Comfort Mart 店長ブログ

三重県桑名市で北欧で直接買い付けたヴィンテージ家具、カリモク60、Yチェアなどのカールハンセン&サン、PPモブラー、ハーマンミラー、宮崎椅子製作所などを扱うお店の店長です。日々の出来事や考えていることを綴っています。そして時々、入荷情報などもお伝えしています。

「皆幸せ」

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ちょっと前に次男とライブに行くために東京に行ってました。相当後ろの席でしたけど、1人で行くよりよっぽど楽しかった。妻はこの週末、韓国からのアーティストの「推し活」のために上京です。なんとなく色々な用事があり月に1度は東京に行っている感じです。この国に住んでいることはほんとにラッキー。あちらからどんどんこの国にやって来てくれる。もし私が北朝鮮に住んでいたとしたら、絶対に会えない人に会える。東京に行くといつも思いますが、外国からの旅行者がものすごく増えてる。コロナ禍前よりもよっぽど増えている印象です。

この三重県にも沢山いらっしゃっているとは思いますが、この桑名市で外国からの旅行者を見ることはほとんどありません。普通に住んでいらっしゃる方ばかり。でも、将来を見越してこのお店も外国からの旅行者向けに何かした方がいいのでしょうか。ただ、いいアイディアが浮かばないのです。

もうずっとこの国に住んでいる外国の方々とは色々話す機会があるのでよく話したりしますが、ここの国に来ている外国からの旅行者とは記憶の中では話した記憶がまるでありません。一度、日本の印象を尋ねてみたいと思ってます。日本にずっと住んでいる外国の人からの日本に住み続けることへの「不満」は腐るほど聞いたことがありますし、メディアにも度々掲載されていてよく知っていますが、旅行者が感じるこの国の「第一印象」ってどんな感じなのでしょうか。絶対、いいと思う。もう絶対にいい。

僕自身、ちょっと理解が面倒なところはありますが、この国は世界最高だと思ってます。理由の筆頭はこれ、「劇的に犯罪が少ない」です。僕はこれに尽きると思ってます。

例えばアメリカやデンマークの公共交通機関で小さな子供が1人で通学しているなんて絶対にありえない。この国、特に東京では結構見る風景です。それだけこの国がめちゃ安全だということです。犯罪の少なさから、安全、そして安心に暮らせるといえば、日本は世界の中でトップオブトップ。

ただ、このトップオブトップでも、住んでいる方々からは例えば「子供が育てにくい」等と色々なメディアから流れる街の声があったりします。世界の他の国と比較すると格段にいいかもしれませんが、比較論じゃなくて、絶対論として大変なんだと思う。

母が数ヶ月前に大きな病気になりもう何ヶ月も入院しています。彼女は実家で1人暮らしだから、今回の病気でもう1人暮らしは無理で、多分施設で余生を過ごすことになるんだと思う。入院している病院の対応や費用負担率なんて、もし「僕がインドに住んでたら」って思うと怖くなるほど現役世代に優しい。今後の施設利用でかかる費用も国からの補助で負担は相当軽くなると思うんです。

ただメディアの多くは、その補助があるから国の借金が増えて、国が1000兆円もの借金体質になってると批判しています。その批判はまさに私が利用させて頂いている補助ですから、その批判はまさに私に当てたものです。申し訳ない気持ちです。「東京に次男をライブに行ける財政的余裕があるなら、母のことで国に補助を求めるな」的なことなんだと思います。

犯罪がこの国で少ないのは間違いなく、社会保障がうまく回っているからだと思う。格差が広がったと言われていますが、格差の底にいる収入がなんらかの理由で断たれた方々への国からの施しはとても厚いし、管理/監視も他の国よりも行き届いていると思う。犯罪が起こる様々な理由がありますが、そのほとんどは貧困からです。貧困でもモラルがあれば犯罪は起こらないと思いがちです。でもモラルは生まれつきにあるものではないですから、誰かが教えないといけません。世界には貧困で学校に行けない人の方が多いのは事実です。貧困でモラルが形成されないと、簡単に犯罪を起こします。

なんとなくいいイメージのあるデンマーク、人口10万人あたりので犯罪率は日本の10倍です。10倍って、相当です。だいたい、年間45万件の犯罪。大雑把に500万人の人口ですから、年間10人に1人は犯罪に遭ってる計算です。10年スパンでほぼ、全国民が一度は犯罪に遭ってる計算。人生80年としたら、人生で8回犯罪に遭ってる計算。刑法違反の数です。つまり、警察に報告されている数です。簡単な刑法違反なんて正直、僕らの日常生活ではよくあります。でも警察にお話ししてないだけ。ともかくあのデンマークでもこの犯罪率の高さです。「世界で1番幸せな国」がこの犯罪率。社会福祉が行き渡っていると言われているデンマークでもこの犯罪率の高さ。社会福祉との面では大きく離されているとは思いますが、社会保障という面では、日本の方がデンマークよりも上手だと思います。

ライブで世界から著名アーティストがやってくる日本。世界の美術品の展示会が開かれる、世界の美味しい料理が食べられる、すばらしい四季がある日本。いいことばっかり。この国が世界最高であること、旅行者のほとんどは瞬時に感じ取ると思います。

でもね、もう何十年も住んでる外国の方、そして僕ら自身のようにずっとこの国住んでる人、なんか不満があるんですね。多分、ずっといいところに住んでて「この良さを侵されたくない」って気持ち、「この状態が変わらないで欲しい」っていう気持ちが強くて、ちょっとでも「変化」があると、「おいちょっと待って、変わっちゃうの嫌なんですけど」っていうのが不満の源泉かもしれない。

社会保障の強さは「皆に同じだけの幸せを」を無意識に感じさせるのかもしれない。ただ、幸せなんて本来、その人それぞれ尺度である訳だから、皆が同じだけの幸せってあり得ない。多分、社会保障が強くなった明治維新以降の感覚だと思います。江戸時代なんて、「将軍様が庶民と同じだけの幸せであるべき」なんて感覚ってまるでなかったはずです。「同じ幸せを」なんて妄想なんですが、長く住んでると、そのような感覚になってしまう。犯罪は多いけど、「幸せは個人の尺度で」の国か、犯罪は少ないけど、「幸せは同じだけ全員に」の国か。僕は犯罪が少ない国の方がいい。色々な国に行きましたが、犯罪が多い国は個人的にヤダ。ショッピンモールで場所取りで置いといたものが簡単に盗まれる国、僕は生きづらくて困る。そんな国からやってくる人達。この国は天国に違いないと思う。「幸せの尺度は個人の尺度」との国からやって来た人がこの国に長く住むと、「おいちょっと住みずらいぞ」ってなるのもちょっと分かる。この国に長年暮らす外国の人から聞く不満のほとんどはこれです。

人と宇宙とバスケ

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息子が行ってるバスケゲームにここ1年くらい混ぜてもらっています。そのコート脇で「手が付かないぞー」と息子に手をギュッギュやってもらっているところです。どれほど付かないのかの記念です。スポーツをしているから身体の調子が良くなると思っていたら、実はその反対なのです。上手い下手は置いといて、身体を動かすことが大好き。だからもう週2回から3回のスポーツジムで汗を流すことは30年くらい続けていますが、苦になったことなんて一度もありません。走ったり、歩いたり、私の知っている周りの男性と比べ、この歳にしては相当身体を動かしている方なのです。でもバスケを始めて、痛くなかった膝、肘、踵、腰など、関節と呼ばれる場所全てが急に痛くなり始め、毎日お仕事するのが憂鬱になる時があります。痛くなったらなったで、なんでこれほどまでに痛くなるのかなど、深く知りたくて、何冊が本を読んだり、身体で実践したりと、学ぶことが増えてそれはそれで嬉しい限りなのです。

痛いから「歳を取ること」のネガティブ側に気が行きがちで、「結果いつかは死ぬんだから、なんで痛い辛い思いをしないといけないんだよ」やら「この痛さではこれから先、踏ん張って何かを成し遂げるなんてもう出来ないよ。もうこのままで終わりだ」やら、もっと言うと「なんで辛い思いして生きてるんだ」とか、さらに「なぜ人は生き続けるのか」とか、まー色々考えるようになってしまいます。そのうち、「そもそも、人ってどう生まれて、何をして、そして将来はどうなるか」ってまで考えるようになり、自分の中に答えがないから、自然科学の本やら、生物学の本やら、何冊か読んでいます。以前から物理に興味があって、選ぶ本が物理を含めた内容だったりするから、今は完全に物理の虜になっています。地球の起源にまで興味が湧き、そもそも誰も本当のことを知らないところまで行き着きました。地球の起源は46億年前に星がぶつかり、その星が持っていた水素、窒素、二酸化炭素から色々があって地球ができたとありますが、そもそもそのぶつかったその星にあった水素や窒素や二酸化炭素がどうやって生まれたか、諸説ありますが結果誰も確かなことは分からない。だったら、そこから生まれた我々のような多細胞生物ってどうやって生まれたのかなんて、「これだろうな、多分」ってあるけど、100%それが正しいなんて誰も知らない。

今、再生医療の分野で良く聞く幹細胞。幹細胞って簡単に言うと、目にも鼻にもそして手にも、いわば何にでもなる細胞のことです。その幹細胞に「手になれ!」っていう「メモ書き」を組み込むと手の組織の一部になる細胞になるのです。幹細胞は乱暴に言うと細胞の子供です。子供と同じでめちゃ柔軟性があって、ある指示が入ると、その指示通りに動き出す。卵子が受精し、細胞分裂を始め人になって行きます。その最初の細胞は幹細胞です。ただ、すでに細胞の中にあるメッセージが伝えられている点では別ものです。「君は鼻になりなさい」なんていうメッセージがすでに細胞の中に組み込まれています。人間の細胞は単細胞生物と同じでその一つ一つには脳みそがありません。細胞の中に生まれながらにして書き込まれたメッセージ通りの動きを示します。

僕なんか「そもそもそのメッセージを作っているのは誰なんだ!」って気になって仕方ない。簡単な説明は親です。親から受け取る遺伝子にそのメッセージがあります。「君は髪を作る細胞になりなさい」なんてメッセージが生まれた時からあるんです。細胞には脳がないから、ただメッセージ通りに動くだけ。細胞レベルで考えるとすでに「あなたはこうなりなさい」っていう将来のことを自分とは違う誰かから決められている訳です。

「嫌だね〜。将来のことを誰かに決められるなんて。」って思うのは僕だけなのでしょうか。だったら、僕の中いる別の僕からの声が聞こえる、「それ言ったら、あんた人間になれないよ」って。ちょっと待てよ。「僕が人に生まれたいと望むか望まないか、誰かに決められてるのか」って思うようになってきた。その誰かは誰なんだ。

我々の体を組織しているそれぞの単細胞、人になってしまえば脳からの指令で動き出す。でも、脳で自在に動かせる部分で実は結構限定的。脳で意識を持って動かす交感神経、その反対に寝ている時などに活発になる意識なしで動く副交感神経、意識で制御できる部分って実は結構少なかったりします。

意識して動かせる部分が実は結構少ない我々人。その人が作る社会。そして、その意識していない部分を司るのが遺伝子。遺伝子は親から子へ。親の先、「その遺伝子の大元はどこなの?」って疑問になる。結果、地球の起源に戻ります。地球の起源ができた時、人になるべき細胞のかけらはあったのか。あったのは確かです。アミノ酸だろうと言われています。アミノ酸ができた過程は分かりますが、その過程の大元はどこから。星と星がぶつかって、そのぶつかった星の中に地球の起源があったと言われています。「ちょっと待てよ、それってつまり人の起源は宇宙から、いや全ての生物の起源は宇宙からってこと」ってなりませんか。その宇宙を調べれば、人の起源が分かり、そして勝手に動かされる細胞に埋め込まれたメッセージの意味も分かるかもしれない。ただ、知っての通り、宇宙は広い。「ビックバン」があり宇宙が生まれたとされています。誰も知らないから「ビックバン」と抽象的な言葉使っているだけで、実はどのように、そしてどうして宇宙が生まれたなんて誰も知りません。知れる訳ない。

多分、死んだ時、体と魂が離れた時「あ〜、こういうことね。」って初めて宇宙と人との関係、そしてどうして生物がこの世にいるのかが分かるんじゃないかと思うんです。そして、その時、「だからあの時身体が痛かったのか」って分かると思うのです。以前は宇宙の起源を調べている人のこと、全く理解ができなかった。でも今は違います。「だから人は宇宙を知りたがるのか」って分かり、人の起源の大元を知ることで、今では理解できないようないいことが起こせる気になります。ただ、でも絶対知ることなんて無理だと思いますけどね。やっぱり死なないとわからないと思う。こう考えると、死はもっと生と近いところにあると意識すべきなんだろうなと思いながら、今週土曜日も楽しくバスケします。

捨てずに使う

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端切れが沢山あるんですね。捨てればいだけの話なのですが、なんとなく捨てれず取ってあります。この前にIPCCが発表した地球温暖化の現状はとても厳しく、気持ちが暗くなるばっかりです。ただ生きてるだけなのですが、地球温暖化に加担してます。46億年の中の「地球人生」にとって、地球温暖化なんて大したことのない問題であって、地球からすれば、「恐竜が滅亡した時を同じだろ。生物が生まれ変わるだけ。」って感じなんだと思う。でも子孫を残こしたい本能がある我々人からすると、恐怖しかない。また、今日運転した車から排出される温室効果ガスが原因で私の知らない小さな島の住民のおうちが水没しているかもと考えると、自分の自己中心さが嫌になってきます。でも、生活は進めないといけませんし、経済活動も止める訳にいきません。なんとかならないものかといつも考えています。お店を週1日のお休みから週2日へ変更したり、第1土曜日をお休みにしたり、営業時間を縮めたり、理由に人事的な側面はありますが、お店での電気の消費量を減らすことだったり、店頭にまでお越し頂く機会を減らし温室効果ガス削減したりで、少しでも何かで貢献できないかとの思惑があったりします。経済的な損失は事実あります。ただそれでも、なんとかしないといけない状況なんだと思っています。

経済活動を完全にストップすることはありません。だから、経済活動をしながらも、地球環境保全にタッチし、そこからこの会社らしい、センスの良さや品の良さが溢れる方法で持続可能な商品をお届けしたいと考えています。

スタッフにミシンを持って来てもらって、この端切れから普段使える何かを作りたいと思っています。そしてそれは商品と共に無料でお届けしたいと考えています。完成したらHPやSNSで告知したいと思います。

BTSと畑の関係

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何年か土地を借りて妻が畑をしていたのですが、4月からはもうやめるのだそうです。理由は「BTS」。彼女はBTSの中に「推し」がいて、その彼への「活動」が忙しいらしいのです。いわゆる「推活」です。畑の野菜も「推し」には敵わない。僕が畑仕事を出来ればいいのですが、畑に費やす時間を捻出することは今のところ難しそうです。

BTSの推活をしている女性は世界中にいるらしく、彼女がSNSで知ったその世界の推活についていろいろ毎晩教えてくれ、それはそれで楽しいのです。また彼女から毎晩のように「どうして、BTSのようなアイドルは日本から出ないのか?」って彼女なりの理屈を聞かされます。これはこれでまた面白い。そして、ずっと前に学んだ韓国語の勉強をまた始めたりして、畑はやめてしまいましたが、別の「収穫」はあるみたいで、それはそれで彼女にとっては畑に代わるに足る存在なのです。

僕たちは大きな島に住んでます。4方を海に囲まれた大きな島です。世界のそれぞれの国がそうであるように、この島国にもユニークな文化や言葉があります。この島国のユニークネスは島の中では大いに通用するのですが、一歩島を出てしまうと通用しないことが多い。お金のことや、そして地球環境となると、世界協調がとっても大切になったりします。だから、この島だけで通用する価値観、そしてそれ以外の価値観との間を行ったり来たりしないと世界協調が進む世の中では、生活はとっても大変になることは間違いないと思います。

電車に乗るたびに見る「マナー広告」。この国で暮らすための「プロトコール」だろうと思ってます。この広告の存在を他の先進国から来た人にどう説明するのかと考えるとちょっと複雑な気分になります。

アメリカにはドラッグ乱用防止についての啓蒙広告があります。ドラック自体はダメなんて誰でも知ってます。でも止まないから、啓蒙広告があります。

ドラッグなんて脳への悪影響があり、また他の人を巻き込む惨事を起こす可能性があるから、とってもよくない。多くの人はドラックなんて世の中から「なくなれ」ばいいと思ってます。マナーは「なくらないで」くれよと多くの人が思ってる。

ドラッグは中毒性があって、やめたくてもやめれない。マナーはどうでしょうか。この島国で快く暮らすためこの国独自のマナーがあってよかったと思う人は多いと思います。つまり「あってくれよと強く願っている人が多い」です。ドラッグは「なくなってくれよ」、マナーは「あってくれよ」との願っている人が多いから、それを啓蒙するためにそれぞれの啓蒙広告が作られる訳です。

ドラッグも中毒、そしてマナーも中毒なんじゃないかと思うんです。ドラッグは脳に加えることで機能障害を引き起こす、そしてマナーは脳から引かれることで機能障害が引き起こる。共に、ドラッグは加えることで、そしてマナーは引くことで社会の機能障害が起こる。「機能障害=中毒」です。

ドラッグが蔓延したら「無秩序な社会」ができる。そして、マナーがなくなったら「無秩序な社会」ができる。「無秩序な社会が嫌だ」でドラッグとマナーが繋がった。ドラッグをやめようという啓蒙活動、そしてマナーを守ろうという啓蒙活動、「無秩序な社会を避けよう」という同じ目的のために作られている訳です。

僕がこのマナー広告にいつも複雑な気持ちになる理由はここなんです。僕も無秩序な社会は嫌なんです。ただ、このマナー啓蒙広告から「秩序は社会にとって必要」ってことが感じられないから。義務教育で「公式覚えろ」っていう、その公式が作られた過程はすっ飛ばしてちゃって「型」だけが残り、その「型」を沢山知っている方いいとされる「日本式」が表されてる感じなのです。守りたいのはマナーじゃなくて、社会秩序のはず。日本に住んでるんだから、このやり方に慣れなくちゃとは思うけど、ずっと慣れない。このちっさな国だけに通用するやり方って、Made in Chinaと書かれた肌着を来て、フランスから来た映画を見て、AppleのiPhoneを使い、Amazon.comでお買い物をしている僕にとってはちょっと難しいのです。

BTSの推活のため、やめることになった畑作。BTSと畑作って、普通に考えると全く繋がってない。ただ妻にとっては共に、「快適な生活を得るため」では同じなんだと思います。BTSへの推活からの達成感、そして畑から採る旬の野菜からの達成感。その達成感は快適な生活には必要なことなんだろうと思う。ドラッグとマナー、BTSと畑、一見全く別のことのように見える事象も、その目的から探っていくと、結構繋がっていることが多い。

そして、その共通する「目的」は結構な確率で世界共通であることが多い(例えば日本のマナー広告とアメリカのドラック撲滅広告の目的は同じで「社会に秩序を」)。そして、その世界共通の目的はだいたい、当たり前ですけど、どの国に行っても通用します。例えば、イギリスの誰かさんが日本にあるマナー広告を見て「日本はこんなこといちいち教えなくてならない国なのか」って言ったとします。「この国ではマナーを重んじる国だからだよ」って答えではなく、「社会に秩序が必要なのは世界共通だろ。ただ、その達成方法が違うだけだから。達成方法について不思議だと思うならそれでいいけど、思いは世界共通だろ。」ってくらいまで咀嚼しないと、他の先進国から来た人に説明できない感じが複雑な気分になる理由です。あー、面倒。

Made in Chinaの肌着を付けてる僕の前にこの「日本式」がやって来ると、いつも複雑な気分なんです。「いや、俺の肌着、Made in Chinaなんですけど。分かるよね。それ咀嚼するのに時間がかかるんですけど・・・」って感じなんです。皆さんはどうなんでしょうか。「そこは察してよカルチャー」として納得してるのかな〜。海外から来た人、この国で生活するの本当に大変だ〜って心中お察ししちゃう。

「ノーマ」の閉店

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この前、息子からの電話があり「高い方を買っていい?」って言って来ました。バスケをする彼、新しく7号ボールが欲しくて、スポーツ用品店に行ったらしい。「あのお店ではいくら、そしてこのお店ではいくら」って説明して来て、「高い方がいいよね」ってことです。同じボールなんです。大きな交通事故からの後遺症で知的な発達が非常にゆっくりであるということも関係しているかもしれませんが、彼にとっては同じものが別の価格で売られていることを理解するのが難しい。だから、なんとなく「高い方が安心だ」って理由なんだと思う。でもちょっと深く考えると、「障害者だからって理由ではなさそうだぞ」って見えてくるから不思議です。

また、これは実は障害者でない私たち健常者にとっても難しい問題であることが分かって来ます。つまり、同じものが何で違う価格で売られているのか。そしてなんでそれが普通になってるのか。それは市場経済という坩堝に私たちがいて、その成れの果ての世の中がどうなるのか。とっても難しい問題なのです。

「それ同じものだからね。どう? 価格関係なく、どっちのお店で買いたいんだよ?」って難しい質問をしました。僕はこの点についてだけは「貴族」なのです。価格は物自体の価格ではなく、物自体を僕にどのように薦めてくれるのかも含めて価格だと思ってます。

IT化で情報が溢れたこの世の中、売ってるものは同じものばかりだと気づきます。そして「ただ価格が違うだけじゃないか」と思います。だったらネット検索で1番お得なところから買うのが1番と思うのが普通です。それでいいと思ってます。それでも、価格が高いものになったり、専門的な知識が必要なものだったり、時間を掛けて買うものについては一円でも安くよりも、「ここから買ったら安心だ」とか 「このお店のものは本物に間違いない」とかの「価格以外の価値」を見て快くお買い物がしたいと思うのが普通です。例えば新車。「あのディーラーは定価販売。このディーラーは5万円引き。でもあのディーラーの方が信頼できるから5万円高くてもあのディーラーで買おう」的なこと。そうでないと、日本全国、1番安いディーラーだけが生き残る。そうじゃないです。マーケティングの入門書の1ページ目に載っている「衝動買いとそうでないものの違い」です。

僕が行った学校で使ったマーケティングの教科書にも載ってたし、ケーススタディにもあった。当たり前として過ごして来ましたが、IT化で情報が溢れるこの時代、なんとなくこの理論が時勢と合わなくなって来ているなと考えるようになってきました。

今でもその精度には信頼性の疑問符が付きますが、ネットにある情報の精度が上がって来てるような気がします。情報が溢れ、誰でも情報を取れる時代になりました。その情報をまとめるコンシェルジェ的なサービスが始まりました。例えば、「食べログ」とか、「価格.com」とか。でも、内情はコンシェルジェ的なサービスでもその情報の取捨選択はある意図を持った人が人力で行っていたと分かり、市場では「え〜、信じてたのにー」が溢れ、コンシェルジェ的なサービスに疑いの目を向けるようになってから、「自分で情報を選ぶ」と考える人が多くなり、インスタやTwitterで、「リアルな情報」を求める時代になってきました。情報を駆使すれば、多分、お店に出向かず1番いいものを、そしてお安く手に入れられる時代になってきているような気がします。それがとても高いお品であってもです。

ただ、その高いものを買うに掛ける時間の長さは、これだけ情報がある世の中であってもそう変わらないんじゃないかと思うんです。安いものを買う時にかける時間、高いものを買う時に掛ける時間、安いものを買う時に掛ける時間の方が短いという点では今でも古びたマーケティングの教科書に載っていることは間違っていないと思います。

さて、7号ボールは彼にとって高いものなのでしょうか、それとも安いものなのでしょうか?

全く安くないのです。だからからは彼は価格じゃなく「安心」を選ぼうとしたのです。5万円高い新車を買うのと同じ理屈です。知的に障害があるからじゃなく、健常者もするチョイスなのです。2万円近くするボール、お小遣い制じゃない彼にとっては一生一代の大勝負。親戚が歳を取り、また親戚付き合いも以前より減り、またコロナでお正月気軽に集まるが出来なくなったこのご時世、お年玉が1番の収入源の彼にとって2万円というのは相当な痛手。そこで、1番知ってそうな商売をしている父親にそのお知恵拝借ということで電話です。で、僕が「それ同じものだからね。どう? 価格関係なく、どっちのお店で買いたいんだよ?」ってめちゃ難しい質問するから、大混乱です。

コペンハーゲンにある超有名レストラン「ノーマ」が閉店します。「味」という料理の機能的価値を遥かに超えた周辺価値でやっているレストランでは世界で筆頭に挙げられるお店です。バスケットボールに例えると、売るのは同じバスケットボールですが、その売り方が洗練されていて、普通の倍の価格を出してでもそのボールを買いたいと思わせてくれる店って感じです。予約が取れなくて有名。僕が行こうとした時のコース価格が確か3万円から4万円でした。去年の年末あたりは7万円くらい。そして現在は10万円を超えています。閉店の理由は経済的な理由です。あれだけいつも満席なのに、そしてこの価格なのに、経済的に会社が回らないのです。周辺価値の最大化を目指したお店が閉店です。

価格にそのもの自体以外の何らかの付加価値を付け、その価値にご納得頂ける方々にご紹介していくのが商売の醍醐味だと思ってます。上のバスケットボールと同じです。同じバスケットボールでも(もちろん質のいいバスケットボール)、それをどのようにそれを欲しい人に紹介するのかが価格よりも大切だと思うやり方。ノーマの閉店を聞いて、「それにも限界があるのか」って感じです。10万円のコース料理を20万円に上げたとして、それが成立するのでしょうか。成立しないから閉店を決めたのです。

資本主義で今の経済が回っている以上、数の経済が僕らの社会を支えてる。多くの税金を支払う企業を見渡してみると。それらは全て数の経済で回っている会社ばかり。Appleの年商は約40兆円。彼らは1個10兆円のものを4人に売ってるんじゃないんです。年間だいたい世界の2億人の人がiPhoneを買って、また別のサブスクなどの利用もそれ以上の数十億人もいて、この40兆円は生まれています。2億円の椅子を年に1脚販売するような商売ではないのです、うちも。たまに比較で話をする経営者もいます。「うちは数は追わない。少ないご納得頂くお客様だけとお仕事をさせて頂いています」とか。3人のお客様がいて、その3人以外にお仕事の話をしていない訳ありません。お仕事をさせて頂く数人以外の方々にもある程度認知してもらってその中でご納得頂ける方々だけとお仕事をしている訳です。

告知できる市場の「母数」がないと成り立たないのです。つまり、受ける仕事は少ないですが、「数」があってそれも成り立っている訳です。数がないと成り立たない。

ノーマが20万円にコース価格を上げたとします。食べる人はいます。ただ、あの付加価値を生み出すための費用を相殺するだけの数が出るのか。価格の柔軟性理論通りお客様は減ります。少ない数のお客様しか来ないお店なんか、メディアも取り上げない。認知度も低くなる。でも、彼らのサーブする料理の質は人が多くないとできないものばかり。ただ、この地球上の人口が今の倍だとしたらどうでしょうか。相対的にやって来るお客様は増える。価格の柔軟性理論が正しいとはいえ、閉店はもっと先だったんじゃないかと思う。つまり、付加価値を付け続け、価格を上げて販売していく戦略にも「母数が増える」っていう前提がないと成立しないのです。

さて、この日本、母数が少なる一方です。つまり人口が減っていきます。価格だけでなく、その周辺の付加価値でやって行きたいと思うお店はうちも含めていっぱいです。ただ、それの行く末はノーマと同じ。うちの会社もそのうちの一つなんです。数の経済を直接的な原動力としてやっている企業は世界進出で母数を増やします。ただ、うちのように間接的に大きな母数の恩恵を受けている会社は世界に出ていける体力なんてなく、先細り間違いない。ノーマの閉店から身震いを感じているここ数日です。

ただ、世界に出て行ける大企業、地球には限りがあり、母数の限界があります。また、現在でも世界人口の急激な増加で食糧や燃料の問題が噴出しているし、環境問題に深刻な問題を与えています。

現在の資本主義、そして市場主義は拡大を前提に進んでいますから、こんなこと当たり前なんです。つまり、「限界があるってこと」。ただ、「それはもうちょっと先なのかな」って甘えた考えでいましたが、ノーマの閉店で一気に「やばい」って気持ちが吹き出して、諦めた気持ちさえも出て来てる。

誰か超頭いい人、持続可能な新しい「なんとか主義」って創造してくれないかな〜。あり得るのかな〜。世界には僕の知らないめちゃ頭い人がいると信じてます。ただ、色々忘れたくて雪の日の山を見て、「あ〜、久しぶりに山に登りたい」って思った。

年末年始

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毎年年末に「今年の感想」的なブログを書くのですが、去年の年末はまるで時間がなく書けませんでした。もう15年くらいは続けているので、なんとなく私自身の「今年の忘備録」的な感じで読み返したりしているもので、ちょっと大切なブログなんです。にもかかわらず書けませんでした。忙しすぎてね。

人生の中から「やらなければならないもの」を排除して、「したいこと」だけを残したいと日々努力しています。英語で言う「have to」じゃなくて 「want」を使い人生の大半を過ごしたいと思って、いつも努力しています。ただ、僕の場合はwantの数が半端ない。家族との時間、仕事での時間、従業員との時間、友人との時間、社会との繋がり、スポーツ、文化演芸芸術との触れ合い、リストしたら腐る程あるんです。皆さんも同じじゃないかと思うんです。これが毎年増えて行く。諦めるのが嫌だから、このリストのいくつかを一緒にやっちゃうことが増えました。仕事しながら、家族と触れ合うとか(例えば、次男と仕事でデンマークに行ったりとか)、スポーツの最中にスマホで仕事をしたりとか。落語見ながら、休憩時間に好きな本を読んだり。合わせて、合わせて、なんとなくやりこめている感じ。ただ、もう限界な気がするんです。特に友人との時間がほとんど持つことが出来なかった一年でした。

ただ、不思議とこの感覚が落ち着く時期があるんです。そうなると、また一層やりたいこと増えちゃう。

今年はなんとなくですが、5月、8月、12月をやりたいことを抑える時期にしたいと考えています。それがどんな現象として現れるのかは僕自身も分かりませんが、ただ、ちょっとこの3ヶ月はやりたいこと抑え込もうと努力しようと思ってます。

年始は去年の年始同様に家族で伊勢志摩に小旅行。うちの柴犬とも一緒です。でも、僕が年末から熱を出してしまい、旅行中僕がぱっとしなくて家族に迷惑を掛けてしまい、皆はあまり楽しくなかったかもしれません。無理が効かない歳になってますから、ほんとにやりたいことを抑える術を学ばないと家族との生活も危うい。

経済的に厳しい時期になるだろうとの予想が多方面から聞こえてきます。ただね、この日本では実際には何も悪いこと起こってませんから。あちこちでレイオフだの倒産だと聞きますが、数字的には以前とさほど変わってませんから。メディアを見るんじゃなく、自分の目で見て確かめたものを信じるようにすれば、さほどやばくないとわかると思います。経済的にやばくなっても、やることは同じです。一つ一つ精査しながら、慎重に丁寧に進むことだけです。そのためには出来ることを一つでも増やし、その出来ることをアウトプットできる場所を自ら探すことで次の一歩が見つかる感じ。色々考えると、いつも結局「やめる」っていう選択肢にならず、「やる」って選択肢の一択になるところが、僕のような前向き人間にはよくあり、結果、やることが増え、それに身体が耐えられず病気になるって感じ。また、今年も去年と同じく、同じペースで行く感じがします。

去年一年間、会社が潰れずやってこれたのはほんとに皆様のおかげです。心から感謝しています。今年もできることを従業員共々少しずつ増やし、さらにご愛顧頂ける会社になるよう努力してまいります。今年もどうぞよろしくお願い致します。

「努力の人生」

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この写真を撮った時、心中穏やかでなかった。5年くらい前から始めたお店のインスタグラムアカウントが「凍結」されていたからです。あの時期、世界中でこのお店と同じようにシステム不具合からのアカウントの停止が頻発していて、そこに巻き込まれた感じです。デンマーク滞在でインスタグラムを頻繁に更新するのはヴィンテージ家具店では当たり前のことで、そのことが出来ないことへの苛立がピークに達していた時です。

結果、今は元に戻り「あー、よかった」なんですけどね。

インスタグラムをビジネスツールとして使っていますし、また変は話、個人的な日記的な使い方をしていたりしていて、「あ〜あ、僕の過去が消された」って思いが拭えませんでした。でも、よく考えたら、あのツールって、僕一銭も払っていなのです。ただでMetaのサーバー借りて、その上でMetaのアプリ使って、好きなことアップしてる訳で、よく考えたら「泥棒」なんですよね。Metaからすると、「もっと使って、もっと泥棒してよ〜」って感じなんだと思いますが、やっぱりそれでも泥棒であることに変わりはないことで、急にアカウントにアクセスできなくなったからって、うだうだ言うことって、見方変えると泥棒が盗んだ盗品に価値がつかなくて、その盗んだうちの家主に「おい、こんなもの盗ませやがって!」ってなんだか落語的なオチなんだと思うんです。

この零細企業もそうですが、あのMetaでも何年か後には会社はないと思うんです。そうなればインスタグラムも多分なくなるわけで、泥棒の話もそうですが、なくなるものを悔しがってる、なんか「フラれた彼女のことが忘れられず、うじうじしてる感じ俺」的な感じがほんとに嫌になってきた。

「でも待てよ」と思ったんです。まずは「泥棒にならなければいい」、そして次に「付き合ってるんだったら真面目に尽くそう」って思い始めたんです。まー、それでもログイン出来ないし、何も出来ない。だから、新しいアカウントを作って、「一から始めよう」って思ったんです。広告を出して、まずは使用料を払う。そして、どのような投稿がインスタグラムが望んでいるのかを知るために何冊が本を買って読んで「お前が好きな投稿どれなんだ」って相手の気持ちを察するようにしたんです。このことを少し新しいアカウントで始めて、何日かしたら旧アカウントにログインできた。不思議。

実際にはタイミングだけの話だと思います。ただ、人生振り返ったらこういったことばかりなんです。僕は最初からスコアが良かったってことは一度も人生においてないんです。おかしな例えですが、クリスマス会で抽選とかゲームとか、あの結果って僕の場合、いつもビリとかビリから2番目とかなんです。勉強もそう、適当な勉強だけでいい点数をラッキーで取れたことは一度もない。いつも下の方からのスタートなんです。

以前はこの自分にラッキーがないことがほんと嫌だった。でも、この歳になり、下からのスタートばかりで良かったと思えるようになってます。努力することが当たり前になってます。僕は努力しないと一人前になれないと観念してるんです。でまた、下から努力するから、ラッキーな方々が眺めることの出来ない上に上がる過程の風景が見れていると感じて、人生が豊かになったと、自分の「不運」に感謝してるんです。

インスタグラムなんて、コンピューターシステムがやることだから、僕の人生の成り立ちとは関係のないことかもしれません。関係ないと思います。でも、この「不運」があってよかった。何冊も本を読めたし、「ただじゃダメだよね」って当たり前のことに気付けたし。人生にとって無駄なことは一つもないと思えたいい経験でした。

頭のいい人

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ルイスポールセンのセクションをHPに載っけようと思って、色々な検証を重ねてます(画像もその検証の一つ)。時間がかかってます。照明に関する本も洋書、日本も合わせて8冊くらい読んじゃったりして。知れば知るほど「もっと知りたい」となってくるから不思議です。ルイスポールセンのPH5の光の反射の原理は「対数螺旋」なんですけど、「対数螺旋に沿って作られてる」とはメーカーの人も、そして本なんかにも書かれてるけど、そもそも「対数螺旋ってなんなんなの?」って誰に聞いてもはっきりしないし、「なんで、対数螺旋の原理でやるといいの?」なんて答え、だれも教えてくれない。光の入射角度が37度がよくて、だったら38度なら何でダメなのってのも誰も教えてくれない。「ポールヘニングセンが黄昏時の光の色が理想だと言っていた」とは知ってますが、そもそも「どうしてポールヘニングセンが黄昏時の光に行き着いたのか?」って誰も教えてくれない。それを知るためにはデンマークの歴史だったり、照明の歴史だったり、それにまつわる文化史も理解できないと導き出せない。

「知らない」でやり過ごすのがとっても苦手なんです。「知ろうと思って調べたけど力尽きた」とかまで行かないとダメなタイプなんです。生まれ持った性格なんだと思います。

小さい頃からこの性格を自分では知ってましたけど、故意に抑えてました。今考えると、おかしな話だと思いますが、「聞くと怒れらる」ってなんか恐怖心的なものがあった。相手が知らないことを「何で?」、そして「何で?」と聞き続けると、相手は攻撃されたと思っちゃって身構えちゃうの知ってます。実際に面白がって、或いは相手をちょっとバカしたニュアンスで「何で?」っ尋ねる人が多いからだと思う。学校で「手を上げて」、先生に「それ、何で?」って聞き続けると、怒られる雰囲気、僕が小さい頃の学校ではありました。実際、どうしても聞きたくて、職員室に言って尋ねたりすると「それはそういうことだから、暗記して」って言われことも何度かあった。ある時から、尋ねる気持ちが失せちゃった。気持ちが失せると、質問しなくなるし、質問しないからよく分からないことがどんどん増えてく。勉強がつまらなくなった。

大学を卒業して就職した会社での新人研修。もう、分からないことばかり。で、休憩時間に横にいた同僚に「分かってんの、言ってること?」って尋ねたら、「分かるわけないじゃん。分かってるふりするのが大切」って言ってました。他の人は違うだろうと思って新人が集まる飲み会で同じ質問したら、皆揃って同じ答え。「知ってるふりするのが大切」なのだそうです。また、上司もそうで配属された部署での最初の飲み会で「新人研修なんて、出席すればいいから。これから徐々に覚えていけばいいから」って。でも、あのころの日本の会社って多分、ほとんどこんな感じだったんだと思う。その頃私と同じ新人だった人たち、今多分、会社の上層部になってる人達です。

知らないまま「雰囲気」でやってくのが得意な私たち。知ってるフリがめちゃ得意です。小学、中学の時、頭いい子が何人かいましたが、「知らないまま覚えることが得意な子」ってイメージです。

アメリカの大学院にいる時、生徒が授業中に質問しました。教授が「That's the good question. Because I don't know its answer. Let me get back to you after I make some research.」(いい質問。だって、この答えが分からないほどだから。調べて後で答えていい?)ってことがありました。次の授業でちゃんと答えてた、教授らいし「さすがの」答え方で。相手が分からない質問をして、それに対して「いい質問だ」と言い、調べて答えてくれる、こんな光景、僕は日本では全く経験がなかった。「爆発的な天才はやっぱりアメリカでしか生まれないよね」なんて思ってた。

でも、この日本で大人になってから爆発的に頭がいい大人と会う時があります。「何でか」ってことの奥のところまで分かっている人ばかりなんです。その人たち、留学の経験なんてない。日本での教育だけ。多分ですが、「知らないまま覚えることが得意な子」のほとんどは、その人生の途中でそのことに疲れちゃって、「奥まで知ろうと努力した人だけ残った」って感じなんだろうと思います。この日本でも僕の知らないところでは、「奥まで知ることが許されてたんだ」って知ってショックを受けることがあります。

そういう頭のいい人等とこの国で会うと、自分の諦めてた理由を他所に押し付けていたことが恥ずかしくなります。

今では、分からないことは素直に尋ねるようにしています。もう諦めないのです。分からないことは分からないとはっきり言いますし、分かるように努力し続けます。

もっと、幼少の頃からこの感じだったら、アメリカに行く必要もなかっただろし、それでも僕が尊敬するあの爆発的に頭のいい人達みたいなれただろうにと、ルイスポールセンの勉強をしていると思います。

デンマーク出張

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さて、久ぶりのデンマーク出張です。

1週間ほど、お店をお休みしてしまい申し訳ありませんでした。

さて、何年かぶりにデンマークにやって来ました。いくつか、「変わったぞ」と思ったことがあるので、記しておきます。

一つ目はネット環境。今回、何日目かにインスタのアカウントが使用停止になってしまいました。それと、以前は使えていた日本のメールサーバーが使えなくなった。また、いくつかのソフトがこちらでは認証ができないとなり、「もう一度認証してください」とか。国を超えてのネットセキュリティーの壁がとても高くなった感じ。以前はもっともっと緩かった。Facebookを始め、国を超えてのサービスが増え、そのサービスから個人情報の漏洩だったり、個人情報を守りたい人の思いだったり、それぞれの国ごとに違うのは当たり前で、この辺は何年か結構無視されていた感がありましたが、国ごとで或いは地域ごとで取り締まりを変えていく流れなんだろうなと感じました。それと、経済は拡大することを前提に動いているんだなと、ネットサービスの国を超えての動きを見て、そう思いました。一つの国だけで食べていける時代ではなくなっていて、拡大するためには世界を巻き込まないとならないよね的な。商社だったり、以前に自身が働いていた会社も「日本だけ」っていう感じではなかったけれども、それでもなんとなく一般消費者からするとちょっと遠い存在であるから、「一国に収まって仕事を完結させるなんてありえない」ってことは少し遠い世界のことのような感じがしていました。でも、身近なネットサービスがこれだけ国境を超え巨大化して、そしてその巨大化のおかげでネットサービスの規制に対しそれぞの国が本格的に介入することになったことを身近に感じると、「経済の前提は成長だな」と思わざるおえない感じです。

さて、その巨大化の先はどうなるのでしょうか。

それと、「結構、日本の経済政策はいけてるのかも」って思った。日本にいると、そうでもないと感じることが多々です。でも、こっちに来て沢山の人と話すと、「いや、日本、結構うまくやってるぞ」って感じます。どの人に話しても、今後経済は下降傾向で、その下降幅は下降最大になると感じてるみたい。デンマークでは去年の今の時期と比べ、平均物価が10%ほど上昇してるとのこと。日本ではたった2%程度です。賃金の上昇も鈍く、日本にように政府から民間への半強制的な要請もほとんどないようです。デンマークでも日本と同じで紙幣を擦りまくっています。ただ、日本と大きく違うところは、その紙幣のほとんど、日本の場合には日本の銀行が手に入れているのですが(国債を半強制的に買わされてる)、こちらだと自由な市場に流れてる。つまり、市場にお金が溢れている状態になってます。市場のお金がたぶつき、インフレを起こしている感じなんだと思います。そのため、中央銀行が金利を上げ、そのお金の動きを止めようとして必死になって足掻いている状況なんだろうと思う。

日本の借金は多いですがそのほとんごは国内のもので、海外にお金が流れていない。お金を刷りまくっても、そのお金の回収先がいつも国内。海外に全然流れない。おかげでデフレになるし、海外との交流が少なくなったり、ガラパゴス的なことが沢山あるのですが、それでも、世界を巻き込む今回のインフレについて言えば、現時点では避けられる感じなんですよね。財政政策でめちゃユニークな日本だけが結果、ちょっと助かってる感じ。とても不思議な感じがしました。

高いですよ、こちらは何でも。ほんと高い。でも、それでも、日本に帰っちゃえば、そんなにお金を使わなくて済んじゃうわけだから、それはそれでいいんじゃないかと思ったり。

「日銀の偉い人は結構分かってんだろうな〜、日本はちょっとの間なら大丈夫ってこと」って感じです。

「カールハンセン&サン」、そして「ルイスポールセン」の工場見学、そして少しですが、ヴィンテージ家具の買い付けもしました。

ヴィンテージ家具、「その値段では、考えているデザインのものはもう買えませんよ」ってはっきり言っていかないと、私たちのようなお店は無くなっていくんだろうと思います。誰でも買える北欧ヴィンテージ家具って、もうずっと昔の話と思って頂いた方がいいと思います。当たり前に「いいものは高い」。

しっかり勉強し、努力して、社会貢献度がより高い仕事をされている方にしか、手に届かない品にどんどんなって行くと思います。いいものはやっぱり高いのが当たり前と是非お考え下さい。ライティングビューローが15万円程度で買えてた時代はもうやって来ません。25万円程度が当たり前で、将来はさらに上がって行くだろうと思う。ベアチェアが 200万円程度で買えていた時代は終わり、300万円台が普通です。かといって、私たちの利益が増えたのかといえばそうでもないのです。経済は成長が前提で存在していて、それに取り残された日本は今ちょっと得をしているかもしれませんが、それでも、世界経済があり国が回っている以上、「以前のままの価格」はあり得ないと思うのが当然であり、それをちょっと望んでしまっているちょっとおかしな感覚が僕の中にもあり、こっちに来るとちょっと頭がおかしくなってしまいそうな感覚になることが何度かありました。

歳を取り、以前は3日くらいでこちらのスタイルに慣れていた自分が今では「1週間でも足りないぞ」って思える感じも、驚きの一つでした。歳を取りました、ほんと。

写真は前からずっと行きたかったデンマーク北端にある「スカーエン美術館」。僕が好きで好きで仕方ない「スカーエン派」の絵描きの美術館です。デンマークに訪れたら是非是非、立ち寄って下さい。周りの街並みも昔のデンマークがそのまま残っている感じで最高です。素敵な宿も何軒かあり、また食事もうまいです。

今回、家庭の事情があり次男を連れて来ました。仕事場に連れて行きました。大人の中に紛れ、知らない言葉の中で過ごす10日間あまりは苦痛だったに違いありません。それでも、笑顔で「これ美味しいね!」っといつも言ってくれる彼は最高のパートナーでした。

こうして、次男、従業員、そして私、皆でデンマークにやってこれたのは日頃の皆様からのご愛顧のおかげです。ほんとにありがとうございます。これからも、できることの精度を上げ、そして知識を増やし、皆様にご満足頂けるもの、そしてサービスを提供していきたいと持っています。改めましてありがとうございました!

夏休みの終わり

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夏休みに近所の公園にある木を蹴りまくって虫を採っていた次男、そしてYoutube漬けになっていた長男。共に、8月下旬頃になると、「9月から、、学校行くだろうか?」と心配になってきます。今年はとりあえず行ってくれました。

「学校なんてどうでもいい」とは思ってますが、「学校に行かない」となると心配になるところが不思議です。心配の原因は仕事と家庭の両立です。仕事が完全にOFFに出来るなら、「どうぞ、学校休んで下さいな」とは思いますが、その点は学校に頼っているところはあります。僕の社会生活のため、うちに子供がいない時間がないと上手くいかないことが多い。

勉強や他の人との繋がりであれば、学校でなくても手に入られる場所はあると思ってますが、それでもあれだけシステマチックに子供の受け入れに対して責任を持ってくれる組織は他にはないと思ってるから、ほんと助かってます。学校はダメだと言われてはいますが、あれと同じ規模で同じような組織を作ろうと思ったら、もうほんとありえない。素晴らしい組織であることは間違いありません。ただ、あれだけ大きな組織だと、大きな会社と同じで綻びが出てくるの当たり前です。その辺りは是々非々でやっていくしかないんだろうと思います。

義務教育期間に偏っているとは思いますが、学校に行かない子が増えています。実際に息子のクラスの何人かは来ていません。うちの息子も最近はもっぱら減りましたが、学校に行かない 日があります。なんか理由があるんだと思いますが、尋ねることもありますが、尋ねないこともあります。将来ちょっと苦労しますが、勉強はやろうと思えばいつでもできますし、この国の教育制度じゃなきゃダメとも思っていませんから、心配はしていません。僕が基本的に「学ぶことが好き」だから、多分、息子達もそうなるんだろうなと思ってるところが心配していない肝になっているんだと思います。

学校に行かない子供たちが一体なにをしてるんだろうかと、行ってない子供と友達になってるたまに学校に行かないうちの次男に尋ねてみました。「ゲームだよ」って言ってました。「作ってるの、それともやってるの?」って尋ねたら、「やってるよ。作り方なんて知らないから」って言うから、「ネット調べれば作り方なんて腐るほど出てるのに、なんで作らないんだろう?」って言うと、「買ったゲームの方が楽しいじゃん。上手くできてるし」って言ってました。「まーいいや」って私が言って終わりです。

最近、妻が彼女自身のも含め、家族それぞれの性を星を使ったり、誕生日を使ったりして見てもらっているようです。よく知りませんが、彼女は以前からそういったことに興味があるようで、たまにそういったものを教えてくれるセミナーに行ったりしています。帰ってきて「どうだった?」と尋ねると、色々教えてくれます。どんな星の下に生まれ、そしてどのような使命を持って生まれてきたとかね。僕はほとんど気にしないので、「てか、それ言われても、変わらない訳だから、このまま生きて生きますけどね」って言うと、「そうなのよ、あなたはそういう感じの星の下なのよ」とくる訳です。どう話しても、次の一手が潜んでる感じは「どこかの訪問販売だな」って言いたくなります。さて、そんな中、次男の性は人と関わりを持ちたくない星の下に生まれたようです。彼は人と繋がるより、その人が好きなこと、例えば「虫に関する」ことなど、共通の話題に関する部分だけで繋がりたい性格のようで、人とのよりよいコミュニケーションにはさらさら興味がない星なのだそうです。また、そんな星だからコニュニケーション能力は低いままで人生が進んでいくのだそうです。で、私は逆でコミュニケーションのど真ん中の星なのだそうです。そうだろうとは知っているし、それを磨きたいと思って日々過ごしていたりするからなんの驚きもありません。

次男に「人と関わることが大切だ」と話しても的外れなんだと思う。人とはこんな身近な存在であっても、それぞれの考え方が違う訳で、だったら「もう分かり合えることなんてないよね」って諦めにも似た感覚が心に沸々と湧いてきたりします。ただ、それでは社会は成り立たない訳だから、相手のやり方に同意できないことがあっても、そこは抑えて「仕方あるまい。人は違う訳だから。」と俯瞰的に捉えながら前に進んでいかないと行けないと思う。それでも、我慢できずに、「おいそこは違うぜ」ってことが前面に出たり、或いは抑えすぎて病んじゃったりすることもあるんだと思う。さらに、考えると、「なんで人は違うのか?」って壁にぶつかる。そんな我慢であったり、或いは抑えて病んじゃったりすること自体、何に対してどんな生産性があるのさって考えちゃう。皆んなが全く同じであれば、我慢であったり、病んだりすることはまずないだろうと思う。「なんで違うのさ」ってこと、答えなんて誰も教えてくれない。いくら星や運命の教訓を読み解いたとして、やっぱり結局「だから、何?」ってことに戻っちゃう。だって、人はそれぞれ違ってそれを同じにすることなんであり得ないからね。こんなことを妻に話すと「そうなのよ、あなたは理詰めの星なのよ」ってくる訳。「もういいわ」って思い、いつも話が終わります。
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