんじゃないかってことにまで考えが及ぶようにりました。

今のお金が発生する仕事の原理は資本主義。資本主義は封建制度の中にあった、16世紀から18世紀のヨーロッパの重商主義の中で生まれ、それが19世紀の植民地資本主義となり、20世紀の国家主導の資本主義となり、現在の金融資本主義と発展してます。多分、重商主義が生まれる以前の16世紀前、世界のほとんどの国では仕事はお金が発生するものだけに限られて使われる言葉ではなかったはずです。家庭で食べる食物を作る人の仕事、同じように家畜を育てる人、子育てをする人、洗濯をする人、薪を割る人、などなど、全てがイコールに「仕事」であったはずです。多分、仕事をお金が発生するものだけに限り使うようになったのは、ここたった500年のことなんだろうと思う。たった500年のことを太古の昔しから使われているようなことと勘違してたんじゃないと思う。

でやっと、与太郎を雇う意味が分かりました。何故だかは知りませんがお金を発生させる以外の意味で与太郎は雇われてる。そしてその雇われ方はお金が発生する人と全く同等。今のようにお金が発生させる仕事の方が偉いという風潮はあの時代、この時代と比べ相当薄かった。

今のお金が発生する仕事の方が偉いっていう風潮。この500年ってことです。よく覚えていた方がいいと思います。こんなたった500年での主張なんて、ある時急に変わる。変わる時はめちゃ早いと思う。

資本主義は直接お金が発生しない社会的再生産活動には全く報酬を供給しないシステムです。例えば間接的に資本主義に貢献している家庭での仕事にはまったく報酬を支払わないし、報酬を支払わないばかりか、搾取するシステムです。例えば、働く夫のために四六時中、家庭の中で子供の世話や家事をこなす女性にはまったく報酬は出さない。「そこは国がするところでしょ」って見放すことで成り立つシステム。これは「搾取」であり、無報酬の社会的再生産活動を利用すること成り立っているシステム。また、天然のものを勝手にしかもタダで使用できるものだとの前提で成り立つシステム。例えば、車を走らせるために必要なエンジン燃焼のための空気中の酸素。車製造会社がその使用する酸素の費用を負担するとか、私たちがその酸素分を費用負担するなんてシステムは資本主義の中ではない。天然の資源の「ただ乗り」で成り立つ主義が資本主義。こんなおかしな主義からその意味を歪められた言葉が「仕事」。僕らは500年の間で相当洗脳されてしまってるのかもしれない。

タダ乗りで使って来た天然資源には限りがあり、また資本主義からの生産活動で発生した温暖化ガスは地球を温め、これまで仕事とはお金を発生させるものだと限定してきた来た資本主義はもう限界に近づいています。近づいているんじゃなくて、もう臨界点に達しているかもしれない。

このお店もこの資本主義を最大限に利用してやってきています。そうなれば、もう終わりは近い。古典落語読んで笑って、考えて、そして落ち込んで。ほんと、毎日忙しい。

画像のコサッシュを端材から作ったはいいけど、もう使う意味あるかって、考え込んじゃってます。
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