Comfort Mart 店長ブログ

三重県桑名市で北欧で直接買い付けたヴィンテージ家具、カリモク60、Yチェアなどのカールハンセン&サン、PPモブラー、ハーマンミラー、宮崎椅子製作所などを扱うお店の店長です。日々の出来事や考えていることを綴っています。そして時々、入荷情報などもお伝えしています。

"The more you know, the less you need."

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この前届いたパタゴニアからの箱に表題の「The more you know, the less you need.」というコピーテキストが書いてありました。乱暴に意訳すると「知れば、そんなにいらないって」です。こういうコピーが大好きです。ただ、「The more you know, the less you want」(「知れば知るほど、欲しいものは減る」)じゃないよね、なんて思いました。知っても、欲しいものは減らない。マーケティングを少しくらい勉強したことがある方なら、「need」と「want」の差をご存知だと思います。needは衣食住など、最低限人が生きていくために必要なもの、そしてwantは「欲しいもの」です。先進国ではneedの時代はとっくの昔に終わってて、wantが消費のドライバーになっていることは、誰もが知るところです。ただ、人間のneed(本能的に必要とするところ)に訴えかけ、wantに変えていくて手法が昨今は流行りです。「山登り」がそう、そしてその周りにあるアパレルグッツなんてその主な例です。人が自然と触れ合いたいと思う気持ちは本能かもしれない。「昔、人は自然と戯れて生きていた」とのストーリーをなんとくぼやっと裏側に秘めて、「もう一度あの時の本能に身を委ねてみませんか」とか。

実は僕たちホモ・サピエンスは、昔から生きるための戦略家です。ネアンデルタール人を滅ぼした僕たちホモ・サピエンスは他の動物に比べ、認知機能が格段に優れていました。ホモ・サピエンスは不快と思うことを快適にするために知恵は働かせて、どんどん環境を変えてきました。「寒い」と思ったら、壁を作る。その壁をより早く作るため、丈夫に作るために努力をする。他の動物は「寒い」と思ったら、身を寄せ合い、洞穴を探し、動かずじっとするです。僕たちホモ・サピエンスはそうじゃない。寒いと思ったら、どんどん周りを変えていきます。

山登り。あれは、僕らがホモ・サピエンスだから行うことです。他の動物は高い、寒い、食べ物がない、そんな高い山には登りません。needだけで生きている動物とは僕たちは絶対的に違うんです。

こんなこと、誰でも知ってることです。だけど、「本能に戻りませんか」っていうメッセージが流行るのは、この社会がめちゃ複雑だからです。要は、「本能に戻りませんか」っていうメッセージは僕にとっては「シンプルに生きませんか」とのメッセージに聴こえます。社会構造は縦、そして横、たまに斜めから複雑に絡み合い、多分、もうめちゃくちゃ進化した僕たちホモ・サピエンスの脳みそでも理解が難しくなってるんじゃないかと思うんです。でも多分、もう何年もすると優れてる僕たちホモ・サピエンスはこの状況に慣れちゃうんじゃないかと思います。その補助をするのがAIかもしれません。

多分、僕はその慣れちゃう時代にはもう一線で社会に貢献できない歳になってるんじゃないかと思います。だから、余計に今の時代の複雑さに悩み、そして考えるこの時代にフィットする「シンプル」に生きましょうというメッセージが心にぐっときます。パタゴニアの「The more you know, the less you need.」は僕たち世代にはぴったりのコピーテキストです。実際には、そう思ってはいてもまた買うから。僕らの世代はそういう世代なんです。パタゴニアはもう少し続きそうです。

お店の模様替えをしました。ヴィンテージ家具ばかりだったお店をいつもの新品とのミックスにしました。将来どうなるんだろうなと考え、色々試していきたいと思っています。この会社ももう少し続きそうです。

海外発送

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木曜日はロンドンへ荷物を発送しました。その朝はお店の近所に配達でした。夜はデンマークの人と電話で話をしました。金曜日はアメリカで売ってた靴を買いたいと思いWebサイトで見てて、そして昨日は韓国料理店で家族で食事をしました。妻が注文して届いた無印良品の箱の上には「Made in Indonesia」と印刷がされていました。

もう、こんな感じから逃げられない。人里離れた田舎の山の中で生活をする人がいます。着ている下着の品質表示には「中国製」とあるに違いありません。10年程前に買った雑誌にあった「自然生活」をしている人の特集。使っている電気のもととなる重油は多分ドバイからです。「日本のいいところを感じて生活がしたい」とありました。「こりゃ、茶番やな」と思います。

実はみんな知っていると思うんです。なんかこの「もぞもぞした感じ」。知らないものを知っているもので覆いかぶす気持ち悪さ。人の性なのか、知らないものの規模の大きさなのか、知っているものだけで毎日の生活を終えていく日が多いことに、自ら驚かされます。

外国人の永住者がこの国に増える法案が通る見通しです(もう通ったかも)。他の国々と同じで、国に不足している人材だけという注釈が付きます。僕ら大人がこれまで教科書で習ってきた文化、歴史、習わし等、全く知らない多くの人達がこの国に住み、そして生活をすることになります。信号を赤で通り過ぎ、それでもその人が「誰もいなかったから、赤で行ってもいいじゃん」と言ってきます。「いや、法律だから」と僕らが言うのか、それとも「何故ならばね・・・」と教えてあげるのか。素敵な答えがどちらの方か、ほとんどの人は分かってます。

「めんどくさい」ね。でも、僕たちが使うもの、見るもの、食べるものは、海外からのものです。「めんどくさい」と思って見ながら見ないふりをしていた別の国の人達が作る商品を毎日使っています。でもその「めんどくさい」と思ってやり過ごしている方々を従業員として抱え、日々努力している日本の人、海外や、そして国内にたくさんいらっしゃいます。でも、そんな日本の人達も多分、日本の人と日本で仕事ができたら一番いいのになと思っていたりするかもしれません。「仕方ない、生活のためだ」と割り切ってるのかもしれません。

こんなこと思うのは、日本の人達だけじゃありません。世界各国、リージョナリズムとかナショナリズムとか、保守派がどんどん強くなっている感じがします。

僕が20歳の頃、よく言ってたのが、世界の半分くらいが国際結婚して、人口の半分以上が「ハーフ」になればいいのにって。でも、それからよく歴史を調べるとすでに、世界のほとんどの人口はハーフなんですね。ハーフでも、その国に住み続けると、やっぱり保守になっちゃうみたい。

僕はほんとに、肌の色とか、言葉の違いとか、住んでる場所とか、考え方の相違とか、足がないとか、手がないとか、知的に遅れがあるとか、いろんな違いが、「だから、それで。」ってなる世界になるとずっと思って生きてきました。 なんか20年くらい前には「おっ、そんな感じになってきたかも」と思っていましたが、なんか、元に戻っていく感じがします。どうなるんでしょうか、この先。

総裁選を見てて

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人手不足です。ていうか、僕がもっとがんばればいいだけのことかもしれません。でもたぶん、それでもこれから数ヶ月経って、「やっぱり、相当やばいね」となるんじゃないのかなと不安です。お仕事を一緒にして頂ける方、そっと心の中でずっと探してます。HPでも募集告知をしていますが、もっと大きく募集をしなければいけない状況なのかもしれません。

僕はもう10年もすれば、口だけ達者なおじいちゃんになります。今からここでお仕事をしてもらう人は、 僕が次の世代へとバトンタッチした人と一緒に長くお仕事をして頂ける人でないといけないんだと思います。少ない人数しかいない会社なので、お互いにじっくり時間を掛けて合う合わないか判断できる、できれば学生の時からお付き合いができればいいなと思ってます。どうなんでしょうか。興味があれば是非お声掛け下さい。

子供への教育がよく話に出ますが、みなさんも知っての通り、ほとんどの場合、子供の教育水準は親の教育水準と比例します。本を読まない子供から本を読む子は育たないと思います。信号無視して車を乗る人の子供はやっぱり信号無視をしがちです。語学が苦手な親からは語学が堪能は子供は育たない。いくら「外で遊びな」と親が子供に勧めて、うちで遊ぶことが好きな親の子供はやっぱりうちでの遊びが好きなんだと思います。

以前に何度も書いてますが、なんでこの国の学校教育は年齢通りに進まないといけないシステムになってるんでしょか。地域になんで、大人を受け入れくれる、文科省認可の高等教育機関がないのでしょうか。地域の住民がお金を出し合っての、大人のための大学や短大、そして専修学校を作れないのでしょうか。子供の教育よりも、誰も知ってますが、大人の教育が先です。この国には大人が真面目に時間をかけて勉強できる機会が少なすぎる。例えば地域で作るコミュニティーカレッジで単位を取得し、それを4年制大学に持っていけるシステムとかがあればいい。地域のコミュニティーカレッジから東大やハーバードやMITに行ける道があっていい。なんで、こうも大人への教育が閉ざされてしまっているんでしょか。そこに、若い高校を卒業したての学生が来てもいいし、そして単位だけ取って、4年制大学に持っていければいい。移民した人、外国籍の人も受け入れて、多様性になればいい。そんな高等教育機関で大人が成長したら、そしたらきっとこの国に、考えられないようなはすごい子供が育つんじゃないかと思う。他の国からもどんどん人がやってきます。「もう一度やり直せる」と、大人に活路が生まれると、「地域に任せるんじゃなくて自分達でまずは頑張ろうよ」と、もっと社会作りに積極的になるんじゃないかと思うんです。

これは僕がもう25年も前に経験したアメリカでの教育制度です。あの国は、日本と同じくらいいっぱいの問題を抱えています。でも、「がんばったら大人でももう一度やり直せる」っていう教育システムが整ってる(どの世界にいっても、健康ならがんばらないとダメです)。「がんばったらやれるぞ」って社会じゃないとダメだと思うです。そしてその頑張りは色々な方向を向いてていいと思うんです。色々ながんばりがあるんだよと教えるの高等教育機関の存在意義であるべきです。

今日、もうすぐ行われる自民党の総裁選の討論を見てました。なんだか、「闇だな〜」って思っちゃった。だって、ぜーんぶ国がしてくれるって言ってんだもん。その制度にめちゃお金使う訳です。で、その制度から外れた人に回るお金はもう残ってないのね。「頑張りの評価基準が国が作る制度に沿っているかそうでないか」ってなるじゃん。吐き気がしました。評価基準が国の制度に沿っているかって、言葉にすれば誰でも滑稽だと思うと思います。でも、事実はそうなってる。大人が仕事を辞めて、大学戻れるのかよ、この国は。子供が3年間学校行かずに、アフリカで畑を耕すのがいいと大声で言ってくれる大人がこの国にはどれだけいるんだよ。この国の制度が嫌なら、他の国に行けばいい。その通りです。でも、それでいいのかな。総裁選を見てて、「大人、もっとがんばれよ」って思っちゃう。彼らがこれから僕らにしてくれることを評価するんじゃなくて、どれだけ、僕たちに社会を作る権限を与えてくれるのかを判断できる大人が増えれば、もっともっと子供も楽しめる総裁選になるんだろにと思います。そのためには、違う文化、考え方、肌の色が違う人、世界には僕らの知らないまだ見たことのない評価基準がものすごく多く存在してる、そう大人に教えてくれる教育機関がないとダメなような気がします。子供ファーストであるなら、まずは大人から。大人が変わらないと。

ナショナリズムの足音

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以前もどこかで書いたと思いますが、国境という垣根が低くなればなるほど、どんどんナショナリズム的な考えが国の奥底からふつふつと湧き出てきます。ナショナリズムを愛国心と訳すと、これはとても大切なんですね。世界に出た時、「僕は桑名出身だ!」とはなんの意味もなく、「日本からきたぞ!」にやっぱりなるんですね。だから、世界に出た時に心の拠り所は「日本への愛国心」になるんだと思うんです。海外にちょっと住んだ知り合いがいる方なら、だいたいその知り合いから「もっと日本をよくしたい」(それを実践するかしないかは別問題)と聞かされたこと、あると思うんです。

相手と仲良くするための、自らのアイデンティティーを明らかにするための、愛国心はとっても 頼もしいのですが、上の「ナショナリズム」は排他的な意味合いのものです。「こちらがよくて、相手はダメ」とジャッジメンタルになる愛国心。これ、足音もなくそーと心に芽生えて来るんです、ほんとに。

この前テレビ見てて怖くなりました。「日本にようこそ」的な番組です。海外の方で、日本の食や文化に興味のある方を取材してその熱量で日本に呼ぶかどうか決める番組。見てて寒気がしました。「日本に興味ある人しか日本に呼ばない」、すごいでしょ。スーパー排他的です。そりゃ、見てる人は嬉しいよね。「俺(私)、日本大好き!」って言ってる白人を見ると、やっぱり、なんか嬉しい。でも、ダメよ、こんな番組ばかり子供に見せちゃうと。世界は多様性です。答えのない多様性が世界です。世界はもっともっと狭くなり、僕たちが生きてきた程度では想像がつかないくらい、子供たちは世界の多様性の中で自らの地位を確立し、多様性に富んだ人々とと共に社会を築いていかないといけない。こんなこと、当たり前なんです。この国への移民は避けられない。環境問題は、日本だけでは解決できない。世界はもっともっと狭くなるんです。そんな中、「日本を好きな人だけ、日本にきてね〜」って、ダメよ。

日本に興味ない人とも渡り合わないといけない社会だし、そうしないと世界は終わります。「箸休め」としてああいう番組はいいのですが、今の社会状況とか全然知らない子供にはダメだよ。日本に興味ない人がいたら、「あの人ダメな人」っていうへんてこなジャッジメントを付けちゃう。言っときますが、日本がどこにあるのか知らないアメリカ人の方が断然多いのが現実だと思って下さい。ヨーロッパの人、ほとんどの人、日本に興味ないですから。アフリカの人、日本っていう言葉さえ知りませんから。ほんと、世界のほとんどの人は日本には興味ないんです。英語勉強しようと言う前に、こういうことから教えたらいいと思う。日本にいる外国人は「例外」と思った方がいいから。

排他的なナショナリズム、絶対反対です。

夏休み

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夏休みがある小学校生の子供がいるので、7月20日から8月31日までなんとなく特別な期間です。仕事では暑い暑い期間で、毎日へとへとになるのでが、子供は一番きらきらしている期間です。

宿題について少し昨日子供と話をしました。どの親も感じているかもしれませんが「勉強ってなんなの」です。妻も僕も海外での生活が長かったせいがあるのかもしれませんが、またデンマークの知り合いのその子供達の生活を聞いたりすると、なんでもこうもこの国は宿題を多いんだと思ったりします。ただ、その反対で日本を出て海外で学生を始めた時、知らず知らずのうちに自らずっと受けていた教育水準がこんなに高かったんだと思い知らされ、「あー、日本で勉強していてよかった〜」と思ったことがあったりして、感謝してもいるんです。

日本の教育水準の話をする時によく話しをするのですが、路上で生活をしている路上生活者の各国の教育水準です。僕が行ったどの国にも路上で生活をしている人達はいます(それがいいか悪いかは別として)。その人達のほとんどは新聞を読んでいません。日本の路上で生活している人達の中にはたまに新聞を読んでいる人がいます。僕が行った国の路上生活の人達、ほとんど字が読めないんです。その逆で日本、高低はありますが、ほとんどの人は字が読めます。これほど識学率が高い国って、他には確かなかったと思います。この国の教育水準の底堅さ、僕の中では驚異的だと思ってます。

ただ、「それがほんといいのか」と尋ねられたら、宿題の多さと同じで、「どうなんだろうか」とちょっと答えに窮しています。

画一的な教え方で、自由な発想が奪われると言う人もいたりします。そう思う時もあります。その反対で、だから国家一丸となり、経済発展を成し遂げることできたと思ったりもしています。

勉強ってやっぱり、発見だと思うんです。だから、何でも勉強になりうるんです。僕が勉強に目覚めたのは、もう20歳を過ぎてました。もう、あの他の人と比べられる感じの学校の勉強方法が大嫌いで大嫌いで仕方ありませんでした。でも、成績表に「3」や「2」ばかり並ぶとやっぱり嫌で、比べられるのが嫌と言いつつ、自分の成績を他の人と比べている感じの自分がいたりして。ほんと、なんか「青春時代」でした。そんなのが積もりに積もって、頭に疑問ばかりが浮かんできて仕方なかった。バイトや、それから卒業してから就職した会社の中、なんで、「こんなやり方をしてるのか」とめちゃ疑問になって、でも、それを変える知識も実績も勇気もなく、ただもんもんとしてる感じ。「疑問を解決してよ〜」って誰かに相談するも「考え過ぎだって」と言われ、いい方法を発見したくてしたくて、自分で発見する旅(勉強)を始めました。それから、他に興味が湧いてくる「なんで虫は脚が多いんだ」とかね。なんで、「1 + 1 = 2」なんだとか、「そもそも、何で数字って存在してるの」とか、調べても調べても、どんどん後から後から出てくるんですね。そこは今も変わっていなくて、「何でなんだ」が頭に渦巻いているです。このもぞもぞした感じが勉強の動機で、それを調べる旅が勉強なんだよと、子供にたまに話します。勉強をして、いい成績を取るとか、いい大学に行くなんて目標はうちの家庭では存在していません。疑問を持つことをとことんまで調べたいなら、いい大学に行かないといけない。大学は方法であって、目的になってはならないのです。「勉強は一生終わることのない旅」なんだと思ってます。勉強すればするほど、この世の中には答えのないものばかりなんだと気づきます。だから、勉強は楽しい。だから、「その答えを見つける旅が人生なんだと」、勉強は教えてくれると思ってるんですが、子供にはあまり伝わりません。夏休みもう少し時間があるので、根気よく伝えて行きたいと思います。

森とか木

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この暑さ。絶対にグローバルウォーミングです。そう思いませんか。ドナルドさんは「そうじゃない!気のせいだ」と言ってますが。なんとなく、テレビをあまりみないので、分かりませんが「異常気象」って言うメディアが少なくなって来たような気がします。もうこの言葉では数字が取れないんですね、多分。ただ、今この年に生まれた子供にすれば、この暑さは「普通」なんですよね。僕らの歳の者からすると、以前の気温が普通で今は異常ってことになってます。

さて、この気候のおかげで、局地的な異常気象が起きてます。太平洋の島はいくつもなくなってます。先日の大豪雨も、暑さでの急激な上昇気流が、急激な下降気流を起こさせたの原因です。この暑さの原因は私たちがこれまで行って来た環境破壊が原因です。完全に「バタフライ効果」です。地球の裏側の蝶々の羽の一振りがその裏側にあるものに影響を与えるというものです。

今日、僕はガソリン車を乗っておうちから、会社まで来ました。一酸化炭素を吐き出しながらやってきました。地球の全体からすると、ほんのわずかです。でも、必ず影響を与えています。必ずです。昨日愛知県で熱中症の小学1年生の子が亡くなりました。この事件、僕にも責任があると思うんです。次の犠牲者を無くすため僕は車の運転を辞めるのか。ごめん。やめていません。当事者意識のズレなのかもしれません。私たち夫婦の長男は大きな交通事故に合いました。もう何年か前です。「もう運転なんかするものか」って僕も妻も思いました。でも、僕も妻も運転をしています。交通事故は大型トラックとの正面衝突でした。そのトラック、僕たちが経済活動をしていなかったら、その道を走っていなかったかもしれない。

当事者であった私達でさえ、それからの行動を変えられないでいます。このグローバルウォーミングの問題、相当深いところにある問題だと思っています。

癒されたいと森に入る人がいます。僕もそのうちの1人かもしれません。でも、入った途端、土は踏まれ、原風景はなくなります。どこまでがよくてどこまでダメなんでしょうか。人はなんのために存在してるんだろうか。昨日の小学生の哀れな死を思うと、行き場のない気持ちが心から離れません。悲しすぎるよ。

蚤の市

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先日、手紙社さんが主催している「東京蚤の市」に参加してきました。これまで、関西で開催されるものだけに参加していたのですが、今回、初めて東京の方にも呼ばれ行ってきました。とても面白い。基本的に「もの」が大好きだから、しかもちょっと人の手垢、しかもちょっと異国の人の手垢がついているものが大好きだから、そんな人が集まる蚤の市だからほんと、僕自身がめちゃエキサイティングになるのです。

「手垢」と言いましたが、でも販売するとき、僕がものを買うとき、その手垢はちゃんと綺麗にしてもらっておきたい。わがままなんです。多分、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思い、もう15年以上もこの仕事をしています。

なんとなく、「蚤の市」と聞くと、僕なんか「掘り出し物」っていうキーワードが頭に浮かぶのです。意味は2つで、「いつもより安い!」そして「いつも見れないものがある!」だと思うんです。インターネットで色々なものが検索できる世の中になり、「いつも見れないもの」っていうのはほんとになくなったんじゃないかと思います。だけど、それを「実際見たことない」というのはあるんじゃないかと思います。プライスも、いつも気にしているもののお値段って、まーだいたい知ってる、頭の中に「あれだったら、あのくらいのプライスだよね」って既成概念が作られています。

僕何回か、蚤の市に参加させて頂いていますが、「いつも見れないものがある!」ってやってくる人の割合、そしてお値段関係なく、「それがあれば買いたい」と思って来る方の割合、相当少ないような気がします。「やっぱり、普段あの価格のあれがこの値段で。」を探しに見える方の割合の方が多いような気がしてます。特に、だいたい「北欧関連ゾーン」に出店させて頂くので、来て頂く方はだいたい、「北欧の雑貨ってこんな感じ」ってあるんだと思うんです。一番残念なのが、どこでも買えるものが、普段と同じ値段で、簡易的な棚に並んでいる姿を見たときです。ちょっと「が〜ん」って感じがするんです。これ、海外の蚤の市でもあるんです。やっぱり心のどこかに「おいおい、ここ蚤の市だよ。普段よりお得感があってしかるべきだろ」っていう心持ちがあり、そこの普段と同じものが普段と同じ価格で並んでて店員さんが「だって、この値段で売らないと利益ないから。」「ここで売らなくても、お店で売れるから」とか澄ました顔してると、「だったら、ここに来なくていいじゃん」って思うんです。

あと、ちょっとお祭り感があるから、いい加減に「ま〜いいか、今日だけ」っていう感じも、来ている人も大切だし、やっている人も大切だと思うんです。とか思って、毎回真面目に商品を仕入れ、そして真面目に値付けをするんです。今回は大量の食器(「装飾品」として輸入しています)を普段よりお安く販売しました。仕入れは大変ですよ、ほんと。でも、持っていったものは全て完売し、ご来店頂いた方も満足、そして販売した私たちも満足して会場をあとにすることできました。また、呼ばれたら行きたいと思っています。仕入れがほんとに大変なんです。お安くするためには、大量に普段よりお安く仕入れないといけない。買い付けで、普通はそんなの見つかんないんですよ、ほんとに。でも、みんなで楽しむために頑張ってみたいと思います。

「もの」への感情の差

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GW、スタッフはお休みでいつも忙しい工房もひっそりしています。

「ものからことへ」と叫ばれて、もう何年も経っています。巷にはものが溢れ、しかもいいものばかり、ものに溢れた中で生活をしている僕たちは、ものをものとして使うことに飽きてきていて、そのものが誰の手で作られ、どのような気持ちで作られ、そしてどんな過程を経て僕たちの手に届けられるのかの方が気になって仕方なくなりました。そのものが高額になればなるほど、その度合いがどんどん高くなる。インタネットにより情報が筒抜けとなった今、隠したい「品質の嘘」も簡単に暴かれる時代です。だけど、最近、時代がもうちょっと先に進んでいるんじゃないかと思います。

息子達をみているとそう感じます。彼らはものに執着がない。家庭でもそうかもしれませんし、学校でもそうかもしれませんし、友達同士でもそうかもしれません。データでやり取りをすることに慣れてる。僕らの世代はいくら時代が「ものからことへ」となったとしても、そこにものがないと成立しない生活があった。手に触れるものが起点でそこから、それをどう使おうかとか、このものはどう作られてたんだろかとか。ともかく、ものがないと成立しない生活の中でずっと生活をしてきました。でも、これからの時代は違うんじゃないだろうか、そう思います。データファイルは必要なくなったら、消去です。あとかたもなくこの世から消え去ります。目の前にあるものが一瞬にしてなくなることが日常に何百回も繰り返し行われているデジタル時代です。僕らの時代は、だから逆にものに愛着が湧く時があります。僕が、ずっとオートマチックの車を拒否し続けている理由はそこにあるかもしれません。実際に触れ、そして感じる快感を脳は忘れていません。それも遠い過去にまだインターネットがない時代を生きていたからかもしれない。

ものに触れない世代はものへの感情がともて気薄なんじゃないかと思います。インターネットで疲れたら、ゲームをする的な感じです。

まだ上手く言葉にまとめられないのですが、「ものからこと」っていう言葉はすでに、全く意味のないというか、違った意味で、これからの世代には受け止められるだろうなと思います。家具店にとっては死活問題です。よくわかりませんが、ものの裏側にあるストーリーを伝えたくて伝えたくずっとやってきましたが、間違っているかもしれません。もっと、「ものっていいよ」って、ものすごく根本的な部分のお話をしていかないといけないんじゃないかと今すごく思っています。

このことに似ているじゃないかと思いますが、北朝鮮と韓国が終戦に向かっている件について。どれだけの人が興味がもってあのニュースを見ているのでしょうか。僕ね、正直言うと、気にしてい人、ほとんどいないんじゃないかと思っています。情報化が進み、北朝鮮の内情が相当わかっている今、北朝鮮と韓国との終戦が決まったとしても、誰もが「でも、何も変わらないでしょ。僕の回りでは」って思ってんじゃないかと思っています。ベルリンの壁が崩壊した時、東側での情勢はほとんど僕たちには届いていなかった。ただ単に「東側では、とんでもないことが起こってる」と漠然と思っている人が多かったんじゃいかと思うんです。そして、そんな何も知らない東側の国の人が西側に入ってくることによって、なんか「すごいこと」が起こるんじゃないかと想像しました。

ものすごい、情報が日々入り、そして一瞬にして古くなり捨てらる時代です。そして、それは全く残らない。ゴミにもならない。ものしかない時代だったら、ファイル等の交換が今のように早くなければ、北朝鮮と韓国との話は相当、この国でも盛り上がっていただろうと思います。何にも形が残らない「もの」の中でしか生活をしたことがないこれからの人達に、「ものの裏側のストーリー」って話しても埒が開かない。当たり前なんじゃないかと思います。

僕はたまたま、まだ小さな子供がいて、その変化を感じることができましたが、もし僕の回りにこういった考え方を促す媒体がなかったらと思うと、ちょっと怖いです。今、僕のおうちでは犬を飼うかどうか、子供達と話をしています。多分、子供達と僕たちは視点がちがうんじゃないかと思うんです。子供達は犬と遊ぶ自分の姿にエキサイティングになってるんだと思うんんです。それは昔も同じなんですが、昔だったら「餌もやらないといけないし、散歩もいかないといけないんだよ」と話して納得させるのだろうけど、ものに執着がない人達にとっては、まったくピンとこない話なのかもしれない。さらに、これから先、ものが減り、そしてデータの交換で生活が成り立つ時代の中で、そんなものに執着すること自体が必要のないことなのかもしれないと思うと、「餌をやらないと」っていう話は、全く意味のないことなのかもしれない。それよりも、エキサイティングに遊ぶ方法をもっと考えよう、そして餌やりや散歩はインターネットで探した「キーパー」にお願いしよう、こんなことの方が正しい時代に彼らは生きることになるかもしれない。洗濯は外干しが当たり前から室内での乾燥機が当たり前になったアメリカのように、僕らの考える「もの」だったり「こと」ってこと、もっと慎重に考えないと、これから先、完全に取り残される、そんな怖さを感じます。家具店としては、どうして行ったらいいんでしょうね。また、考えながらイベントとか行っていきたいと思います。

人間のいる意味

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出張が多く、事務的な仕事がたんまりたまり、前に進めねーぞ、どうすると悩んでいます。やらなければいけない目の前の仕事がたんまりあるのですが、アメリカがシリアに爆弾を落としたのを見て、なんか、もう全部いやになってきた。

人道的とか、国際秩序とか、よくわからなことを言ってますが、あれは人殺しですよ。先にシリアが人を殺しているから、その報復で人殺し。まあ、どっちも人殺しです。メディアで戦争の映像がどんどん入ってくるようになったから、なんとなく昔より(いつを「昔」と指すのか微妙なところですが)、国際紛争でめちゃ人が死んでいると思いがちですが、第二次世界大戦以後、こんなに国際紛争で人が死んでいないのって、人類の歴史上初めてなんです。めちゃ昔に遡ると、例えば僕たちの祖先が横穴で住んでいた頃の話。死亡原因の多くは喧嘩です。発掘される頭蓋骨の多くには致命傷の傷があることがものすごく多い。多分、本気の喧嘩です。家族、あるいは親族が固まって生活をしていた私たちの祖先、その中で秩序を乱すやつは許されなかった。また、他の集団と出会うと、食べ物の取り合いになり、本気で「戦争」です。頭への一撃で殺してしまうのです。

時代は流れ、農耕になり、それでも諍いは絶えなかった。疫病を除けば、いぜん死亡原因のほとんどは喧嘩。宗教戦争が始まり、その次に財の取り合いで、世界は喧嘩ばかりを繰り返してきた。

今、世界の死亡原因で一番多いの(病気を除く)は自殺です。以前は、誰かに殺されてしまうのが一番の原因でしたが、現在では自ら命を断つのが一番の原因です。これは、自殺が増えたということではなく、喧嘩が少なくなったというのが原因です。大国は経済覇権を握り、睨み合う時代になりました。睨み合う原因は経済です。もっと具体的にいうとお金が原因です。今行われている、国家同士の喧嘩、理由は経済であることがほとんです。お金の取り合いです。

シリアが化学兵器を使った。リダーの頭にあるのは、どうやれば安く人を殺せるか。シリアが原発でなく、化学兵器を使った。安いからです。人1人を殺す単価が安いのです。コストper殺人というコストパフォーマンスがとてもいい。やだね。同じくらい、コストパフォーマンスがいいのは実は原爆です。広島、長崎に落とされて原爆、開発費用は100兆円と言われています。最初だから開発費が莫大なのですが、現在ではもっともっと安く作れるといいます。アメリカは100兆円を投資した訳です(今、あの規模の原爆、2億円くらいで作れると誰かが言ってました)。100兆円を投資と書きました。投資だから、アメリカはそれを回収しないといけない。他がアメリカが作り出して技術をぱくって原爆を作ったりしたら、投資回収ができない。だから、絶対に外に技術を出さない。回収するまで絶対に出さない。どんどん原爆を作り続けた。それをもって「冷戦」というかたち上の一定の国際秩序をもたらし、戦争がぐっと減った。戦争にはものすごくお金がかかる。お金が回収できると見込まないと戦争をしない。戦争をしないで、原爆を作り続けて「秩序」を守り続けた方が、よっぽど安く済む。

化学兵器、原爆と比べると相当安く作れます。ちょっと化学を知っている人が集まれば、作れる。だから、あの悲惨な東京でのサリン事件が起こるのです。安く、そして大量の多くの人をいっきに殺すことができるのです。しかも、そっとです。大きな輸送機もいらない。発射台もいらない。ITを駆使しなくていい。なんか、答えが見えませんか。今では原爆は相当安く作れる、「コストper殺人」では、これ以上のコストパフォーマンスはないと言われています。でも、化学兵器はそれに匹敵するうコストパフォーマンスなんです。しかも、誰でも作れる。自動小銃の弾、一発200円から300円と言われています。1秒で10発くらい出ます。10人殺せない。10発撃って、1人を射止めるとか。しかも、撃つまでのコストがめちゃくちゃ高い。人、機材、運搬、リスク。めちゃくちゃコフトパフォーマンスが悪いのです。

シリアが自動小銃で人を殺している時には、アメリカは口を出さなかった。経済競合じゃないからです。化学兵器を使った途端、アメリカが出た。人道支援ですか?「はぁ〜」って声が世界からします。原爆よりコストパフォーマンスがいい武器、アメリカは許さない。はっきり、言いますよ、経済なんです。あのシリアへのアメリカからの爆撃、経済換算で行われています。

この経済の方程式の下で罪のない人々がどんどん死んでる。そして、身寄りのない子供がどんどん増えてる。いいのかって。握った拳の力を緩める事ができないのは、僕だけじゃないと思う。でもそれと同時に、そんな経済の方程式(資本主義)の恩恵を受けて仕事をしている私自身。ほんと、身が裂ける思いがします。

写真は昨日、買っていただいた商品のオイル仕上げを自分でしたいと現れたお客様です。戦争とはかけ離れたことですが、なんとなくですが、こんなことが人類を救うんじゃないかと思うんです。コンフォートマートは他の方々と同じように戦争反対です。そして地味ですが、そんなことで経済学を使うより、もっといい使い方があるんじゃないかと思い、必死で考え続け毎日実践しています。今、お店行なっている展示会「Comfort Mart Essence +」はその発表会のようなものです。

デンマーク的にがんばる

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平昌オリンピック、全く見れませんでした。おうちにテレビがないという理由もありますが、 ちょうど買い付けと重なってしまって、テレビを全然見ていなかったという理由です。 正直、見たかった。フィギュアスケートとか、絶対にエキサイティングだっただろうなと思います。

買い付けからの帰国便、コペンハーゲンからヘルシンキへ移動するのですが、その時、後ろの席の人が男性2名で、1名がデンマークからの人、そしてもう1人がフィンランドからの人。フィンランドの人がデンマークの人に「どう、オリンピック、デンマークの人達は頑張ってるの?」って尋ねました。「小さい国だからさ、それほどでもないし、そんなにみんなエキサイティングしてる感じもないね。カーリングはいい選手がいるって言ってたけど、世界的にはダメだと思うよ」的なことを話していました。この諦め感がデンマークらしい。

多くの人がかなり客観的に自分の国や国民を見ている感じは、デンマークに行くたびに感じます。日本でもそうなんですよね。でもそれは「謙遜」だと思います。ほんとはそう思っていないけど、取り繕う感じでの話し。海外の人との関係で、あちらがいつも困惑する「いや、お前どっちやねん」ってやつです。デンマークの人から聞く「諦め」は謙遜とは違って、「いやもうほうんとにダメなの。分かるでしょ見れば。」的なことです。アメリカに行くと、「俺たちはすごいだろ」っていう感じが疲れちゃう。どちらが好きかと言われたら、デンマーク的な感じな方です。なんとなく、「頑張らなくてもいいんじゃないか」って気楽になれます。

お店ではデンマークからの家具や雑貨を沢山販売しています。なんとなく、デンマークぽく、頑張っていない感じで頑張りたいと思っていますが、どうなんでしょうか。
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