Comfort Mart 店長ブログ

三重県桑名市で北欧で直接買い付けたヴィンテージ家具、カリモク60、Yチェアなどのカールハンセン&サン、PPモブラー、ハーマンミラー、宮崎椅子製作所などを扱うお店の店長です。日々の出来事や考えていることを綴っています。そして時々、入荷情報などもお伝えしています。

その次はどうしようか

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新型コロナウイルスの影響で心の休まる時がまるでありません。

資本主義の中で私たちは生活をしています。社会主義ではありませんので、私たちの経済活動は全て自己責任です。小さな具体的な例を出すと、朝ごはんでパンを食べようが、お米を炊いたご飯を食べようが、私たちが好きなようすればいいのです。私たち稼いだお金で、そしてそのお金をどのように使おうが、勝手です。誰もその勝手を止める権利も義務もありません。あってはいけないのです。それが資本主義の原則です。そして、パンの価格、そしてお米の価格は市場が決めます。僕らがいくら、「パンは100円だ!米はパンより劣るから80円だ!」と叫んでも「いや、米は150円でパンは70円で」と言っている人が市場の中で大半なら、米は150円でパンは70円です。これは議会制で成り立っている民主主義につながっています。100人のうち51人が「はい」と言えば、たとえ49人が「嫌だ」と言っても、大抵のことはOKということになります。「はい」との言葉が大勢となると「嫌だ」との言葉は「例外」と取られがち、49人も「嫌だ」と言っているにもかかわらずです。

以前はダメだったけど、今はOKというのもあれば、以前はOKだったけど、今はダメだということ、とっても多いです。立法府の多数決で決まる法律の中、こういったことはよくあることです。で、他の国に行けば、この国でダメと言ってることが「全然OKよ」ってことも多々ある。この国に住んでれば、その国で行われている法律は「例外」です。

自宅待機の中学の息子が持ってきた地理の課題に「時差」がありました。経度15度で1時間の時差が発生する。なんとなくわかります。地球が360度と仮定して「24時間で1周だから経度15度の差は1時間」っていうのはなんとなく分かる理論です。でも、「赤道にいる人と北極にいる人、時差の感じ方って違うんじゃねえの」とか、「そもそも地球って360度なん?」とか「ほんとに24時間ちょうどで回ってんの?」とか、考えれば考えるほど、この課題は地理じゃなく物理の課題になってきます。地理の時間に「物理の問題だよね」と提議することは「例外」だろうと思います。

さっきの資本主義と民主主義の話、そしてあとの特殊相対理論の話、目に見えること、そして耳に聞こえるもの以外にも考え方があること、平時の時はちょっと見えなくなってしまいます。それが民主主義のもと資本主義で生活を成り立たせている僕らの「普通」です。でもこうして有事になると、その普通じゃない例外ばかり起こります。僕らは慣れてないのです「普通じゃないこと」や「例外」に。だって、僕らはそれらに適用するように教育されてないから。

大きな爪痕を残しつつ、いつかは新型コロナウイルス は収まるんだろう思います。地球環境の問題、人口問題、食糧問題、経済問題、僕らの目の前にはコロナウイルス級の馬鹿でかい、そしてワクチンが作れない超シリアスな世界的な「普通じゃないこと」や「例外」が次から次へと待っています。コロナウイルスでは人類や地球は滅亡しません。でも、これから先の問題、道を間違うと人類、そして地球はなくなると思うんです。このお店、写真のように紹介しなければいけない家具がまだまだ倉庫にたんまりとあり「だから大丈夫」とかじゃないと思うんですよね、なんとなく。

「犬との仕事」

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犬は話ができなくよかった。ほんとよかった。色々犬に話していること、他の人に話されたら困っちゃう。犬も色々詮索してると思うんですよね、我々の話していること、分かんないから。このくらいの距離がちょうどいいです。

2月初旬にデンマーク出張した時、あちらの人に「いや〜、中国でのあのコロナ、日本への経済的なインパクトは相当なものになるよ、ほんと」などと言っていた私の頭の中にあったのはインバウンドからの需要減退です。あと、中国からの資材供給の滞りです。それが、今は「生命の危機」となり、相当大きな話となっています。そして、極東だけの話から今は世界的な話となっています。今のデンマークでも相当なインパクトで、経済的なインパクトとして医療現場でのインパクト、そして精神面でのインパクト、日本と同等レベルなんじゃないかと、お話をしていると感じます。

国内経済事情的には、まず不特定多数の方々と日々接する経済活動をしている会社へのマイナス影響。人が多く来る場所であればあるほど、そのマイナス度は高くなります。多くの人が来る場所で日銭を稼ぐ仕事の場合、その部分に財(人、もの、かね)を集中させることになりますので、オンラインショッピングや配達やテイクアウトなど、人と直接接しない販売経路への転換は相当のコスト高になります。政府はその転換に費用がかかる部分で「補助をします」と言ってくれています。商売は、1)人、2)もの、そして3)かねの順番で優先付けをして進めて行くのが経営学の一丁目の一番地です。対面が収益ドメインとなっている場合、かねをもらってシステムを作っても、それを動かす人がいないのです。人はそう簡単に新しいことが学べません。それまで、対面で販売をしていた人に「明日からメール対応な」って指示してもできないのです。「柔軟性が足りない」と言われても、人とはそういうものなんです。急に言われてもできないものはできない。

このご時世、非対面が収益ドメインでやっているところは、前提に「売るもの仕入れられる」という条件ですが、対面でやってきたところよりも強い。対面でやっているところは、非対面のところを、「うまくやりやがって」っていう目で見ることが多い。対面の方が「苦労がある」と見られがち。この国はやっぱり「苦労した方が報われるべき」文化が根強い。「宝くじで大金を当た人の人生が悲惨になっていく姿」を流す報道に一定の視聴率が付くのも、このことがあるからだろうと思う。

「それはそうだよね、やっぱり苦労しないと」との気持ちでデンマークの人とか、アメリカの人とか、ドイツの人とか、話をすると、その考えが相当偏っていることに気付きます。で、そんな時、「偏っていていいさ。僕は僕の道を進むから」と考えれるようになったのは、頭の毛に白いものが混じった頃です。

政府は108兆円のお金を使う予定です。経済への影響が長引けばさらに予算は増えると思います。世界のお金がある国々も過去最大級の相当の予算を付けています。税金は上げれず、どこの政府もお金は余っていませんので、国債を発行したり、そして中央銀行は紙幣を刷りまくります。世界は紙幣でじゃぶじゃぶになります。普通のマクロ経済の考え方からすると、コロナが終わってひと段落すると、市場にお金が余るのでインフレ になるはずです。インフレ の時は給料も上がりますが、上がり方がいつも鈍いので、先にものの価格が上がります。追いつくまで、多分スーパーインフレ になります。日本がずっとデフレでいること自体マクロ経済からすると稀なので、もしかして、この稀が続くかもしれませんが、普通は貨幣の需要と供給のバランスでインフレ が起こるので、これだけお金が余ると、インフレ になる確率は非常に高い。

借金、した方がいいです。インフレ になっても、借金の元本は変わらない。そして、土地を買った方がいい。人が住む土地です。近い将来、コロナが終わって間もなくものすごいインフレ でしばらく不景気になるはずです。不景気の時は事業用の土地は下がりますが、人が住む土地の価格は下がりません。

さて、例えばこのように経済の構造を理解してものを作らずして、そして非対面でご飯を食べ続けることは「苦労をしてない」ことになるのでしょうか。

「苦労をするか」、「苦労をしないか」じゃない、僕らの知らない価値基準で世界の多くの人が動いていることを目の当たりにして、それを受け入れることができるようになるには相当な心のチェンジが必要です。

つまり、大雑把ですが「犬と同じテーブルに座って仕事をする」ことの想像が本気でできるのか。みたいな感じです。例えばこの国のGDPの8割以上は非生産業からです。すでに、「ものづくり日本」からは相当かけ離れたところにいます。ものをつくることは大切だと思います。この気持ちは大切に、でも別のやり方でいかないと。そのやり方って、過去にあった方法じゃないと思います。創造してくんだと思います。次の世代のために、僕らが必死で新しい道を創造しようとした証を示して、僕は人生を終えたいと思っています。コロナウイルスで、この会社も大変です。周りも大変です。「いや、その方法がいいのか」「でも、あの方法がどうなんだ」と必死でそして、必死で考えてそして創造していけたら最高です。ピンチをチャンスにできたら最高です。

犬との日々、そして変人に期待

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柴犬との生活で僕の自由時間は完全になくなりました。ていうか、もともと朝しか自由時間がないので、その朝を犬の散歩に使うので、完全になくなった。以前は朝早くから仕事を始め、洗濯とかちょっとした家事をしてからまた仕事をする的なことをしていましたが、柴犬の世話で色々なスケジュールが狂い、いつもわたわたしています。激務にはなりましたが、犬と遊んでる息子達を見てると、「柴犬がいてよかったな〜」と報われた感で少し幸せになります。

1月2日から私、妻、として長男とインフルエンザに感染し、ちょっとスロースタートの一年となりました。2月には北欧の出張に行き、そして今は新型ウィルスのおかげで気が休まる日がありません。

何年か労使関係でずっと悩んでて、今でも色々すっきりしません。学校教育に問題ありなのかな〜。私がお話しをする人の多くがどこかで小さな規模の会社をされている人で、その人達と話すとどうしても、やっぱりこの国の教育制度の話になります。小学校とか中学校とか高校でも、行っている人、もっと客観的に自分のやっていることを観察した方がいいと思ってます。難しいのかな〜。世界史だって、物理だって、20年後はその中身は変わってるかもしれないしね。受験勉強、いいとは思いますが、大学に行っても、「ただ、それだけ」って思った方がいいよね。「いい大学に行って、いい会社に入って」ってもう現実的じゃないし。てか日本のいい大学って東京大学ですよね、あの大学世界ではランキング36位です。世界にはもっと他にいい大学あるのに、日本だけの大学を目指そうとする感じ。世界第3位の経済大国のメンタリティーとはちょっと思えない。この「日本だけで通用する」ってことが非常に多いということが、なんで世界第3位の経済大国に起こっているんだろうか。

大学卒業してからは即戦力っていうのはだいたい当たり前なのに、なんで「いまだに会社入ってから何年かは勉強」って言っちゃってる人が多いのだろうか。で、「教えないのは会社の責任だ」と言えちゃうのだろか。新聞の論調もそうです。「教えるのが会社の責務」と言ってる。教えるの、お金がかかるんです。この国自体にもうお金はないんです。その下で動いている会社、お国と一緒で、教えるお金はもうないんです。今回コロナウイルス関係で倒産や廃業が増えてます。「自転車操業」だからです。操業停止しても1ヶ月は何もしなくても会社が大丈夫かそうでないかが自転車操業であるかそうでないかの分かれ目です、一般的に。1ヶ月の操業停止でどれだけ潰れる会社がこの国には多いか、倒産や廃業の数でわかります。相当の数です。うちの会社も含め、多くの会社は自転車操業なんです。てか、国は自転車操業どころか、赤字経営をずっと続けています。社会人になってから、教育を施すための資産はこの国や会社には残っていないと思った方がいい。こんな簡単なことがなんで、わからない人が多いのだろうか。だから、学生の時から実践を積まないといけないと、教える側もそして教えてもらっている側も心しないといけないのに、僕の知っている先生や子供の親は「勉強優先」だと言う。だから、そのお勉強ね、関ヶ原の戦いが1600年にあったことを覚えること、何の意味があるの。なんで「give」が「与える」という日本語訳になると覚えることに何の意味があるの。なんで、僕の好きなスポーツはテニスでもなんでもないの「I play tennis.」と教科書で言わせるの。アインシュタインの「E = mc2」の公式を丸暗記することに何の意味があるの。なんで関ヶ原の戦いがあり、どのような戦いがあり、どのような流れで、そしてそのことはその後の時代にどのように影響を与え、「君がもしあの時、小早川だったとしたらどうする?」とかのディベートとかさ、なんでさせないのか。この一点に集中するだけで、歴史も全体象が全て見えてる。他のことなんて、興味を持ったやつだけが勝手に本を読んで進めればいい。「自ら考える力」を引き出すのが教育じゃないのか。

この前、どこかの待合室でやってたテレビみてて「日本、闇やな」と思ったシーンがあった。「コロナウイルス関係で小学校が休校になって、うちでも時間割を作り学校で過ごしているように動いてもらっている」って。「今から、音楽の時間ね〜」だって。仕事から帰ってきたお父さんが「休校になって子供も何するか困っているから、時間割を作ってあげました」って満面の笑みで答えてる。で、雛壇の解説者が「いいことですね」だって。あの番組見て「うちもそうしようかな」と思った親が多いとしたら、もうこの国に住むの嫌だ。どうすごすかなんて、子供が考えればいい。それを促すのが教育者じゃないのか。親が作ったカリキュラムで、その中でしか勉強しない、そしてそれが認められる社会が日本だとしたら、この国で教育を受けた者はいつまでたっても世界で戦えない。いつまでたっても、世界で戦えるものはいつも「変わり者」だけで今と変わらない。枠組をスクラッチから作れる人間にならないと。「枠がないから困ります!」と訴えられ、「その枠を作って欲しいんですけど・・・」と話すと、業務拒否だとなりがちです。僕なんか、枠があると枠をこなしながら、別の枠を作り、複数の枠で仕事を進め、もとあった枠の無益さ示し新しい枠を次から次へと作ってこうとする方にやりがいを感じるタイプです。失敗も多い思います、多分、失敗と思ったことあまりないので、よく知りませんが。

経済で世界3位だから、今はまだ僕らはご飯が食べてけてる。でも、それも内需があるからです。内需は確実に先細りです。最低でも蛇口を捻ると格安の水が飲める的な今の生活水準を維持したいのであれば、昨日やってたことの繰り返しではもう間に合わないってこと、なんで分かってくれないんだろうか。そんなことが分かってるのか分かってないのか知りませんが、僕がこれまで生きてきた中、すごい日本人、何人も知ってます。すごい人は多い。でももう、ほんとみんな「変人」です。普通の会社にいたら、完全に変人扱いで嫌われてる。すごい女性と言われている緒方貞子さん。直接会ったことないから知らないけど、きっとその変人ぶりはすごいと思っています。「変人になっちゃいなよ」。ほんと、そう思う。そんな変人はもう日本には興味がない。世界だよ、ほんとに。世界なんて枠を考えてる僕は凡人です。中途半端に海外での教育があるので、僕の変人具合はほんと中途半端。枠の概念がないのが僕が思うほんとの変人。でもね、この国の中でももっと変人に会いたいだよね。ほんとそう思ってる。ワクワクさせて欲しい。そして、この国の未来にワクワクしたい。変人、カモーン!

今年もありがとうございました。

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昨日が今年の最後の営業でした。今日は残務を片付けて早めにおうちに帰りたいと思います。

やりたいことはたんまりあるのですが、時間も体力も限られていて、ほんとに「できることだけ」をやって一年が終わってしまいました。景気は悪いのか悪くないのか、よく分かりませんが、そんなの関係なく、いつでも忙しいのがこの会社です。リーマンショックのあと、「いや〜、相当の不景気になるかもね」と思ってはいましたが、結果、いつもと変わらず忙しい毎日でした。忙しいからと言って、財務的に楽になっているかと言えば、そうでもないし、なんのためのこの忙しさなんだと、いつも塞ぎ込んでしまいます。

今年はなんとなく、それまでの年に比べると、よくご飯を食べに行ったと思います。お客さんとも行きますし、同業者の人とも行きますし、以前から「いいものを食べたい」とは思っていますが、ここ最近はそれがさらに濃くなっています。歳を取ってきて、僕自身で言うのもなんなんですが、自分が考えていることや話していることが決まっていて、話を聞いている人は楽しくないだろうなと思ってて、美味しいものや、美味しいお酒を頂きながら、それを話題にしながら、なんとなく時間が過ぎていくのが心地いい感じです。若い時みたいに、「将来はこうしたいんだ」とか熱く語っても、もうそんな気力も体力も財力もないので、嘘になるし、「社会がこうなればいい」とか話しても、もう僕が生きてる間は、そんな大きく変わらないよねとか思ってるので、聞いててそして話してて全く面白くない。それよりも、芸術や工芸や、なんか普遍的なものを深く掘り下げた「オタク」っぽい話をしている時や聞いている時が一番好きです。「歴史をこう切るとこうなる」とか、すごく面白い。こんな話を旨い酒といい食事を頂きながら、聞けたりする時間が最高に楽しいです。聞くためには、僕もちょっといろんなことを知っておかないと相手に失礼だと思うから普段から、何かと色々情報の深堀をしています。こんなことをしている時が一番最高に気持ちがいい。自分に知識が付いていく感じにちょっと酔ってます。

今年もデンマークとの交流が多かった。デンマークの言葉を見る機会が多いので、少しだけ、読めるようになった気がします。合ってるか合ってないのか答え合わせをしたことがないので、よく分かりませんが、デンマークの言葉が前にあっても、大丈夫になった感じがします。英語でやりとりをするのですが、英語はラテンが起源ですが、今の英語になるまでに色々な言語に影響されているので、その影響を与えた言葉の1つであるデンマーク語を話すデンマーク人が使う英語に何度か嫉妬した今年でした。日本語はほとんど英語に影響を与えていません。だから、僕が使う英語はお勉強で覚えてたもの。ようは、誰かのマネです。マネの域を絶対に脱せない。デンマーク人が文法とか発音とか間違えて使う英語に「くそ〜、その間違へはかっこいいぞ」と思ってしまうところがたくさんあります。なんかね、間違えに歴史があるのです。僕が間違う英語はそれは覚え方が間違っただけでしょっていう感じ。僕らが韓国語を覚える時の感覚です。韓国語は日本語にめちゃ似ている。同じ起源だから。英語を母国語として使う人が間違う韓国語の文法と、僕らが間違って使う韓国語の文法は明らかに違う。そんなことです。来年も彼らの英語に嫉妬しながら、ものが進んで行くんだろうなと思っています。

海外にどうしても販路を広げたいんです。なんか、ほんとに。特にアジアの国々に。一緒に働いてくれる人いないかな〜。英語、マーケティング、財務管理、できる人。で、インテリアが大好きなら最高です。それが女性ならもっと最高です。しかも結婚してて、子供もいたりしたらさらに最高。僕が会社勤めしていた時の部長がそうだったんですよねー。世界的に有名な企業の部長クラスの人。絶対にこんな会社に来るわけない。だから、多分、来年のこの時期にも「海外に」って言っていると思います。この海外の話は相当本気でして、この会社の管理部門(経理、総務)を任せられる人もずっと探しています。そんな人が会社に来てくれれば、僕はもっと外に出て行く時間を増やせると思っています。どうなるのでしょうか。もちろん、今、会社でお仕事をして頂いている皆を大切にしながらです。まずはこれが一番です。

大きくなろうとは微塵も思っていません。でも「よくなりたい」とか「同じことはヤダ」とかはずっと思い続けていますし、そうなってるんじゃないかと思ってます。多分、来年、お店の敷地面積や売り場面積が増えると思うんです。それも、「もっと見せたい」とか「もっとかっこよくできるじゃん」とか、財務的なことはほんといつも後からなんです。会社が傾きかけた時は一度や二度じゃありません。それでも、「もっとしたい」この気持ちを止めることができないんですね。

来年は18年目だと思うんです。18年前からのお客さんも何人かいます。一生に何回も買わない家具。それを売る家具店で「常連さん」ってできないと思ってました。でも、そんな方、おみえなんです。ライフステージが変わるたびに来てくださる。そんな方が次のライフステージにもまた来たいと思えるお店であり続けたいと思ってます。

知り合いとの忘年会で何年かぶりにスナック的なところに行き、何年かぶりにカラオケをしました。あれほど、楽しかったカラオケ、今ではそんなに楽しくないんですね。時代だと思うんです。田舎でお店をしているとその時代の流れを感じられないこともあると思うんです。でも、その変化はびっくりするほどの大きなうねりとなって、いつしかこの会社を飲み込み浮き上がれない状態にさせるかもしれません。忙しいですが、独りよがりにならず、世界の流れを読み、それが地方ではどのような変化としてやってくるのか、そんなことを常日頃から考えつつ、「したい気持ち」をコントロールしながら来年も過ごして行きたいと思います。今年のご愛顧ほんとにありがとうございました。来年も引き続き厳しい目でお見守りください。

「田舎から発信」

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僕がよく行く桑名市の体育館に飾ってあった「開館40周年」の横断幕です。この地方さ加減が大好きです。

「地方から発信」とか「地方で頑張っている姿を全国へ」とか、たまに色々な媒体で見ることがあります。その「スローガン」は地方に住んでいる人達にどんな影響を及ぼすのでしょうか。あれはそもそも、地方の人に言いたいのでしょうか、それとも都会の人にいいたいのでしょうか。そりゃ「両方だよ」と言われれば、「そうだよね〜」とはなりますが。あのスローガン、僕好きじゃないんです。「地方は都会から遅れてるぜー!!」って大声で叫んでいる感じがして。地方でも都会でもやりたいと思う「意図」に温度差はないはずです。このことがあのスローガンで霞んでしまう。大切なのは地方から発信してることじゃなくて、やりたいこと、伝えたいこと、伝えたい人にどれだけ伝わったのか。「地方から発信」と都会の人に言いたいのなら、都会のど真ん中でそう叫んじゃえ。「都会の人に伝える一番いい方法が地方にいることだ」との戦略があるなら、それは最高です。でも、僕の知っている限り、「限られたリソースでやるには地方で始めるしかなかった」というのがほんとで、それがたたまた全国区になっただけ。媒体もそれ知ってるくせに最初から田舎から発信することが目的で始めた感じに取れちゃう感じ。嫌いです。

たまに僕、「桑名でいいんですか?」と尋ねられます。田舎で商売をすることが成功に繋がるなんて初めから思っていませんし、実際に苦労ばかりです。田舎で仕事をすることについてプライドなんて1mmも持っていません。大都会で同じだけの敷地面積があり、同じだけのことができれば、それに越したことはない。まったくない。インターネットがない時代だったら、こんなお店、田舎では成り立たない。だから田舎で仕事をしていることについてプライドなんて持っていないし、それを大声で言うことはありません。ただ、「桑名でいいんですか?」と尋ねられたらいつも答えるのは「どこで始めても結局やりたいことは一緒で結果も一緒だったんじゃなかったですかね〜。多分。だって、大切なことって、何をどこでやるかじゃなくて、何をどのようにしたいかじゃないですか」です。つまり「やる場所より、伝えたいことをしっかり持っていることの方が先なのね。その上で規模が大きな都会ならさらに大きな経済的な成功になっていたかもね。ただ、伝えることの方が大切でそれを優先しすぎてお金沢山使っちゃって、この桑名でこの規模になってんの」ということです。

田舎で都会にあるようは商売は成り立たないと思った方がいい。ただ、商売を通して伝えたい意図は田舎でも都会でも伝わるのではないかと思ってます。都会の人に伝わった方がよりハッピーだと思う人なら、都会で商売をすればいい。そうでなく、伝える行為の達成感の充実感が大切ならそれは地方で十分です。相手は同じ人なんだから。

商売という見える形のもの例えば、この桑名に「Blue Bottle Coffee」は絶対にやってこない。Blue Bottle Coffeeは来ませんが、Blue Bottle Coffeeが人々に伝えたいことは、別の商材、そして方法を使えば地方でも伝えられるし、同じだけ「響く」のだと思う。相手は同じ人だから。このお店、実は市場規模が小さすぎて、取り扱いたくても取り扱えないブランドがいくつかあります。ブランドは全国の総売上で予算達成できれば、別に地方で商売をする必要は全くない。都会でそのブランドを沢山売ってくれるお店があれば、別に地方でそのブランドを広める必要はまるでない。当たり前のことです。伝えることの大切さという情緒的欲求はえてして機能的欲求(経済的なものを含む)に負けてしまう。ここはいつもジレンマです。伝えたいことはその商品でないと伝わらないとブランドに訴えても、ブランドは「で、いくら売れるの」と尋ねて来ます。難しい壁です。

来週の「東京蚤の市」参加のために何泊か関東地方で泊まります。夕方4時で蚤の市が終わるので、それから行きたいところをピックアップしていたのですが、その時に地方と東京の差に愕然。行きたいところがたんまりある。そして夕方から楽しめることころがたんまり。今、六本木で開催されている「バスキア展」なんて、絶対に桑名では見れない。

東京という大都市を経済的に支えている人の大半は東京出身ではないはずです。その人たちが生まれ育った街、「バスキア展」的なものはなかったはず。小さな頃はそんなこと知らなかったのに、何故か大人になる過程でそんなものを企画する大人になってる。伝えたいことのために体現させる 企画の規模とか、その斬新さとか、やっぱり地方ではない。「バスキア展」は企画できないにしても、その企画から伝えたいこと的なことを持っている人が沢山いて、その人がそれぞれの「企画」を普通に体現できる姿が僕が理想とする地方での仕事の姿です。「バスキア展いいな〜。やっぱり都会は違うな〜」だけじゃやだ。

こうしたいんだと思う「意図」の強さの方が相当大切だろうと思います。地方の子供達に「意図」の増幅を促すこと、地方で商売をする僕らはやってんだろうか。結果、その子供達が都会の規模に憧れ、世界に旅立つならそはそれで本望です。ただ、「地方から発信」と自らの置かれた立場がさも最初からゼロ以下という媒体の軽々しい記事はやめてもらいたい。それも含めて「媒体はそういうもんだから」と子供達に教えていくのは地方の親の責務でもあるんだろうとは思います。色々やること、結構多いんです。

家具屋が「モノ」で地球にできる「コト」

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隣町にある中学に行ってきました。よく来て頂くお客さんがその学校の学年主任先生で「今後、生徒の前で話して」とかになりました。僕は大勢の人の前で話すコト、全然平気。ただ、消費税の増税だったり、デンマークからのコンテナだったり、犬の散歩だったり、分刻みのスケジュールで動いてる最中のお話だったので、「どうしようかな〜」と考えましたが、「寝る時間削るか」と思い切って相当寝不足で言いたいコト考えて、まとめて話してきました。「まとめた」と言いましたが、2時間くらいの枠でも全然足りない。あと2時間くらいは話したいコト残して帰ってきました。

去年まで小学生だった中学1年生には相当眠い話しらしく、昼食後のあの時間の私の「難しい話し」は無用の念仏だったようで、相当の数の生徒を夢の中へと誘いました。タイトルは下手な広告代理店が下手な広告のために付けたタイトルみたいな「家具屋が「モノ」で地球にできる「コト」」。主任先生から目指していることを少しだけ色々前もって聞かせて頂いていたのですが、私の忙しさで犬の散歩をしている時くらいにしかその話しの反芻ができなくて、ほとんど理解していませんでした。で、終わった時、1人の生徒が「なんか、『未来のなりたい自分への応援歌』みたいって言ってたけど、全然違うやん」ってボヤっと言ってました。それでわかりました、このプレゼンテーションで目指さなければいけなかったこと。完全に外れたトピックで話しを進めていました。だって「キタシロサイの絶滅ってどうなん?」とか「資本主義のジレンマってなんだと思う?」みたない話し。でもね、「応援歌」なんてないんだよ、ほんとに。君たちに合った応援歌なんて、他人の僕が話せるわけないよね。なりたいものがあれば、勝手になればいい。やりたいことがあれば勝手にやればいい。そんなことに応援歌なんて必要ないんじゃないの。

そんな勝手にやっちゃった大人がいっぱいいるこの地球、経済/環境などめちゃくちゃいっぱいの問題を抱えるようになっちゃった。実に申し訳ない。そんな気持ちがあるからなのか、そうでないのか、これから進もうとしている道をいつも悩んでる。「市場は拡大し続ける」原則に乗っ取った資本主義の中でこれからも僕の会社は進んで行く。でも、いつも胸はざわざわしてる。毎日200種類もの動植物がこの地球から消えて行くのその責任はやっぱり僕にもある。「だから、何かできるのさ、この会社は!」と僕のように必死で悩んで行動している大人、世界にはいっぱいいるはず。その大人にとっても厳しい目を向け、そしてジャッジメンタルになって欲しい。そしてそれと同時に、君たちも、10年もすると今度は子供から厳し目を向けられながら生きて行かければならなくる。だから、今の大人のやり方を評価しつつ、そして評価するだけでなく、そこから学べるものをいっぱい吸収して、革新的なやり方で僕たちが住み続ける地球を次の世代の渡していくっていうのはどうだろうか。ダメかな? こんな話しにしたかったのですが、どうだったのでしょうか。

家具屋が話すことで何かができるのではあれば、いつでもどこでも行き話します。ともかく、眠くさせてしまった生徒さん、ごめんね。次はもっとうまくできると思います。

自営業の自己責任

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消費税増税前の増税需要はかなり前から少しずつあって、前回のような大きな波のような需要は今回はないような気がしてます。それは、全体の需要が減ったからなのか、政府の対策が今回はよかったからなのか、あるいは前回の増税後のあのひどい状況を経験した人達の裾野がよっぽど広くて「今回は」と需要をおさせているからなのか、よくわかりません。ただ、前回のような「なんだこれ!」といったことにはならなそうです。10月1日からの「キャッシュレス・消費者還元事業」で増税後の方がかえってお安いお買い物になりますよとお店でお話をしていたりしてます。これは6月末までのもので、7月からはどうなるのでしょか。でも、7月8月はオリンピックか〜。そこまでは大丈夫なのでしょうか。

今お店では6月に買い付けて9月の頭に入荷したての家具を集中的に展示しています。2月頃までは展示から御注文頂いた分の修理修復で工房のスケジュールはぱんぱんです。いつでも、なんだかんだで、めちゃ忙しいんですね。とは今は言ってますが、商売ですのでそれほど忙しくない時もあります。

忙しい時もそうでない時も、自営業者の場合、その責任は全部、社長にあります。「忙しくて、やになっちゃうよ〜」あるいは「暇で、やばいよ〜」も、聞いてる相手からすると「でも、仕事を始めたのあんたでしょ。それ嫌なら仕事やめればいいじゃん」ですよね。完全に自己責任です。だから、何も言わない。特に会社勤めの人や雇われ社長、そしてオーナー社長でない社長には言えない。家族にも言えない。小さな自営の社長はよく、同じ規模の会社社長達と飯を食べたりします。僕もそうかもしれません。なんだかんだ言って、聞いてほしいし、他の社長がどうなっているのか聞くと安心したりします。

僕も含めて、人は気持ちをシェアしたがってんだな〜って、客観的に思います。ただ、やっかいなのがシェアをする相手を選り好みしてるところ。誰にだってはやっぱりシェアはできない。でもSNSというツールが出てきてそれが変わるのかな〜とか以前はちょっと思っていましたが、そうじゃないよね。不特定多数の人が見ている媒体に本心からシェアをしたいことって、ま〜言わない。いや、書いている人もいるかもしれませんが、その数は相当限定的なんだと思います。誰かが見ていると思うと、誤植を気をつけたり、言い回しを気をつけたり、やっぱりなんか本当に言いたいことじゃないですよね。

たまに妻が次男に「言いたいことをはっきり言えるようにならないといけないよ」と言っていることがあって、心がちょっとざわざわすることがあります。はっきり言わなくても生活できるポジションで一生と過ごし、それで本人が幸せならそれはそれでいいんじゃないだろうか、とか。ただ、彼がはっきり言いたいと思っているのに言えなくてフラストレーションが溜まって心の病になったりするなら、話は別です。

僕はデジタルのゲームには昔から全く興味がありませんし、全くしません。でも、今「eスポーツ」と言って五輪の公式競技にしようとする動きがあります。デジタルゲームの世界大会。僕はよく知りませんが、「何、『eスポーツ』ってゲームしながら身体動かすの」とか初めは思っていました。椅子の上でデジタル機器とコミュニケーションを取りながら、そのコミュニケーション技術の高さを評価し合う的な感じなようです。怖い。将棋とか、チェストとか、ゲーム自体にコミュニケーション能力がないものを操り、対峙する人間とゲームを通じてコニュニケーションを取るゲームとはちょっと違う。ゲーム機器自体にコミュニケーション能力がある。もう、本心を打ち明ける相手は人でなくてもいい時代に入るような感じがするんです。

うちの妻が次男に「話しなさいよ」と言って想定している相手は人のはずです。でもね、もう人じゃなくなる時代がやってくるんじゃないかと思うんです。AIですね。ほんとにやってくるんじゃないかな〜、相当近い将来。阻止したい、でも阻止したい理由を明確に説明しなさいと言われると、説明できない。「相手がAIだよ〜」って息子に言ったら、「で、なに」って答えが返って来る時代になるんじゃないかな。

いや、「ゲームしてたら、視力が落ちるじゃん」って言ったら「てか、もう全員メガネだから」って言われるかも。「視力が悪くなることはいけないことだ」ってもう古いの、ってなる。

僕、今度、100人くらいの中学生の前で話をするんです。「私が話すことの意味って何なの」って正直思います。僕が中学生の時に先生から聞いていた話の多くの部分、意味のない話になってる。eスポーツとかAIとか、あの時代の先生は話せなかったでしょ。「ゲームセンター、アウトー!」の時代ですよ。30年後、「あの人の話、古かったね」って言われるのを覚悟して行きますよ。で、また他の零細企業の社長と飯食べながら、「だよね」って人とシェアをすることを密かに楽しん来たいと思います。写真はうちの畑で作業する長男。まだこいつは人とのシェアが似合う男だと思う。いや、違うのかな〜。

選挙です。

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今日は選挙です。どうなんでしょうか、皆さんは行きますか、選挙会場。皆さんはどんな政治に期待をするのでしょうか。僕なんかは「放っておいくれる政治」になればいいな〜って思ってます。「どんどん任してよ、私たちに」って感じです。政府にはお金がないんだから、もう全部僕らに任してねって感じです。でも、任されて困ってしまう人も沢山いるわけで、だから僕は政治には興味がないです。全員を満足させれる政策って、やっぱり無理だと思う。小さな家具屋でいた方が、「僕の好きな家具をあの人も分かってくれた」と両者がそれぞれ思い描く絵の擦り合わせが楽しくて、だから容易で、色々な意見を擦り合わせしながら妥協して国の政策を作るよりかは、なんとなくいいような気がしてます。

僕は小さい頃から勉強をしなさいと両親から言われたことがありません。両親は中卒で、母においては戦時中の中学でほとんど行ってなかったし、しかも小学校でも畑仕事と子守をさせられていたからと言ってたので、学力は小学生以下なはずです。で、字が書けなかった。今はなんとなく書けますが、僕が学生の頃は全然書けなかった。父は中卒で、晩年は「あかんな、もうバカは。仕事ができない時代になった」って一度だけ話していることを聞いたことがあります。自分に学がないから、「子供達には」と反面教師的でもありませんでした。どちらかというと、生活が必死で、子供の勉強のことなんて後回しだったんだろうと思います。

父には今だったら虐待で訴えられると思えるほど殴られました。私の姉はもっとひどかったと思います。反抗しては、殴られ、そして耐えて、また反抗して、殴られ、そして耐えて、あー、今でも思い出すとムカつきます。父はずっと前に亡くなり、なんとなく寂しさもありますが、「もし生きていたら」と考えると、「ちょっと困るな」と思うのが正直なところです。こう思うのも、僕がもう半世紀も生きてしまってて、これま生きた年数より、同じだけの年数はもう生きれないだろうと思っているところがあり、なんとなく死んだら、あの世でまた父に会ったりして、また殴られたりしたら嫌だなと思ったりしているからかもしれません。

「僕たちの声を政治に」なんて声が聞こえます。その声はさまざまなはずです。いや、様々であって欲しいと思います。上に書いた通りの僕の育った環境のように、人それぞれ、違った育った環境があり、今あげる声は現時点での声ではありますが、その声が形成されるベースが作られたのは、過去から現在まで長い時間が重ねられたものからのはずです。その声に答えようとする政治家もそれぞの育った環境があり、それぞれの声があります。なんか、政治は一見未来志向のようですが、実は国民と政治家の過去のすり合わせのような気がします。一人一人の過去って違う訳ですから、すり合わせが成功する訳ないと思うんです。ないよね。だから、そもそも政治って不可能なんじゃないかと思ったりするんです。

すり合わせって難しいじゃないですか、だから大雑把にまとめちゃう時があります。例えば、NBAのドラフト一巡目で選ばれた男の子や、テニスの大阪さんとか、個人の活躍なのに、なぜか個人の活躍を民族の活躍としてすり替えて大雑把にしちゃうところって人って皆あると思うんです。「最近、日本人のレベル高いよね」とか言っちゃところ。欲しのは個人の幸せのはずなのに、それが高いレベルで大雑把にまとめられて、「だからいい国になります」って言われても、「もともと君は僕の人生知らんしね。僕も君の人生しらんしね。勝手にそれが僕にとっていいなんて決めないで。」ってなっちゃんですね。これって僕だけなのかな。こう思うと、お客さんの相当深くまで入り込める小さな家具屋が一番いいと思います。この小さな家具屋は僕には最適な仕事なんです。

資本主義と自由主義

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僕たちは資本主義の中で生活しています。でも、自由主義の国だから、資本主義の原理が好きでないなら、それに合わせなくいい。そう思って生活をしています。好きなテレビ番組やラジオ番組は見たり聞いたりしますがそれ以外は見たり聞いたり全くしません。ちょっと僕とは合わない感じの広告の商品は買いません。政治家で好きじゃないタイプの人がいます。その人の話は信じません。僕に合わないからといって、ああだこうだと言ったりしません。多くの人が僕と同じ考え方であれば、そのテレビ番組は無くなりますし、商品も売れずになくなっていきますし、政治家も次の選挙で当選しません。嫌なら見ない、聞かない、知らない、これは自由主義だからできることです。

日本は人口が減ってます。やばいくらい減ってます。子供がいません。いない子供は東京に集中しています。今生まれる子供の5人に1人は東京っ子です。その東京もこのままいけば2025年には人口減が始まります。紙幣を作る日銀の輪転機はフル稼働です。お札を刷りまくってます。社会保障費はここ10年で15%ほど上昇しているのに、平均給与は20%近く落ちてます。 どこにお金が回っていってるのか、簡単に想像がつきます。客観的に見て、この国の将来は暗いこと、世界の誰が見ても明らかです。日本と同じようなこと、お隣の韓国でも起きてます。皮肉なことに韓国の政治経済システムは日本のシステムを基本に作られています。蛇口をひねると出る水、あの水、20年後今と同じように同じ価格で出てくると本気で思っている人がいるとしたら、さらにこの国の将来は危ない。そう思いませんか。

デンマークの人と仕事の関係で毎週くらい話をします。そのうちの1人は来週から10日間くらい、イタリアのシチリア島で家族でバケーションです。デンマークは人口が増えています。移民の影響もありますが、これから先も人口が増え続けるとの予想です。なんか、めちゃくちゃ悔しいんですよね。僕、あんまり羨ましいと思わない方なんですが、人口が増えているデンマークの家族がシチリア島で家族でバケーションは、涙が出るほど羨ましい。僕の周り、みんな頑張ってる。ほんとみんながんばってる。頑張っているのに報われない感じ。

僕は30年程前に、「この国はもっとよくなる」とめちゃ信じてたし、そのために寄与したいと思ってた。そして「よくしてやる」と真面目に思って勉強もした。そんな僕の姿をみ見た父は惜しみもなく支援をしてくれた。死んだ父が今生きてたら、どうなんだろう、あの時のように支援してくれていただろうか。なんで、こうもこの国は生きづらい国になってしまったんだろう。でも、諦めたくないんです。

内需が細り、どの産業もその市場規模はものすごく小さくなります。そして実際に小さくなっています。内需が頼りの会社はその小さくなった市場の取り合いになります。イースター島が全滅した歴史とかぶるんです。肌感覚として、もうそういったことが起こっていると思うんです。資本主義が行き着く先がこれならば、資本主義は正義ではないだろう思うんです。でも、幸い僕らは自由主義であります。横行している資本主義がいやなら、違うソリューションを出し、それに従って生きればいい。ソリューションを出し続けたいと思っています。もうあの世にいる支援したくれた父もそう思っているんじゃないかと思うんです。今日もがんばりたいと思います。

労働市場の柔軟性

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ずっと昔から思っていますが、私たちが住んでる国のお給料ってなんでこうもだいたい皆んな同じなんでしょうか。仕事をしている人のうち1000万円以上の年収を得てる人の割合がたった5%。他の国はどうでもいいですし、そして僕の低いお給料もどうでもいいですし、ただ何となく「皆んな同じ感」がして仕方ない。そして、この数字がずっと昔から変わっていないのがとても不思議で仕方ない。100人のうちたった5人だけが1000万円以上の年収です。そして、この1000万円超えの人のほとんどは東京都内で仕事をしていらっしゃる人達。でも、生活費(特に不動産)が高いから、結果年収500万円の地方の人と生活水準はそれほど変わらない。賞与を入れての年収1000万円なら、手取りは多分月で50万円程のはずです。どうでしょうか、多いですか?労働人口の5%程しかいない手取り額でしょうか。僕はもっともらってもいいと思える人もっといっぱいいると思ってます。でも、5%だけです。もっとバラエティーに富んだ年収分布にならないのでしょうか。特にもっと高い年収の人が増えればいい。

ずっと変わらないい年収分布。家庭の中で女性が働きに出るケースが増えているから世帯年収は増えていますが、個人レベルで見ると全然増えてない。「お給料って、がんばっても増えなんいんだ」ってどこかで諦めてるところありませんか。これではやる気がなくる。ほんとなくなる。お給料だけが仕事のやる気のバロメーターではありませんが、やっぱりがんばれば「お給料が高くなる」と言われないとやる気が出ない。僕はそうです。学生の頃、時給800円のカフェでバイトをしました。募集要項で「800円から、能力による」と書いてありましたが、あれ「時給800円」ですよね。どこのカフェでバイトをしても、能力なんて関係ない、いつでも800円。遅い時間や早い時間にくる時だけ50円増とか。「能力による」っていうのが僕が知ってる限りこの国の労働市場では正しく機能していなかった。どんだけ、周りの人よりも自分の方が生産性が高く仕事効率がずば抜けていたとしても時給800円でした。仕事の効率関係なく、早く来たり、そして遅く来たり、つまり、生産性関係ないところで時給アップ。こんなこと、あかんでしょ。うちではやらない。早く来ても、遅くきても、生産性が上がらないのなら、時給は同じ。その早出、そして遅出でやらなければいけない仕事を無くす努力をします。努力している間、朝早くそして遅くやらなければいけない仕事は会社役員の仕事です。会社役員は生産性の低いところは常に改善しなければいけない責務があります。その責務を従業員に押し付けてはいけません。

短い時間で最大の効果を産まないといけないのは、仕事である以上当たり前。仕事する前に色々学校で学びますが、「仕事で生産性は大事よ」ってこと学校で教えられたこと、僕の記憶ではありません。学校は集団生活を学ぶ場所である一方で、仕事は生産性が大事なんだと教え、そしてその方法論を教えるところであるべきです。教えても、障害がありどうしても生産性が上がらない人もいます。その分の不足する生産性は生産性を上げれる人がカバーする。生産性を上げれる人は限界まで生産性を上げる努力をすべきです。国なんて関係ない。いまだに「勤続何年だから」と言ってもらっているお給料に納得されている方がおみえです。僕の友人の中にも多い。「勤続何年」っていうのは2つの意味があって、勤続年数が上がるにつれ経験則に従って生産性カーブが上がっっていく。もう一つは、高い経験則を別の人に教え、共に生産性を上げていける。この2点だけです。「歳を取った」だけで増えるのは皺、血圧と血糖値だけです。

年収がずっと上がらないのは、この国の生産性の低さと、生産性を評価しない気質。この2点を「みんな同じで、それがいい」に安心してしまう僕達の見えない心の声が後押ししてる。国の儲けを示すGDPはずっと変わっていない。労働人口が減って福祉への支出が増えてる。地球温暖化で食料もそのうち減ります。このままでは絶対にもう今日と同じ暮らしは将来やってこないんです。私たち大人が今日感じてる同じだけの幸せを感じる毎日はもう子供達にはやってこない、このままでは。もし、僕ら大人が今感じている日々の幸せを次の世代にも感じて欲しいと願うなら、今やってる仕事の生産性を上げるしかない。昨日は100しかできなかったことを、能力を上げて同じ時間で今日は120にすることを必死で考えて実行すること。もちろん、「このままでいい」と思うなら、それはそれで今日も100すればいい。100する人がいれば、それをカバーし、さらに総生産でよりよくなるため別で150する人がいればいい。「僕が120したからお前も120しろよ」じゃなくて「100だけしかしたくない人もいれば、120したい人もいる 。それぞれ、それ相当の生活でいいよね」となればいい。「みんな100して、総生産を維持していこうとう」「上げるときはみんな揃って上げていこう」っていうメッセージが常にどこかから発せられている感じ。このメッセージ通りにしないと、社会保障を受け取ることに躊躇してしまう感じ。ほんと嫌です。だいたい皆んな同じだけのお給料をもらっている感じの数字を見ると、辛くなります。120した人は120分の見返り、100した人は100分の見返りがある、そんなフェアな市場主義が当たり前にならないと。現在100している人が120をしたいと考えた時、例えばそのために「もう一度勉強してやるか」となった時にサポートしてくれる機関がない。生き苦しい。

ほんと、いろんな人がいてよくて、そのいろんな人がそれぞの生産性を目指す。低い人もいれば、高い人もいる。それぞれがそれぞれの生活をすればいいと思う。「やれば伸ばせるぞ」との雰囲気が広がれば、明るい未来が待ってそうな気がします。100の人はそれなりの年収で。120へと努力した人、そしてその結果生産性が上がったと人はそれなりの年収で。100をする人はそれはそれなりで、100しかしてないからと理解し、120できて年収が高い人については「あの人はあれで」でと普通に生活をすればいい。会社は、その会社が120を望むなら、100しかできなない人を簡単に解雇すればいい。会社が100しか望まないなら、そのまま雇用し続ければいい。でも、この国は雇用し続けることについては手厚く補助を出しますが、解雇となると気持ち悪い程、鬼の形相で詰め寄ってくる。働いている明日は120を目指す人がもし明日も100でいいと考える会社で働いているとしたらさっさと見切りを付けた方がいい。「みなんな同じで」感がこの1000万円もらっている人の割合の少なさで分かっちゃう。「皆んな同じ感」でやってきて上手くやっていけてない訳だから、もうそろそろそれから卒業しないと。僕の感覚だと1000万円以上の人は100人の人がいたら20人はそうなってないと、という感覚です。さらに年収5000万円の人が100人のうち5人くらい。資本主義の中では年収が高い方が正しい。ただ同時に私達は自由主義の中で生きてますから、それがそうと思わなければそれに従わなければいい。ただ、年収の高い人と、それ以外の人、それぞれ別に「そりゃそうだよね」と納得しながら生活をすればいいと思う。

頑張りたい人はがんばればいい、頑張りたくな人は頑張らなくいい。でも、「頑張った方がいいことありそう」と思わせてくれる雰囲気はこの数字を見てるか限りなし。やってもやらなくても評価が同じ感じがこの数字だと思う。そうすると、この国を出たくなる人が増えちゃう。特に世界的感覚からするともっと評価されるべき人材が出て行っちゃう。ヤバイよね〜、ほんと。えっ、ちょっと待てよ、本来ならもっと高く評価される人がすでに日本から出て行っちゃてるからのこの年収分布なの?だとしたら、ほんとにやばい。日本、出るか。どこに出るか、でも、ないんだよね〜。この国好きだから。どんな教育を受けてきたか知りませんが、「皆と同じ感じがいい」と考える人は、この会社ではさらに厳しく評価して行きます。だって、そんなの僕が好きなこの国のためにならないから。いかん、人手不足に拍車がかかりそうだ・・・。
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