Comfort Mart 店長ブログ

三重県桑名市で北欧で直接買い付けたヴィンテージ家具、カリモク60、Yチェアなどのカールハンセン&サン、PPモブラー、ハーマンミラー、宮崎椅子製作所などを扱うお店の店長です。日々の出来事や考えていることを綴っています。そして時々、入荷情報などもお伝えしています。

幸せになるための寛容度

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この前、家族で花見に出掛けました。この地方での桜の見頃も終わりに近づき、これからは去年同様、灼熱な季節が始まりそうな予感です。寒暖化差が身体に堪える歳になり、その身体的苦痛が精神的苦痛へと様変わりし、この季節の心地よさがいつも感じられる場所に年中旅したいと思うようになっています。ともかく、寒い冬が終わり、とりあえずよかった。

ディズニープラスで配信してる「SHOGUN 将軍」を観ていた妻、久しぶりに一緒に観ました。その時、妻が僕に「楽しめないやつは観るな!」と睨まれた時の話。

とっても面白い内容、最高のエンターテーメント。さすがハリウッド映画。ただ、いつも思うのですが、同じハリウッド映画の「アイアンマン」はロバート・ダウニー・ジュニアじゃないといけないんです。絶対にジェイミー・フォックスにはらない。ワイルドスピードに出ていた韓国系アメリカ人のサン・カンにも絶対ならない。正義のヒーローはいつも肌が白い。もちろん例外はありますが、やっぱりそれは例外です。ヒーローの場数を踏めるので、経験値も肌の白い俳優の方が上がるから、演技の上手さの上でも肌の白い人なんだろと思います。今回の「SHOGUN 将軍」に出演している英国国籍のコスモ・ジャーヴィスも肌が白い。ドラマの設定がまだまだ奴隷制が世界で普通の時代の1500年代だから、日本にやってき欧米人が白人があることは当たり前。だから、キャスティングもその通りで問題はないんだろうけど、でも、何となく恣意臭さを感じるのは、彼が演じる肌の白い人が西洋の正義を象徴しいるかのような演出が気になるから。

映画の中で家庭内暴力を起こした日本の武士(男性)に対して、このイギリス人が怒るシーンがあります。また、その他のシーンでも、女性に対して紳士な態度に対して、日本武士は無骨な態度。イギリス人は個の考え方を大切に、でも一方、日本武士は和を大切に、そのためなら家族も殺す。

日本の既婚カップルの中に占める家庭内暴力を経験したことのある20%に比べ、その数は10%程と減りますが、イギリスにも家庭内暴力はあります(そのほとんどの犠牲者は女性です)。日本には「和」の心があったからこそ、震災などで助かった命が沢山あっただろうと思う。アメリカに住んでる時、日本人女性と付き合っているイギリス人男性がその女性に3歩下がって歩くことを強制している姿見たことあります。

ある一定のカテゴーに属する人々のグループに存在する他のグループには存在していない行動や言動の規範があります。その規範はもっぱら無意識なものの場合が多い。その無意識の規範が、意識的な規範として他のグループを区別する理由として使われる多くの場合、「差別」と言われるものになります。

先日の長年日本に住むアメリカ人の編集者が消滅危機が叫ばれる人口減の激しい限界集落を取材した時の報告書を読んでいました。その地域のご老人にアメリカ人編集者が「だったら、僕が住んでもいいかもしれないね」と言った時の返答が「君はこの地域に合わせることができるのかい?」って尋ねて来たという一文がありました。「合わない人と暮らすより消滅を望む」なんだろうと思う。ある一定のカテゴリーグループに属する人々が持つ無意識の規範はそのグループの外からやってくるグループが交わる時、初めて一気に意識的な規範になるといういい例です。

「SHOGUN 将軍」などの映画にある私が感じる違和感は、その無意識な規範を、そのグループに属さない人達が、「そのグループの規範はこうです」と顕在化し、そしてそのまた別のカテゴリーグループに刷り込ませているような気持ち悪さです。それぞれのグループとは全く関係のない、第三者のグループが、当事者グループの意識を操作している感じがする気持ち悪さです。そして、その源泉にあるのが経済的な理由ってことが気持ち悪さを助長しています。

現在行われている戦争で1番多く使われるロシアで開発されたライフル型機関銃「AK47」。このライフルは世界各国で製造され、戦争が起これば起こるほど、その製造会社は経済的に豊かになります。経済的に豊かになった会社からの税収はその国を潤します。このライフルのビジネルモデルも他の現代のビジネスモデルと同じで「大量生産、安価、そして大量販売」、数を売って儲けるビジネスモデル。現在、この機関銃は4万円ほどで買えます。弾丸は一発100円しません。戦争をしている、両国とはまったく関係のない武器の販売という経済的な理由なだけで繋がっている豊かなある国が、その両国に武器を流し続けている気持ち悪さと「ヒーローはいつも肌の白い人」とがなんとなく繋がってしまって、そこを切り離して配信を楽しみたいけど、切り離せないので、つい愚痴が出ちゃうのです。

限界集落の老人がアメリカ人編集者に言った言葉、それ自体には何ら問題ないと思っています。老人はそういった規範で生きてきたから、それが当たり前だから。それに対して、その規範を知らないアメリカ人にその規範を伝えるのは、必要なことだろうと思う。伝えても、それから先、それをアメリカ人が守るか守らないか、そしてその規範を老人等とアメリカ人編集者が共に変えて行くかどうか、或いは変えていかないかは、その2者のことであり、それ2者が行えばいいことです。

経済的な理由で、その当事者の間に入り、情報を操作る行為は実に気持ち悪い。世間でいう「媒体」がこの役割です。先の僕が書いた「合わない人と暮らすより消滅を望む」は印象操作であり、よく媒体が使う方法です。これをやめて欲しいのです。

脳の柔軟性が高い年齢が低ければ低いほど、媒体からの印象操作は事実として刷り込まれる。その刷り込まれた情報は具体的に更新されなければ、ずっとそのまま。僕もこの餌食になった1人です。アメリカに住む前、国内で一般的に見聞きする情報で勝手に「アメリカ人は」って作ってて、実際に住んでみると、全くその情報間違ってた。住んだ韓国の場合もそう。それは、いい意味でも悪い意味でもです。そして、その間違った情報を更新するのにもう何年もかかってしまった。ある意味、いまだに更新できていないかもしれない。

デンマークについては、その経済的な恩恵が薄いのか、第三者から流れる「印象操作」がなく、僕の場合自ら探した歴史の書籍から始まり、幾度となく行くデンマーク現地での人との繋がりからの感覚で、自らの自主的な体験でデンマーク像を作り上げることが出来ていて、デンマークの人とのお付き合いに、勝手な思い込みのために苦労することがあまりない。今でも、アメリカの人、そして韓国の人については苦労します。こんなに長く、そして多くのアメリカ人、そして韓国人と付き合ってますが、僕の中での「アメリカ人像」、そして「韓国人像」が抜けないから、初めて会うアメリカ人、そして韓国人に対して個としてのお付き合いにめちゃ時間がかかっちゃう。時間がかかっちゃうから、苦労します。だから、苦労を避けるため、それらの人を遠ざける傾向さえあります。媒体で型取られるアメリカ人像、そして韓国人像とはまるで違う人、いっぱい知ってるにもかかわらずです。

3月20日に「世界幸福度調査」が発表になりました。知っての通り、日本の順位は毎回下の方。上位を占めるのはいつも北欧の国々。で、先日この話を次男にしました、「世界幸福度調査ってのがあってさ、日本って何位だと思う?」って。「ぶっちぎりに1位だよ」って言ってました。僕も実は同感なんです。この調査はアメリカの有名調査統計会社であるギャラップ社が毎年行う幸福度調査を元に156カ国に行うものです。そのそれぞれの国の人にその国で暮らすことで得られる満足度を0から10までに評価してもらい、その結果を国連が考える、その答えの理由となった6つの事柄から説明しようとするものです。

つまり、順位はその国に暮らす人の幸福満足度の平均値。「日本最高!」って言ってる人もいれば「日本最低!」って言ってる人もいるってこと。そして、恐らく「日本最高!」って言ってる人の数が「日本最低!」って言ってる人の割合が北欧の国々の人よりも少ないってこと。この国にも「日本最高!」って言ってる人がいるってことを忘れないで。「この国に住む全ての人の幸福度が低い」ではないのです。

国連が考える幸福度に影響を与える事柄の中、経済的な豊かさ(GDP)の高低差はそれほどラインキングには大きく寄与しないし、またその国の長寿もそれほどランキングの高低には関係ない。つまり、高いランキングの国々は経済的に比較的豊かであり、長生きしている国であるということ。

その説明理由のうちの一つ「他者への寛容さ」。これは幸福度の尺度としては有効とされていますが、日本では幸福上位国よりもこの数字が低く、恐らくこの結果がこの国の幸福度が他の国の人よりも低い理由につながっているだろうと推測されています。

「他者への寛容さ」です。僕、完全にこれです。苦労してもどうしても消し去ることが出来ないある国の人の対する「典型」があり、それに対する寛容が完全に欠けてます。これって、実はこの国の媒体に小さい頃から触れる人、全てに当てはまるものなんじゃないのかって、「SHOGUN 将軍」を見て思った訳です。「色々な考え方/見方があるけどね、決めるのは君だよ」って媒体姿勢じゃないし、政治体制がずっと自民党で、政治体制が政権毎にかわる他の国々とは違い「それはそうだから」ってなりやすい事実はあるんだと思う。

幸福度トップの国々のうち、フィンランドとデンマークしか知りませんが、政治体制はよく変わるし、「決めるのは君だ」との姿勢は一貫してる感じがします。

「SHOGUN 将軍」を観て、こう思った僕が妻に理由を話し出そうと思ったら睨まれ「楽しめないやつは観るな!」って言われ、「お前、寛容が足りないなー」って言いかけた夫婦喧嘩の話です。

「戦場」の女性

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3月8日は「国際女性デー」でした。僕が気にしすぎているのか、ネットニュースで僕のiPhoneにフィードされるニュースは「ジェンダーギャップ」のことがとても多い。多いからよく読んでしまうし、そうすると「こいつはこのニュースが好きだぞ」とAlが判断して、さらに好きそうなこのトピックに関するニュースや記事が紹介されてしまう。それに影響されてか、手に取った本は2015年にノーベル文学賞を受賞したロシア出身のスヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチが書いた「戦争は女の顔をしていない」。他の書籍も並走で、また内容が濃いので全然読み進めない。

先日、長男が「プリンを作りたい」と言い出し、作ったのがこのプリン。見た目は置いといて、味はまーまー、いけました。昨日は次男がホワイデーのお返しにとチョコとオレオで、カップチョコを作ってました。私も普通に家事をしますし、家族全員、役割的にはジェンダーギャップはないんだろうと思ってます。役割的なことについては、あまり疑問を持つことはなく、僕がいつも気に掛けてるのは、「どうして、こうも女性と男性は考え方が違うのか」です。

同じ結果を得るための目的意識だったり、方法だったり、そこに至る考え方だったり、まー違う。読んでる本は第二次世界大戦において出兵した多くの女性兵(ロシア側)についてのドキュメンタリーです。衛生兵などの後方支援ではなく、最前線で直接敵と対峙する役割を果たした女性の話が半分以上。戦場での銃撃戦の最中でも、女性はお花を摘み、ポッケに入れて微笑む。男性はまーないと思う、戦場でお花を摘むことはまずない。ポッケにしたためるのは家族の写真や恋人との写真。戦死した女性兵の鞄から可愛いお人形が出てくる場面も多い。戦地で何日も食べものがなく、そして悲惨な戦場を歩き続ける時、出来るだけ軽くしたい鞄、男性、そこにはお人形は入れない。

韓国の少子化がひどいことになってます。OECD内で最低です。2023年、女性の生涯出生人数が0.72人(日本でも1.3人程度です)。そして、今の人口を保持するために必要な数字は2.1人。この国もそうですが、韓国はすごい勢いで人口が減っています。�日本よりも相当近い将来、人口減のため、社会/経済が破綻すると言われています。多分、その通り破綻するんだろうと思う。この国もそうですが、家父長制度が根本にあるあの国、僕が女性ならとっくの昔に海外逃亡してるだろうと思います。学生時代の交換留学、そして語学を学ぶため、1年ちょっと住んだことがあり、その時の印象です。この印象の起源は多分戦争です。あの国、朝鮮民主主義人民共和国と停戦中というだけで、今でも戦争中です。男性、30歳になるまでに相当な理由がなければ戦争に行かなければいけません(徴兵制)。基本、女性は免除です。なんとなくですが、多くの韓国の男性から受ける印象、「女性は役立たず」です。「戦争で命を掛けてる男性に比べ、女性は何もしない」です。この議論、韓国でなくてもよく聞く男女の諍いの原因です。

そもそも、この「諍い」のストーリー自体が男性目線なんじゃないかと思っています。そもそも、女性はこいったこと自体に興味がない。男性/女性、どちらがより社会/経済に貢献しているとか興味なんじゃないかと思うんです。貢献すべき社会/経済って、男性が作り上げたもの。そのものに貢献しているかどうかって、そもそも男性目線じゃないのかってことです。

家庭でたまに、この国の人口減の話をします。その時の妻からの印象の薄さにはびっくりです。「仕方ないじゃん。少なくなるんだったら、それはそれで普通に生活しますけど」って感じです。

たまに経済的に成功した女性の記事を読んだりしますが、その記事読んで、「そんな女性になりたい」と思う女性ってかなり少数なんじゃないかと思うんです。その証拠に男性誌の中には「経済的成功とは」が中心的記事になってる雑誌、ごまんとありますが、女性誌でこれに匹敵する雑誌ってまずない。読む人が少数派で売れないからです。売れたら、ありますから。

こんな話を家庭でしたら、妻が「戦場で犬に出会ったら撫でる?」っ尋ねてきました。「その時の状況だろ。分からんよ。」って答えました。「えー、あなたは撫でるわよ。この家庭で1番女性ぽいの、あなただから」って言ってました。そんな目で見られていると初めて知って、「そんなことどうでもいいわ」って思うのもちょっと女性っぽい証拠かもしれないなと鏡に映る超男性っぽい自分を見て自身の中にあるジェンダーギャップがすごいなって感心してたりしてね。

食べるものから

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六本木にある森美術館で開催中の「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」を急ぎ脚で観てきました。次回時間があれば東京都美術館でやってる印象派の絵画の展覧会を観に行きたいと思ってます。

行った美術館の横にあるレストランには宮崎椅子の「DC9」が採用されているのですが、いつも行く時間帯が食事時じゃなく一度も行けていませんでした。今回はちょうど昼食時だったのでランチを頂きに一緒に行った長男と入ることにしました。ランチメニューは数種類しかなく、長男はステーキ、そして私はハンバーガー。お皿には山盛りのフレンチフライ(「フリット」)。大勢のお客様で賑わうそのお店をあとに、新幹線でお家に帰りました。

行きと帰りの新幹線で読んでた本に「Eat your food as your medicine. Otherwise you have to eat medicine as your food」(薬と同じようにしっかり考えながら食事を摂らないと、将来、薬が主食になるぞ)っていうSteve Jobsが残した言葉があり、歳を取り久しぶりに思い出したこの言葉に超納得。

このお仕事をさせて頂いていいなと思うこと、数え切れないほど沢山ありますが、その中の一つに「食」があります。飲食関係のお店に家具を納品する機会が沢山あること、そしてどういう訳だか知りませんがこのお店が取り扱っている家具をお使い頂く方の多くは食にもこだわりのある方が多くて、これらの影響もあってかなんとなく「食べるならいいものを食べたい」と思うようになってきました。また歳を取ると、食べたものの質や量がそのまま身体に影響を及ぼすようになって来ていると感じ、さらに食に敏感になって来ています。

この歳になっても出来る範囲での運動は続けていますが、その運動のパフォーマンスも食事と直結していて面白くなる時があります。植物性のタンパク質を中心に1日50グラムは摂取するようにしていますが、忙しくて摂れない日が何日かが続くと、運動をした時の踏ん張り時と回復時の体力消耗の体感が全然違います。生物の元はアミノ酸だから、それに変わるタンパク質はとっても大事だと感じることがここ数年は増えてきました。40代の前半まではタンパク質なんて摂らなくても、疲れたら「甘いもの食べれば平気だよ」って考えるくらい。タンパク質ブームだから、量販店にはタンパク質系の食品がずらっと並んでいます。でも、量販店で買えるタンパク質系の食べ物は合成甘味料や着色剤などの化学添加物が使われているものが多く、簡単には買えない。納豆や合成甘味料が入っていないヨーグルトや鶏肉、また全く味がないプロティングパウダーも頂きます。

忙しく、経済的に苦しい毎日、簡単にそして、安価で食せる食べ物がこの世の中には必要とされています。ただ手間暇かけずに安くて美味しいと思う食べ物にはカラクリがあると思って間違いありません。またそのカラクリのツケは将来私たちの身体に返ってくることは間違いない。買う食べ物の裏に書いてある添加物の種類とその「毒性」については書店で買える本に普通に載っているので、分かって承知の上で口に入れた方がいいと思っています。

こんな会話がよく出る家庭で育った子供たちはその手の食べ物を食べる時には「化学を頂きまーす」って言って食べるようになってます。「結局食べるんかい!」って思いますが、そこんとこは自主性です。

以前は掲載義務がなかった含まれる添加物のリストをラベルに表示しなければならなくなったり、私たちの選択の方に責任が移って来てる世の中になって来てるんだと思います。債務が大きくまた人手が足りない政府、もう以前のように「全部私たちがしてあげるから」ってことも出来なくなるし、また私たちも情報化で欲しい情報は相当簡単に手に入るようになり、これまで政府任せだったことがどんどん私たち任せになってくるんだろう思います。

この流れ、以前の家具メーカーがよく言っていた「いいものを作り、長く使って頂くことが1番のエコ」ってこと、ちょっと古い感じになって来てることと同じなんじゃないかと思ってます。家具を作っている人、そしてメーカー共に私の知っている限り(特に国内)「黙って俺が作ったものを使えばいいんだよ!」って感じの人が多い。そして質問なんかすると「俺のことが信じられないのか!だったら他で買ってくれ。」って叱られる感じ。「あんたがちゃんと作ってるって言っても、それを客観的に証明して欲しいいんですけど」っていうことが言えない感じ。超昭和の男性っぽい感じ。使っている材は持続可能な森から採れたんですか?とか使っている接着剤は何系ですか?とか使う電気は再生可能エネルギーからですか?とか、客観的に捉えられる感じが求められるんじゃないかと思う。以前なら、「対荷重何キロ」だったりとかが重要でしたが、それと並列にそれがどれだけ持続可能なものなのかってこともとっても重要になるんだろうと思う。

アパレルもお家もその流れなんだろうと思う。私たちがお付き合いするお客様は特にその傾向が強くなるんだろと思ってます。

ブルーサイン認証の洋服が欲しくても、国内アパレルメーカーではほとんどない状況は多分今後変わっていくんだろうと思う。

どのようにやって行くのかはよく分かっていませんが、この世の中の流れに乗り切れない商品はあまり推して行かないお店になると思います。ヴィンテージ品などリユース品ならいいのかってのも一概にも言えないと思います。

「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」って展示会が六本木の真ん中で開催され、大勢の人で賑わう時代です。20年前だったら、「このトピックでは商売にならないよね」ってことでボツ企画だったはずです。世の中はすごく大きく変わって来ていると感じたいい旅となりました。

改装をします。

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「この照明はこんな感じ、そしてあの照明はこんな感じにお部屋を照らします」ってことをお店で気軽に出来るようにしたいと思い、少しだけですが店舗改装をします。地味な改装なのですが結構な費用がかかりますから、出来ることは自らしたいと従業員と年末から少しづつ進めています。何度も改装をしてますが、その度に重労働でこの歳になると寿命を縮めている感がすごい。2月末までには終わっていればいいなと思います。

この改装が終わり、少し展示を変えたり増やしたり、そのあと、月の日曜日の1回、あるいは2回は完全アポイント制へとシフトして行きます。近年、お店でお取り扱いさせて頂いている商品の価格帯と見ると、「全ての人に見て欲しい」って価格帯じゃないものが多くて、誰もが気軽にご来店頂ける感じでもないし、そもそもご来店はほんとに少ない。日曜日でもご来店が5組以下の場合、普通です。また、誰もいないお店で響くエアコンの音、誰もいないのに冷やしたり、温めたり。また、照明器具の照明、誰もいないのに照らしたり。もうこうことが許される時代じゃないと思うんです。

これから住宅の着工数は劇的に減っていきます。どれだけ国が税制優遇や利率優遇策を出しても、これだけ空家が余る時代なり、住宅の需要と供給のアンバランス感はすごくなってます。大工さんもいないしね。並行して家具の市場規模もどんどん縮小して行きます。一時の大きな需要はあるかもしれませんが、長期的な市場規模をグラフ化したら右肩下がりであることはまず間違いないんだろうと思う。

出来るだけ多くの人にご来店頂くための投資はやめ、出来るだけ小さな範囲で深く繋がれるための投資に集中させて頂くことになると思います

さて、先日長男とスポーツジムに行く途中の車の中で彼が「同じ仕事をしていても、500円の人と1000円の人がいるんでしょ?」って尋ねてきました。彼の言いたいことは全く同じ労働生産性の持つ人であっても時給が500円の人と1000円の人がいるのか?って質問です。皆さんご存知の通り、います。席が隣の人、全く同じことしてます、でも彼(彼女)のお給料の方が上ってこと、よくある話です。年齢が上ということだけでお給料が高い場合もあるし、性別の違いで高低差が出る時もある。

同一ジョブ、同一賃金の議論が政府内で進んでいるようですが、どうなんでしょうか。

現在の市場経済は需要と供給のバランスによって成り立ってます。同じ仕事をする、そしてその仕事に対して同じ労働生産性の隣の席の人の方がお給料が高い場合、どこかの点でその人の方が会社からより必要とされているということです。労働生産性という供給は同じですが、その人を欲しいと思う会社側の事情という需要が時給が高い方の人の方が高いということになります。

息子が話しているのは「点」での労働生産性の比較だと思いますが、では「線」としての労働生産性はどうでしょうか。つまり、短期間での労働生産性と長期間での労働生産性です。例えば、1年前に働き始めた男性と、もう同じ仕事をして10年経つ人、この2名共、1日の生産性は全く同じだとします。どちらの方が時給が高くなりますか? 10年前から同じ仕事をする人です。でも、1年前に同じ仕事を始めた人は「おいおい、同じ仕事、そして結果も同じなのに、どうして年齢が上だというだけで時給が上なんだ」と不満を言いたくなる場面です。会社は「10年同じ仕事を続けたのだからこの人は10年先も、同じだけの生産性で仕事をしてくれるだろう」と思うのが普通です。仕事を始めて1年しか経っていない人に比べ、会社からのこの思いは10年仕事をしてくれた人への方が重いのが普通です。将来に対する生産性のリスク軽減は過去からの実績に基づくとされる考え方です。同じ労働生産性でもより長く同じ生産性を約束してくれる人に対して会社はより高い賃金を出します。これが、労働市場での信用です。信用はより多くの賃金を約束します。

勤務歴を例に取りましたが、例えば他の性別や住む地域やその他もろもろ、長期的に同じ生産性を約束してくれる方が賃金が上がります。「点」で見るとアンフェアな賃金ですが、「線」で見るとそうでもない場合がほとんどなんじゃないかと思います。

これがよしとされる労働市場を作り出している現在の資本主義。そもそも生産性によって何かが決められるってことさえもおかしくないのかってのが息子の質問だったのかもしれない。生産性至上主義である資本主義。失ったものはとてつもなく多いし大きい。生態系へのインパクトや私たちの精神衛生の悪化など、生産性を追いかけて行くにはもう天然資源は足りない、そして私たちの精神衛生面でも限界が来ているように思う。EVを進めるために爆発的に進める天然資源の採掘は森林を刻み、動植物を追いやり、原住民の生活や健康を脅かしています。資本主義で失くしたものを資本主義で回復させることなんて出来るのでしょうか。今日のこの地方の大雪。雪かきで使われるショベルの素材はプラスチック。舗装された道路で削れるプラスチックショベル。その削れたカスは雪と一緒に川にそして海に流れ込み、マイクロプラスチックとなり魚の口に入り、それを私たちが食する。また、マイクロプラスチックは微生物の生態系を脅かす。そもそも、雪かきをする理由、豪雪地域など、雪の重さでおうちが潰れないようになど直接命にかかわる場合もありますが、ほとんどの場合は車を走らせたり、お買い物に出たりなど、行く着くところ経済活動を進めるためです。この地方のホームセンターにずらっと並んでいるプラスチック製ショベル、あの殆どが粉々になり海に流されてる。そしてその理由は行き着くところ経済を拡大させるため。

経済活動の中にいる私が使うのもプラスチックショベル。何を持ち何をしたらいいのか全く分からなくなります。

息子には、労働生産性の話をしたあと、「とは話したけど、君が30歳になる頃にはお父さんから今聞いたことなんて全く意味がなかったなと思う社会になってればいいと思うけどね」で終わりました。

今年最後のブログです。

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次男が今年から中学生となり、なんとなく夫婦間の会話でお勉強の話が出てくることが多くなりました。私は両親から勉強の強制を受けたことが全くなく、勝手に勉強することの楽しみを覚えていったタイプですが、妻の家庭はその反対であったようです。僕は小学校の時は全く勉強をせず、また中学は中間期末テストの期間1週間だけ勉強したタイプですが、妻は毎日欠かさず勉強をしていたらしいです。次男の成績が「超普通」で、その成績表を見た妻が「お父さん、何か一言次男にお願いします。」ときたので、「本でも読んだら。よく分からんけどね。」って言いました。そしたら、妻に「でも、お父さん、小さい頃は本なんて全く読まなかったでしょ」って言われ、それってほんとのことで、「何で分かるのそれ? 今、こんなに本読んでるのに?」って尋ねました。「お父さんの読んでる本、小さい頃から本に親しんでいる人が読む本じゃないから」ってことでした。

僕は「物語」が苦手で、僕の読む本は自然科学とか生態経済とか国際関係とか物理とか、新聞の延長のような本ばかり。こんな本はほんとの本好きの人は読まないというのです。僕のお勉強の源は「知りたい」です。それは小さい頃からお勉強をしていた人達からするとちょっと「お下品」なのかもしれない。小さい頃からそれが強制でもお勉強している人は「知りたい」が起源じゃなくて、「躾」としてお勉強してる感じなんです。僕の場合、目指すのは「知識」、でも小さい頃からお勉強をしていた人にあるのは「知性」です。「知識」と「知性」って言葉はなんとなく似てますが、似て非なるものです。僕のような「知識」を目指す者が増え、そして「知性」が「知識」に埋もれてしまう時代なのかもなって、ちょっと趣のない生活を送っている自らを省みたり。

知識は目指しますが、知性のある人間になりたいと思ってますから、次男には「お下品」な知識優先でない、知性の養える環境を整えてあげたいとは思いますが、なんせ僕には知性がないから無理かもしれません。

今日のニュースで日本の人口一人当たりのGDPが相当低くなってしまたとか、或いは労働生産性がさらに低くなってしまったなど、ちょっとネガティブなニュースがありました。1985年のプラザ合意以降、ドルに対して割安感があった円がどんどん買われ、あの頃と比べ、今は円安と言われていますが、あの頃と比べればそれでも相当な円高です。GDPも労働生産性も米ドル換算なので、計算する時の為替レートが大きな要因として影響します。円が弱い時は数字は悪くなるし、強いと数字は良くなります。だから、円が少し弱くなっている今は実際よりも数字は下振れしますから、数字通りに受け取らなくていいかと思います。ただ、円が弱くなっている原因、欧米との金利差だと言われてますが、短期的にはそうですが、長期的には実態経済に則してきますから、過去10年くらいのスパンで見ると、これから先、短期的には円高になることはあるかもしれませんが、円はもっと弱くなるだろうと思います。つまり、現時点でのGDPや労働生産性に一喜一憂する必要はありませんが、もっと考えなくてはならないのは長期的に見て、日本の経済が世界を圧倒することは今後ないだろうと、世界が日本に見立を立てているということです。つまり、世界の中での日本への期待値が落ちているという現状です。

ただ、こういった経済指標、学生時代に経済や経営のことをずっと勉強しておいて、あの時一緒に勉強してた同期の人たちに「こらっ、お前!」て怒られそうですが、今、興味は相当薄れてしまってます。

今朝、車の中で長男とお話をしてる時にラジオから「本年最後の蟹の大安売り!」って言葉が流れました。ロシアへの経済制裁があり、アメリカがロシア産の蟹を買わなくなったので供給過多になり、余ってしまって安くなってるのです。さて、長男が「蟹の値段て、船代とかその船の燃料代とかだよね」って言ってくれました。その通り。養殖のものもあるとは思いますが、ほとんどは天然もの。素材である「カニ」には0円です。カニを育んだ自然に誰もお金を払ってない。誰も支払う気はないんです。カニもそうですが、天然からの資源、すべて0円です。誰も自然に対して、お金を支払っていない。自然のものは全てタダって決まっているのが今の経済の原理原則です。カニを取るなら、そのカニを取るためにかかった費用、そして利益がカニの価格として値札に乗っているだけです。あれはカニという素材価格ではありません、カニを取るために使った費用と利益です。

重油や石炭などの化石燃料もその通りです。素材としての重油や石炭は0円です。僕らがガソリンスタンドで支払っているガス代は、手間代、税金、そして利益です。天然資源、原料代は全て0円です。これって、当たり前なのですが、このことにあまりにも無頓着すぎた期間が長過ぎてると思いませんか。こんな「搾取」をベースに我々人類が作った資本主義経済に興味を持ちなさいということの方がおかしいと思いますし、このことを時間かけて、そしてお金をかけて学んだ自分が可哀想になります。

この前ドバイで終了した「COP28」。僕の中で画期的だったのが、「化石燃料は廃止の方向で行きます」となったこと。今後のCOPでは、「君の国ではどれほど化石燃料廃止に努力してんだい」ってことが評価されていくということです。世界の足並み的には何年か先かわかりませんが、僕らの回りから化石燃料が消えるということを示唆しています。石油が消えるという意味って、人類にとっては爆発的に一大事。「出来こっこない」や「カーボンオフセットをすればいい」とか「新技術でなんとかなる」って声、沢山あります。さて、どうでしょうか。今のCOP28、以前COPに世界のトップが集まり演説をすることなんてなかった。数年前とは大違い。世界中では地球温暖化に対する大企業に対する訴訟が頻発しているし、勝てる見込みが見えてきてます。以前なら相手にもされない訴訟です。それが、勝てる見込みが出てきてる。ものすごいスピードで変わってきますし、環境に対する費用支出が経済上、もう無視できないレベルになってきている事実があります。

ものすごく暑かった今年。来年は冷えるかも知れませんが、傾向としては長期間的には暑くなることに変わりはないと思う。「それでも人は生きていくさ」と言う人が沢山います。その通りです。でもね、暑過ぎ今年ほとんど孵化出来なかったこの地方のトンボ、この責任は誰にあるのでしょうか。それでも天然資源の搾取からなる経済を進めないと僕らは生活できない。その通りです。父として子に明る将来を語る事が出来なくなった今、「勉強は大事だよ」っていう意味をいつも考えています。僕らが生きてきた50年とこれから子供達が生きてく50年は全く別のものとなるはずで、僕が勉強してきて得た知識なんてなんの意味もないと思うんです。「知性」だと思うんです、必要なのは、時代とともに陳腐化する知識じゃなくて、普遍的にどの時代にも通用する知性。そのためには、小さい頃からの勉強が必要なんだろと思ってます。お勉強の話になる時、この話がしたいのですが、内容が面倒くさい。でも、努力はしています。ただ、そんなこと言ってる両親がUSJでこの様です。考えている事とやってる事の差がある来年になるんだと思います。今年もこのことで悩み苦しみました、来年も同じだと思います。

ただ、事実として私、家族、従業員、従業員の家族の生活が成り立つのは日頃からの皆様からの経済的なご愛顧があるからです。感謝しても尽くしきれません。ご愛顧頂いている皆様の将来、そして地球の他の動植物の将来、すべてが過ごしやすい場所にこの地球にするために、この小さな会社が現在の経済の中で何ができるのかを必死で考えていきます。今年のご愛顧誠にありがとうございました、またそして来年も何卒よろしくお願い致します。

クリスマスです。

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いつ「もうらないよ」と言われるのか冷や冷やしながら、毎年次男に「うちのパティシエは今年もケーキを作ってくれるのかな?」と何気に頼みます。で、今年も「やるよ」って快諾。毎年上手くなる彼が作るケーキはこの時期の我が家の風物詩となりました。

この前、イギリスBBCのニュースでここ30年、イギリスでこの時期に雪が降る確率は増えていると聞いて、「そうだよね、地球の気候って人類が何もしなくても変わっていくものだよね」ってふと考え、80万年前に最後に地球に衝突した巨大隕石のことを考えたりしながら、人類に関する本を読んでいました。46億歳の地球はこれから先も何億年かは続くだろうし、でもその何億年先には多分人類はいないんじゃないと思うんです。もっと前に80万年前に衝突したのと同じレベルの隕石が地球に衝突するかもしれないし。どらちらにしろ僕ら人類はどこかの時点で息絶えると思うんです。そう考えると、今出会う人とか、ものとか、動物とか、まー何でもそうですが、出会いは奇跡です。そして、とっても大切にしたいと思います。歳を取るにつれ、この気持ちがこの時期になると募って仕方ありません。ただ、歳を取ると、その数がめちゃ増えて、どうにもこうにも整理がつかなくなってきます。だから結果、この時期はいつも感謝とそれを伝えられないもどかしさが同居して、ちょっと苦しくなります。

今朝、通勤途中で見たコンビニの前にクリスマスケーキを売る着ぐるみサンタを見てちょっと気持ちが落ちるのは「そう喜んでもいられないんだよね、この歳になると」って気持ちからなんだと思います。

古典落語の「仕事」

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たまに観に行く落語が面白く面白くて古典落語ってどんなのがあるのかなって興味を持ち始め、古典落語集的な本を一冊買って、待合で待っている時なんかに開いて1人でくすくす笑っています。中に「金明竹」っていう骨董屋での話の古典落語があり、めちゃ面白いのですが、気になったのは落語の内容じゃなくて、「よくそんな人を雇ってんな」ってことに感心しています。話の内容は要領を得ない骨董屋で働く与太郎が店主から頼まれお店にやってきた上方訛りの仲買人の言ってることが分からず、反対にその分からないことを面白がり、結果その大切な仲買人を返してしまうという内容です。今の時代なら、この与太郎は職を得てない。この噺が出来たのが江戸末期。

その他、要領を得てない使用人を住まわして世話している庄屋の噺があったり、今の経済情勢ではちょっと考えられない。小話は全て作り話であるとは思いますが、ベースにその時代の風情が反映されていたとは思いますから、今の経済なら「ちょっと出来ない子」でもあの時代は普通に仕事に就いていたのだろうと思う。今なら、知的に障害、或いは発達支援が必要な人ということで、普通の人とは違うルートでの生活となっているんだろうと思う。

「仕事」っていつの頃からかお金が発生するものだけに使われる言葉になってるような気がしてます。僕らが使う「仕事」って言葉、いつもその裏からお金の姿が見え隠れしてる。仕事って本来、そう言った意味じゃないはずです。

古典落語に出てくる今ならアウトな「仕事をしてる人」って、今の「仕事」っていう言葉の意味に当てはめて考えるから違和感があるんじゃないだろうかと思い始めた。以前の「仕事」って、お金が発生していても、発生していなくても「仕事」であったんじゃないかって、そしてその仕事って、お金が発生しても、そして発生していなくて、その重みは同じだったんじゃないかってことにまで考えが及ぶようにりました。

今のお金が発生する仕事の原理は資本主義。資本主義は封建制度の中にあった、16世紀から18世紀のヨーロッパの重商主義の中で生まれ、それが19世紀の植民地資本主義となり、20世紀の国家主導の資本主義となり、現在の金融資本主義と発展してます。多分、重商主義が生まれる以前の16世紀前、世界のほとんどの国では仕事はお金が発生するものだけに限られて使われる言葉ではなかったはずです。家庭で食べる食物を作る人の仕事、同じように家畜を育てる人、子育てをする人、洗濯をする人、薪を割る人、などなど、全てがイコールに「仕事」であったはずです。多分、仕事をお金が発生するものだけに限り使うようになったのは、ここたった500年のことなんだろうと思う。たった500年のことを太古の昔しから使われているようなことと勘違してたんじゃないと思う。

でやっと、与太郎を雇う意味が分かりました。何故だかは知りませんがお金を発生させる以外の意味で与太郎は雇われてる。そしてその雇われ方はお金が発生する人と全く同等。今のようにお金が発生させる仕事の方が偉いという風潮はあの時代、この時代と比べ相当薄かった。

今のお金が発生する仕事の方が偉いっていう風潮。この500年ってことです。よく覚えていた方がいいと思います。こんなたった500年での主張なんて、ある時急に変わる。変わる時はめちゃ早いと思う。

資本主義は直接お金が発生しない社会的再生産活動には全く報酬を供給しないシステムです。例えば間接的に資本主義に貢献している家庭での仕事にはまったく報酬を支払わないし、報酬を支払わないばかりか、搾取するシステムです。例えば、働く夫のために四六時中、家庭の中で子供の世話や家事をこなす女性にはまったく報酬は出さない。「そこは国がするところでしょ」って見放すことで成り立つシステム。これは「搾取」であり、無報酬の社会的再生産活動を利用すること成り立っているシステム。また、天然のものを勝手にしかもタダで使用できるものだとの前提で成り立つシステム。例えば、車を走らせるために必要なエンジン燃焼のための空気中の酸素。車製造会社がその使用する酸素の費用を負担するとか、私たちがその酸素分を費用負担するなんてシステムは資本主義の中ではない。天然の資源の「ただ乗り」で成り立つ主義が資本主義。こんなおかしな主義からその意味を歪められた言葉が「仕事」。僕らは500年の間で相当洗脳されてしまってるのかもしれない。

タダ乗りで使って来た天然資源には限りがあり、また資本主義からの生産活動で発生した温暖化ガスは地球を温め、これまで仕事とはお金を発生させるものだと限定してきた来た資本主義はもう限界に近づいています。近づいているんじゃなくて、もう臨界点に達しているかもしれない。

このお店もこの資本主義を最大限に利用してやってきています。そうなれば、もう終わりは近い。古典落語読んで笑って、考えて、そして落ち込んで。ほんと、毎日忙しい。

画像のコサッシュを端材から作ったはいいけど、もう使う意味あるかって、考え込んじゃってます。

16歳への「仕事」

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特別支援学校の高等部に通う長男、年に何回か「現場実習」というのがあります。通っている支援学校だけなのかもしれませんが、2コースあって、1つは就業を目指すコース、そしてもう1つは日常生活を上手くやっていくためのコースです。長男は一応就業を目指すコースに属して毎日通学しています。

その就業コースには将来の就職先として学校/親/本人と話し合った「障害者を受け入れてもいいですよ」と言ってくれている会社を選び、その相性を測るため年に何回か「インターンシップ」的に現場体験というカリキュラムがあります。現場を体験し、本人、そして就業先との相性を探り、もしお互いに「いい感じ」であり就業先から内定を頂ければその会社の障害者枠でお仕事をさせて頂けますし、就業先から「ちょっとね」と言われたり、その反対で本人が「合わない」ということがあれば別の体験先を探すといった感じです。

16歳で社会の一員になること自体、健常者であってもめちゃ大変なことだから、それに加えて障害を抱えて生きる子供達はさらに色々な悩みや困難を抱えるわけで、この現場実習期間は彼ら/彼女らにとってはもがき苦しむ期間ともいえます。うちの長男も例外ではありません。

そんなもがき苦しむ長男がこの現場実習の時に僕や妻に尋ねて来ることの多い質問はこれです。「なんで仕事はしないといけないのか?」です。

絞り出して答えますが、いつもその答えに僕自身がボヤっとしてます。アリストテレスが言う「全体は部分の総和に勝る」が大まかな答えです。つまり、社会とは地球上にあるすべての総和によって成り立ち、総和を構成する個々が優れていればいるほど、そしてそれぞれの役割分担がはっきりし上手い具合にそれぞれ重なり合えば、出来上がる総和の社会はよりすばらしいものであり、その役割の一旦を担う私たち個人はできることを見つけ、そして伸ばさなければならないの的なことです。めちゃ抽象的なのです。「で、もっと具体的には?」と言われると、困っちゃう。まず、「すばらしい社会って?」ってのも疑問だし、「総和って言われても、隣近所の人とさえあまりお話しないの、出来ることを重ねるってそもそもありえるの?」ってのも疑問だし、色んな箇所でつまずくんです。だったら、簡単に「経済的に豊かになるため」って答えるか。これでも、釈然としない。

先日、大谷選手のMLBでのホームラン王の報道が新聞にありました。新聞に「世界に刻む」とありますが、実際には「アメリカに刻む」の誤植だと思いますが、「アメリカの野球で仕事をされている大谷選手は社会のよりよい総和を作るために何をされているのですか、具体的に答えて下さい。」と尋ねられたらどう答えますか。答えに詰まる人が多いと思いますし、答えられたとしても尋ねてる本人にピンポイントで刺さる回答となっていること、まずないと思うんです。

認知機能が以上に発達してしまった私たちは人は生物としての本能以外のことへの関心が止まない。困ったものです。蜂や蟻など、本能的に役割が決まってるから、その本能的な役割の精度を上げるために個々ががんばり、そして周りがその個々のがんばりを下支えし、蟻社会をよりよりものへと導く努力をします。例えば、ある蟻が遠い先にある餌を見つけたとします。蟻はもと来た道をそのまま戻り、その餌の在処を巣にいる他の蟻に知らせます。知らされた蟻は知らした蟻とは別ルートの餌への最短距離を見つけ、そのルートを他の蟻に知らせます。蜂も同じような行動をするのだそうです。蜂は蟻は社会がよりよくなるために、役割をまっとうし総和が良くなる方に動きます。

この資本主義の人間社会、仕事とは経済に直結しています。基本的には短時間でどれだけ効率を上げるか、そして効果はいつも成長していないとダメ。どこかの会社に勤めていて「昨対、プラスマイナスゼロでいいから」って言われるところはないはずです。「昨対何%アップ」が目標をなっているはずです。「昨対何%アップ」が社会の総和にどのようないい影響を与えているか、学校でもましてや会社でも教えてくれない。仕事がいい総和を作るために社会の中で私たちに課された唯一の役割ではないはずですが、社会に出るとその生活のほとんどは仕事に埋められ、仕事が社会のいい総和を作るために個人が担う最も重要なものだと錯覚しちゃう。ましてや経済の成長を進めることは限りある天然資源を枯渇させ、温暖化を進め、人類の滅亡に直結しています。だから方程式的には「仕事=経済成長=人類滅亡」です。であるなら、仕事は社会の総和をよりよいものとするとは間違いに違いないし、そう思っているとしたらそれは錯覚だろうと思う。

「仕事=経済成長」って言葉が障害者の長男にも刷り込まれています。もっと具体的に話すと、「仕事をすることはお金を稼ぐこと。たくさん仕事をすると沢山お金が稼げる。お金が稼げると好きなものが買える。」。言い換えるとこうです「仕事をしないとお金が稼げない。沢山仕事ができない者はお金が増えない。お金が増えないと好きなものが買えない。」です。で僕が「全体は部分の総和に勝る」と話すと「仕事=いい総和を作る」になり、それが「経済成長=いい総和を作る」に変換されるのです。この結末が悲惨、「仕事が出来ない人はいい社会の総和を作るためには役に立たない存在だ」。つまり「仕事が出来ない人はいらない人」ってことです。怖い。決してそうでないのです。仕事という言葉をもっと中性的な物理用語的な「何かを動かすエネルギー」的な定義で彼が捉えてくれないかなと思ってます。「仕事=経済成長」では僕の中では決してないと思っているから。思ってないけど、社会的にはそうだから一般的にはこの概念で話すことの方が多い。でも間違ってる。経済成長だけでは決していい社会の総和は生まれないし、そのためだけの役割を磨く場が学校であるとしたら、ちょっとこの先、人類は危ういと思うのは僕だけでしょうか。

彼に上手く話せないのです。分かって欲しいことはいい社会の総和を作るための方法は「仕事」だけではないこと、そして磨かなければ役割はお金を稼ぐことだけではないこと。ただね、お金がないと僕らは生活できないの。知ってます。お金をより稼ごうとするとそれは人類滅亡に直結してる。お金のことはもう心配しなくていいアメリカの大谷選手はこのあたりどのように答えてくれるのでしょうか。

アアルトの映画

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このアアルトのドキュメンタリー映画、10月13日から公開なのだそうです。フィンランドデザインが好きでしかもアアルトが好きなら是非、お出掛け下さい。

HPにあるArtekセクションを作る時に何冊が海外からアアルトに関する本を取り寄せて読み、勉強をさせて頂きました。アアルト関連の本はもう腐る程あり、どれを読めばいいかよく分からない。僕もそうで、何冊か手にとって読みましたが中身が適当というか、それほど調べて書いていないものが多くて、また著者の「感想」が多かったりで、「あなたの感想はどうでもいいんですけど・・・」って思った本が多かった。その中でもこれはよかった「Artek and the Aaltos: Creating a Modern World」。著者、めちゃ調べてます。Ainoからの目線がたっぷりあってほんとによかった。

映画の中でも、そしてどの書籍にも書かれていますが、アアルトの特徴として筆頭に挙げられるのが「自然と人の共存」。最近は様々なところからよく聞くフレーズです。僕もどこかで使っちゃってるかもしれない。

個人的にアアルト建築に触れたことが一度しかなくて(DenmarkのAalborgにある「KUNSTEN Museum of Modern Art Aalborg」)、その内容の実際はよく分からないのです。KUNSTENにはアアルトが設計をしたとを知らなくて行きました。現地で時間があった時に「美術館行こっ」て急に思い、Googleで探して1番近くにあった美術館ってことだけで行きました。ただね、相当良くて、その「良くて」がモダンデザイン好きの僕が好きなだけで、ただでもクラッシクとモダンの融合がもうエントランスのハンドルに溢れてて、「誰がこんな素敵なハンドルデザインするの」って思って入館。観覧料払って、中に進めば進むほど、外光の入り方が独特で「おかしな建物だな〜」と思い、出口でカウンターに座る学生アルバイトだろと思う子に「おかしな建物だね〜」って話しかけた時に初めてアアルトデザインであることを知りました。

アアルトは後年「今の建築は資本主義に侵されてる」って言ってます。ただね、僕に言わせれば「あんたのやってたことも資本主義の一環なんですけど」って感じなのです。

資本主義、色々な定義がありますが、僕の中では限りある資源(天然資源や人や動物)をある一部の層の人の富を増やすために必要以上に搾取する行為だと思っています。 人は生活するために食料も家も服も必要です。また生活するための道具も必要です。必要以上は必要ない。当たり前のことです。でも、ある一部の層の人の富を増やすために、ものはどんどん作られ、売られ、でも必要以上には消費されないので、余り、そして捨てられる。ある一部の層の人が富を欲しがらなければ、余るほど作る必要がないと思う。

それが必要以上であるか、そうでないか、これが「資本主義に侵されているかいなか」の分かれ目だと思う。ただでも、必要であるものなのか、あるいはそうでないものの線引きってめちゃ難しい。自分自身、「これほんとに必要か?」って真摯に向き合ったことってあまりかいから。

ほとんどの人が考えないと思うんです。「これって必要最低限のものだろうか」って。

例えば車。A地点からB地点まで安全に走れば言い訳で、形とか色とか馬力とかはっきり言って関係ない。でも僕も含めて人はあれこれ考える。何で考えるのでしょうか、本来なら必要ないのにね。よく「人には生まれつき個性があるから、その個性の実現のためにあれこれ考える」と言われるし、まるで必要のないものを選ぶのは生物学的に本能だと言っている本だってある。ただね、猿も犬もそんなことしない。いやいや人は高度な認知機能を持つ地球唯一の生物だからと人以外の動物を区別する場合があります。だから、A地点からB地点へ行くためだけの道具に形、速さ、色にこだわるのでしょうか。この行為は個性の自己実現なのでしょうか。

必要以上に選択肢があり、そして選択肢は資本主義のもと富の構築のためにさらにどんどん増えて行きます。これを一般的に経済の成長と呼びます。

アアルトは建築で新しい選択肢を人々に与えました。多分、間違いないことだと思う。ただ、選択肢を増やす行為は経済成長ですから、経済成長は富の構築のためのもので、そして富の構築は資本主義の基本です。でも、資本主義は僕の中では限りある資源の必要以上の搾取である行為で、そうするとアアルトが建築に目指した「自然と人の共存」って考え方、ちょっと間違ってないかって思っちゃう。資源の必要以上の搾取が自然との共存である訳がない。だから、映画の中で語られた「自然と人との共存」が僕の中ではぴんと来ないのです。

資本主義で今の社会が回っていることは間違いない。だから「自然」という言葉を使い、「原点回帰」的な動きは大切なんだと思う。だけど、例えば北海道のアイヌ民族の人や北米大陸のインディアンや南米の原住民にアアルトの建築を見せて「自然と人が共存してるね」って言うのかな。もともと我々人類はアニミズムであり、動物、植物、樹木、滝、岩、月など、すべての自然物に霊魂的存在を認める生き物であり、そもそも自然と人を分けてなかったはずです。その信仰をまだ信じる土着の民族にとってはそもそも「自然と人の共存」って認識さえもなく「普通に生きてるのが共存」であり、「自然と人との共存」って意図で作られなければならない社会では「どれだけがんばっても共存ってないよね」ってなるんじゃないのかな〜。

この国の人口はどんどん減って行きます。また、他の先進国も同様に減って行くと言われています。この人口減の体感は実際の人口減よりも激しくなるはずです。それは成長にさらに働く人が必要な資本主義に私たちが生きているからです。人口は減りますが、経済は人を欲しているから。また、経済の成長には限りある天然資源の搾取の継続が必要です。でも限りがあるから、近い将来枯渇します。成長が前提の資本主義、人が足りず、そして天然資源が枯渇し成長が止まれば破綻です。地球温暖化の影響で破綻が予定よりも早くにやって来るとの予想がもっぱらです。このままの経済活動を続けていたら、恐らく僕たちの世代はあるいはその直下の世代は人類史上初めて資本主義の破綻を見る世代になるんだと思う。このままの経済を続けていてはならないことは明らかです。

アアルトが生きた選択肢を増やすことで自然との共存が実現しようとした時代ではなく、恐らく選択肢を減らしながらの共存って時代になるんだと思う。「入替」もあり得る選択かもしれませんが、入れ替えるにはすでに現存しているものが多すぎる。入替は現実的でないと思う。恐らく今あるものを使い続けながら、選択肢を減らしていく動きになるんだと思う。消費するものが必要なものだけになり、世界的に製造物の製造数に規制がかかり、作られるものが現在の計画的陳腐化の戦略のもと作られるのではなく、出来るだけ長く使えるものだけになっていく経済システムへの移行になるんだと思う。数を消費しないから、作る数も多くなくていい。だから、働く時間も40時間/週も必要なくなるだろうと思う。働かずストレスが減り、病気も減る。季節を感じながら、人と触れ合う時間が増え、食べ物は買うものではなく、必要なだけ自分で作ろうと考える。こう考えると将来が楽しみで仕方ない。こう考えさせてくれたアアルトの映画、見て良かった。

暑い夏

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なんとなく富士山の近くに行きたくて、家族で富士山の近くに行ってました。富士山はどこから見てもただただ美しい。

暑い夏が続いてます。この暑さは日本だけでなく、地中海周辺の国々はさらにひどい状況になってます。放火が多くの原因とはされてはいますが、この暑さで起こった山火事が乾燥と暑さで全く鎮静化しません。ギリシャ、イタリアなど、多くの国が火事で大変です。

ヨーロッパの海水が異常に高くなり、また北極圏の温度も高くなっていて、大西洋の水が循環しなくなる時期が間近に迫っているとコペンハーゲン大学の教授がこの前発表しました。温暖化の加速の原因となりそうです。 *お風呂を沸かす時と一緒の原理です。暖かい水は軽くなるので表層に行きます。冷たい水は底に溜まります。海もその通りです。表層は暖かいですが、底は冷たい水です。通常は表層の暖かい水が北極の冷たさに触れ、冷やされ底に回り込みます。この原理で海の水は表層と底で入れ替わっています。ただ、温暖化で北極が温まり、それほど水が冷やされなくなっています。また、暖かくなった北極は氷が溶け出し、海水の塩分濃度を下げてしまっていて、表層の水の底への回り込みを阻止してしまっているとのことです。

この前、妻が「世界の人口って増えてるんだって」って言ってました。そして、「日本は減ってんのに、なんでだろう?」って。世界の人口はめちゃ増えてて、その増える理由を知らないなんて、「えー、ちょっとマジで」って感じです。で、貧しい国の人は時間があるから時間がない国の人に比べやることがないから、性交の割合が増えるって思っていたり、貧しいから避妊具に手に伸びないとか思っているとしたら、さらにびっくりです。避妊具をどれだけ配っても人口増は止めれない。性交回数が多いからとか、避妊具が買えないからとか、そんな理由じゃないんです。理由は遠く離れた私たちの消費行動。

人口が増えている地域は主に南半球の国々です。近代化が進んだ北半球の消費の需要を支えるための産業に従事している人が多い国々です。経済政策や金融政策が進んでいない国々の産業、投資が出来ないから、機械化がめちゃ遅れてます。機械化が出来ないのに、先進国の消費需要は増えるばかり。たくさん作らないといけない。結果、労働集約的な産業構造になります。それらの国々には労働力、つまり「人」がいるのです。食べて行くために人が必要だから避妊なんてしてる場合じゃないんです。産んで、その子が働かないと明日のご飯がない。また、機械化が進まない国々は税収が少なく、国家予算が少ない。医療と福祉が国民に行き届かないんです。こんな時、1番割を食うのは新生児です。僕らの消費需要を支えている国々の新生児の死亡率を調べて下さい。以上に高いのです。生まれても死んでしまうから、沢山産むのです。生物にある種保存の法則です。

地球温暖化、人口増加における地球の南北の差、その原因はすべて私たち先進国の経済。その経済を支えているのは私たちが日々行う消費です。つまり、原因のほぼ全ては私たちの消費行動です。この原因である私たちの消費行動を少しだけでも持続可能な方へシフトさせるだけで、大きく世界が変わるよう気がしませんか。電気使うのやめて、畑して、服は自分で作り、なんてことは必要ないと思います。世界の現状を知ることがまずめちゃ大切で、その次の行動は個々に任されています。

今任されている個々の行動、これから先もその通りでしょうか。

僕は違うような気がしているのです。近い将来めちゃ制限されるような気がしてます。コロナ禍、個人の権利の制限だとあれだけ叫ばれていても、世界中の人々の行動は相当制限されました。

明らかな気象の変化が起きながらも、人口が爆発的に増えている。そのため、食べるものが足りなくなってます。これが進めばなんらかの制限が政府から発令されてもおかしくない。温暖化、そして人口増からの食糧不足によりスーパーにある野菜が棚から無くなるようなことになれば、政府は個人の権利を制限せざるおえないんじゃないでしょうか。僕はちょっとびびってます。

行政の丁寧さが足りないとの声は沢山上がってますが、この国は国家予算はアメリカに次いで世界で2位で、他の国では考えられないほどの「施し」が国中に行き届いています。その他の国々ではこれほど予算がなく「あとは適当にやっといてよ」って日本ならば行政の管轄になる部分が国民に丸投げです。民間企業が参入できる余地ができるから市場メカニズム的には正解なのかもしれませんが、民間企業間での競争などがあり、状況が落ち付くまでには相当時間がかかりますし、落ち着くなんて状況にならないかもしれない。

世界には様々な国がありますが、水や食べ物がなくなれば、その国の規模に関係なく、国の政府は動かざるおえない。食べ物の取り合いのために世界戦争になると予想している学者もいますが、コロナ禍での世界各国の協調姿勢を見ると、多分、紛争ではなく協調することになるんじゃないのかと思います。

僕はまだ現時点では普段の食べ物に困る経験はしていません。ただでも他方、国家予算がこれほどこの豊かな国でもすでに5人に1人は十分に食べ物が食べれない状況、そして20人に1人は飢餓状態です。また、この数字、政府発表の資料を見るとは毎年上がって行ってます。

育てるのに時間がかかる自然からの食物は大きく需要が上がったからとすぐには供給を増やせません。また供給するための自然環境が温暖化により悪くなり、作りたくても作れないといった悪循環で、世界的に人口増からの需要過多が起きていて、食物価格はコロナ禍からの補助金/助成金インフレとは関係ないところで上がり続けています。それに対して、賃金レベルの上昇が間に合わないから十分な食を手に入れることが困難な層が相当増えています。この傾向は変わりそうでしょうか?

多分、上がった食物価格の上昇分を相殺する意味が大きのだと思いますが、添加物が多く入った食べ物や、人工肉など、比較的短時間で供給できる食べ物が増えている気がしませんか。また、以前は普通にあった季節の野菜が少なくなり高いと感じることはないでしょうか。年中人工的に何回も作れる野菜がスーパーで増えている気はしませんか。このトレンドは日本だけでなく世界で同じです。この傾向は変わりそうでしょうか?

僕はこの国に生まれ、最高に自由を謳歌して来ました。やろうと思えばなんでも可能な国です。やることもやめることも自由。その自由を後押ししてくれる大きな政府があり、ほんとに助かってます。ただ、この自由が相当制限される時代がすぐ近くに来ている危機感が半端ないんです。そして、謳歌して来たこの自由が次の世代では感じることが出来なくなるかもと考えると、かなり悲観的になってしまう。僕の10代や20代の頃はなんとなく「日本がダメなら日本から出ればいい」と考え気が軽くなっていました。でも、これだけ情報化と世界平準化が進むと「もうどこ行っても同じだよ」って諦めめいた感情がふつふつ湧いて仕方ない。

毎年暑くなる夏を迎えると、こんな感じに憂鬱になるのは僕だけじゃないと思うんですけど、皆さんはどうなんでしょうか。
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