小さな頃のことを思い出します。その時に湧き上がる記憶は印象、そして経験や学びだけです。物資的な豊かさなどこれっぽちも印象にありません。例えば、あの時父に買ってもらった自転車、嬉しくて、感謝しながら誇らしげに運転している感覚です。どんな自転車でいくらだったか、そしてどんな機能が付いたのかなんて、記憶にありません。ただ、「嬉しくて、誇らしかった」という記憶です。私たち販売する者はこのこと、心しておかないといけないと思ってます。いつも、残るのは物資的な豊かさでなく、精神的な豊かさであり、もっと分かり易い言葉で書くと、愛と感謝です。私たちが提供するのは物質ではなく、物質を通じて記憶に残るであろう愛と感謝です。お店や、そしてインターネットからのお買い物もそうですが、家具/照明店に足を運ぶことになった経緯、「やり取り」の中で私たち、そしてお客様共に感じること、そしてお届けしたものをお使い頂き感じることなど、このものがあってよかったと感じるものへの愛を通して感じる、すべての存在に対する感謝。
柴犬の散歩は7年になります。朝早くにうちを出る時、「いつまでこうして散歩ができるだろか」と「お前が先か、俺が先か、先に逝くのはどっちだろうか」と話し掛けたりします。言葉の分からない柴犬はこちらに振り向きもせず、ぐっぐぐっと私をいつもの場所まで引っ張るだけです。こんな話をするのも、7年も散歩をしていると、いつも見ていたあのワンちゃんがいなくなり、理由は「そっか、やっぱりね」と納得することも多いから。それはワンちゃん本人も、そして高齢化が進む地方にありがちな理由だったりしますから。
先日、会えばお話をする同じ柴犬を連れている飼い主さんと「あれ、そこの毛、生えてないね」とその柴犬の身体にほんの一部だけ毛が不自然に生えていない部分を見ながら尋ねた時です。「注射したんですよね・・・」と。うちの柴犬が動物病院で注射した時も「そういえば、そうだったな」と思い出し、「何かあったんですか?」と尋ねたら、「この子、癌なんだよね」。うちと同じ7歳の柴犬。「あと、どれだけ生きてくれるかな〜」って、1人で呟くようにその柴犬に目をやってました。
おうちで飼われてる犬は老いても、それでも生き続けます。飼い主がお世話するから。これが自然にいる動物になると話しは別です。どの動物も老いた仲間の面倒はみない。老いて、動けなくなり、食べれなくなれば、死ぬだけです。あるネズミは老いる前の元気な状態で死んで行きます。仲間が老齢期に入った個体を助けることなんてないんです。動物中で人間だけです、仲間が助けてくれるの。僕なんか、もうその歳になって来ましたから、よく考えるんです「どうして、他の動物でなく、人だけが老人を助けるのか」って。おそらく、「生かしておいた方が見捨てるより、生物的に有利」だからなんだと結論付けてます。そして、「その有利なことってなんだろうか」と考えます。
私たち生物の生きる目的はより多くの強い子孫を残すことに他なりません。生の起源である受精において、減数分裂で有性生殖をするようなったのも、遺伝子の多様化を可能とし、より強く生き残れる個体を増やすために何億年もかけて私たち動物が獲得した生存戦略の最たるものです。だから、この目的に沿って、私たちは老人のお世話をしてるんだろうと思うんです。
でもこの現代において、老齢期に差し掛かった人を残すことって、ほんとに生物としての人の生存戦略に合っていることなんだろうかと考えてしまうことがあります。老人を残すことで得られるより強い子孫を残すための実利があるのかってことです。情報化が進んでいない以前の社会では、老人のお世話をし老人が若者に対して「教える」ってことが理になかっていたんだと思うんです。先人の知恵が生きる時代。そのためどうしても老人が必要だった。例えば「この雲行きでは嵐がくるぞ」と経験のある老人が言えば、ほんとに嵐がやってきて無駄に狩や漁に出かけずに済み、子孫の残すことに役に立った。人生に悩む若人に「こうしてみたらどうだろうか」とアドバイスすることで自殺を考える若者を救うことも出来た。これら、経験のある知恵のある老人だから出来ることのはずです。でも、特に先進国では核家族化が進み、また夫婦共働きとなり、地域にいるご老人と交わる機会なんかなく、老人から「知恵を頂く」ってこと、ほとんどないんじゃないでしょうか。また、そんな現代に生きている老人本人も「若者に迷惑をかけちゃいかん」と自ら交わることを避ける傾向にあるような雰囲気さえあるように思います。
地域によくある、老人と小学生が交わる機会を作るイベント。この地方なら、夏休みの「ラジオ体操」、そして「スポーツ交流会」など、大人がこうしてわざわざ機会を作らなければならないほど、老人と自然と交わる機会がなくなったってことだと思うんです。
ただ、世界には情報化が日本のように進んでいない地域もたくさんあります。むしろ、そちらの方が面積的には多いと思います。そういった地域に住む人々、今でも核家族化は進んでおらず、村単位で生活の基盤が成り立たせているようなコミュニティーに住み、その中で生きる老人の権限はびっくりするほど高く、あたかも老人が全て知っている、そして、未来の予言さえできるところまでの権限が許されていることもあるようです。例えば、老人が「この月夜に生まれた子供は不吉を村に及ぼす」と話し、生まれた子供をその場で殺してしまうようなコミュニティーはいまだに多く存在してるようです。ただ、こういったコミュニティーの存在も世界経済が進めば気薄となってくるんだと思う。
私の母が何年か前の脳出血で障害者となり、長い期間、老健と呼ばれる保険適用の医療行為が許されている老人介護施設で生活をしたことあります。また、叔父の何人かは長期入院が許される老人が多く入院している病院で亡くなっています。私の母はもう話せませんし、歩けません。もう、知恵を引き出すことなんて叶いませんし、病院でなくなった叔父達はもう何年も意思疎通が出来ないまま逝ってしまっています。母が暮らした老人介護施設、そして叔父が亡くなった病院に行くたび、そこにいらっしゃる多くの老人の背中を見ながら、「なぜ、我々はこの方々を生かすのか」と、すでに私たちが必要とする知恵のアウトプットの手段を持たない彼らを見ながら、自問自答が続くのです。
例えば、コンビニエンスストアの駐車場でアクセルとブレーキを踏み間違えた老人が起こした悲惨な交通事故や高速道路での逆走問題など、老人の「社会不適合」ぶりに憤りを感じる方々が多くいるのも事実です。また115兆円の国家予算のうち約10%も占める介護費用について不満を感じる方々が多いのも事実です。
何かの理由で老齢期を待たず他界してしまう人は大勢います。でも、寿命が分からない私たちはこれからの事象について「誰もが老い、そして誰もが同じ道を辿る訳だから仕方あるまい」と堪えているのではないかと思うでんす。その通り、私たちは必ず老い、そして私たちのほとんどは必ず今の老人たちと同じ道を辿ります。
ただ、何となく今私たちが堪えなければならない枠に私たち自身が必ず入って行き、堪えている人たちが大勢いる中でその枠で生活を続けることになる私たち自身の精神衛生は如何なものかと、心配でなりません。
情報化が逆戻りし、老人の知恵が必要となる時代となれば、こんな心配はしなくて済む訳です。ただ、情報化の勢いはいよいよ増し、AIが幅を利かし、老人だけじゃなく、人さえもいらない世界にさえなりそうな雰囲気のこの時代、老人の知恵が必要な時代は私たちが住む先進国ではまずやったことないことは間違いない。
老人からの知恵は必要のない時代になった、老人をお世話するための膨大な国家予算が必要、そして身体機能低下からの様々な社会不適合具合、これら全て老人が老人となり、物質的なものが提供が出来なくなったことばかりです。私が考えていること、これ全て物質主義の最たるもののような気がするんです。「物質的に利するものがないと、そこへの投資は意味がない」とする経済主義の考え方。ただ、国民一人当たりのGDPが増えるほど、その国の自殺率が上がるとされる、経済発展と自殺率上昇の高い相関関係は、物質主義の成れの果ての殺伐とした社会の未来図を映し出しているような気がして仕方なく、私も含め、誰もそんな世の中なんて望んでないのです。
年末ジャンボ宝くじがあたる確率は2000万分の1。私たちが生まれる確率を出すのは色々な見方があるので、一概には言えませんが、2億から3億分の1。これ、受精できる精子一つが勝ち残る確率です。また、これに加え卵子には異物を排除する強い働きがありますし、うまく受精が叶い受精卵となり着床し、そして卵割、胞胚、とうまく細胞分裂してくれ、そして胎児となり、あの命懸けの狭い産道を潜り抜け、この世に生まれ出てこれる確率なんて、もうほんと計算出来る以上の宇宙レベルの確率であること、誰もが分かると思います。この地球の人、全てが奇跡の確率で生まれた来た「勝者」なんです。この勝負に負けていく「敗者」の数、どれほどのものか分かりますよね。私たちはこの世に生まれただけで、すでに奇跡であり、勝者なんです。敗者だって、生きてる我々のように日々笑いたかったはず。そして日々悲しむことさえも、羨ましいと思うはずです。
だから、老人の姿を見て、生きてる意味を考える時思うんです。「生きているだけでいいんじゃないか」って。
私たちはいつから、生きることに努力をしなければならなくなったのでしょうか。生きている以上のことを期待するようになったのでしょうか。生きるとは「死なない」ということだけでいいはずなのに、生きてるだけで意味があるはずなのに、生きてる意味を見つけるための努力をいつからしなければならなくなったのでしょうか。特に、この経済が主導する社会、物質的に利がないと、その生命に意味がないとされる風潮、どこかにあるような気がしてますし、馬鹿げた考え方だと思ってます。
私たちは本来、生きていればそれだけでいいはずです。つまり、死ななければそれだけでいいはずなんです。これはどんな生命であってもです。生まれつき障害を持ち、喋ることも聞くことも見ることも歩くことも出来ない人、世界には沢山います。そして1人では生きていけない老人、この日本にも、そして世界中にたくさんいます。
そして、僕ら健常者であっても、生きていればそれだけでいいはずです。健常者であっても、1人では生きていけません。生まれてすぐ立ち上がる子供はいないし、生まれてすぐ自分の手で食べ物を手に入れることのできる人なんて1人もいません。今生きている人全て、誰か助けてくれる人が周りにいてくれるから生きていけるのです。
母が障害者となり、ただ生きているだけとなってます。この生命、物質的にはなんの利もありません。でも、それまで疎遠だった兄妹姉妹が母のために集まり、母が亡くなるまでのことについて協力し合うよう仕向けたのは、倒れても逝かなかった母の意図だったんじゃないかと思います。この協力から得られる様々な発見や学は他では得られることが出来なかった思ってます。亡くなった叔父にはもう何十年も音信不通の一人息子がいました。父が危篤だと知ったその息子は、何十年ぶりに帰郷し、枕元でもう話せない父親に「育ててくれてありがとう、お父さん」と何度も何度も伝え、話せなくなった父親の目からは涙が溢れていました。父と息子の間で確かめ合ったこの愛と感謝、老人になった父が息子に学んで欲しかったことなんじゃないかと思うんです。
先週亡くなった妻の父は約2年の闘病でした。死が近づく義父からも多くのことを学んだ気がします。
利がない「社会的には不適合」とされるような老人からも、私たちは多くを学び、そしてそれは次の世代に大切すべきものだと受け渡すべきことのような気がしてます。
これから全て、物資的なものとはまるで違う、私たちがこの世に奇跡的に生まれた本当の理由だったような気がしてるんです。これまで多くの大切な人を失ってきて、「人は生きたように死んでいくと」と分かるようになりました。死んだ時、この世で得た物質的なものは全て無と化します。残る者に残る亡くなった人の記憶、それはその人が持つ愛と感謝の強さだけなような気がします。強く愛と感謝に生きた人はその強さを残すように死んで行きますし、弱い方はその通り弱く残して死んでいくように思います。ただ、その強弱の差はあれ、共に愛と感謝のためにこの世に生まれ、そして生き続けた奇跡の人であったことは確かなのです。私たちは皆、奇跡を生き、そしてその奇跡を紡ぎ社会を築き上げる仲間。
老人に限らず、どんな生命にも、愛と感謝を紡ぐ使命があり、それは物資的なものを大きく超える最も優先されることだと思うのです。物質的に利に合わないと排除するべきは、生命ではなく、そうさせる社会の仕組みに他ならない。そして、誰も1人では生きていけない訳ですから、助け合い最後まで付き添い、存分に愛と感謝を学ばせて頂き、その生命が尽きたら、次の命に学びのバトンを渡していくことで、今日よりも明日、そして明日よりも明後日を期待出来る明るい社会を築いていけそうな気がするんです。
こんな高度なことが出来るのは霊長類のトップに立つ、ヒトだけです。ヒトがヒトとして最も尊い仕事は最後までお互いに関わり続け、最後の最後まで互いに愛と感謝を学び合い、そのバトンを次の世代に渡し続けることなんじゃないかと思います。
寿命が明らかになった7歳の柴ちゃん。もしかしたら、寿命を知らないだけで飼い主さんの方が先に逝ってしまうことさえもあります。いつ何時誰がどのような形で逝ってしまうなんて、誰も知らないのです。ただ、その逝ってしまう生命、この世に生まれたのは奇跡であり、助け合い、学び深い人生を歩み、愛と感謝を残る者の残していく大切な使命があると思ってます。あの柴ちゃん、そして飼い主さん、大いなる学びがこれから待っているはずです。どんなに老いても、喋れなくても、歩けなくても、残る者に学びを残してくれすはずです。決して物資的なものに依らず、私たちが持つ奇跡の生命がある意味、深く深く考えて生きていきたいと、私の心にある残された記憶を感じるたびに思います。
経済本位の社会が進む現代、ヒトがヒトとして次世代に残していくのは決して物質的なことでないこと、自らの過去の経験、そして多くの大切な人を亡くしてきて、間違いないと思ってます。私たちがお届けするのは家具や照明じゃないんです。間違っちゃいけないと、多くの先人が教えてくれました。この教えは何事にも代え難いかけがえのないもので、だから、私たちは老人に限らず、命あるものに対して、精一杯に関わり続けるべきなんだと今は考えています。
ただね、こうは言っても、いつもそう考えている訳でなく、そこがこの世に生まれた証だとさえ思ってます。つまり、私たちは完全でなく、不完全のまま生まれ、そして恐らく不完全のまま逝くんだと思います。この過程を繰り返し、完全に近い形となり、「あがり」となるんだと思います。こう考えると、不完全に感じる現在の社会も「そりゃそうだよね、過程だから」なんて思ったりしてます。









